第五十八話「葵と小夜の糸子と江戸の見聞録」
一 江戸行きの話が来た日
姫君様が江戸に行くと聞いたのは、ある朝のことだった。
朝の身支度の途中だった。葵が糸子様の垂髪を梳いていた。漆塗りの鏡台の前に、糸子様が座っていた。すきぐしが通るたびに、艶やかな黒髪がさらさらと流れた。行灯の光が、その黒に深い光沢を与えていた。
「葵、小夜、お梅から聞いているとは思いますが、一緒に江戸に行ってもらえましょうや?」
糸子様が、すきぐしの音の合間に言った。
葵は、すきぐしを持ったまま、すぐに頷いた。
「はい。姫君様のお供をいたします」
「ありがとう、葵」
小夜は——少し固まった。
江戸。
京都から遥か東の都だ。小夜は、自分より遠くへ出たことがなかった。鴨川の向こう。嵐山の奥。それが小夜の「遠い場所」の限界だった。
「……い、行きます」
小夜は、声を絞り出した。
「ありがとう、小夜」
糸子様が言った。その声には、感謝が本当に込められていた。形式的な礼ではなく——本当に、ありがとうという気持ちが。
その夜、葵と小夜は長局の一室で荷造りをしていた。
行灯が一つ灯り、薄い光の中で、二人は着替えや小物を丁寧に包んでいた。板張りの床が、少し冷たかった。庭の向こうから、夜の虫の声がした。
「葵さん、江戸は怖いですか」
小夜が、荷物を包みながら言った。
「……旭狼衛の皆が守ってくださいますから、大丈夫です」
「そうですか」
「小夜は不安ですか」
「……はい」
「正直ですね」
「……すみません」
「正直なのは良いことです」
葵が、荷物を丁寧に積みながら言った。
「不安な気持ちをちゃんと感じていれば、いざという時に動けます。感じていない方が怖い…というお話をお聞きしたことがあります。」
「……そうなんですか?」
「姫君様が一番怖くないように見えるでしょう?」
「はい」
「でも姫君様も——怖いことは、ちゃんと知っていると思います。ただ、それを超えるものがあるんです。私もその通りだと思ってます」
「何ですか、それを超えるものって」
「……目指しているものが大きいから、だと思いますよ」
葵が、少し微笑んだ。その微笑みは、確信から来るものだった。
その夜、小夜は布団の中で少し泣いた。怖かった。しかし——朝になると、普通に起き上がれた。姫君様がいるから、大丈夫だろうという気がした。
その「大丈夫だろう」という感覚が、後に激しく揺さぶられることになるとは、この時は知らなかった。
二 二人のこれまで
葵が近衛家の奥向きに本格的に仕えるようになったのは、糸子様がまだ七歳の頃だった。
葵は十八歳を過ぎたばかりだった。近衛家の奥向きに長く仕えてきた家の出で、礼法も所作も一通り身につけていた。京都の公家の屋敷というものがどういうものか、幼い頃から見て育ってきた。
「江戸への供として、姫様の侍女を選ぶ」という話が出た時、葵は迷わず手を挙げた。
理由は単純だった。姫君様のことが、葵はずっと気になっていたからだ。
さまざまな話が流れていた。「お聡明な方だ」という話もあった。「少し変わった方だ」という話もあった。「御門様が特別に可愛がっておられる」という話もあった。「英語を話される」という話には、葵は少し笑ってしまった。英語? 公家の姫君が? と思ったからだ。
しかし実際に仕え始めて——葵は理解した。
全部、本当だった。
最初に会った時の印象は、今でも鮮明に覚えている。小さな姫君様だった。白い肌に、艶やかな黒髪。公家の装束が、その小さな体によく似合っていた。かわいらしい、と思った。そして——少し変わっている、とも思った。
最初に気づいたのは、書物だった。七歳の姫君が読むような書物ではないものを、姫君様は読んでいた。算術の本。経済の書物。そして——異国語の書物。
「これはどういう意味だと思いまする?」
姫君様が、蘭語で書かれた書物を持って聞いてきたのは、当時八歳の時だった。
葵は、恐る恐る書物を見た。全く読めなかった。
「申し訳ございません、姫君様。わたくしには…」
「そうですか。では一人で調べまする」
糸子様が、別の書物を持ってきた。蘭語と日本語の対応表だった。そのまま夕方まで、一人でずっと調べ続けた。
そういう姫君様だった。
小夜は、葵よりも少し年下の十七歳で、感情が顔に出やすかった。葵と同じ家の出身で、子供の頃からの顔なじみだった。お互いの性格をよく分かっていた。
小夜が糸子様に仕えるようになったのは、去年のことだった。最初に会った時の印象は——正直に言うと、「とても綺麗な姫様だ」だった。白い肌。黒くて長い髪。品のある動き。かわいらしい顔立ち。
しかし三日後に、考えが変わり始めた。
姫君様が書斎で何かを書いていた。帳面だった。小夜が掃除のために入ると、姫君様が振り返った。
「あ、少しこちらをご覧になってくださいまし。算術の問題があって……」
小夜が、恐る恐る帳面を見た。数字が並んでいた。横の文字を読むと——「金銀比率の差によって発生する流出量の試算」と書いてあった。
「これは……」
「開港以来の金流出量の推定でございます。横浜の商館の記録から集計致しましたけど、数字の確認をしてほしいのでございます」
「……すみませぬ、姫君様。小夜には、難しくて」
「そうですか。どうか気になさらないでくださいまし」
姫君様は何も言わずに、また帳面に向かった。小夜は、そっと部屋を出た。廊下に出てから、思った。
(……この姫様は一体?)
