第五十一話「ハリスVS糸子 舌戦①」
一 会場の朝
安政七年の春は、冬の終わりが惜しむように続いていた。
江戸城の西側、大手門から程近い場所に、その建物はあった。
正式な条約交渉の場——ではない。幕府が今回の会談のために用意した、「御門様のご意向を確認するための事前協議の場」という名目の、特別の会見室だった。
建物自体は、いかにも幕府の用意した格式あるものだった。切妻造りの屋根が、朝の光を受けて黒く光っていた。白漆喰の壁が清潔で、角が鋭かった。庭には松と石組みが置かれていた。
会見室の内部は、畳敷きの広間だった。
しかし——この部屋には、これまでの幕府の会見室にはない、奇妙な同居があった。
日本側の席には、黒塗りの文机が並んでいた。漆器の茶道具が用意されていた。床の間には「和親」という二文字の掛け軸が下がっていた。
しかしアメリカ側の席には、椅子が置かれていた。背もたれのある、西洋式の椅子だった。机も、洋式の高さになっていた。この一点が、この部屋を「二つの世界の接点」にしていた。
畳の上に椅子が置かれた、この部屋の光景は、今この時代の日本そのものだった。
窓の外から、春の光が入ってきた。梅の時期は過ぎて、桜の季節が近づいていた。江戸の空は、高く澄んでいた。
室内は、会談の前から緊張していた。
幕府の役人が、席の位置を確認していた。通詞たちが書類を確認していた。記録係が硯に墨を磨っていた。
今日は、普通の会談ではない。
朝廷からの使者が、初めてこの交渉の場に参加する。御門様の意向を英語で直接伝えられる人物が、御簾の向こうに座る。
そのことが、日本側全員に、これまでとは違う緊張をもたらしていた。
幕府の外国奉行・岩瀬忠震が、会見室の入り口に立った。今日の場を取り仕切る責任者だった。
穏やかな顔をした人物だった。しかしその目の奥に、何かが燃えていた。
二 到着
女乗物が、会場の前に止まった。
旭狼衛が、その周囲を固めていた。近藤勇が先頭に立ち、土方歳三が横に立った。会場の前の道に、静かな整列が出来上がっていた。
女乗物の戸が開いた。
糸子が降り立った。
公家の正装だった。何枚もの小袖を重ねた装束が、春の光の中に映えた。垂髪が、艶やかな黒で背に流れていた。その顔は、白く、静かだった。
会場の前で待っていた幕府の役人が、深く礼をした。
糸子はその礼を受けながら、会場を見た。
建物の屋根。庭の松。入り口の格子。
ここが——その場所だ。
「皆万事よろしゅうございますね」
糸子が、周囲に向かって静かに言った。
近藤が頷いた。土方が頷いた。葵と小夜が頷いた。実光が深く頭を下げた。村田蔵六が短く「はい」と言った。
万次郎が、少し前に出た。
「姫様、今日はよろしくお願いします」
「中浜殿、今日はお世話になります」
糸子が言った。
「ハリスの驚く顔が楽しみです」
万次郎がにやりと笑った。
三 幕府交渉団の紹介
会場の入り口前の、小さな待機室で。
万次郎が、幕府側の交渉担当者を糸子に紹介した。御簾を立てた状態で、向き合う形だった。
「外国奉行・岩瀬忠震殿でございます」
岩瀬が深く頭を下げた。四十代の半ば、穏やかな面立ちをした人物だった。しかし——その目が鋭かった。この人は交渉の場で鍛えられた人間だ、と糸子は感じた。幕末の条約交渉を実際に担ってきた、最重要の実務担当者だった。
「今日は大変なお役を任じていただきまして、誠に恐れ入ります。どうかよしなに」
岩瀬が礼をした。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「外国奉行・井上清直殿でございます」
井上が礼をした。几帳面な印象だった。書類を大切にする人だな、と糸子は思った。
「外交実務担当・水野忠徳殿でございます」
水野が礼をした。
次に、通詞陣の紹介だった。
「主任通詞・森山栄之助殿でございます。オランダ語の第一人者にございます」
森山が、静かに礼をした。寡黙な人物だった。しかし、その存在感が他の人とは違った。長年の通詞経験が、体の動きにまで刻まれている、そういう人物だった。
「堀達之助殿、名村五八郎殿、西吉十郎殿が補助通詞でございます」
三名が順に礼をした。
「そして自分は——」
万次郎が少し真面目な顔をした。
