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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第五十六話「波紋」

一 岩瀬忠震の夜

 会談が終わった夜、岩瀬忠震は執務室に一人でいた。

 江戸城近くの幕府の施設だった。書院造りの部屋で、床の間に松の掛け軸が下がっていた。行灯が一つ灯り、黄色い光が部屋を照らしていた。机の上に、今日の記録が積まれていた。


 岩瀬は、その記録を眺めていた。

 読んでいなかった。ただ、眺めていた。

 今日の会談の一つ一つが、頭の中を繰り返していた。

 「It is not a joke, Mr. Harris.」

 (ハリス氏、冗談ではありませんよ)

 最初の一声が、まず来た。

 あの瞬間の会場の空気を、岩瀬は今でも鮮明に覚えていた。一言も発しなかった御簾の向こうから、突然、完璧な英語で声がした。

 全員が固まった。自分も固まった。


 しかし——そこから先が、さらに凄まじかった。

 「Mr. Harris, are you familiar with Vattel's 'The Law of Nations'?」

 (ハリス氏、ヴァッテルの『国際法(万民法)』についてはご存じですか?)

 ヴァッテルの国際法。岩瀬は、その名を知っていた。しかし——その書物の内容を、あれほど正確に引用できる者が、この国にいるとは思っていなかった。

 金銀比率の数字。開港以来の金流出量の推定値。

 (あの数字は——どこから?)

 岩瀬は思った。

 横浜の商館の記録から集計した、と後で実光に聞いた。近衛家独自の調査。

 (近衛家が……横浜の商館の記録を……)

 いつから調べていたのか。どうやって集めたのか。


 そして——最後のイギリスの話。

 岩瀬は、あの瞬間、会場にいた全員と同じ顔をしていたと思う。「えっ? そんな話があったのですか?」という顔を。

 後で糸子に確認した。「もしかしたら間違っているかもしれませんわね、おほほほほーーー」という返答が来た。

 (つまり嘘だ)

 岩瀬は確信していた。

 しかし——問題は、それが嘘かどうかではなかった。

 嘘かもしれない情報が、ハリスを完全に崩した。

 (これが、交渉というものなのか)

 岩瀬は思った。

 (自分たちがやってきたことは——交渉ではなかった)

 「検討の上、後日回答したい」——それが岩瀬たちの答えだった。何年も、それだけだった。

 しかし——あの姫君は一日で、自分たちが何年もかけて動かせなかったものを動かした。

 岩瀬が、机の上の記録を改めて見た。


 合意された内容が書かれていた。改正条項。金銀比率の調整条項。相互の代表駐在権。

 (この国の子供たちに——この先の世代に——この出口を残してくれた)

 岩瀬は、そう思った。

 (改正条項があれば——将来、この国が力をつけた時に、対等な条約に変えることができる)

 (金銀の調整条項があれば——流出を止める手立てが生まれる)

 (日本の代表がアメリカに行けば——万次郎殿のような人物が、アメリカ社会を内側から理解する機会になる)


 どれも、小さなことに見えるかもしれない。しかし——百年後の視点から見れば、これらは決定的に重要な「出口」だった。


 そして——決意した。

 (自分たちも変わらなければならない)

 岩瀬は、紙を取った。筆を取った。

 今夜から、書き始めることがあった。

 交渉とは何か。この国が外交で戦うためには何が必要か。そのために、どういう人間を育てなければならないか。

 岩瀬は、書き始めた。行灯の光の下で。


 春の夜が、深くなっていった。


二 通詞たちの夜

 森山栄之助が帰宅したのは、夜遅かった。

 長屋に戻って、夕食を取った。しかし味がしなかった。

 食べながら——今日の会談が、頭の中を巡り続けていた。

 森山は、長年オランダ語の通詞として働いてきた。日本の外交の場で、誰よりも多くの翻訳を担ってきた。

 しかし——今日、自分の仕事が完全に不要になる瞬間を目撃した。

 御簾の向こうの姫君が英語で話し始めた瞬間、森山の仕事は半分以上消えた。英語とオランダ語の翻訳が、事実上必要なくなった。


 (あの方は——三ヶ国語を……)

 森山は箸を置いた。


 日本語と英語とオランダ語の全てが、あの御簾の向こうに揃っていた。通詞の多段翻訳を介さずに、直接、原語で交渉が行われた。

 そして——そのことで、どれだけ多くの「誤差」が消えたか。

 森山は、通詞として長年働いてきた。翻訳の「誤差」がいかに大きいかを、誰よりも知っていた。


 言語を一段通るたびに、何かが失われる。ニュアンスが消える。感情が消える。論理の鋭さが消える。


 あの姫君は——その全部を消した。


 「……俺たちは、何年も、欠陥のある道具で戦っていたのか」

 森山が、一人で言った。

 長屋の薄い壁の向こうで、隣人の声がした。しかし森山には聞こえなかった。

 (俺たちも変わらなければ)

 森山は思った。

 (もっと多くの言語を学ぶ人間を増やさなければ)

 若い堀達之助の顔が、頭に浮かんだ。今日の会談で、堀は何度か記録を取る手を止めて、御簾を見ていた。驚いているのが、その背中から分かった。


 (あの若者を——しっかり育てなければ)

