第五十四話「ハリスVS糸子 舌戦④」
一 休憩中の両陣営
別室は、小さな部屋だった。薄暗かった。
窓が一つあった。その窓から、庭の松が見えた。春の光が松の葉を照らしていたが、室内にはその光が届ききらなかった。行灯が一つ灯っていた。机と椅子が置かれていた。
ハリスは、机の前に座っていた。
手元に書類があった。しかし読んでいなかった。目が書類の上にあったが、頭は別のことを考えていた。
ヒュースケンが横に座っていた。
二人とも、しばらく黙っていた。
「Heusken.」
(ヒュースケン)
ハリスが言った。
「Yes.」
(なんでしょう)
「How do you assess the situation?」
(状況をどう評価する?)
ヒュースケンが少し間を置いた。
「Harris-san. I will be honest with you.」
(ハリス氏。率直に申し上げます)
「Please.」
「She has been more prepared than any opponent we have faced in Japan. The Vattel argument, the gold-silver data, the Russia comparison — none of these were improvised. She came to this meeting with a complete strategy.」
(彼女はこれまで日本で向き合ったどの相手よりも準備ができています。ヴァッテルの議論、金銀のデータ、ロシアとの比較——これらはどれも即興ではありません。彼女は完全な戦略を持ってこの会談に臨んでいます)
ハリスが机の上の書類を少し脇にやった。
「What do you recommend?」
(どうすればいい?)
「We need to change tactics. The argumentative approach is not working. She is better at argument than we are — at least in this context.」
(戦術を変える必要があります。議論による攻め方は機能していません。少なくともこの文脈では、彼女は私たちよりも議論が上手いです)
「Then what?」
(では?)
「Find what she genuinely wants. Not the three conditions she stated — those are negotiating positions. What does she actually need to bring back to Kyoto?」
(彼女が本当に欲しいものを見つけることです。彼女が述べた三つの条件ではなく——それらは交渉上の立場です。彼女が実際に京都に持ち帰る必要があるものは何か?)
ハリスが、少し考えた。
「Imperial Sanction. She needs to be able to say she secured something meaningful.」
(御勅許です。彼女は何か意味のあるものを確保したと言える必要があります)
「Exactly. And for that——」
「We give her something real. Something she can genuinely report as a victory.」
(彼女に本物のものを与えます。彼女が真の勝利として報告できるものを)
ハリスが、書類の中から一枚を取り出した。
「The revision clause.」
(改正条項です)
「If we agree to include a genuine revision clause — she has something concrete. And we lose nothing substantial. Treaties are always revised eventually.」
(もし私たちが本物の改正条項を含めることに同意するなら——彼女は具体的なものを持ちます。そして私たちは実質的に何も失いません。条約は常に最終的に改正されます)
ハリスが、ヒュースケンを見た。
「You think we should accept?」
(受け入れるべきだと思うか?)
「I think — there may not be another choice. And Harris-san.」
(別の選択肢はないかもしれない。そしてハリス氏)
ヒュースケンが静かに言った。
「There is something behind the screen that I cannot fully read. She has not used everything yet. I can feel it.」
(御簾の向こうには、私が完全には読めない何かがあります。彼女はまだすべてを使っていません。そう感じます)
ハリスが少し止まった。
「What do you mean?」
(どういう意味だ?)