「英語の補助通詞として参加しますが、メインの通詞ではございません。幕府の通詞陣はオランダ語がメインですので、私は英語側の確認と補助が役割です。したがいまして、私が発言できる場面は限られております。ご了承ください」
「分かりました。かたじけのうございます」
糸子が答えた。
万次郎の正直な告白が、かえって信頼を生んだ。この人は今日の場で自分に何ができて何ができないかを、ちゃんと伝えてくれた。
四 実光と村田の紹介
外国奉行・岩瀬忠震より幕府側への紹介が始まった。
「朝廷側より、広橋権中納言の嫡男・水無瀬実光様でございます。有職故実の方面から御使者様を補佐する役として参加でございます」
実光が幕府側に向かって、丁寧に礼をした。
「このたびはお招きいただきまして、誠に光栄でございます。有職故実の観点から、朝廷の礼法に関する事項について補佐させていただきます」
幕府側の担当者たちが、揃って礼を返した。公家の格式を持つ人物に対する、幕府の役人らしい丁寧な対応だった。
実光は、京都の御所から江戸まで旅してきた。その旅の間も、今日の場のために準備を重ねてきた。糸子がどういう展開を求めているか——全部は分からなかった。しかしその準備への姿勢は、実光にも伝わっていた。自分はその姿に、できる限り応えなければならない。そういう思いが、実光の礼の深さに出ていた。
「村田蔵六でございます。朝廷の御使者からの依頼を受け、語学および国際交渉の専門家として御同席いたします。かつて緒方洪庵の適塾で学び、その後蘭学と洋学の研鑽を積んでまいりました。御使者様のお役に立てれば幸いでございます」
村田が短く、しかし的確に経歴を述べた。
幕府側の担当者たちが、村田を見た。この人物が何者かは、今日初めて会う者も多かった。しかし一言一言の確かさが、村田の実力を示していた。
五 御門様の宣旨
次に、御門様直筆の宣旨の確認という儀式があった。
実光が、丁寧に包まれた書状を取り出した。
「御門様より近衛糸子様に下された、天朝外語御用掛の御任命の宣旨でございます」
岩瀬が立ち上がった。その動きが、これまでとは違った。
岩瀬は深く礼をしてから、実光から宣旨を受け取った。両手で、慎重に。
岩瀬がゆっくりと広げた。
部屋が静まった。
岩瀬が読んだ。その顔が、少し変わった。御門様直筆の文字を確認した時の、深い敬意が表情に出た。
岩瀬が井上に宣旨を見せた。井上が確認した。二人が頷き合った。
岩瀬が宣旨を実光に返した。
「確認いたしました。誠に……恐れ多いことでございます」
岩瀬が深く礼をした。その礼は、形式ではなかった。本物の敬意が込められていた。
「よしなにお願い申し上げます」
糸子が御簾の向こうから言った。
幕府の役人たちが、その声を聞いた。若い——明らかに若い、女性の声だった。
岩瀬が少し顔を上げた。事前に聞いてはいた。しかし実際に声を聞くのは初めてだった。
「……はい。こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
六 三条件の確認
「それでは——参加にあたりましての三つの条件を、改めて確認させていただきます」
岩瀬が言った。その声は穏やかだったが、今日の場への覚悟が滲んでいた。
岩瀬は今日の場を、単純な「朝廷の意向確認」とは見ていなかった。これは日本の外交史上、初めての試みだった。朝廷と幕府が協調して、一人の英語話者を交渉の場に送り込む。その結果がどう出るか、誰にも分からなかった。しかし——やらなければならなかった。
「まず一つ目。御簾越しのご参加であること。礼法上の問題でございます」
「承知しております」
「二つ目。幕府の交渉を妨げないこと。あくまで朝廷の御意向をお伝えする補助的なお役目として」
「承知しております」
「三つ目。発言は御門様のご意向に関わる事項に限定すること」
「承知しております」
糸子が答えた。その内心では——「三つ目の条件は実際には機能しないだろう」という計算があった。御門様の意向に関わる事項とは、条約全体の前提に関わる事項だ。その範囲は、交渉の現場では非常に広くなる。しかしそれを今言う必要はなかった。
「ハリス総領事とヒュースケン通訳についての紹介も申し上げます」
岩瀬が続けた。
