第五十三話「ハリスVS糸子 舌戦③」
一 ハリスの感情——「動かざること山のごとし」
ハリスが声のトーンを変えた。
「You speak as though America has hostile intentions toward Japan. America has come to Japan in a spirit of friendship——」
(あなたはまるでアメリカが日本に対して敵対的な意図を持っているかのようにおっしゃいます。アメリカは友好の精神で日本に来ています——)
「I do not doubt your personal spirit of friendship, Mr. Harris.」
(あなた個人の友好の精神は疑いません、ハリス殿)
糸子が穏やかに返した。
「But a treaty is not about spirit. A treaty is about text. And text creates consequences that last beyond the lifetime of any individual, however well-intentioned.」
(しかし条約は精神についてではありません。条約は文章についてです。そして文章は、どれほど善意のある個人の生涯をも超えて続く結果を生み出します)
ハリスが少し身を乗り出した。
「Japan is refusing to see reality! The world has changed! Japan cannot remain isolated forever——」
(日本は現実を見ることを拒んでいます! 世界は変わりました! 日本はいつまでも孤立したままではいられません——)
「I agree entirely.」
糸子が、ハリスの言葉を受け止めた。
「Japan must engage with the world. I am not arguing for isolation. I am arguing for the terms of engagement.」
(日本は世界と関与しなければなりません。私は孤立を主張しているのではありません。関与の条件を主張しているのです)
「The question is not whether Japan opens — the question is on what terms Japan opens.」
(日本が開国するかどうかではありません——日本がどのような条件で開国するかです)
ハリスが少し黙った。
「You are not wrong——」
(あなたは間違っていない——)
「Then we agree on the fundamental point.」
(では根本的な点で合意していますね)
糸子が静かに言った。
「Japan will engage with the world. The question that remains is whether that engagement will be on terms that allow Japan to remain a healthy, sovereign nation — or on terms that gradually undermine Japan's sovereignty.」
(日本は世界と関与します。残る問いは、その関与が日本が健全な主権国家として存続できる条件で行われるか——それとも日本の主権を徐々に損なう条件で行われるかです)
壁際で、土方が見ていた。外見は穏やかな公家の少女だった。声は静かだった。しかし——言葉の一つ一つが刃だった。ハリスが感情的になっても、御簾の向こうは一切揺れなかった。
土方の頭の中に、言葉が浮かんだ。
「動かざること山のごとし」
動じない。揺らがない。感情に流されない。
(あのかわいらしい外見で——なんという。エグすぎる……)
土方は、冷や汗が止まらなかった。
二 第四ラウンド——御門様という壁
ハリスが、別の方向から攻めた。
「These are all important points. But I must be direct: the treaty must be concluded. If Japan continues to delay——」
(これらはすべて重要な点です。しかし率直に申し上げなければなりません。条約は締結されなければなりません。日本がこのまま引き延ばし続けるなら——)
「Mr. Harris.」
糸子が遮った。
「There is something I must explain to you, which I believe has not been clearly conveyed in previous discussions.」
(これまでの議論で明確に伝えられていなかったことを、あなたにご説明しなければなりません)
「Please.」
「This country's treaties do not have legitimacy without the Imperial Sanction — the approval of His Majesty the Emperor. This is not a political position. This is a structural fact of how this country functions.」
(この国の条約は、御門様——天皇陛下の御勅許なしには正統性を持ちません。これは政治的な立場ではありません。この国がどのように機能するかという構造的な事実です)
ハリスが岩瀬を見た。岩瀬が——目を伏せた。
その沈黙が、糸子の言葉の正確さを証明していた。
「The bakufu administers government. But the highest authority in this country is His Majesty. A treaty that His Majesty does not sanction is a treaty that the people of this country will not accept. The bakufu knows this. That is why I am here.」
(幕府は政務を執ります。しかしこの国の最高権威は御門様です。御門様が承認されない条約は、この国の人々が受け入れない条約です。幕府はそれを知っています。だからこそ、私がここにいます)
「His Majesty's conditions——」
(陛下の条件というのは——)
「Reciprocity. The right to revise the treaty in the future. A fair gold-silver exchange rate.」
(相互主義。将来条約を改正する権利。公正な金銀交換レート)
糸子が明確に言った。
「Without these elements, Imperial Sanction is unlikely. And without Imperial Sanction——」
糸子が少し間を置いた。
「Let me be clear, Mr. Harris. Without Imperial Sanction, opposition within Japan will grow. That opposition will translate into danger for foreign nationals on Japanese soil. American citizens in Japan could face violence. That is not a threat from me. That is an assessment of political reality.」
(明確にさせてください、ハリス殿。御勅許なしには、日本国内の反対勢力が拡大します。その反対は、日本の地にいる外国人に対する危険に変わります。日本のアメリカ市民が暴力に直面する可能性があります。これは私からの脅しではありません。政治的現実の評価です)
「Is that a threat?」
(これは脅しですか?)