 森山は、改めて箸を持った。食べた。今度は少し、味がした。


三 幕府の合議

 三日後、江戸城の本丸御殿で、老中合議が開かれた。

 本丸御殿の広間だった。格天井が高く、黒塗りの柱が等間隔に並んでいた。畳が広間を覆い、各老中の前に文机が置かれていた。行灯が複数灯り、昼間にもかかわらず部屋に暖かい光をもたらしていた。


 堀田正睦が上座に座っていた。他の老中たちが、その両側に並んでいた。

 岩瀬から、会談の報告が行われた。


 岩瀬が、淡々と述べた。

 会談の経緯。糸子の発言内容。ハリスの反応。そして——合意された内容。


 老中たちが、その報告を聞いた。

 途中から、顔が変わり始めた。

 驚き。困惑。そして——何かへの畏敬。


「……改正条項が入った?」

 ある老中が言った。


「はい。双方の合意により、将来見直すことができるという文言が入りました」「金銀比率の調整条項も」

「はい。適正な比率での交換を原則とし、著しい逸脱は相互協議で調整するという条項が」


「そしてメリケンへの日本の代表駐在権」


「はい。原則として認めさせました」

 沈黙が、広間を覆った。

「……これは」

 別の老中が言った。

「当初、あの条約は——我々にとって非常に不利なものになるはずでした」

「はい」

「しかし今の内容では——必ずしもそうとは言えない」

「はい。少なくとも、将来の出口が入りました」

 堀田正睦が、静かに言った。

「報告ありがとう。岩瀬殿、一つ聞いてよいか」

「はい」

「あの姫君様は——一体何をしたのだ」

 岩瀬が、少し間を置いた。


「言葉で戦いました」

「言葉で?」

「はい。ただ言葉で。しかし——私がこれまで見た、いかなる交渉とも違いました。論理と、数字と、国際法の知識と、それは見事という他ない機微の揺さぶり——そして、目に見えない何かでありましょいか」


「目に見えない何か?」


「……覚悟、でしょうか。この国の百年先を考えている、という覚悟が、言葉の一つ一つに込められていました」

 堀田が、岩瀬の言葉を聞いた。


四 様々な感想

 報告が終わった後、堀田は会談に参加した者を順に呼び、話を聞いた。


 最初に岩瀬忠震から聞いた。

「自分たちがやってきたことは、交渉と呼べるものではありませんでした。あの姫君様を見て、初めてそれが分かりました。交渉とは言葉による立ち合いです。負ければ国が死ぬ。私は今日、その意味を初めて理解しました」


 次に井上清直から聞いた。

「あれほどの準備を、あのご年齢でなさっているとは思いませんでした。英語、オランダ語、日本語——そして国際法の知識、経済の数字、各国の外交関係。全部が揃っていた。私たちは足りなかった。人を増やし、知識を蓄え、死ぬ気で取り組まなければなりません」


 水野忠徳からは。

「恐ろしかったです。公家の姫君様とお聞きしておりましたが——その相違が、恐ろしかったです。何を言われても動じない。脅されても揺れない。あれを見て、最初は頼もしさを感じました。しかし同時に——もし敵に回したら、と考えると……。二度とそう考えたくない、と思いました」


 森山栄之助からは。

「私は通詞として働いてきました。翻訳を介した交渉がどれほど欠陥を持つかを、誰よりも知っていた。しかし今日、その欠陥が完全に解決された交渉を初めて見ました。三ヶ国語を操り、翻訳の誤差を一切なくして交渉された。私たちの仕事の限界を、今日初めて本当に理解しました。もっと多くの人間が言語を学ばなければならない」


 堀達之助からは。

「すごいという言葉しかありません。自分も外国語を学んできましたが、今日見たものは、自分が目指すべきものが何かを教えてくれました。言語は道具ではなく、武器だと思いました。あの姫君様はその武器を、完璧に扱っておられた」


 名村五八郎からは。

「自分の不甲斐なさが恥ずかしかった。あれほどの方が、あれほどの準備をなさっておられた。私たちも相当な努力をしてきたつもりでしたが——今日見たものは、その水準が全く違った。これから先、自分はどう生きるかを、今日から考え直さなければならないと感じています」


 西吉十郎からは。

「頼もしかった。純粋に頼もしかった。この国には、こういうお方がいてくださるんだと思ったら、少し気持ちが楽になりました。しかし同時に——自分たちが何もしなければ、この方だけに頼ることになってしまう。それはいけない。自分たちも変わらなければならないと思いました」


 堀田は、全員の言葉を聞いた。


 みな、同じことを言っていた。

 変わらなければならない。

 そして——この姫君を、敵に回してはいけない。

 その二つが、全員に共通していた。


 堀田は、それを確認した。

 (この国の外交が、今日から変わり始める)


 堀田は思った。

 (いや、正確には——変わらなければならないと、多くの者が気づいた)


