第五十話「出陣」
一 春待つ江戸
安政七年。
冬は去りきってはいなかった。しかし——その背中が、確かに見えていた。
朝の空気に残る冷たさは、もはや骨の芯まで刺すようなものではなかった。薄く、透明で、どこか甘みを含んだ冷たさだった。路地の日向では、霜が溶けた土が少しだけ柔らかくなっていた。梅の花が、市中の各所でひそかに咲き始めていた。白い花が枝の先に宿り、その周りだけ空気が違う気がした。
江戸は、春の声を聞こうとしていた。
しかし——あの事件の余韻は、まだ街に残っていた。
二 広橋実光、江戸へ
その日の午前、一橋藩上屋敷の門の前に、小さな一行が到着した。
護衛二名と侍女一人を連れた、若い公家の男性だった。
広橋権中納言の嫡男——水無瀬実光だった。
実光は二十代の半ばだった。細面の、品の良い顔をしていた。旅装束を着ていたが、その着こなしは崩れていなかった。京都の御所の空気を、そのまま体に纏っているような人物だった。
一橋藩上屋敷の門が開いた。
実光が中に入った。
奥御殿に通されるまでの廊下を歩きながら、実光は江戸の空気を感じていた。京都とは違う。建物の作りが違う。廊下の幅が違う。何より——空気の重さが違う。
一橋藩上屋敷の庭には、冬の名残の松が、どっしりと立っていた。奥御殿の付書院の障子が、朝の光を受けて白く輝いていた。縁側の外の小庭に、石灯籠が静かに立っていた。
奥御殿の上段の間に通された。
御簾が下がっていた。その向こうに、近衛糸子がいた。
「水無瀬実光、参上仕りました」
実光が深く頭を下げた。
「よくぞ遠路、お越しくださいました。実光様」
御簾の向こうから、静かな声がした。
実光は、その声を聞いた。京にいた頃となんら変わらない声に安堵した。
「実は——」
実光が、少し改まった顔をした。
「江戸に着く道中で、おそろしい話を耳に致しました」
「彦根藩邸の件でございましょうか」
「はい。まさか江戸でそのような大事が起きているとは……。姫様はご無事でございましたか?」
「ご心配をおかけいたしました」
糸子が、少し苦笑いしながら答えた。
「大丈夫でございます。旭狼衛が守ってくれましたので」
「それは…本当に良うございました。姫様に万一のことがあれば……と大層心配致しておりました」
「大丈夫でございますから、どうぞご安心くださいまし」
糸子が穏やかに言った。
「実光様がこうして江戸まで来てくださったこと——ご助力を、誠に、かたじけなく存じます」
「滅相もございません。これは我々の役目にございます」
「有職故実の方面は、わたくしには不得手な部分もございます。実光様にお力添えいただければ、これほど心強いことはございません」
「江戸にいる限りは、有職故実の側からお助けいたします。どうぞ遠慮なく何なりとおっしゃってください」
その言葉に、糸子は小さく息をついた。
また一人、味方が増えた。
京都を出てから、多くの人が支えてくれた。旭狼衛が守ってくれた。堀田との連絡網があった。勝海舟と中浜万次郎が力を貸してくれた。松屋が動いてくれた。そして今、広橋家から実光が来てくれた。
「恐悦至極に存じます」
糸子が言った。
「ご一緒できることを、心より嬉しく思います。そしてよしなにお頼み申し上げます」
実光が深く頭を下げた。
糸子の口利きにより、実光は一橋藩上屋敷の別邸に滞在することとなった。
三 松屋善兵衛の来訪
昼過ぎ、呉服商松屋の主人、松屋善兵衛が来訪した。
善兵衛は、四十代の商人だった。がっしりとした体格で、目が鋭かった。しかし物腰は柔らかだった。商売人としての長年の経験が、体の動きに出ていた。
御簾を挟んで、糸子と向き合った。
「近衛様、このたびの一件——まことに驚きました。あのような大事が起きていたとは……。ご無事で何よりでございます」
「ご心配いただき、恐れ入りまする。こちらは何の影響も受けておりませんので、ご安心くださいまし」
「それを聞いて安堵いたしました」
善兵衛がほっとした顔をした。
「江戸の街の様子はいかがでしたか?」
糸子が聞いた。
「そうですなぁ——」
善兵衛が少し考えた。
「最初の二、三日は木戸が閉まって、商いが滞りました。しかし今は大分落ち着いてきております。ただ——市中では、いろいろな話が飛び交っておりまして…」
「どのような話でございましょうや?」
「彦根藩の件を擁護する声、赤穂浪士の再来と言う声、幕府は大丈夫かと不安がる声——それぞれがあります。表向きは静かですが、裏では人々がざわついております」
「そうですか。貴重な情報、よろしゅうおす」
「こちらこそ、天朝物産会所経由でいつも儲けさせていただいております。感謝しきれないほどでございます」
「それはお互い様でございます。松屋があってこそ、わたくしたちの商いも成り立っておりまする」
「勿体なきお言葉にございます」
善兵衛が深く頭を下げた。
「また先の土方殿、沖田殿の件では、活動資金の取次など、いろいろとお世話になりました」