三 船旅——葵の観察
江戸へ向かう船旅が始まった。南海路を行く、長い旅だった。
艫矢倉の窓から見える海は広かった。空との境が、どこまでも続いていた。京都では見たことのない景色だった。葵は、その広さを見ながら——この旅が、自分の人生を変えるかもしれないと感じた。
船旅の間、葵は姫君様の傍に仕えながら、様々なことを改めて見ていた。
まず気づいたのは——この方は、やはり普通の公家の姫君ではないということだった。当たり前だが、公家の姫君というのは、大変に守られた存在だ。食事も、移動も、身の回りの全てを人が世話をする。外の世界と接触する機会は極めて少ない。
しかし姫君様は——帳面を開いて、自分で何かを書いていた。
それも、びっしりと。
「何をお書きでございますか」と葵が聞いた時、姫君様は少し笑って「お仕事のことです」と答えた。
公家の姫君がお仕事?。姫君様のご年齢は???
葵は不思議に思ったが、その帳面の中を少しだけ見た時——目が離せなくなった。数字が並んでいた。商売の記録のようなものが。外国の言葉らしきものが。そして——何かの計画のようなものが。
葵には意味が全部は分からなかった。しかし——これほどの内容を、この年齢で、こんなに緻密に書いている人物がいることに、葵は純粋に驚いた。
小夜は、その帳面を遠くから見て、葵に小声で言った。
「葵さん……姫君様って、一体何者なんですか?」
「姫君様は姫君様ですよ」
「でもあれ……」
「あれ…と言っては失礼ですよ!。近衛様は、聡明な方なのです」
「…聡明を超えてませんか?」
葵は少し考えた後、答えた。
「……私にはよくわかりません」
その夜、葵は一人で考えた。
(この方は——何かとてつもない目標に向かって、全力で走っておられるのでは?)
(普通の人は今日のことを考える。賢い人は来月のことを考える。この方は——どれくらい先のことを考えているのでしょうか?)
(その大きさの違いが、「変わっている」と見える原因なのかもしれない)
葵は、その考えに至った時——少し、安堵した。「変わっている」ではなく「遠くを見ている」。それは——普通の方ではないという意味では同じだが、その方向が全く違った。
四 船旅——小夜の疑問
ある夜、艫矢倉の窓から海を糸子様が、見ながら呟いていた。
「……インフレ率を考えると、金銀比率の問題は三段階に分けて……」
小夜は、葵の袖を引いた。
「葵さん……姫様が何か言っています」
「聞こえています」
「あれは……日本語ですか?」
「日本語だと思いますが……」
「意味は分かりますか」
「……部分的には」
「私には全然……」
小夜が、心配そうに糸子様を見た。
「もしかして……姫様のお頭は、大丈夫なのでしょうか?」
「小夜さん」
「はい」
「そういうことを言ってはいけません」
「はい。すみません……でも」
「葵さん、姫様のお頭の中に、別の何かが入っていると思いませんか」
「……思いません」
「本当ですか」
「……思わないようにしています」
葵は、それ以上答えなかった。
海風が艫矢倉の窓を吹き抜けた。糸子様の垂髪が、風に揺れた。その横顔は穏やかだった。何かを考えながら、しかし穏やかに、海を見ていた。
(インフレ?という私でもわからない謎の言葉を、子供の頃から使っておられた)
葵は思い出した。
(数年間、ずっと勉強してこられた。英語も、蘭語も、他の学問も…)
(その全部が、今頭の中を動いているのだろう)
(得体が知れないのではない。ただ——自分には追いつけないほど、速く、遠くを走っておられる)
五 品川の朝——江戸到着
船が品川に近づいた朝、糸子様は艫矢倉の窓から江戸の方向を見ていた。
春の朝霧の向こうに、江戸の町の輪郭が見えていた。松の緑が、霞の中に点々と浮かんでいた。水鳥が一羽、海面すれすれを飛んでいた。
葵は少し離れた場所から、その糸子様の後ろ姿を見ていた。
小柄な後ろ姿だった。垂らした黒髪が、海風に少し揺れていた。