 その気づきをもたらしたのが、十二歳の公家の姫君だったということが、堀田には奇妙に感じられた。しかし——事実だった。


五 堀田からの糸子への使者

 会談から数日後、堀田正睦から糸子のもとへ使者が来た。

 一橋藩上屋敷の上段の間で、御簾を挟んで向き合った。

「先日の会談について、改めて詳しくお聞きしたく参りました」

 堀田の使者が、まず切り出した。

「はい、何なりとお聞きくださいまし」

「合意の内容については既に報告を受けております。しかし——姫様自身のお考えを、直接お聞きしたい、と堀田様がおっしゃっておりまして…」

「心得ましてございます」

 糸子は、会談の経緯を順に説明した。

 使者が聞き、記録した。

 一通り話し終えた後、糸子は少し間を置いた。


「実は——もう一点、堀田様にご提案申し上げたいことがございます」

「なんでしょう、近衛様」

「今回の協議において、双方が相互に代表を置く権利を原則として確認させていただきました。この原則を、早急に実行に移すことをお勧めしたいのです」

 使者が、少し前に傾いた。

「早急に、とは?」

「できるだけ早くに、アメリカへの日本駐在領事を送ることでございます」

 糸子が静かに言った。

「既成事実として——ハリス殿にお話しして、日本に来ているメリケンの船に同乗させてもらい駐在領事を送ることでございます。先に動いてしまうことが最も効果的かと存じまする」

「……なるほど!」

「文言として確認されただけでは、後の交渉でいくらでも覆すことができましょう。なれど実際に人が動けば、それは既成事実となりまする。メリケン側も、その事実を無視することはできなくなりまする」

 使者が、改めて糸子を見た。

「近衛様のお言葉はもっともでございます。ちなみにその領事代表は——?」

「中浜万次郎殿が最も適任かと存じまする」

 糸子が即座に答えた。

「…英語に堪能で、メリケンの事情に精通しておられます。メリケンに渡った経験もお有りになる。そのお役目に、中浜殿以上の方はおられませぬ」

 使者が、その言葉を書き留めた。

「堀田様に必ずお伝えいたします」


 数日後、使者が再び来た。

「堀田様より、ご返答にございます」

「はい」

「近衛様のご提案、堀田様は全面的にご支持なさいます。老中合議の上、中浜万次郎殿には幕府より正式に打診の運びとなります」

「かたじけのうございます」

「また——もし近衛様がハリス殿と再びお会いになる機会があれば、中浜殿をメリケンの船に乗せていただけるよう、お願いしてみてはどうかと。堀田様は近衛様がお頼みになった方が、うまく事が運ぶのではないか?と仰せにて…」

「当然幕府側からもハリス殿にそのように依頼をするとのことでございますが…」

 糸子は、少しの間、沈黙した。

 (堀田殿……しっかり人を見ていらっしゃる)

 糸子は内心で思った。

「承知いたしました。機会があれば、そのようにいたしましょう」

「よろしくお願い申し上げます」

 使者が退室した。


六 堀田正睦の驚愕

 全員の話を聞き終えた後、堀田は一人になった。


 本丸御殿の庭に面した廊下に出た。

 春の庭が見えた。手入れされた松が、静かに立っていた。苔の庭が、緑を深めていた。石組みが、庭の中心に置かれていた。春の光が庭全体を照らしていた。

 (あの姫君様は——一体何をしたのだ)

 堀田は思った。


 当初の計画では——朝廷からの使者が参加することで、交渉に何らかのきっかけが生まれれば、という程度だった。朝廷の権威を背景に、幕府の立場を少し強くする。それだけのつもりだった。


 しかし蓋を開けてみれば——条約の中身そのものが変わっていた。

 当初のアメリカ有利の条約が、日本にとってそれほど不利ではない条約に変わっていた。

 改正条項が入った。金銀比率の調整条項が入った。日本の代表駐在権が入った。

 どれも、自分たちが求めようとして諦めていた内容だった。


 そして——最後のイギリスの話。

 

 堀田は、あの交渉合議に参加していた者たちの話を思い出していた。

 会談の最後の方に、糸子が「わたくしのお聞きした話ではございますが」という前置きで、イギリスが日本に対して有利な条件で条約を結ぶ用意があるという情報を語ったという。


 その瞬間、会場にいた幕府担当者が全員、「えっ?」という顔をしたという。

 そういう話は、一切聞いたことがなかった。

 後で確認した。糸子に使者を送って聞いてみたら…

 「わたくしのお聞きした(強調)話ではそのようなことでしたが、もしかしたら間違っているかもしれませんわね、おほほほほーーー」

 堀田は、その答えを聞いて、少しの間固まった。


 (嘘だな…)

 それは明らかだった。

 しかし——。

 (国と国との話し合いで、そのようなことが罷り通っていいものなのか?)

 (——いや、あの姫君が罷り通したのだ!)

 堀田は思った。

 (あの嘘で、ハリスは完全に崩れた)


 論理で追い詰め、数字で潰し、そして最後に——確認できない情報で、心理的に完全に崩した。

 (この姫君が味方でいてくれれば、この上ない幸いだが)

 堀田は思った。

 (もし敵に回したら——)

 考えたくなかった。

 (個人的に、この姫君には決して逆うのはよそう…)

 堀田は、心の中でそう決めた。


春の庭の松が、風に揺れた。

 その揺れ方が、今日は少し違って見えた。

 (この国には——様々な人間がいる)

  堀田は思った。

 (岩瀬のような者。村田のような者。万次郎のような者。そして——あの姫君のような者)

 それぞれが、それぞれの場所で、それぞれの方法で——この国のために動いている。

 (幕府が弱くなっても、この国が続く理由が、少し分かった気がする)

 堀田は、廊下から部屋に戻った。机の前に座った。白い紙を取り出した。

 書かなければならないことが、あった。この国の外交能力を高めるための具体的な提言を。

 (あの姫君のような者を、一人でも多く育てなければならない)