「滅相もございません。お役に立てれば幸いです」
「坂本殿の件でも、以前よりお世話になっておりますね」
「龍馬殿は——今は西の方にいらっしゃるとのことで。帰ってきたらまた来てくれるでしょう」
善兵衛が笑った。
「それで——本日は改めてお願いがございます」
糸子が少し居住まいを正した。
「何でございましょう、近衛様」
「天朝物産会所の、江戸での拠点確保をお助けいただきたいのです」
善兵衛が、少し前のめりになった。
「江戸での拠点……でございますか」
「はい。近衛家が江戸で独立した拠点を持つ、という意味になります」
糸子が静かに言った。
善兵衛は、その言葉の重みを理解した。
天朝物産会所が江戸に拠点を持つということは——朝廷が、江戸に経済的な足がかりを作るということだ。京都だけでなく、江戸でも独自に動ける体制を作るということだ。
「……全面的にご協力させていただきます」
善兵衛が答えた。
「近衛様がご滞在になっても問題ない施設を探させて、ご用意させていただきます。江戸の商いの中心に近く、かつ人目を引きすぎない場所を」
「よしなにお計らいあそばせ」
「心得ております」
善兵衛が深く頭を下げた。
糸子は、その頭の頂を見ながら、感謝の気持ちが胸の中にあった。
利害関係であっても——互いに助け合える関係というのは、それ自体が力だ。善兵衛は松屋の利益のために動いている。しかしそれが糸子の助けになっている。そういう関係を築いてきた三年半が、今、江戸でも動いていた。
四 中浜と村田の来訪
夕方、中浜万次郎と村田蔵六が連れ立って糸子のもとを訪ねてきた。
上段の間に通された。御簾を挟んで、三人が向き合った。近藤が廊下に控えていた。
窓の外の小庭に、夕暮れの光が差していた。石灯籠の影が、長く伸びていた。梅の白い花が、光の中に静かにあった。
「万次郎殿、村田殿——今日はよくぞいらしてくださいました」
「明日のことについて、最後の確認をしておきたくて」
中浜が言った。
「はい。まず——今のハリスの状態を教えてくださいまし」
「ハリスは焦っています。本国からの圧力が強まっています。しかし同時に——御簾の向こうに朝廷の関係者が同席するという話を聞いて、警戒しています」
「警戒している?」
「はい。御所の人間が出てくることで、交渉が複雑になることを恐れています」
糸子は、その言葉を聞いた。
「それは良い兆候です。警戒している相手は、慎重になる。慎重な相手は、こちらの言葉をきちんと聞く」
「おっしゃる通りです」
「それから——明日の座組を確認させてください」
「はい。私は幕府側からの手伝いとして同席します。通訳の補助という形ですが、実際にはハリスの言葉の細部を姫様にお伝えする役目をします」
中浜が答えた。
「村田殿は?」
「私は、朝廷の使者である姫様からの依頼を受けた専門家として同席します。幕府は姫様からの打診により了承済みです。国際交渉の面から、補佐いたします」
村田蔵六が答えた。その声は、変わらず落ち着いていた。
糸子は、その声を聞いた。
村田蔵六——この人が英語を最初に教えてくれた。三年半前、九歳の子供だったにも関わらずに向き合って、模擬交渉を続けてくれた。「これ以上教えることが私にはなくなりました」ではなく「これ以上は実際の交渉でしか学べない」と言って授業を終えた人だ。
「村田殿」
「はい」
「一言、言っていただけますか。明日に向けて」
村田が少し間を置いた。
「姫様は——本当に準備できることは全てやって参りました」
静かな声だった。
「姫様がいかに努力され、頑張ってきたか、私は知っています。だから私は姫様を信じています。今このとき、私は何の不安も心配もしていないと言い切ります」
部屋が静かになった。
糸子は、御簾の向こうで、その言葉を受け取った。
「私も——」
中浜が続けた。
「会談では、ハリスを驚かせてやりましょう。私はあのハリスが驚いた顔が今から見られると思うと、楽しみで仕方がありません」
中浜がにやりとした。
糸子は少し笑った。
その笑いの後で、胸の中に何かが広がった。温かいものだった。言葉にならない、温かさだった。
九歳から今まで、多くの人が力を貸してくれた。父・忠房が、静かに見守ってくれた。お梅が、近衛家を守りながら待っていてくれた。近藤たちが、命をかけて守ってくれた。村田が、三年半教え続けてくれた。万次郎が、アメリカの知識を惜しみなく教えてくれた。松屋が、商いを共に動かしてくれた。堀田が、場を作ってくれた。実光が、来てくれた。
一人では、ここまで来られなかった。
「恐悦至極に存じ奉ります」
糸子が言った。
「お二人が共にいてくださること——そして自分の味方でいてくれること——深う御礼申し上げ奉ります」
「明日、やりましょう」
中浜が言った。
「はい。やります」
御簾越しで二人には糸子の顔は見ることはできないが、糸子は笑顔でそう答えるのであった。
五 前夜・帳面
夜が更けた。
一橋藩上屋敷の奥御殿に、静けさが降りていた。