「It is a fact.」
(事実です)
「Mr. Harris——you have spent years in Japan. You have seen the sentiment of the people. You know what I am describing is real.」
(ハリス殿——あなたは日本に何年も滞在されています。民衆の感情を見てきました。私が述べていることが現実であることをご存知のはずです)
ハリスが、少し顔を下げた。それが——認めた、という意味だった。
「Mr. Harris, I am not your enemy.」
糸子が、声のトーンを少し変えた。
「I am asking you to help create a treaty that both sides can genuinely support. That kind of treaty is more durable. It benefits both countries. An unequal treaty leaves resentment. That resentment persists for a hundred years. An equal treaty leaves trust. That trust works for a hundred years.」
(私はあなたの敵ではありません。私は双方が真に支持できる条約を作ることを助けてほしいと頼んでいます。不平等な条約は恨みを残します。その恨みは百年後にも残ります。対等な条約は信頼を残します。その信頼は百年後も働きます)
「Which is better for America in the long run?」
(長期的にアメリカにとってどちらがよりよいですか?)
ハリスが——「百年先」という言葉に、一瞬、我を忘れたように聞いていた。
「One hundred years from now?」
(百年先?)
ハリスが、思わず聞き返した。
三 ヒュースケンの動揺
ヒュースケンは、この場の全てを処理しながら、自分の内部で激しく動いていた。
通訳として、英語とオランダ語と日本語を同時に処理する。しかし——今日は、それ以外のことが起きていた。
御簾の向こうの人物が、自分の仕事を完全に不要にしていた。
この人物は英語でハリスと直接話す。日本語で岩瀬と直接話す。オランダ語の通詞が訳した内容も、すべて理解している。
(三ヶ国語……三ヶ国語が完全に動いている)
ヒュースケンは、内心で呟いた。
言語の切り替えの速さ。論理の組み立て方。相手の言葉を先取りする技術。「間」の使い方——全部が、自分が知っている最高レベルの交渉者と同等か、それ以上だった。
ヒュースケンが、小声でハリスに言った。
「Harris-san. This is not an ordinary opponent.」
(ハリス氏、これは普通の相手ではありません)
ハリスが少し間を置いてから言った。
「I know,」
(分かっている)
「She speaks three languages. She knows international law. She has economic data. And she——」
(三ヶ国語を話す。国際法を知っている。経済情報を持っている。そして彼女は——)
ヒュースケンが続けようとして、止まった。
「Harris-san. The arguments she is making — they are not wrong, objectively speaking. The reciprocity argument. The Vattel argument. The economic argument about gold.」
(ハリス氏。彼女が行っている議論は——客観的に言えば、間違っていません。相互主義の議論。ヴァッテルの議論。金についての経済的議論)
「I know that too.」
(それも分かっている)
「That is what makes this difficult.」
(だから難しいんだ)
二人の間に、沈黙があった。
四 第五ラウンド——イギリスカードの逆用
ハリスが、最後の手を出した。声のトーンが変わった。重くなった。
「The Qing Empire lies but a short distance from your shores, and you are well aware of the calamities that have befallen them. The naval might of Great Britain is formidable indeed. Should Japan persist in refusing a reasonable treaty with the United States—」
(近くに清があります。そこで何が起きたかはご存知です。イギリスの海軍力は強力です。もし日本がアメリカと合理的な条約を締結することを拒否するなら——)
糸子が、ハリスの言葉を先取りして言った。
「Britain might come. That is what you intended to say, isn't it, Mr. Harris?」
(イギリスが来るかもしれない。それをおっしゃりたかったのですね、ハリス殿?)