「I don't know what it is. But — she is holding something back.」
(何かは分かりません。しかし——彼女は何かを控えています)
一方、日本側の待機の間では………
岩瀬忠震が、記録係の書き留めた内容を確認していた。その顔に、驚きがあった。普段は表情を変えない岩瀬だった。しかし今日は、さすがに驚きが出ていた。
岩瀬が、実光のそばに来た。
「あの数字は——」
岩瀬が小声で言った。
「金の流出量の推定値。あれはどこで入手されたのですか?」
「近衛家独自の調査でございます」
実光が、穏やかに答えた。
「……独自に」
岩瀬が少し止まった。
「幕府の記録よりも、精度が高い」
「はい」
「どのように」
「その点については……近衛家の事情でございますので」
実光が、丁寧に、しかし確実に、それ以上を断った。
岩瀬が少し黙った。
「……分かりました」
岩瀬が戻った。
記録係の横に立って、記録の内容を確認し始めた。今日の会談で出た言葉の一つ一つを、自分の目で見ていた。
岩瀬の頭の中では、様々なことが動いていた。朝廷からの使者が、今日これほどのことをやってのけた。これは予想していなかった。いや——正確には、期待していたよりはるかに超えていた。
(この姫君様は——)
(この国の行く末を、本当に考えている…)
岩瀬はそう感じていた。
二 糸子の休憩——最後の一手
御簾の内側に、静けさがあった。
葵が茶を差し出した。茶碗は白磁だった。その白に、薄い緑の茶が映えた。
糸子が両手で受け取った。
一口飲んだ。
温かかった。
窓の外を見た。庭の松が見えた。松の葉が、春の光の中で静かに輝いていた。石灯籠の影が、地面に細く落ちていた。
「お疲れではございませんか、姫様」
葵が小声で聞いた。
「大丈夫でございますよ」
糸子が答えた。その声は、穏やかだった。
しかし——糸子は、今日の会談の流れを頭の中で整理した。
第一ラウンド——相互主義とヴァッテル。うまくいった。ハリスに「どちらを選んでも不利な質問」をぶつけ、論理的な退路を塞いだ。
第二ラウンド——アヘン戦争。想定通りに進んだ。アヘン禁輸条項を引き出した。
第三ラウンド——金銀比率。数字が効いた。幕府担当者も驚いていた。ハリスは数字には反論できなかった。
第四ラウンド——御門様の権威。これが最も大きかったかもしれない。「勅許なしには正統性がない」という事実は、ハリスには返しようがなかった。
第五ラウンド——イギリスカードの逆用。ハリスが使おうとした論理を、そのまま使い返した。
(ここまではうまくいった)
糸子は茶をもう一口飲んだ。
ここまでで、糸子は五つのラウンドを戦った。領事裁判権。アヘン戦争。金銀比率。御門様の権威。
ハリスは確実に追い詰められていた。「検討します」という言葉を引き出した。イギリスカードの逆用にも成功した。
しかし——糸子はまだ、一つカードを持っていた。
このカードは、他のカードと性質が違った。
相互主義の論理は事実だ。ヴァッテルの引用は正確だ。金銀比率の数字は実データだ。アヘン貿易への言及は歴史的事実だ。
しかしこのカードは——「転生前の知識」から来るものだった。
転生前、糸子は大学院で幕末経済史を専攻していた。そこで学んだことがある。一八五七年当時、イギリスはアメリカの日本進出に対して強い「焦り」と「警戒感」を抱いていた。アロー戦争で清国に手を取られている間に、アメリカが先に日本と条約を結んでしまったことへの危機感だ。
それは事実だ。
しかし——「イギリスが日本に対して、アメリカとの条約が失敗すれば直接交渉する用意がある」という具体的な話は——糸子の知っている歴史の中にはない。
つまりそれは——
(だから——迷わず使う)
糸子は自分に言い聞かせた。
茶を一口飲んだ。
(あのおっさんにたいへんな思いを逆にしてもらおう。徹底的に潰して、ぐうの音も出ないほどにして踏んずけてトドメを刺す)
(そうでなれけば逆に日本がたいへんな目に合ってしまう。それこそ史実通りに…)
葵が、糸子の表情を見た。
「……姫君様、少し、こわいお顔をされておられます」
「そうかしら」
糸子が穏やかに笑った。
「大丈夫ですよ、葵。これが最後でございます」
茶碗を葵に返した。
小夜が糸子の着物の乱れを直した。
糸子は、御簾に向かって、静かに座り直した。
三 会談再開——ハリスの戦術変更
会談が再開された。
ハリスとヒュースケンが戻ってきた。
椅子に座った。書類を整えた。
その動きが、休憩前と少し違った。角が取れていた。先ほどまでの「押し込む」ような姿勢が、少し変わっていた。
糸子は御簾の向こうで、その変化を感じ取った。
(戦術を変えてきた)
一拍置いてから、話し始めた。
「I have been thinking during the recess.」
(休憩の間、考えていました)
ハリスが言った。
「I believe I have been too focused on specific points, and may have lost sight of the larger picture.」
(私は特定の点に集中しすぎて、より大きな絵を見失っていたかもしれません)
「Let me try a different approach.」
(別のアプローチを試みさせてください)
「Let us contemplate this predicament with a more expansive vision.」