 堀田は、筆を取った。行灯の光が、紙を照らした。


七 江戸城内の噂

 会談の報告は、またたく間に江戸城内に広まった。

 問い合わせが後を絶たなかった。

 「近衛家の姫君様が交渉に参加されたそうだが——」

 「どんな内容だったのだ?」

 「ハリスは本当に崩れたのか?」

 会談に参加した者への問い合わせが、廊下でも、書院でも、庭でも行われた。

 そのたびに、回答した者の顔が変わった。

 「とにかく——すごかった」

 それが共通の答えだった。

 「英語で直接やり合ったのです。御簾の向こうから」

 「ヴァッテルを引用された時には、ハリスが固まりました」

 「金銀の数字は——幕府も把握していなかった数字でした」

 「最後のイギリスの話は……そのう……」

 「何だ、最後のイギリスの話というのは?」

 「……それはその……おほほほほ……というご様子で」

 「おほほほほ?」

 「あの笑い声の意味を考えると、自分には……何とも申し上げられません」

  そういう会話が、城内の各所で行われた。

 次第に形成されていった認識は——「あの姫君様は、ただ者ではない」というものだった。


八 篤姫の耳へ

 大奥にも、その話が伝わった。

 天璋院篤姫が、侍女から話を聞いたのは、会談から五日後のことだった。

 大奥の奥御殿の一室だった。御帳台の前に、篤姫が座っていた。豪華な唐織の小袖に、品のある丸まげを結っていた。側に侍女が二人控えていた。

 「朝廷の御使者様が、今回の交渉合議に参加されたそうでございます」

 侍女が言った。

 「そして——ハリスというメリケンの総領事殿が、それで大変なことになったそうで」

 「どのような方がご使者様としてお来しになったのです?」

 「詳しくは存じ上げませんが……近衛家のどなたかでいらっしゃるとか」

 篤姫が、少し眉を動かした。

 (近衛家……?)


 篤姫は、近衛家と縁がある。もともと薩摩島津家の出身だが、近衛家の養女として江戸へ来た。

 (近衛家のどなたが……?)

 「どのようなことをなさったのですか、そのご使者様は」

 「英語を話されたそうでございます。それも、お見事に。メリケン国の総領事殿が完全に言い負かされたとか…」

 篤姫が、少し前に身を傾けた。

 「メリケンが言い負かされた?」

 「はい。最終的には、ハリスというお方が——相当参ってしまったご様子で」

 篤姫が、少し考えた。

 (近衛家のどなたが、そのようなことを……)

 (英語を話せる近衛の者——)

 篤姫には、心当たりが、一つあった。

 しかし——まさか、と思った。

 (あの年齢で……そこまで……?)

 「その御使者様は、どのようなお方でいらしたのですか。年の頃とか、お姿とか」


 「御簾の向こうにいらっしゃったそうで——お姿は見えなかったとか。ただ、声が大変若く、かわいらしいお声だったと」

 篤姫が——静かに微笑んだ。

 「……そうですか」

 それ以上は聞かなかった。

 しかし——その微笑みの奥に、確信に近いものがあった。

 (糸子様……でしょう?)

 篤姫は、その名前を声には出さなかった。

 ただ——心の中で、静かに確認した。

 

 近衛家の糸子様——。


篤姫は、その名前を知っていた。近衛家の養女として江戸へ嫁いできた自分にとって、近衛の縁は深いものがあった。

 そしてかつて、糸子という子が生まれた時、御門様が直接命名されたという話が宮廷の内外に伝わっていた。

 (あの御子が……このようなことを)

 篤姫は、少し間を置いた。

 (近衛家には——すごい方がいるものですね)

 それと同時に——篤姫は、少しだけ安堵した。

 この国を守ろうとしている人間が、いた。自分だけではなかった。

 (よかった)

 篤姫は、静かに思った。

 大奥の奥御殿に、春の光が差し込んでいた。


九 勝海舟の大笑い

 万次郎が勝海舟に会談の様子を話したのは、会談から数日後のことだった。

 神田の、ある料理屋だった。

 小上がりの席に二人が向き合っていた。燗酒が来ていた。

 万次郎が、会談の様子を一通り話した。

 最初から最後まで。御簾の一声から始まって。ヴァッテルの引用。金銀比率の数字。アヘン戦争。御門様の権威。イギリスカードの逆用。そして最後の——「おほほほほーーー」。