しかし——その背中が、大きく見えた。体格は小さい。しかしその存在感が、大きかった。朝霧の中に、その小さな後ろ姿が、くっきりと立っていた。
(この方について江戸まで来て——正解だった)
葵は思った。
小夜が隣に来た。
「葵さん……江戸、怖いです」
「大丈夫ですよ」
「旭狼衛の方々が守ってくれると言っても……やっぱり怖いです」
「小夜さん、姫君様を見てください」
「はい」
「姫君様は——怖そうですか」
小夜が、姫君様の後ろ姿を見た。
「……怖くは……ないです」
「怯えていらっしゃいますか」
「……ないです」
「では私たちも、怯えている場合ではありませんね」
小夜が、少し考えた。
「……でも葵さん、姫君様は怖くないのではなくて——怖さがあっても、それを超えるものをお持ち…なんですよね?」
「……そうですね」
「葵さんが以前おっしゃっていた、目指しているものが大きいから、ですよね」
「…そうです。小夜さん、よく覚えていますね」
「葵さんの言葉は、大事だから」
葵が、少し照れた。
船が岸に近づいていた。霧の向こうに、江戸の町が広がっていた。
六 品川宿から江戸へ——小夜の記憶
品川に上陸してからしばらく、一行が江戸へ向かって道を進んでいた。
旭狼衛が前後を固め、上駕籠に糸子様が乗っていた。葵と小夜は列の中ほどを歩いていた。春の道が続いていた。両脇に町家が並び、人々が朝の仕事を始めていた。どこかで、飯を炊く匂いがした。
あの日の朝、空が少し曇っていた。
何も変わらない、普通の道中に見えた。
しかし——。
「止まれ!」
近藤殿の声が飛んだ。
小夜は、思わず足が止まった。
その瞬間、人が出てきた。四方から。辻の陰から。路地の奥から。町家の中から。
武装した男たちが、次々と現れた。刀を抜いた者。槍を持った者。
小夜の頭の中が、真っ白になった。
(死ぬ)(死んでしまう)(こんなところで死ぬのは嫌——)
その言葉だけが、頭の中に浮かんだ。
後から聞いた。二十六人の武装した男たちが囲んでいたと。しかしその時は数えるどころではなかった。ただ「たくさん」「たくさん」がいた。
刃が光っていた。
近藤殿が命令した。
「上駕籠を降ろせ!」
庄吉さんが素早く上駕籠を地面に降ろした。その瞬間、全てが一斉に動き始めた。
旭狼衛の皆さんが刀を抜いた。一斉に。金属が空気を切る音が、一斉に鳴った。その音が——小夜の全身に、稲妻のように響いた。足が動かなくなった。
(どうしよう。逃げる? 逃げられない。隠れる? どこに?)
体が、地面に向かっていた。いつそうなったか、分からなかった。気づいたら、地面に座り込んで、両手を自分の体に巻き付けて、震えていた。
恥ずかしかった。葵は傍に立っていた。震えていなかった。それがまた、恥ずかしかった。でも——足が動かなかった。
そして——。
「助さん! 角さん! やっておしまいなさい!!」
大声が、聞こえた。
姫君様の声だった。
小夜は、思わず顔を上げた。
糸子様が、上駕籠の傍に立っていた。正面を向いていた。刺客たちの方を、見ていた。怖がってもいなかった。
(な、なんでこんなときにそんな大声を?、この人、頭がおかしい……)
小夜は、その瞬間、本気でそう思った。自分たちが死にかけているのに。二十六人の武装した男たちに囲まれているのに。大声で「やっておしまいなさい!!」と叫んでいる。
しかも叫んだ内容が「助さん! 角さん! やっておしまいなさい!!」だ。
助さん? 角さん? 誰ですかそれは?。
この状況で、誰もいない人間に呼びかけている。
刺客も一瞬止まっていた。
(あの人たちも困惑していた。そうだよな。あんな声が出てきたら誰でも困惑する)
(完全に頭がおかしい…)
小夜は確信した。
しかし——その「頭がおかしい声」のおかげで、旭狼衛の方々が隙をついた、ということは、後で分かった。
(……つまり、姫君様はわざと?)