(より広い視点からお話ししましょう)
糸子は静かに聞いた。
「The situation in Asia is changing rapidly. Britain controls vast territories in India and Southeast Asia. Russia is expanding southward. France is establishing presence in Indochina. The great powers of the world are all moving toward Asia.」
(アジアの状況は急速に変わっています。イギリスはインドと東南アジアに広大な領土を支配しています。ロシアは南下しています。フランスはインドシナに拠点を作っています。世界の列強はすべてアジアに向かって動いています)
「Japan findeth herself encompassed by mighty powers. To the North lieth Russia; to the South and West, Great Britain and France do exert their presence through the Qing Empire; and across the Great Ocean of the Pacific standeth America. It is beyond the strength of our nation to contend with all these powers single-handedly.」
(日本は強国に囲まれています。北にロシア。清国での存在を通じて南と西にイギリスとフランス。太平洋の向こうにアメリカ。日本はこれらすべてに単独で対処することはできません)
「A treaty with America is not simply a commercial arrangement. It is a relationship of trust between two nations. If Japan and America have a strong relationship — that relationship itself is protection for Japan.」
(アメリカとの条約は単なる商業的な取り決めではありません。二つの国家間の信頼の関係です。もし日本とアメリカが強い関係を持つなら——その関係自体が日本にとっての保護になります)
「In this environment, Japan cannot survive alone. Japan needs a powerful ally. And America——」
(この環境では、日本は単独では生き残れません。日本には強力な同盟国が必要です。そしてアメリカは——)
「Is Japan's best option.」
(日本の最良の選択肢です)
糸子が聞いていた。
(なるほど。「アメリカは日本の盾になる」という論理か。感情に訴えようとしている)
「Mr. Harris.」
(ハリス氏)
糸子が、静かに言った。
「I appreciate the spirit of what you are saying. And I do not doubt that America genuinely wishes for good relations with Japan.」
(おっしゃっていることの精神は理解します。そしてアメリカが日本との良好な関係を真に望んでいることは疑いません)
糸子が静かに答えた。
「And I am not dismissing it. But I would like to examine it more closely.」
(そして否定していません。しかし、より詳しく検討したいと思います)
「Please.」
(ぜひお願いします)
ハリスが答える。
「You say Japan needs a powerful ally. I agree. The question is — what kind of ally?」
(日本には強力な同盟国が必要とおっしゃいます。同意します。問題は——どのような同盟国か?ということです)
「However.」
(しかし)
「A relationship of trust must be built on a foundation of equality. If the foundation is unequal — the trust that is built on it is also unequal. It is trust that favors one side.」
(信頼の関係は、平等の基盤の上に構築されなければなりません。もし基盤が不平等であれば——その上に構築される信頼も不平等です。一方に有利な信頼です)
「The protection that an unequal relationship provides — is it protection for Japan, or protection for America's interests in Japan?」
(不平等な関係が提供する保護——それは日本への保護ですか、それとも日本におけるアメリカの利益への保護ですか?)