 勝海舟が、聞いていた。

 万次郎が話し終えた。

 勝が、しばらく黙っていた。

 その沈黙が、五秒ほど続いた。


 そして——

「はーーーーーっはっはっはっはっはっは!!!」

 勝が、上を向いて大笑いした。

 料理屋の他の客が振り向いた。

「いや——はーっはっはっはっはっは!!!」

 笑いが止まらなかった。

 万次郎が、少し笑いながら待った。

 勝がようやく笑いを収めた。

「万次郎」

「はい」

「ヴァッテルを引用した?」

「はい」

「十二歳が」

「はい」

「御簾の向こうから」

「はい」

「ハリスに向かって」

「はい」

「はーーーーーっはっはっはっはっは!!!!!」

 また笑い始めた。

 万次郎が、少し困った顔をしながら、燗酒を飲んだ。

 勝がまた笑いを収めた。今度は目に涙が浮かんでいた。

「いや——最高だ。最高すぎる」

「勝殿」

「あのイギリスの件——どう考えても嘘だよな?」

「……はい。どう考えても」

「はーーーーっはっはっは!!!!!」

 三度目の大笑いだった。

 やがて、笑いが収まってきた。

 勝が、盃を手に取った。一口飲んだ。

「万次郎」

「はい」

「俺も姫様の犬にしてもらおうかな」

「……犬?」

「忠実な犬。手足として働く犬だ」

 万次郎が、少し考えた。

「それは……姫様に伺ってみてはいかがでしょう」

「真剣に考えてる」

 勝が、しみじみと言った。

「あの姫様が目指している方向と、俺が目指している方向は——同じじゃないかと思ってな。この国の行く末のためなら、俺は喜んで犬になる」

「……それは姫様に直接おっしゃったらよいのでは」

「そうだな」

 勝が、盃を置いた。

「万次郎。龍馬のやつはどうしてる?」

「西の方で動き回っているようです」

「あいつもそのうち、姫様と絡むことになるだろうな」

「そうかもしれません」

「この国には——面白い連中が揃ってきた」

 勝が、少し目を細めた。

「姫様が中心になって、何かが動き始めている。俺はその動きを、できるだけ後押しする側に回りたい」

 万次郎が、その言葉を聞いた。

 (この人も——変わった)

 万次郎は思った。

 あの会談が、この国の多くの人を変えていた。


十 江戸の街に広まる話

 流言は、商人から商人へ、武士から武士へ、職人から職人へと広まった。

 日本橋の魚河岸で、担ぎ屋同士が話していた。

「聞いたか? 朝廷のご使者様が、あのメリケンの総領事を言い負かしたそうじゃないか」

「本当か? どんな風に?」

「なんでもメリケン語でやり合ったそうで。難しい言葉を並べて、相手の言い分を全部ひっくり返したとか」

「すごいな……」

「しかも最後には、メリケンが一方的に有利な条約のはずだったのが、日本にそれほど不利じゃない条約に変わっていたとか」

「そりゃ——幕府は何をやってたんだ?」

 その言葉が、自然に出てきた。

 神田の本屋で、浪人同士が話していた。

「井伊の奴が結ばせた不平等条約が——朝廷のご使者様の一回の交渉で変わったそうだ」

「幕府は何年もかけても変えられなかったのに?」

「らしいな。まあ幕府は変えようとは思ってなかったんだろうが」

「……やはり、これからは朝廷が中心にならなければいけないのかもしれん」


 深川の料理屋で、商人たちが話していた。

「井伊の討ち入り以来の大事件だと言う者もいますよ。言葉でメリケンを倒したというのは」

「比べるのは違うが——まあ、それくらい驚いた人間が多いということだろう」

「朝廷のご使者様は、どのようなお方なのですか?」

「それが——御簾の向こうにいて、お姿は見えなかったそうで」

「お声は聞こえたのですか?」

「なんでもかわいらしいお声だったそうです」

「……本当に、朝廷というのはすごい方がいるんですね」

 その言葉が、あちこちで繰り返された。

 朝廷に、すごい方がいる。

 御門様の御威光で、日本を守ろうとしている。

 それに比べて——幕府は何をしているのか。

 その疑問が、じわじわと江戸の街に広がっていた。

 本所の長屋では、職人が女房に話した。

「赤穂の大石殿も大したもんだったが——言葉で戦って異国の総領事を倒したというのは、また別の話だな」

「そんなことができるんですか、言葉で」

「できたんだよ。朝廷の姫君様が」

「……御門様はすごいんですね」

「御門様がいてくださるうちは、この国は大丈夫かもしれないな」


 下谷の居酒屋では、若い武士たちが声を潜めて話した。

「幕府は今まで何年も交渉していた。動かせなかった。それが一回で動いた」

「朝廷が直接動いたからじゃないか」

「そうだ。やはり御門様の権威があってこそだ」

「……我々は誰に仕えるべきか、考え直す時期かもしれない」

 その言葉は、誰も大声では言わなかった。しかし——そう感じていた者は、少なくなかった。


十一 幕府の株と朝廷の株

 江戸の街の空気が、変わり始めた。

 変化は、すぐには目に見えなかった。

 しかし——確実に動いていた。

 幕府に対する不満と不安が、少しずつ積み重なってきた。


 彦根藩邸への討ち入り事件があった。大老井伊直弼が討たれた。安政の獄で少なくない者たちが処罰されたことへの反発も残っていた。

 そしてこの条約交渉——幕府が何年も変えられなかったものが、朝廷のご使者様一人に変わった。

 (幕府に、このまま任せておいて大丈夫なのか)

 その疑問が、多くの人の心に生まれた。


 一方で——朝廷への期待が高まった。

 御門様とその周囲には、日本を守ろうとする力がある。朝廷と御門様がいなければ、この国はどうなっていたか分からない。

 朝廷の株が上がった。

 それは、糸子が直接意図したことではなかった。

 しかし——結果として、それが起きた。

 そして——糸子は内心で、そうなることを予想していなかったわけでもなかった。

 条約の内容が有利になる。それは直接的な目標だった。

 しかし——交渉を見た幕府の担当者たちが変わる。城内に話が広まる。街に伝わる。幕府への疑問が生まれ、朝廷への期待が高まる。

 一つの会談が、これだけ広い波紋を生む。


 それが——言葉の力だった。


 一橋藩上屋敷の上段の間で、糸子はそのことを静かに考えていた。

 (倍返し、した)