それが、小夜にはその行動が一番意味が分からなかった。
七 品川宿から江戸へ——葵の記憶
葵は、近藤殿の「止まれ!」という声を聞いた瞬間、状況を把握した。
旭狼衛が動き始めた。刀を抜いた。包囲の輪と向き合った。
葵は、すぐに糸子様の傍に行こうとした。
しかし——糸子様は、すでに上駕籠の傍に立っていた。
落ち着いていた。二十六人の刺客に囲まれているのに。旭狼衛と刺客の間に立っているのに。その姿が——葵には、不思議なほど揺らいでいなかった。
(姫君様は……怖くないのですか)
葵は思った。
しかし——すぐに思い直した。
(怖くないのではない。怖さを超えるものが、今この方の中に動いている)
(旭狼衛を信頼している。自分が今何をすべきかを考えている。だから揺らいでいない)
そして——。
「助さん! 角さん! やっておしまいなさい!!」
姫君様が叫んだ。
葵は、その声を聞いた瞬間——刺客たちが、一瞬止まったのを見た。
何の声か分からなかったのだろう。包囲の中で突然、女の高い声が響いたから。そして——その言葉の意味が、誰にも分からなかったから。
「助さん」「角さん」——誰?それ??。
一瞬の困惑。その一瞬の隙に、沖田殿が飛び出した。
(姫君様は——意図してやったのでしょうか?)
葵は確信した。
刺客の注意を逸らすために。旭狼衛に一瞬の隙を作るために。自分の存在を、その声を、囮として使った。
(まさか…)
葵は、戦闘の最中で、少し目が濡れた。素晴らしいと思った。怖いはずなのに。二十六人の刃が向いているのに。
姫君様は——声を出した。自分の体を使って、状況を動かした。
(わ、私も姫君様を見習わなければ…)
葵は目を逸らさなかった。姫君様が逸らさないから。
旭狼衛の皆が動いていた。沖田殿が最初に動き、二人目に向かっていた。永倉殿が力で相手を崩した。原田殿が槍の使い手と渡り合った。斎藤殿が音もなく動いた。
血が飛んだ。悲鳴があった。葵は、目を逸らさなかった。姫様が逸らさないから。
八 決着と「助さん角さん」の謎
五分も経たないうちに、決着がついた。
倒れているものが十数人。逃げた者が十人ほど。息のある者を縛り上げた。
「姫様、大丈夫でしたか?」
近藤が姫君様に向いた。
「大丈夫でございます」
姫君様が答えた。その声は——穏やかだった。
沖田が姫君様に近づいた。
「姫様が大きい声を出してくれたおかげで、刺客どもの注意が一瞬、姫様に向いたから、隙をつけましたよ」
「それは良かった……」
「ところで姫様、助さん、角さんって誰ですか?」
沖田が不思議そうに聞いた。その顔は、心底謎に思っている顔だった。
「えっ、えーと……」
姫君様は目を泳がせながら、必死に考えていた。
「……夢です! 夢なのです!! 夢に出てきた人なのでございます!!!」
糸子様が少し赤い顔で、もじもじしていた。
沖田が「はあ……」という顔をした。
葵は、その糸子様の様子を見て——初めて、この方も人間なのだと思った。堂々としているだけではない。時々、こういう顔もする。それが——葵には、とても微笑ましかった。
小夜が、葵の横に来た。
「葵さん」
「はい」
「今の……夢、ですか」
「……そうおっしゃっていました」
「明らかに夢じゃないですよね」
「……小夜さん」
「はい」
「そういうことは聞かないのが、侍女の心得です」
「……はい」
小夜が、少し考えてから、また葵に小声で言った。
「でも葵さん……あの声、助かりましたよね」
「そ、そうですね」
「あの声がなかったら……」
「考えないことにしましょう」
「……はい」
二人は、それ以上話さなかった。しかし、胸の中では同じことを思っていた。
(姫様が声を出してくれたから、今ここに自分たちがいる)
九 江戸に着いてから——小夜の内心
その日の夜、小夜は葵に正直に言った。
「葵さん。今日の件で、私、確信しました」
「何を?」
「姫様は——普通の人ではありません」
「小夜さん……」
「いいえ、悪い意味?じゃないです、多分。ただ……包囲されて、命がかかっている状況で、あんな行動ができる人が……普通ではないと思って」
「それは……そうかもしれません」
「葵さんは、怖くなかったんですか」
「怖かったです」