糸子が静かに返した。
「If America truly seeks a relationship of equals — the treaty will contain equal terms. If the treaty contains unequal terms — then the intention and the result do not match.」
(もしアメリカが真に対等な関係を求めているなら——条約には対等な条件が含まれるでしょう。もし条約に不平等な条件が含まれているなら——意図と結果が一致していません)
ハリスが、少し言葉を詰まらせ止まった。
四 モンロー主義という逆刃
ハリスが続けようとした。
「America's approach to international relations is built on principles of respect for sovereignty——」
(アメリカの国際関係へのアプローチは、主権の尊重という原則に基づいています——)
「Mr. Harris.」
(ハリス氏)
糸子が、穏やかに遮った。
「Since you mention principles — may I ask about a principle that America holds dear?」
(原則についておっしゃるので——アメリカが大切にしている原則についてお聞きしてもよいですか?)
「Of course.」
(もちろん)
「The Monroe Doctrine.」
(モンロー主義です)
ハリスが、少し体を固くした。
「You know the Monroe Doctrine?」
(モンロー主義をご存知ですか?)
「The doctrine proposed by President Monroe in 1823. The principle that European powers should not interfere in the affairs of the Americas — and in return, America would not interfere in European affairs. The principle of mutual non-interference.」
(一八二三年にモンロー大統領が提唱した主義です。欧州列強がアメリカ大陸の問題に干渉すべきではない——そしてその代わりにアメリカは欧州の問題に干渉しないという原則です。相互不干渉の原則)
「That is correct.」
(その通りです)
「Mr. Harris. I have a question.」
(ハリス殿。質問があります)
「The Monroe Doctrine says: Europe should not interfere in the Americas, and America will not interfere in Europe. This is the principle of mutual non-interference between regions.」
(モンロー主義は言います。欧州はアメリカ大陸に干渉すべきではなく、アメリカは欧州に干渉しないと。これは地域間の相互不干渉の原則です)
「By this principle — why is America intervening in Asia?」
(この原則によれば——なぜアメリカはアジアに干渉しているのですか?)
ハリスが、少し身を固めた。
「Asia is not the Americas——」
(アジアはアメリカ大陸ではなく——)
「Precisely.」
(まさに)
糸子が言った。
「Asia is not the Americas. Therefore, America's doctrine of non-interference does not apply to Asia, as far as America is concerned. America can interfere in Asia freely, while prohibiting European interference in the Americas. Is that the American position?」
(アジアはアメリカ大陸ではありません。したがって、アメリカにとっては、アメリカの不干渉の主義はアジアには適用されません。アメリカはアジアに自由に干渉できる一方で、アメリカ大陸への欧州の干渉を禁止する。それがアメリカの立場ですか?)
ハリスが口を開こうとした。
「If so——」
糸子が続けた。
「Then Japan has a question for America. If Europe interfered in the Americas, America would object on the grounds of sovereignty and non-interference. Japan objects to America's interference in Japan on the same grounds. What is the difference?」
(もしそうなら——日本はアメリカに質問があります。もし欧州がアメリカ大陸に干渉したなら、アメリカは主権と不干渉の根拠から異議を唱えるでしょう。日本は同じ根拠から、日本へのアメリカの干渉に異議を唱えます。違いは何ですか?)
ハリスが、しばらく黙った。
「The Monroe Doctrine addresses the relationship between the old world and the new world. It is not——」
(モンロー主義は旧世界と新世界の関係を扱っています。それは——)
「Not applicable to Asia. I understand that is your answer.」
(アジアには適用されない。それがあなたの答えだと理解します)
糸子が静かに言った。
「Then let me rephrase my question. America holds the principle that external powers should not interfere in the internal affairs of sovereign nations — in the Americas. Japan holds the same principle: external powers should not interfere in the internal affairs of Japan. Why is Japan's application of this principle less valid than America's?」
(では質問を言い換えます。アメリカは、外部の列強が主権国家の内政に干渉すべきではないという原則を——アメリカ大陸において——保持しています。日本は同じ原則を保持しています。外部の列強が日本の内政に干渉すべきではないと。なぜ日本のこの原則の適用がアメリカのものより有効性が低いのですか?)