ハリスが止まった。
「……Yes. That is correct.」
(……はい、その通りです)
「Mr. Harris. Is that a threat?」
(ハリス殿。それは脅しですか?)
「It is a recognition of reality.」
(現実の認識です)
「Then let me also share a recognition of reality.」
(では私も現実の認識をお伝えします)
糸子が言った。その声は、これまでと変わらず穏やかだった。しかし——一言一言が、確実に打ち込まれていた。
「If Britain comes to Japan — Britain will demand a treaty more favorable to Britain than what America is currently seeking. You know this, Mr. Harris.」
(もしイギリスが日本に来るなら——イギリスはアメリカが現在求めているものよりも、イギリスに有利な条約を要求するでしょう。あなたはこれをご存知のはずです、ハリス殿)
ハリスが、少し表情を変えた。
「If the negotiations between Japan and America fail to conclude — that opportunity goes to Britain.」
(日本とアメリカの交渉が締結に至らなければ——その機会はイギリスに行きます)
「Mr. Harris. You are here for America's benefit. If America concludes a treaty with Japan now — on terms that are equitable — the honor of being Japan's first international treaty partner belongs to America. That is a significant diplomatic achievement.」
(ハリス殿。あなたはアメリカの利益のためにここにいます。もしアメリカが今、日本と——公正な条件で——条約を締結するなら、日本の最初の国際条約相手国という名誉はアメリカのものです。それは重大な外交的成果です)
「But if negotiations fail——」
(しかし交渉が失敗すれば——)
「Britain may conclude a treaty first. And Britain will not include the favorable terms you are currently resisting. Britain will take everything.」
(イギリスが先に条約を締結するかもしれません。そしてイギリスの条約には、あなたが現在抵抗している有利な条件は含まれません。イギリスはすべてを取るでしょう)
「Furthermore — Japan's negotiating position is strongest at this moment. In the future, Japan's leverage will diminish. The terms that Japan can obtain today are the best terms Japan will ever be able to obtain.」
(さらに——日本の交渉力は現時点で最も強いです。将来、日本の交渉力は低下します。今日日本が獲得できる条件は、日本が得られる最善の条件です)
「So Mr. Harris — when you say 'If Japan refuses, Britain might come' — I hear you saying: 'America must conclude this treaty now.' And I agree. America should conclude this treaty now. On terms that both sides can live with.」
(ですからハリス殿——「日本が拒否すればイギリスが来るかもしれない」とおっしゃる時——私にはこう聞こえます。「アメリカは今この条約を締結しなければならない」と。同意します。アメリカは今この条約を締結すべきです。双方が受け入れられる条件で)
ハリスが、目を細めた。
これは——逆説的な論理だった。
「今すぐ結ぼう」というハリスの「時間的圧力の論理」を、そのまま日本側の利益のために使っていた。「今が最善の機会だ」——それを、ハリスではなく日本側が言っていた。
「Damn it.」
(クソッ)
ハリスが、また声に出さずに呟いた。
そして——少しの間、黙った。長い沈黙だった。
五 核心の要求
「What,」
しばらくの沈黙の後、ハリスが言った。
「What are you ultimately seeking?」
(あなたは最終的に、何を求めているのですか?)