「私は足が震えました。叫ぶことも、動くことも、できませんでした」
「私もです」
「でも姫君様は——全然平気そうで」
「信頼、ではないかと思います」
「信頼?」
「旭狼衛を信頼しておられた。だから——次にすべきことを考えていられた。そして声を出した」
小夜が、その言葉を聞いた。
「……あの状況で、そんなことを考えられるんですか?」
「姫君様は——そういう方です」
小夜が、少し沈黙した。
「……葵さん」
「はい」
「やっぱり、普通じゃないと思います。やっぱりおかしいです」
「……そういうことは、思っても言わないように」
葵と小夜は、しばらく黙っていた。一橋藩上屋敷の庭に、春の夜風が吹いていた。石灯籠の光が、庭の苔を照らしていた。
「小夜さん」
「はい」
「私は——この仕事を選んで、正解だったと思います」
「………」
「最初は怖かったですが……今は、誇りに思っています」
「私は……少しだけ?感じられたように感じます、多分」
「多分?」
「まだ怖いのも残っていますから…」
葵が、少し笑った。
「それでいいのだと思います」
「葵さんは強いですね」
「そんなことはありません。ただ——強い方の隣にいると、少しだけ強くなれる気がするんです」
「それは——姫君様のことですか」
「はい」
小夜が、窓の向こうを見た。
「……私は、まだ、そう思えません」
十 一橋藩上屋敷——日常の始まり
一橋藩上屋敷に入ってから、葵と小夜はそれぞれ、自分の役割に戻った。
葵は素早く動いた。どの部屋を使うか。どの時間に何が必要か。外からの訪問者への対応の段取り。慣れない江戸で、慣れない施設で——姫君様が動ける環境を、最短で整えた。
上段の間の付書院の障子に、朝の光が差し込んでいた。金箔の格天井が、その光を受けてほのかに輝いていた。庭の石灯籠が、光を受けていた。小庭の梅が白く咲いていた。
葵は毎朝、姫君様の身支度を手伝った。
それ自体は普通の侍女の仕事だった。しかし——糸子様の身支度には、いくつか普通ではない点があった。
まず——白粉を使わない。
「姫君様、今日は白粉は」
「いりません」
「しかし御公務の際には——」
「いりません。葵、あれは毒が入っておりますから」
「……毒?」
「鉛でできています。長く使うと体に害があるのでございます」
葵は、初めてその話を聞いた時、少し戸惑った。鉛が白粉に入っていることは知っていた。しかしそれを「毒」と言って使わない姫君君は、初めて見た。
「……かしこまりました」
次に——眉を剃らない。
「眉は、整えるだけでよいですか」
「はい。剃ることだけはご勘弁くださいまし」
「しかし礼法では——」
「葵、そこだけはどうしても譲れませぬ、どうしても無理なのでこざいます」
糸子様の顔が、珍しく真剣だった。葵は、それ以上言わなかった。
小夜が葵に小声で言った。
「葵さん、眉を剃ることを、あんなに拒否する姫君様って……」
「姫君様にはお考えがあるのです!」
「でも……なんか……」
「小夜さん」
「はい」
「余計なことを考えないようにしましょうね」
「…はい」
小夜は、毎朝そこで話を止めることにした。
江戸の生活は、少しずつ二人の日常になっていった。万次郎殿の笑い顔。村田殿の落ち着いた表情。松屋善兵衛殿の商人らしい愛想の良さ。近藤殿の真剣な眼差し。土方殿の鋭い視線。沖田殿のどこかのんびりした空気。
それぞれの人物が、糸子様の周りに集まっていた。そしてその全員が——糸子様を中心に動いていた。
十一 糸子の帳面——葵だけが見たもの
ある日の夜、葵は糸子様の帳面の一部を偶然見てしまった。
糸子様が席を外した瞬間に、開いたままの帳面が葵の視界に入った。
行灯の光が、帳面を照らしていた。文字が、はっきりと見えた。
見てはいけないと思った。しかし——目が動かせなかった。
そこには、複雑な計算が書かれていた。数字と、何かの記号と、日本語と英語が混じって書かれていた。葵には全部は読めなかった。しかし——二行だけ、はっきりと読める日本語があった。
「——対等な条約を結ぶこと。それが百年後のこの国への贈り物となる」
葵は、その二文を読んだ。その意味を、理解した。
(このお方は——百年後のことを考えている?)