「タウンゼント・ハリス殿は、アメリカ合衆国の初代駐日総領事でございます。もともとはニューヨークの貿易商出身で、正規の外交官とは違う経歴をお持ちです。一八五六年に下田に着任され、以来日本との条約交渉を担っておられます。本国からのご支援は限られておりますが、非常に粘り強く交渉を続けておられます」
「ヘンリー・ヒュースケン殿はオランダ系アメリカ人の通訳でございます。英語とオランダ語と日本語を扱われ、今日の交渉では翻訳だけでなく、実質的な交渉の調整役を担っておられます」
糸子は静かに聞いていた。
「御礼申し上げます」
七 ハリスの待機
会見室の扉の向こうで、ハリスは待っていた。
タウンゼント・ハリスは、五十台代の半ばの年齢だった。背が高く、がっしりとした体格だった。白髪交じりの髪を横に分け、あごひげを蓄えていた。その目は青く、鋭かった。
ニューヨークの貿易商として生きてきた男だった。長年の商いの経験が、その判断を実務的にしていた。感情より利益、美辞麗句より数字、曖昧さより契約——そういう世界で生きてきた。
その男が今、遠く離れた日本という国で、正規の外交官でもないのに、一国の通商条約を一人で交渉している。
本国からの支援は薄かった。ワシントンの政治は、日本どころではなかった。南北の問題が、アメリカ国内を引き裂きつつあった。ハリスは事実上、この地に一人で取り残されていた。
ヘンリー・ヒュースケンがその横に座っていた。二十台代後半の若さで、背が高く、身軽な印象だった。アメリカとオランダの血を引く容貌で、日本語も堪能だった。
二人は、会場に通される前の待機室にいた。
ハリスが懐中時計を取り出した。時刻を確認した。また机に置いた。
「How much longer?」
(あとどのくらいかかるんだ?)
ヒュースケンが静かに答えた。
「Harris-san, this is normal. Their preparation involves many protocols.」
(ハリス氏、これは普通のことです。彼らの準備には多くの礼法が含まれています)
「They're doing this deliberately.」
(意図的にやっているんだ)
「No, Harris-san. This is how they prepare. A very important person will be joining today.」
(いいえ、ハリス氏。これが彼らの準備の仕方です。今日は非常に重要な人物が参加します)
ハリスが少し動きを止めた。
「The court representative?」
(朝廷の代表者か?)
「Yes. And based on what I've heard... this is not an ordinary representative.」
(はい。そして私が聞いた話では……これは普通の代表者ではありません)
ハリスが眉を上げた。
「What do you mean?」
(どういう意味だ?)
ヒュースケンが少し言いよどんだ。
「I'll explain when we enter.」
(入室したら説明します)
ハリスが懐中時計をまた取り出した。
下田で過ごした長い年月が、ハリスの中にあった。日本に来てから何年も、幕府の曖昧な対応と戦い続けた。同じ要求を繰り返し、同じ言い訳を聞き続けた。本国からの支援は薄く、孤独な交渉を続けてきた。
しかし——今日は違うかもしれない。
朝廷の代表者が来る。それは幕府と朝廷が協調して動いているということだ。これほどのことが、これまでになかった。
ハリスの胸に、期待と緊張が混ざった。
「This time, we will make progress.」
(今回は、進展するはずだ)
八 入場——御簾の登場
岩瀬が、会見室の入り口に立った。
「それでは、会場に入ります」
幕府の担当者たちが先に入った。岩瀬、井上、水野の順だった。続いて通詞たちが入った。記録係も入った。
そして——村田蔵六が入った。
その次に、実光が入った。
そして——御簾が、運ばれてきた。
二人の係の者が、折り畳まれた御簾を持って入室した。そしてそれを、会見室の一角に設置した。
縦一間半ほどの、簾だった。竹で細かく編まれており、内側は見えなかった。しかし光を通した。その向こうに、人の気配が生まれた。
ハリスとヒュースケンが、その光景を見ていた。
ハリスが眉を寄せた。
「What is that?」
(あれは何だ?)