ハリスが——答えられなかった。
ヒュースケンが、思った。
「This round is going to be tough...」
(このラウンドも厳しい……)
岩瀬が、その沈黙の意味を理解した。
(モンロー主義を、そのまま日本の立場への比較として使った……)
五 金銀比率——文言の確定
ハリスが体勢を立て直した。
「Let us set aside the philosophical discussion and focus on practical matters.」
(哲学的な議論は置いておいて、実際的な問題に集中しましょう)
「Agreed.」
(同意します)
糸子が静かに返した。
「The gold-silver exchange rate. You have provided figures that I cannot dispute. But the mechanism for adjustment — how would that work in practice?」
(金銀交換レートについて。あなたは私が反論できない数字を提示しました。しかし調整のメカニズム——それは実際にどのように機能しますか?)
(来た。実務的な確認に入ってきた。これは良い兆候だ)
糸子は内心で確認した。ハリスが「議論」から「実務」に切り替えた。それは——受け入れる方向に動いているサインだ。
「The clause would state the following.」
(条項は以下のように述べます)
糸子が、明確に言った。
「'Gold and silver exchange between Japan and the United States shall be conducted at a rate that reflects the prevailing international market rate. In the event of significant deviation from this rate, both parties agree to consult and make necessary adjustments by mutual agreement.'」
(「日本とアメリカ合衆国間の金銀交換は、現行の国際市場レートを反映したレートで行われるものとする。このレートから著しく逸脱した場合、双方は協議し、相互の合意により必要な調整を行うことに同意する」)
ハリスが、ヒュースケンと短く英語で話した。
「The phrase 'significant deviation' is vague.」
(「著しく逸脱した」という表現が曖昧です)
「It is intentionally somewhat vague,」
(それは意図的にやや曖昧にしています)
糸子が答えた。
「Because the precise threshold would require extensive negotiation to define now — and would likely become outdated quickly as market conditions change. A flexible clause that requires mutual consultation is more durable than a rigid threshold.」
(なぜなら、正確な閾値を今定義するには広範な交渉が必要で——そして市場状況が変化するにつれて急速に時代遅れになる可能性が高いからです。相互協議を必要とする柔軟な条項は、硬直した閾値よりも耐久性があります)
「This is actually beneficial for America as well. It means that if market conditions change in a way that disadvantages America — America can also request adjustment.」
(これはアメリカにとっても実際に有益です。もし市場状況がアメリカに不利な形で変化した場合——アメリカも調整を要求できることを意味します)
ハリスが少し考えた。
「The mutual consultation clause.」
(相互協議の条項です)
「Agreed in principle.」
(原則的に同意します)
ハリスが言った。
岩瀬が、記録係に目配せした。記録係の筆が動いた。
「Then let us confirm the wording of the revision clause as well.」
(では改正条項の文言も確認しましょう)
糸子が続けた。
「'This treaty shall be subject to review by mutual agreement of both parties, upon request by either party, when circumstances have materially changed since the treaty's conclusion. Any revision shall require the consent of both parties.'」
(「本条約は、その締結以来状況が実質的に変化した場合、いずれかの当事者の要請により、双方の合意を得て見直されるものとする。いかなる改正も双方の同意を要するものとする」)
ヒュースケンが、その文言を注意深く聞いた。
(「いずれかの当事者の要請により」——これは日本側が改正を要求できることを意味する。しかし「双方の同意を要する」という条件が付いているので、アメリカが拒否することも可能だ。バランスが取れている……)
「That language is acceptable in principle.」
(その文言は原則的に受け入れられます)
ハリスが言った。
部屋に、静かな変化が生まれた。
六 日本領事館——静かな既成事実化
文言の確認作業が続いていた。
岩瀬と通詞が、具体的な表現について細かい調整を行っていた。
幕府担当者が書類を回している間に——糸子が、静かに口を開いた。
「Mr. Harris. While we are confirming the principle of reciprocity — I would like to clarify one additional point.」
(ハリス殿。相互主義の原則を確認している間に——もう一点を明確にしたいと思います)
「Yes?」
「American consuls will be stationed in Japan under this treaty. That is correct?」
(この条約のもと、アメリカの領事が日本に駐在することになります。それは正しいですか?)