葵の胸の中に、何かが生まれた。それは——言葉にするのが難しい感情だった。尊敬とも、恐れとも、違った。
(私は、今、すごい方のお側にいるのかもしれない)
もう二文、その帳面の中に見た。
「——この仕事は、誰かがやらなければならない。だから私がやる他ない」
その一行を読んで——葵は、目が熱くなった。
(誰かがやらなければならない。だから私がやる……)
このお方は——使命感から動いているのではなかった。ただ——やらなければならないことがある。それをやれる立場にある。だからやる。その単純な、しかし深い理由で、全てを担おうとしていた。
糸子様が戻ってきた。葵は素早く視線を外した。
「葵、何かありましたか」
「いいえ、何も」
「そうでございますか」
糸子様は何も言わなかった。しかし——葵が見たことを、糸子様は知っていたかもしれない。
それから葵は、糸子様のことを、少し違う目で見るようになった。
(私には、あの帳面の全てが分からなかった)
(でも——この方がやろうとしていることが、大切なことだということは、分かった)
(だから——この方のお側にいよう)
それが葵の決意になった。その決意は、この後ずっと、変わらなかった。
十二 小夜の恐怖——「この人は絶対おかしい」
一橋藩上屋敷での生活が始まってから一週間が経った頃、小夜は葵に告白した。
「葵さん、正直に言っていいですか」
「何でしょう」
「やっぱり…姫君様のことが、少し怖いんです」
「どのように怖いのですか」
「……外見はとてもお綺麗で、お優しくて、お可愛らしい方です。でも……中身が、その、な、なにか?得体の知れない感じがするんです」
「それが姫君様の聡明さだと思いますが」
「その聡明さを超えていると思うんです、私」
葵が、少し沈黙した。
「……小夜さん、正直に言いますと」
「はい」
「私も、時々、同じ感覚になります」
「やっぱり!」
「ただ——私は悪い方だとは思いません。姫君様は、この国のことを真剣に考えておられます。その目的のために、全てを使っておられる」
「でも葵さん、それにしても……あの独り言とか、あの帳面とか……」
「……そこは、気にしないことにしましょう」
「…えぇ…」
小夜が、少し考えてから、また言った。
「葵さん、一つだけ聞いていいですか」
「何でしょう」
「帳面に、百年後のこの国のために、みたいなことが書いてあったんですけど……葵さんも見ましたか」
葵が、少し止まった。
「……見ました」
「葵さんも……!」
「小夜さんも見ていたんですね」
「ちょっとだけ……」
「…普通の姫君がそんなことを…お書きになるんですか?」
「だから…それが姫君様なのです!」
二人は、少し笑いあった。廊下に、春の夜風が吹いた。
「……葵さん、あれを見て、どう思いましたか」
「この方の隣にいることが、意味のあることだと思いました」
「私は——正直に言うとよくわからないです」
十三 ハリスとの会談——二人が見たもの
ハリスとの会談の日、葵と小夜は御簾の両脇に控えていた。
会見室は、緊張に満ちていた。日本側の役人たちが、普段とは違う表情をしていた。
葵は、会談の間中、姫君様の様子を見ていた。
姫君様は、最初の長い時間——一言も発しなかった。ただ、聞いていた。
外からは分からなかった。しかし葵には、御簾の向こうで姫君様が——全てを把握しながら、観察していることが、感じられた。
(ハリスという人間を見ている。今日の会談の流れを把握している。そしていつ動くかを決めている)
その「見極めている気配」が、葵には分かった。
品川の辻で感じた「次にすべきことを考えている気配」と、同じだった。
小夜は、隣で控えながら、少し緊張していた。
「Mr. Harris.」
という糸子様の一声が出た瞬間、小夜が少しびくっとした。
葵は、その声の質を感じた。
(落ち着いている。完全に落ち着いている)
あれだけの場で、あの声が出る。
会談が進んだ。英語が飛び交った。葵には英語は分からなかった。しかし——糸子様が話す時の声のトーン、間の取り方、そして会場の空気の変化——それは分かった。
ハリスという人物が、徐々に追い詰められていくのが——空気で分かった。
小夜が、葵の袖を少し引いた。
「葵さん……姫君様、今、何をやっているんですか」
「交渉です」
「ものすごく難しそうな」
「そうです」
「姫君様は……大丈夫なんですか」
「大丈夫だと思います。姫君様は今日のために、長い年月、準備してきました。それが分かるから、大丈夫だと言えます」
小夜が、その言葉を聞いた。
「……葵さんは、本当に姫君様のことを信頼しているんですね」
「はい」
「私も……信頼したいんですが…」
「そこは…自分の歩調で良いと思いますよ」
「はい…」
小夜が、少し背筋を伸ばした。
十四 「おほほほほーーー」
会談が終わった後、幕府の担当者が糸子様に何かを確認していた。
「イギリスは本当にそのようなことを……」
「わたくしのお聞きした(強調)話ではそのようなことでしたが、もしかしたら間違っているかもしれませんわね」
そして——
「おほほほほほほーーーーーーーー」
糸子様が笑った。
幕府担当者が固まった。葵も——少し固まった。
(えーと、今の笑い声は……)
葵には、その笑いの意味が分かった。
(姫君様のイギリスの話は、嘘?)