 糸子は、心の中で思った。

 (井伊のおっさんが仕掛けてきたことへの、ちゃんとした倍返しになった)

 しかし——糸子はすぐに次を考えた。

 (ここで満足してはいけない。この波紋を、次につなげなければ)

 帳面に筆を走らせた。


 春の江戸の午後の光が、部屋に差し込んでいた。


十二 堀田の薄寒さ

 その夜、堀田正睦は一人で部屋にいた。

 本丸御殿の執務室だった。行灯が灯り、窓の外の苔の庭が薄暗く見えた。

 堀田は、帳面を開いていた。しかし書いていなかった。

 この数日で、多くのことを聞いた。


 岩瀬たちの証言。城内の噂。大奥への伝播。街の動き。

 そして——糸子の「おほほほほーーー」という笑い声が、頭の中に浮かんでいた。

 (国と国との話し合いで——現実には嘘が罷り通ってしまった)

 堀田は唸った。

 (…いや、嘘と思われないように説得力を持たせたのだ!)

 ハリスが崩れた。条約の内容が変わった。全部、一人の姫君の言葉で。


 堀田は、今まで生きてきた中で感じたことのない、薄寒さを覚えた。

 冷たいものが、背筋を流れた。

 (この姫君が味方でいてくれれば、この上ない幸いだ)

 堀田は思った。

 (しかしもし敵に回したら——)

 考えたくなかった。本当に考えたくなかった。

 (幕府はこの際知らないが——個人的に、この姫君には決して逆うのは絶対によそう)

 堀田は、心の中でさらに決意した。強く、強く…

 窓の外の庭に、春の夜風が吹いた。苔が、静かに揺れた。

 (ほんとに厄介極まりない姫君だ)

 堀田は、もう一度思った。

 (しかし——この国には必要な方だ)


十三 実光の手紙

 水無瀬実光が、京都の父、広橋権中納言へ手紙を書いたのは、会談から一週間後のことだった。

 一橋藩上屋敷の別邸の一室だった。春の光が窓から差し込んでいた。庭に梅の木が一本あった。花は散り、若葉が出ていた。

 実光は筆を持ち、父・広橋権中納言に宛てて書いた。

「先日の会談の様子を、御報告申し上げます。近衛糸子様は——言葉による戦いにおいて、私がこれまで見た誰よりも見事でございました」

 「英語による直接交渉。ヴァッテルの国際法の引用。経済の数字の提示。モンロー主義の逆用。そして最後には——確認できない情報を武器として使う、恐ろしい胆力」

「幕府の担当者たちは皆、変わりました。あの会談を見て、変わらざるを得なかったようです」

「近衛糸子様は——この国の宝でございます」

 実光は、その文字を見た。

 少し考えた。

 書き直すかどうか。

 「宝」という言葉は、少し大げさかもしれない。

 しかし——実光は、書き直さなかった。

 本当のことだったから。


十四 村田蔵六の夜

 村田蔵六は、会談の夜から、ずっと考えていた。

 数年間、教えてきた。

 相互主義の論理。国際法の基礎。交渉の技術。語学の訓練。模擬交渉。

 全部を、あの少女に教えてきた。

 しかし——あの会談で起きたことは、自分が教えたことを超えていた。

 教えることができるのは、知識と技術だけだ。


 しかし——あの「間」の使い方。脅されても揺れない胆力。相手の言葉を先取りする反応速度。嘘を本当のように語る面の皮の厚さ。

 それは、教えたものではなかった。

 (あれは——あの方は本当に何者なのだろう…)

 村田は思った。

 (私は、ただの足場だった。あの方が登るための足場)

 それは、村田にとって誇らしいことだった。

 自分が教えたことが、あれほど見事に使われた。それ以上の喜びは、師匠として他にない。

 しかし——同時に。

 村田は、静かに決意した。

 (もっと多くの者を育てなければならない)

 (次の時代を担う者を。この国の全ての分野で、異国に対抗できる者を)

 春の夜風が、部屋の窓を揺らした。

 村田は、窓の外を少し眺めた。

 数年前、九歳の少女が「外国語を学びたい」と言ってきた。

 あの日から、全てが始まった。

 「行く時が来たのでございますよ、姫様」——あの日、送り出した言葉を思い出した。

 (行かれた。そして、やり遂げた)

 村田は、静かに笑った。


十五 万次郎の誓い

 万次郎のもとには、幕府老中首座・堀田正睦より正式な沙汰が届いた。

 「亜墨利加国駐在総領事の御用、汝に仰せ付ける」

 その文言は、江戸の外国奉行所において、厳かに読み上げられた。


 この任命に至るまでには、幕府内部でひそかな、しかし激しい議論が交わされていた。

 日米修好通商条約の締結交渉が進む中、幕閣の間では一つの共通認識が生まれつつあった。通詞——すなわち蘭語を介した従来の通訳体制では、もはや限界があるという認識である。

 ハリス総領事との交渉において、幕府の役人たちはつくづく思い知らされていた。言葉の壁もさることながら、メリケンという国の実態を、誰も本当の意味では知らないのだ。政治の仕組みも、港の様子も、民の気質も、商慣習も——すべてが霧の中にある。地図の上の国でしかなかった。