御簾の向こうで、糸子は一拍置いた。大切なことを言う前の、準備だった。
「Three things.」
(三つです)
糸子が言った。明確な声だった。
「First: A clause establishing the principle of reciprocity — that rights granted to Americans in Japan shall in principle also be granted to Japanese in America.」
(一つ目。相互主義の原則を確立する条項——日本においてアメリカ人に付与された権利は、原則としてアメリカにおいて日本人にも付与されるものとする)
「Second: A clause stating that the treaty shall be subject to revision — by mutual agreement — when circumstances have changed significantly.」
(二つ目。条約は——状況が大幅に変化した場合に、相互の合意により——改正の対象となるとする条項)
「Third: A clause stating that gold-silver exchange shall be conducted at a rate that reflects fair market value, with a mechanism for future adjustment.」
(三つ目。金銀交換は公正な市場価値を反映したレートで行われ、将来の調整のための仕組みを持つとする条項)
ハリスが、少し考えた。
「All three——」
(全部は——)
「All three are not necessary.」
(すべては必要ありません)
糸子が続けた。
「The second and third are essential. The revision clause and the gold-silver exchange adjustment clause. If these two are included — the Konoe family will support the Imperial Sanction process.」
(二つ目と三つ目が必須です。改正条項と金銀交換調整条項。この二つが含まれるなら——近衛家は御勅許の過程を支持します)
ハリスが、少し考えた。
「The revision clause——including a clause that says 'upon mutual agreement, the treaty may be reviewed' — this does not weaken America's position. It simply acknowledges that circumstances change. America itself has revised treaties before. This is standard diplomatic practice.」
(「相互の合意に基づき、条約は見直されることがある」という条項を含めること——これはアメリカの立場を弱めません。単に状況が変わることを認めるだけです。アメリカ自身もこれまで条約を改正してきました。これは標準的な外交慣行です)
ハリスが、ヒュースケンを見た。ヒュースケンが、小さく頷いた。
「I will consider it.」
(検討します)
ハリスが言った。
その声に、何か変わったものがあった。
これまでの交渉で、ハリスが「検討します」と言う時は、たいてい引き延ばしの言葉だった。
しかし——今の「検討します」は、違った。
岩瀬が、その声の変化を感じ取った。
六 休憩——「言葉で人を潰す」
「Let us take a short recess.」
(少し休憩を取りましょう)
岩瀬が提案した。ハリスが頷いた。ハリスとヒュースケンが、別室に退いた。
会場が静かになった。
壁際にいた土方が、近藤のもとに来た。
「どう見た」
近藤が小声で聞いた。
「……俺は刀で人を斬る」
土方が、少し間を置いてから答えた。
「しかし姫様は言葉で人を潰す」
近藤が土方を見た。
「潰す?」
「今のハリスの顔を見たか。交渉相手として完全に崩れていた」
土方が静かに言った。
「立場も、論理も、時間的な優位も——全部持っていかれた。しかも相手が十二歳の公家の姫だ」
「あれほどのことをされたら、ハリスは本国への報告が書けない。何も得られなかった、とは書けない。しかし得られたものを正直に書けば、交渉能力を問われる。十二歳の子供に主導権を握られたと書けば、外交官として終わりだ」
「では本国に何を報告する」
「……それが問題だ。ハリスには選択肢がない」
近藤がしばらく黙った後、言った。
「姫様が味方ならば、これ以上ない援軍だな」
「ああ」
土方が御簾の方を見た。
「しかし敵に回したら——」
「どうする」
「絶対に敵に回してはいけない」
土方が静かに断言した。
「もし敵に回るなら、中立を守ってカメのように頭を決して出してはいけない。関わらないことが唯一の正解だ」
「この姫には決して逆らってはいけない、ということか」
「……ああ」
二人の間に、沈黙があった。
廊下の外から、春の光が入ってきていた。
「しかし——まだ終わっていない」
土方が言った。
「ハリスは諦める男ではない。あの男がもう一手を持って戻ってくる」
近藤が頷いた。
「姫様もそれは分かっておられるだろう」
御簾の向こうでは——糸子が静かに座っていた。
葵が茶を差し出した。糸子がそれを受け取り、一口飲んだ。
その手が——まったく震えていなかった。
実光が、御簾のそばに座り直していた。
村田が、記録用の書類を確認していた。
そして糸子は、次のラウンドの準備を、頭の中でしていた。
ハリスはもう一手を持って戻ってくる。
その一手が何か——糸子には、おおよそ見えていた。
「まだ、最後の一手が残っている」
糸子は、心の中で静かに思った。
「しかしそれこそが——わたくしの番です」
第五十三話 了