葵はなんとなくそう思った。しかし葵は、何も言わなかった。言う立場でもなかった。そして——言う必要もなかった。結果として、あの会談は成功した。それで十分だった。
小夜が葵に小声で言った。
「葵さん……今の笑い声は」
「笑い声ですよ」
「なんか……ものすごく怖かったです」
「……少し、凍りました」
「やっぱり!」
「しかし——姫君様はこのために戦っておられます。全てはこの国のために。その手段に、私たちが口を出すことではありません」
「……はい」
小夜が、少し考えた後、言った。
「葵さん」
「はい」
「やっぱり姫様は、得体の知れない方ですよ」
「……そうかもしれません」
「でも——今日すごい方だと思いました!」
「……そうですね」
十五 会談の後——小夜の変化
糸子様が帰ってきた時、小夜はお茶を準備して待っていた。
「お帰りなさいませ、姫君様」
「ただいま」
姫君様が、茶を受け取った。その顔が——少し疲れていた。初めて見る顔だった。
「……お疲れでしたか、姫君様」
「少し」
「……会談は、うまくいきましたか」
「んー、少しだけうまくいったかと思いまする」
「……姫君様お一人で?」
「まさか、いろんな方に助けてもらいながらでしたよ。でも——主には……そうかもしれない?」
小夜が、少し固まった。
「……すごいですね、姫君様。数年間かかったかもしれないですけれど——それでも今日、日本が少しでも良い方向に変わったんですよね」
「そうだといいのですが…」
「はい。小夜にはよく分からないことですけど、姫君様はやってのけた!と少し思いました」
小夜は、少し目が潤んだ。
「……なんか、すごく遠い人みたいで」
「遠い?」
「でも——遠くて、すごくて…だけど、姫君様のお傍に少しでもいたいと思うようになれたとおもいます」
糸子様が、少し笑った。
「……それは、どういう理屈でありましょうや?」
「理屈じゃないです。感覚です。多分…」
「小夜はそのようにおもっているのでございますね。小夜は感覚で生きているのでございますか。わたくしには少し出来ませんでしょうか?」
「……姫君様にはできないことがあるんですか」
「たくさんありまする。わたくしは感覚で動けませぬ。頭で考えるばかりでございます。時々、疲れます」
「……姫君様でも疲れるんですか?」
「疲れまする。今日みたいな日は、特に…」
小夜が、姫君様を見た。本当に疲れている顔だった。
「……あの」
「何でございますか?」
「甘いものをお持ちしましょうか。葵さんと一緒に、もしもの時のために用意してございます」
「……あるのでございますか?」
「はい」
「小夜。ぜひ用意しておくんなまし」
小夜が、用意しておいた甘いものを持ってきた。姫君様が、それを食べた。その顔が、少しだけ、緩んだ。
「……おいしい」
「よかったです」
「本当においしい。おおきに、小夜」
小夜が、深く頭を下げた。
「……これからも、傍にいていいですか」
「あなたはわたくしの侍女でございましょう?。なぜ、いきなりそのような話に?」
「……姫君様に甘いものを食べてもらえたのが、嬉しかったんです」
「……そういうでございますか」
「はい」
「今後とも励んでくださいまし」
「はい、姫君様…」
小夜が、また少し目が潤んだ。
十六 ハリスが去る日——葵の内心
ハリスが帰国する日、葵と小夜は姫君様の身支度を手伝っていた。
いつも通りの身支度だった。白粉を使わない。眉を整えるだけ。椿油で垂髪を整える。
しかし——その日の糸子様は、少し違った。
「葵」
「はい、姫君様」
「疲れましたよ」
葵が、少し止まった。
糸子様が「疲れた」と言うのを、葵は初めて聞いた。
「お休みになりますか?」
「少し……そうします」
葵が、茶を用意した。漆塗りの盆に、白磁の茶碗を乗せて、糸子様に差し出した。糸子様が、両手で受け取った。一口飲んだ。
その横顔が——今日は少し違って見えた。いつもは前を向いている目が、今日は少しだけ遠くを見ていた。
(疲れておられる)
葵は思った。
(当然だ。今日まで、どれほどのことを担ってこられたか)
(船旅で、ずっと帳面を書いていた。江戸に着いてからも、ずっと動いていた。刺客に襲われて、それでも揺れなかった。メリケンの総領事と会談で、全力で戦った)
(そしてようやく、少しだけ「疲れた」と言えたのでございますね)
葵は、静かに頭を下げた。
「ゆっくりお休みください、姫君様」
「葵、小夜」
「はい」
「二人がいてくれて、良かった。かたじけのう存じます」
その言葉が、葵の胸に届いた。
小夜が、少し目を潤ませた。
「はい、姫様……私こそ……」
「こ、これからも、よろしくお願いします」
小夜が、少し勢い込んで言った。
葵も、深く頭を下げた。