上段の間の行灯が、細く燃えていた。その光が、部屋の中を暖かく照らしていた。金箔格天井が、行灯の光を受けてほのかに輝いていた。床の間の山水の掛け軸が、影の中に静かにあった。
縁側の外の小庭は、もう暗かった。石灯籠の輪郭だけが、夜の中にぼんやりと見えた。梅の枝に白い花が咲いているのは分かったが、夜の中では白さが溶けていた。
糸子は帳面を開いた。
膝の前に広げて、一つ一つを確認していった。
まず——相互主義の論理。
条約は、一方的に利益を与えるものではない。アメリカが日本に何かを求めるなら、日本もアメリカに同じ権利を持つ。その原則を、英語でどう表現するか。ハリスがどう反論してくるか。その反論に、どう返すか。
次——日露和親条約の先例。
五年前に日本とロシアの間で結ばれた条約がある。その条約には、相互的な通商の権利が明記されている。先例として使える。
次——ヴァッテルの国際法。
エメリッヒ・ド・ヴァッテルの「諸国民の法」——これはハリスも知っているはずだ。この国際法の原則を持ち出せば、相互主義の議論に理論的な根拠が生まれる。
次——アヘン戦争の使用。
清が列強に一方的な条約を押し付けられた結果、何が起きたか。日本がそうならないために、相互主義が必要だという議論に使う。
次——金銀比率の数字。
日本とアメリカの金銀の交換比率が異なることで、日本が不利益を被っている。具体的な数字を出して、不公正を示す。
次——御門様の権威。
朝廷が条約に懸念を持っている。御門様の権威を背景に、改正の必要性を訴える。
次——将来の改正条項。
条約の英語原文と日本語訳の間に、微妙な差異がある。特に将来の改正条項の解釈について、英語原文の正確な意味を確認し、記録として残す。
全部、揃っている。
糸子は帳面を閉じた。
「準備はできた」
静かに言った。
行灯の光が、その顔を照らしていた。
「万次郎殿が言った通りだ」
「想定外のことが起きた時は、最も大切にしていることに戻る」
「相互主義。対等な関係。この国の百年先」
糸子は、窓の外の暗い庭を見た。
「それだけ覚えていれば、言葉は出てくる」
ふと——思った。
堀田殿がこの会談の参加を条件付きで認めてくださったことへの恩があった。しかし——井伊が流した堀田への悪評を晴らす切っかけを作ったのは、自分だった。
「堀田殿への恩は——今回のことでちゃんと返したと………思う」
糸子が小さく言った。
「…これで借りは、なしね」
六 近藤との夜
しばらくして、廊下から声がした。
「姫様」
近藤の声だった。
「なんでしょう?」
「夜番で参りました。今夜は某が外にいます」
「ありがとうございます」
障子越しに、声が続いた。
「明日、頑張ってください」
「はい」
「俺たちは——姫様が言葉で戦っている間、外を守っています」
糸子は、その言葉を聞いた。
「かたじけのうございます」
「これが守護の形です。内と外で、それぞれの戦いをする」
「はい。近衛家と旭狼衛の、最初の大きな戦いです」
糸子が言った。
「勝ちましょう」
「勝ちます」
障子の向こうで、近藤が少し動いた気配がした。
糸子は目を閉じた。
行灯の光が、まぶたの裏を暖かく照らした。
糸子は幕府の出した三つの条件を、もう一度頭の中で確認した。
一つ目。御簾越しの参加であること。正式な交渉の場に、公家の姫君が直接外国人と対面することは、礼法上あり得ない。御簾の後ろに座り、声だけが出るという形であれば、礼法的に問題がない。
二つ目。幕府の交渉を妨げないこと。糸子は幕府の交渉担当者に代わって交渉するのではなく、「御門様のご意向を伝えるお役目」として参加する。幕府の交渉が主体であり、糸子は補助的な立場という名目だ。
三つ目。発言は御門様のご意向に関わる事項に限定すること。関税率や開港地の細則については幕府が交渉する。御門様のご意向——相互主義、金銀比率の見直し、将来の改正条項の解釈——についてのみ、糸子が口を出す。
糸子は、三つ目の条件を考えた。
「(これは、実際には制限として機能しない)」
なぜなら、相互主義の論理を持ち出した瞬間に、それは条約全体の前提に関わる議論になるからだ。「御門様のご意向に関わる事項」の範囲は、交渉の現場では非常に広くなる。
「(自分の想像以上に、口を出せる範囲が広い)」
それを分かった上で、幕府は、いえ堀田殿が条件を整えてくれた。
いずれにしても…ふと——思った。
「堀田殿にいただいたこのご恩……今回のことで、ようやくお返しができた気がする……」
糸子が小さく言った。
「うん、きっとそうだ。貸し借りなし、だね」
一人どこか納得しようとしている…糸子がいたのであった。
七 ハリスの夜
その同じ夜、江戸の別の場所に、タウンゼント・ハリスがいた。
下田から移ってきた駐日総領事の宿舎だった。西洋式の部屋だった。机と椅子があった。窓が大きく、外の江戸の夜が見えた。行灯ではなく西洋式の蝋燭が灯されていた。その光が、部屋を明るく照らしていた。机の上には書類が広がっていた。