「That is correct.」
(その通りです)
「Then, under the principle of reciprocity — it would be natural for Japanese representatives to also be stationed in America. To handle matters relating to Japanese citizens in America, and to facilitate commercial relations.」
(では、相互主義の原則のもとで——日本の代表者もアメリカに駐在することが自然の成り行きでしょう。アメリカにおける日本人市民に関する事項を処理し、商業関係を促進するために)
ハリスが、わずかに止まった。
「Japanese representatives in America——」
(アメリカにおける日本の代表者——)
「This is simply the reciprocal application of the consular arrangement. If America has consuls in Japan — Japan should have the equivalent presence in America. This is what reciprocity means in practice.」
(これは単に領事館の取り決めの相互的な適用です。もしアメリカが日本に領事を持つなら——日本もアメリカに同等のプレゼンスを持つべきです。これが実際の相互主義の意味するところです)
ハリスが、ヒュースケンを見た。
ヒュースケンが、ハリスに小声で英語で言った。
「Harris-san. She is applying the reciprocity principle that we already agreed to in principle. If we reject this — it contradicts our earlier position.」
(ハリスさん。彼女は私たちがすでに原則的に合意した相互主義の原則を適用しています。もしこれを拒否するなら——私たちの以前の立場と矛盾します)
ハリスが少し考えた。
「The establishment of Japanese representation in America — this would need to be discussed with Washington——」
(アメリカにおける日本の代表の設立——これはワシントンと協議する必要があります——)
「Of course,」
(もちろん)
糸子が穏やかに言った。
「I am not asking for immediate implementation. I am asking for the principle to be recognized in the treaty. 'Both parties acknowledge the right of the other party to station consular representatives in the other country's territory.' Simply this acknowledgment.」
(即時実施を求めているのではありません。原則が条約に認められることを求めています。「双方は相手国の領土に領事代表を駐在させる権利を相互に認める」と。単にこの認識を)
「That is——」
(それは——)
ハリスが——わずかに詰まり長い間、沈黙した。
考えていた。自分が相互主義を全面否定していたなら、ここで「日本に同等の権利を認める必要はない」と言えた。しかし——第一ラウンドで、相互主義を完全に否定できなかった。「検討できます」「前向きに」という言葉を使ってしまっていた。
この「長い間」が、岩瀬には分かった。ハリスが内心で計算していることも。認めれば、日本がアメリカに代表を送る権利を認めることになる。しかし——拒否すれば、今まで積み上げてきた「相互主義への合意」が崩れる。
「Given the principle of reciprocity that we have been discussing——」
(我々が議論してきた相互主義の原則を考慮すると——)
ハリスが、静かに言った。
「it would be consistent to acknowledge Japan's right to consular representation in the United States.」
(日本がアメリカ合衆国において領事代表権を持つ権利を認めることは、一貫しています)
ハリスが、こう言わざるを得なかった。
岩瀬の横にいた記録係が、その言葉を素早く書き留めた。
岩瀬が、わずかに頷いた。
(ここで決まった)
御簾の向こうで、糸子は静かに聞いていた。
(アメリカへの日本領事館設置の既成事実化が決まった)
声には出さなかった。しかし——確認した。
万次郎が、その場で、これが何を意味するかを理解した。
(万次郎殿がアメリカに行く道が、今開いた)
糸子はその先のことまで計算していた。
第五十四話 了
第五十四話「ハリスVS糸子 舌戦④」…もう三回くらい書き直しました。正直に言って、書いている途中から訳が分からなくなってきました。
とりあえずこれで勘弁してくださいm(*T▽T*)m オ、オユルシヲ・・・
ちなみに次のお話「ハリスVS糸子 舌戦⑤」がいよいよラストになります。よろしくお願いしますm(_ _)m