 「通詞がおれば足りる、という世ではもはやない」

 外国奉行のひとりがそう言い切ったとき、その場にいた者たちは誰も反論しなかった。必要なのは、言葉を訳す者ではなく、メリケンを知る者——実際にその地に立ち、その空気を吸い、その人々と言葉を交わした経験を持つ者だった。

 そこで浮かび上がった名が、中浜万次郎であった。

 土佐の漁村に生まれた元漁民が、嵐に遭い漂流し、メリケンの捕鯨船に救われ、十年近くをその地で過ごした。英語を習得し、航海術を学び、メリケンの学校にも通った。日本に帰国してからは、土佐藩に仕え、やがて幕府の御用を承ることになった人物である。

 「あの者をメリケンへ遣わすべきだ」という声は、外国奉行筋からまず上がり、やがて老中の耳にも届いた。

 しかし、すぐに異論が出た。

 「元は漁民ではないか」

 身分の問題である。幕藩体制において、身分は単なる形式ではない。外交の場に立つ者は、それに見合う格を持たねばならない。ましてや将軍の名代として異国に赴くとなれば、なおのことであった。「漂流民を総領事に」などという前例は、いかに実力があろうとも、容易に受け入れられるものではなかった。

 だが、この反論を押し切ったのが、実務優先という現実の重みと、朝廷の使者であった糸子からの同様の推薦であった。

 「今は格式より実が要る」

 堀田正睦がそう裁定した。ペリー来航以来、幕府が学んだ最大の教訓のひとつは、理想論では外交は動かないということだった。万次郎に代わり得る人材は、どこを探しても存在しない。ならば特例とするほかない。

 かくして万次郎への任命は、「実務重視の特例人事」として老中合議の上で決定された。


 外国奉行所での任命の場は、万次郎にとって生涯忘れがたいものとなった。

 平伏し、「恐れ入り奉ります」と応えながら、内心では様々な思いが波のように押し寄せていた。

 再びメリケンへ行ける——その喜びは確かにあった。あの広大な海、あの光の眩しい港町、かつて自分を拾い上げてくれた人々の顔が、瞬時によみがえった。

 しかし同時に、武士の世界への緊張もあった。漁師の倅である自分が、今や幕府の役人として異国へ赴く。その重みが、ずっしりと肩にのしかかってくるような感覚だった。

 任命と同時に、万次郎の身分もあらためて整えられた。

 名字帯刀を正式に許可され、形式上は旗本の預かりという扱いで幕臣の列に加えられた。役職名も付与された。「亜墨利加駐在総領事」——その文字を目にしたとき、万次郎は自分が今、何者になろうとしているのかを、あらためて噛み締めた。

 土佐の小さな漁村で生まれた少年が、嵐に呑まれ、異国の船に拾われ、言葉も文化も何もかもゼロから学び直した末に——今、将軍の名において異国へ赴く役目を授けられようとしている。


 任命の沙汰を受けた数日後、万次郎は近衛糸子のもとを訪ねた。

「姫君様、聞いてもよろしいですか?」

「何でしょう」

「これは……姫君様がお動きになったのですか?」

「堀田殿がご決断なさったのですよ」

 糸子が穏やかに答えた。

「私はただ、ご提案を申し上げただけでございます」

 万次郎は少しの間、沈黙した。この方は、いつもそうおっしゃる。ご自身の働きを決して前に出されない。しかしその「ご提案」がなければ、自分がこの役目を授かることなど、あり得なかったことを、万次郎は十分に承知していた。

 万次郎が少し笑った。

「承知しました、姫君様。喜んでお受けいたします」

「かたじけのうございます、万次郎殿」

 糸子が、少し微笑んだ。

「アメリカでご苦労されるとは思いまするが——日本のためにどうぞ働いてきてくださいまし」

「必ずや」

 万次郎が、深く頭を下げた。


 準備は急ピッチで進められた。

 まず取りかかったのは、情報の整理である。万次郎は連日、外国奉行所に呼び出され、幕府の役人たちにメリケンの実情を説明した。

 港の位置と規模、主要都市の政治的な役割、議会と大統領の関係、商取引の慣習、民の暮らしぶり——万次郎が話せば話すほど、役人たちの表情に驚きが広がっていった。書物の知識と、実際に見聞きした知識の差は、埋めようもなく大きかった。

 「万次郎殿、もう少し詳しく」

 「その仕組みを、もう一度」

 問いが次々と飛んだ。万次郎はそのひとつひとつに、できる限り丁寧に答えた。これは単なる情報提供ではない。日本がこれからメリケンと向き合うための、土台を作る作業だった。

 書類の準備も並行して進んだ。将軍名義の信任状、国書、貿易・交渉の指針——これらの文書について、万次郎は実質的な翻訳監修役を担うことになった。蘭語経由の訳文では、微妙なニュアンスが損なわれる恐れがあった。英語の本義に照らして確認し、必要があれば表現を修正する。その作業は地味だったが、外交文書においては一語の誤りが取り返しのつかない誤解を生むこともある。万次郎は細心の注意を払った。