「はい。姫様がいらっしゃる限り、私はずっとお傍におります」
糸子様が、少し笑った。その笑いは——「おほほほほ」ではなかった。静かで、穏やかな、本物の笑いだった。
葵は、その笑いを見て——胸が、温かくなった。
十七 二人の決意
その夜、葵と小夜は廊下で話した。
庭に面した廊下だった。春の夜の庭が、静かに広がっていた。石灯籠の灯りが、苔の上に落ちていた。遠くで鐘が鳴った。松の影が、庭に伸びていた。
「小夜さん」
「はい」
「姫君様について、正直に聞かせてください」
「はい」
「怖いと思っていますか」
小夜が、少し考えた。
「……はい、正直まだ少し」
「何が怖いですか」
「……得体の知れなさです。あの帳面とか、あの独り言とか、あの『やっておしまいなさい』とか、あの笑い声とか…」
「はい」
「あと……姫君様が時々、遠くを見る時の目が。あの目の奥に、私には見えない何かが見えているんじゃないかと思うと……」
「それでも——ついていきたいと思いますか」
小夜が、少し間を置いた。
「……はい、できるだけ」
「なぜですか」
「……怖いけれど、悪い方じゃないのかな?、というのが一つ。それと——姫君様が目指しているものが、この国のためになることだと…少しですが分かった気がしました。私には全部は分からないけれど、姫君様の進む方向は正しいのかな?ということだけは………」
葵が頷いた。
「私も、同じです」
「葵さんは、怖くないんですか」
「私は姫君様のことは怖いとはおもいません」
「本当に?」
「あの『おほほほほ…』というのを、除いては……」
「そうですよね!! やっぱり!!」
二人が、少し笑った。廊下に、春の夜風が吹いた。
「でも」
葵が言った。
「姫君様のお側にいることで——私たちは、すごいお方の傍に立てているんだな、とは思います」
「百年後のこの国のために、というお言葉……忘れられませんね」
「私もです」
「あの言葉を書かれた方のお側にいるって——すごくないでしょうか」
「そうですね」
「だから——これからもあの方のお世話をしていきたいと考えています。出来る限り…」
葵が頷いた。
「私も、あの方のお側を離れたくはありません。いつまでも…」
二人の視線が、上段の間の方向に向いた。行灯の光が、障子越しに漏れていた。
その向こうで——姫君様は、今日だけは何も考えずに、眠っているかもしれない。あるいは——また帳面を開いているかもしれない。
葵には、どちらでも良かった。そこに糸子様がいる。それで十分だった。
「葵さん」
「はい」
「姫君様って——幸せなんでしょうか?」
葵が、少し驚いた。
「それは……どういう意味ですか」
「ずっと難しいことを考えて、戦って、疲れておられる。周りの人は姫君様に感謝しているけれど——姫君様自身は、幸せなのかなと思って」
葵は、その問いを聞いた。しばらく考えた。
「……私には分かりません」
「そうですか」
「でも——帳面を書いている時の姫君様は、楽しそうに見えます。思案している時も、何かを計画している時も。会談で言葉を戦わせている時も、生き生きとしておられました」
「そうですね」
「だから——姫君様がなさっていることは、姫君様にとっても、意味のあることなのだと思います」
「意味があることは、幸せなのですかね?」
「……少なくとも、不満があるとは思えません」
小夜が、少し考えた。
「……葵さん」
「はい」
「姫君様のことをもっと知りたいです。怖いけれど、得体が知れないと思ったけれど——この方のことをもっと理解したと今は少しだけ思います」
「そうですね。ずっとそばにいれば、少しずつ分かるかもしれません」
葵が頷いた。
「だから——あの方のお側にいましょう。これからも…」
「はい。」
「でも葵さん、最後に一つだけ聞かせてください」
「何でしょう」
「助さん角さんって——結局、誰なんでしょう?」
「……小夜さん」
「はい」
「そういうことは聞かないのが、侍女の心得です!」
「……はい、反省します」
小夜が、少し考えた後、言った。
「葵さん、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
廊下に、春の夜風が吹いた。行灯の光が、障子越しに漏れ続けていた。
その向こうで——糸子様は、今夜も何かを書いているかもしれなかった。
二人は、その光を見ながら、静かに微笑んだ。
第五十八話 了
この後、陸奥騒動京編と江戸編をかいたのですが、余りにもつまらなかったのでボツにしました。
機会があれば、また再チャレンジして執筆したいとおもいます(^^;
1日休んで…多分再開は月曜日から?になる???と、多分おもいます………( ̄  ̄;) うーん