ヒュースケンが小声で答えた。
「A screen. The court representative will be seated behind it.」
(簾です。朝廷の代表者は、あの後ろに座られます)
「Why?」
(なぜ?)
「Etiquette. I'll explain in a moment.」
(礼法の問題です。後で説明します)
御簾が設置された後、糸子が入ってきた。
——厳密には、糸子の「気配」が御簾の向こうに現れた。
衣ずれの音がした。その音が、絹の音だと分かる。誰かが座った。
葵と小夜が、御簾の両脇に控えた。
ハリスが、御簾をじっと見た。
中に誰かがいる。しかし——誰なのかが、分からない。その「分からない」感覚が、ハリスにとって初めての体験だった。これまでの交渉では、相手は全員、目の前に座っていた。
ハリスの中で、何かが動いた。
九 身分の説明——衝撃
岩瀬が立ち上がった。
「本日の会談に、朝廷より御使者様が参加されております。御説明申し上げます」
森山通詞がオランダ語に翻訳した。
「Ik leg dit uit voor onze gasten. Vandaag hebben we een speciale gast van het Keizerlijk Hof.」
(客人に説明します。本日は朝廷より特別なお客様がいらっしゃいます)
ヒュースケンがそれを英語に直した。
岩瀬が続けた。
「御使者様は、千年以上にわたり御門様を補佐してきた五摂家筆頭の家柄の出でございます。御門様と非常に濃密な姻戚・養子の関係を築いてきた、最も格式の高い公家の御一門でいらっしゃいます」
翻訳が続いた。
「そのお姿を直接拝見することは不敬にあたりますため、御簾を通じた形でのご参加となっております。どうか我が国の慣例として、ご理解いただきますようお願い申し上げます」
万次郎が英語に翻訳した。
「She is from one of the Five Regent Families — the highest rank in the Imperial Court. Her family has maintained the closest relationship with His Imperial Majesty for over a thousand years. Due to her extraordinary status, she will participate from behind this screen, in accordance with our court tradition.」
(彼女は五摂家の一つ——天皇宮廷における最高の身分の家柄の出です。その家族は千年以上にわたって天皇陛下と最も近い関係を保ってきました。その並外れた身分のゆえ、我が国の宮廷の慣例に従い、御簾の向こうから参加されます)
ハリスが——止まった。
椅子の上で、体が止まった。
「A member of the Imperial family's inner circle — is here?」
(御門陛下の内廷に属する方が——こちらに?)
その声は、低かった。
ヒュースケンが、少し前のめりになった。ハリスに小声で言った。
「Harris-san, this means the court and the bakufu are acting in concert. This has never happened before.」
(ハリスさん、これは朝廷と幕府が協調して動いているということです。これまでになかったことです)
ハリスがヒュースケンを見た。それからまた御簾を見た。
その背後で、岩瀬が少し表情を変えた。ハリスの反応を見て、今日の場が自分の想定通りに始まっていると確認した表情だった。
御簾の向こうでは——糸子が静かに座っていた。
この一連のやり取りを、糸子は全部聞いていた。英語も、オランダ語も、日本語も、全部分かっていた。
ハリスの「止まり方」を見た。
(うん。この男は確かに、想定外のことに弱い)
糸子は内心で確認した。
十 糸子の観察——転生者の目
御簾の向こうで、糸子はハリスを見ていた。
竹の格子を通して、輪郭が見えた。背の高い、がっしりとした男だった。白髪交じりの髪。青い目。あごひげ。
糸子は、今持っている情報を全て重ね合わせた。
転生前の知識——歴史の記録の中のハリス像。
万次郎から聞いた情報——実際に接したことのある人間の評価。
そして——今目の前にいる男の様子。
(まず、経歴から分かること)
転生前の記憶が動き始めた。学生の頃に読んだ幕末の歴史書、ハリスに関する研究論文、万次郎から聞いた肉声——それらが一つの像を結んでいった。