 随行する者たちの選定も、難航した。

 総領事ひとりで異国へ赴くわけにはいかない。通詞、医者、書記、護衛の武士——最低限の人員は揃えなければならなかった。

 しかし問題はすぐに露呈した。英語を実用的に扱える人材が、圧倒的に不足していたのである。

 蘭語の通詞は何人かいる。しかしメリケンとの直接交渉においては、英語こそが要となる。その英語を実際に使える者となると、幕府の中を探しても、ほとんど見当たらない。

 結果として、万次郎の負担は大きくなった。

 随行者への英語指導を、万次郎が買って出ることになったのである。即席の教師として、毎日のように基礎的な英語表現を教え込んだ。挨拶の仕方、数の数え方、交渉の場でよく出る言い回し——完全な習得は望むべくもないが、最低限の意思疎通ができる程度には仕上げなければならない。

 西洋の礼儀作法についても、同様だった。食事の場での振る舞い、握手の仕方、名刺に相当するものの扱い——日本の常識がそのまま通用しない場面は、枚挙に暇がない。随行の武士たちが戸惑いを隠せない顔で万次郎の説明を聞く様子は、時に微笑ましくもあったが、万次郎には笑っている余裕もなかった。

 持参する物資の手配も進んだ。贈答品として、刀、漆器、絹織物——いずれも日本の精巧な工芸の粋を示すものが選ばれた。滞在のための資金として、銀と金が用意された。衣装については、公式の場では和装が基本とされたが、万次郎個人については状況に応じて洋装も認められた。


 メリケンへの出発の日を待ちながら、万次郎は夜、静かに自分の来し方を振り返ることがあった。

 あのとき、嵐の海で死を覚悟した少年は、今や幕府の使節として、将軍の名を背負ってその海を渡ろうとしている。

 何が人の運命を決めるのか——万次郎にはわからなかった。ただ、自分がこれまで身につけてきたすべてのことが、今、この瞬間のために用意されていたのかもしれないとは、感じた。

 そしてその機会を作ってくれた人の顔が、自然に浮かんだ。

 近衛様は「ただご提案を申し上げただけ」とおっしゃった。

 だがその一言が、どれほどの重みを持って幕府を動かしたか——万次郎は、十分に承知していた。

 (必ずや、お役に立って帰ってまいります)

 万次郎は静かに、そう心に誓った。


十六 糸子の一日

 当の糸子は、会談から一週間後の朝、いつも通り帳面を開いていた。

 一橋藩上屋敷の上段の間だった。春の光が差し込んでいた。庭の若葉が、風に揺れていた。石灯籠が朝の光を受けていた。

 帳面には、次の課題が並んでいた。

 後継者問題への対応。条約の正式調印のための準備。朝廷への報告書の草稿。天朝物産会所の江戸拠点の準備状況の確認。そして——さらなるメリケン国の対応。


 ハリス氏は本国に今回の交渉会談の内容を必ず送っている。ならば領事の交代も十分にありえる…

 (次の交渉が始まる)

 糸子は思った。

 (もし新しい領事が来れば、あの会談の内容を全部知っている状態で来る。こちらの手の内を知っている…そう考えて動かないとダメだ)

 (だから——次は別の手で行く必要がある)

 糸子が筆を走らせた。

 近藤が来た。

「姫様、今日のご予定を確認させていただきます」

「はい」

「午前に、松屋善兵衛殿がおいでになります。江戸拠点の候補地についての報告とのことで」

「分かりました」

「午後に、堀田様より使者が来る予定です」

「例の件でしょうか」

「はい。条約の正式調印に向けての、朝廷への打診についてかと」

「分かりました」

 近藤が退室しようとして、少し止まった。

「姫様」

「何でしょう?」

「……先日の会談のことで、城内でかなりの話題になっているそうです」

「そうですか」

「姫様は——その、意図された通りになっているのではないでしょうか」

 糸子が少し笑った。

「何のことでございましょう?」

「……何でもありません」

 近藤が退室した。

 糸子は帳面に目を戻した。

 春の江戸の朝が、静かに流れていた。

 やるべきことが、まだたくさんあった。

 しかし——その帳面の隅に、糸子は小さく書いた。

「倍返し、完了」


 そして——その文字を見て、一人で小さく笑った。

 誰にも聞こえないように…とても小さく。


 いや、葵には少し聞こえたかもしれない。

「……姫様?」

「何でもありませんよ」

「そうですか……」

 葵は聞かなかったことにした。


 近藤が廊下から来た。

「姫様、本日の予定を——」

「分かりました。始めましょう」

 糸子が帳面を持って立ち上がった。

 一つの会談が、こんなにも広い波紋を生む。幕府の役人たちが変わった。城内の空気が変わった。街の人々の意識が変わった。


 しかし——波紋は広がった。次の波を立てなければ、波紋は消える。

 次の課題が待っていた。次の戦いが待っていた。

 (時間は待ってはくれない。次のことに手をつけないと…)

 糸子は帳面に筆を走らせ続けた。


 春の江戸の朝が、静かに、しかし確実に動いていた。



 第五十六話 了

次の回でハリスvs糸子のお話しは一区切りします。


次回はハリスさんが大変なことになります。糸子のせいで…:(;゛゜'ω゜'):

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― 新着の感想 ―
今後、幕府へのお願いのほとんどは、イエス、アイマムになるんだろうなw
次回ハリス死す
なんだって~! 糸子ちゃんのせいでオッサンが大変な事に~!? こいつは次話も見逃せないぜ
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