ハリスは商人出身だ。正規の外交官ではない。これは重要だ。商人は感情より利益で動く。感情論では動かない。論理と数字に強い。
しかし——商人は同時に、取引の失敗を嫌う。自分が不利な条件で取引を結ばされることへの恐怖がある。
(性格から分かること)
粘り強い。何ヶ月でも同じ要求を繰り返せる。これは強みだが——同時に、一度崩れると立て直しに時間がかかる弱点でもある。
短気で神経質。遅延に苛立つ。という記録がある。今も懐中時計を取り出していた。時間を気にしている。
(使命感から分かること)
「文明の使者」という自己認識がある。自分の行動が正しいと信じている。だから——その「正しさ」を崩す議論には、感情的になる可能性がある。
(孤独から分かること)
本国からの支援が薄い。自分一人で決断しなければならない。これは焦りを生む。「ここで決めなければ」という強迫的な焦りが、判断を歪める可能性がある。
(そして——一番重要なこと)
ハリスは今まで、自分より賢い相手と交渉したことがない。
幕府の担当者たちは優秀だ。しかし彼らの強みは「時間を守ること」だ。「後日回答する」「検討が必要」——これがハリスの前に立ちはだかってきた壁だった。
しかし——正面から論理で攻撃してきた相手は、いなかった。
糸子の内心で、何かが定まった。
(このおっさんは——)
御簾の向こうで、糸子は静かに思った。
(恐ろしいほど孤独だ)
その孤独さが、会場の空気から伝わってきた。長い年月、一人で戦ってきた男の孤独が。
下田に赴任してから何年も、ハリスは一人で交渉を続けてきた。本国からの支援は薄く、病気にもなった。幕府には引き延ばされ続け、孤独の中で毎日を過ごしてきた。その全てが、この男の体に刻まれていた。
日記に書くほどの不満。しかし諦めない意志。それがハリスという人間だった。
孤独な男が、ここまで粘ってきた。その粘り強さは——糸子の目には、ある種の誇らしさを持って映った。
糸子は、その孤独に対して——思わず同情した。
人として。
しかし——次の瞬間、糸子は自分に言い聞かせた。
(ここで心を鬼にしなければ、その後の日本がたいへんな目にあう)
日本歴史の変遷。アヘン戦争で何が起きたか。不平等条約が清に何をもたらしたか。糸子は知っていた。金が流出する。産業が壊滅する。人々が廃人になる。そして——再び戦争になる。
それを、この国で繰り返させるわけにはいかない。
(ならば)
糸子の目が、御簾の向こうで静かに光った。
(このおっさんには、たいへんな思いを逆にしてもらいましょう)
(徹底的に潰して、ぐうの音も出ないほどにして、踏んずけてトドメを刺す)
三年半考え学んだことが、頭の中を流れた。相互主義の論理。日露和親条約の先例。ヴァッテルの国際法。アヘン戦争の使用。金銀比率の数字。御門様の権威。将来の改正条項。
全部、揃っている。
そして——ハリスが自分より使えると思っているカードは、全部こちらでも使える。
御簾の向こうに、かわいらしい公家の姫が座っていた。
しかしその頭の中には——かつての百貨店バイヤーが、完全に起動していた。
商談の場で培ったもの全てが、今ここで動き始めていた。
十一 会談の開始——糸子、一言も発さない
会談が始まった。
岩瀬が最初の言葉を述べた。
「本日は御同席いただき、誠にありがとうございます。まず——」
森山通詞がオランダ語に訳した。
「Wij danken u voor uw aanwezigheid vandaag. Allereerst——」
(本日ご同席いただきありがとうございます。まず——)
ヒュースケンがそれを英語に訳した。
「We thank you for your presence today. First of all——」
多段翻訳だった。
岩瀬が日本語で言う。森山がオランダ語に訳す。ヒュースケンが英語に直す。ハリスが英語で答える。ヒュースケンがオランダ語に訳す。森山が日本語に直す。岩瀬が理解する。
この連鎖が、一往復するたびに数分かかった。
糸子は御簾の向こうで、一言も発さずに聞いていた。
意図的な沈黙だった。今は観察する時間だ。発言する時間ではない。
聞きながら——計算していた。
英語でハリスが言った言葉。オランダ語に翻訳される時に生じた微妙なズレ。それが日本語になった時のさらなる変容。そして幕府担当者が答えた日本語が、オランダ語を経て英語になった時に失われたニュアンス。
(やはり、誤訳が出ている)
糸子は内心で、静かに確認した。
ハリスが言った「impartially adjudicated(公正に裁かれる)」という言葉が、オランダ語では「billijk beoordeeld(公平に評価される)」と微妙に違う形で訳されていた。「裁く」と「評価する」は、法的には全く別の概念だ。そしてそれが日本語になった時には「適切に処理される」という、さらに曖昧な表現になっていた。
この「誤差」が積み重なって、双方が「合意した」と思っていても、実際には全く違うことを意図していた——という状況が生まれていた。
(こんな交渉を続けていたら、なかなか進まないわけだ)
糸子はひとりで納得した。
転生前、百貨店のバイヤーとして、外国との商談を数多く経験した。通訳を介した交渉のもどかしさを、糸子は身に染みて知っていた。ニュアンスが変わる。感情が失われる。ときに真逆の意味になる。
言いたいことの半分しか届かない。伝わっている内容の質が、自分の意図と違う。その積み重なりが、交渉者を消耗させる。ハリスはその消耗を今日も経験していた。
しかしそれ以上に——ハリスの困惑が、糸子には伝わってきた。
翻訳が終わるのを待つ間、ハリスが微かに表情を変えた。苛立ちと、諦めが混ざった表情だった。
この人は今日も、この長い翻訳の連鎖の中で、言いたいことの半分しか伝えられないと思っている。その焦りが、顔に出ていた。
(……少しだけ、申し訳ない気持ちになる)
糸子は思った。
しかし——それは一瞬だった。
ハリスが「領事裁判権」の話を切り出した。
「日本の法制度は、アメリカ人を公正に裁くには未整備です」
それが翻訳されて日本語になった。
岩瀬が少し考えて答えた。「その点につきましては……検討の上で、後日——」
ハリスの顔が変わった。
「This is the same answer as last time. And the time before that.」
(これは前回と同じ答えです。その前の回とも同じです)
ハリスが手元の書類を、少し強く机に置いた。乾いた音がした。
岩瀬が、その音を聞いた。
ハリスとヒュースケンが、短く英語で話した。
「Heusken, how many times have we heard this?」
(ヒュースケン、これを何度聞いただろう)
「Harris-san, patience——」
(ハリス氏、辛抱を——)
糸子は、その英語の会話を全部聞いていた。
二人の会話は短かった。しかしその短さの中に、二人の関係が凝縮されていた。ハリスが苛立ちをぶつけ、ヒュースケンがそれを受け止めて抑える。この繰り返しが、おそらく何年も続いてきた。
ヒュースケンという人物を、糸子は興味深く観察していた。
二十台代後半の若さで、英語とオランダ語と日本語を操り、ハリスの補佐をしながら日本の通詞とも密に連絡を取る。単なる通訳ではない。調整者だ。交渉を成立させるための「見えない司令塔」だ。
この人が今日の場でどう動くか——糸子には分からなかった。しかし警戒は必要だった。
(十分に見た。十分に観察した)
糸子は内心で確認した。
(自分の語学力が、この場で通用するかどうかも——分かった。問題はない)
(では——)
十二 御簾の向こうの決意
御簾の向こうで、糸子が動いた。
動いた、と言っても——姿勢を少し直しただけだった。
その変化を、万次郎が感じ取った。
御簾の向こうから伝わってくる空気が、変わった。静かだった空気が——ある意味で、さらに静かになった。しかし同時に、密度が増した。
万次郎は、以前このような感覚を覚えたことがあった。ハリスが交渉に向けて本格的に集中し始める直前の、あの空気と似ていた。
しかしこれは——もっと静かだった。
実光が、御簾の方向を見た。気配の変化を感じた。
村田蔵六が、目を細めた。数年間、この姫君の師だった人物だった。この変化の意味を、村田は知っていた。
御簾の向こうで、糸子は自分に言い聞かせた。
「——ならば参りましょうか」
声には出さなかった。しかし体の中で、何かが整った。
ハリスが、また書類を見ていた。
ヒュースケンが岩瀬に何かを確認しようとしていた。
その瞬間。
御簾の向こうから——英語で、声がした。
「Mr. Harris.」
短い呼びかけだった。
しかし——その声が、会場の空気を変えた。
これまで一言も発しなかった御簾の向こうから、初めて言葉が来た。しかも——英語で。完全な英語で。翻訳を介さずに、直接。
ハリスが顔を上げた。
ヒュースケンが動きを止めた。
森山通詞が、紙から顔を上げた。
岩瀬が、御簾を見た。
土方が、壁際から御簾を見た。近藤が、廊下から感じ取った。
全員の視線が、御簾に集まった。
「Mr. Harris.」
もう一度、声がした。
同じ言葉。しかし、今度はもっとはっきりと。
竹の格子を通して伝わってくる声は、若かった。しかし——揺らがなかった。
ハリスが口を開いた。
「……yes?」
(……はい?)
その返し方に、困惑があった。
「There is something I would like to confirm, if you don't mind.」
(もし宜しければ、一つ確認させていただきたいことがございます)
完璧な英語だった。
ハリスが——止まった。
完全に止まった。
ヒュースケンが、ハリスを見た。ハリスが、ヒュースケンを見た。
二人の間に、無言の問いが交わされた。
「She speaks English.」
(英語を話される)
ヒュースケンが小声で言った。
「Fluently.」
(流暢に)
ハリスは、御簾をじっと見た。
御簾の向こうに——十二歳の公家の姫が、完璧な英語を話しながら、静かに座っていた。
その事実が、ハリスの中で、これまでの全ての想定を崩し始めていた。
ハリスはこれまで、幕府の担当者たちと向き合ってきた。彼らは優秀だった。しかし——英語で直接話せる者は、誰もいなかった。全ては翻訳を介していた。
しかし今——御簾の向こうに、英語で話せる人間がいる。
それだけではない。五摂家筆頭の家柄の出という、この国で最高の格式を持つ人物が、ここに座っている。
これは——単純な通訳や補助ではない。
ハリスが、岩瀬を見た。岩瀬が静かに頷いた。その頷きに、「そういうことです」という意味があった。
会場は静まった。
岩瀬が、心の中で何かを感じていた。今日の場は——自分たちの想像とは、違う方向に動くかもしれない。それが吉と出るか凶と出るか、まだ分からなかった。しかし——何かが、動こうとしていた。
村田蔵六が、御簾の向こうを見た。
「行く時が来たのでございますよ、姫様」
数年前に自分が言った言葉が、頭の中によみがえった。
土方が、壁際から御簾を見た。
あのかわいらしい外見の姫様が、今から何をするのか。
土方には分からなかった。しかし——分からないことが、既に恐ろしかった。
「There is something I would like to confirm」
(確認したいことがございます)
その声が、静かな会場に、もう一度届いた。
ハリスが、御簾を見た。
そこにいるのが何者か——今日の朝まで知らなかった。「御所の関係者が同席する」とだけ聞いていた。まさか少女が、完璧な英語で話しかけてくるとは思っていなかった。
「Heusken.」
(ヒュースケン)
ハリスが小声で言った。
「Harris-san.」
(ハリス氏)
「What is happening?」
(何が起きている?)
ヒュースケンが少し間を置いてから答えた。
「I believe, Harris-san, that the negotiation has just changed.」
(ハリスさん、交渉が今、変わったと思います)
その言葉の意味を、ハリスがゆっくりと理解していた。
御簾の向こうから、また声が来た。
穏やかだった。静かだった。しかし——揺らがなかった。
「Mr. Harris. There is something I would like to confirm, if you don't mind.」
(ハリス殿。もし宜しければ、一つ確認させていただきたいことがございます)
会場の全員が、動きを止めていた。
岩瀬が——初めて、今日の場が自分の想定を超えていると感じた。
村田蔵六が、御簾の方向を見た。三年半前に「行く時が来た」と言った。今がその時だ。
土方が、壁際から全員の顔を見た。
ハリス。ヒュースケン。岩瀬。森山。万次郎。実光。村田。
そして——御簾。
竹の格子を通して、光が漏れていた。その光の向こうに、一人の少女が座っていた。
かわいらしい公家の姫の外見で。
百貨店バイヤーの頭で。
数年の準備を全部詰め込んで。
今から——言葉で戦おうとしていた。
九歳から始めた全てが、この瞬間に向かっていた。
屋根を直すことから始めた。商売を始めた。御門様の信頼を得た。英語を学んだ。村田に教わった。万次郎にアメリカを教わった。旭狼衛が守ってくれた。他のみなが支えてくれた。堀田が場を作ってくれた。
そして今——御簾の向こうに座っている。
言葉という 大槌を持って………
第五十一話 了
糸子いよいよ始動(≧∇≦)キャー♪