窓の外に、江戸の夜が広がっていた。遠くに灯りが点々と見えた。この広大な都市で、今日も人々が生きていた。
ハリスは机の前に座っていた。書類を読んでいた。
しかし——目は書類の上にあったが、頭は別のことを考えていた。
その隣で、通訳のヘンリー・ヒュースケンが書類を整理していた。
"Harris-san."
ヒュースケンが言った。
「ハリス氏」
"Tomorrow's meeting — are you ready?"
「明日の会談——準備はできていますか?」
ハリスが書類から顔を上げた。
"Ready? Of course I'm ready. I've been preparing for this for months."
「準備? もちろんできている。何ヶ月も準備してきた」
ハリスが答えた。その目に、闘志があった。
"But I must say——the news that someone from the court will attend makes me cautious."
「ただ——朝廷からの者が同席するという話、少し慎重にならざるを得ない」
ヒュースケンが続けた。
"The official notice from the bakufu said: 'A court specialist fluent in both Japanese and English will attend.'"
「幕府からの正式な通知には、『日本語と英語の双方に通じた朝廷の御用掛が同席する』とありました」
ハリスが立ち上がった。窓の方に歩いた。江戸の夜を見た。
"Fluent in English. A court specialist. Those two things together——"
「英語が流暢。朝廷の専門家。この二つが組み合わさると——」
"It means the negotiation will become more complex."
「交渉がより複雑になるということだ」
"However——"
「しかし——」
"If the court's position can be confirmed directly in English, that actually eliminates ambiguity."
「朝廷の立場を英語で直接確認できるなら、曖昧さがなくなる」
"The previous negotiations have been unclear because we couldn't directly confirm what the court was thinking."
「これまでの交渉が不明瞭だったのは、朝廷が何を考えているかを直接確認できなかったからだ」
"If that changes tomorrow——"
「それが明日変わるなら——」
"It could actually accelerate the negotiations."
「むしろ交渉が加速する可能性がある」
ヒュースケンが頷いた。
"The pressure from Washington is intense."
「ワシントンからの圧力は強い」
"This treaty must be concluded successfully. And soon."
「この条約を成功裏に締結しなければならない。しかも早急に…だ」
"Tomorrow — I will not miss this opportunity."
「明日——この機会を逃さない」
ハリスが窓から部屋に戻った。椅子に座った。
ヒュースケンが少し言いよどんで、続けた。
"But Harris-san——"
「しかしハリス氏——」
"What kind of person do you think will be behind the screen?"
「御簾の向こうにいるのは、どのような人物だと思いますか?」
ハリスが少し考えた。
"I don't really understand."
「よくわからん」
"No matter who comes, the United States of America and my beliefs will not change."
「どのような人物が来ようとも、我がアメリカ合衆国と私の考えは変わらない」
"But being fluent in English... that's incredibly fortunate for us Americans."
「しかし英語が流暢とは…我がアメリカにとってはありがたい限りだ」
ヒュースケンが何かを言いかけた。
しかし——やめた。
"Well——we shall see tomorrow."
「まあ——明日分かるだろう」
ハリスが答えた。
ヒュースケンは、自分が知っていることを言わなかった。噂では、御簾の向こうに座るのは、非常に若い——朝廷の人物であるという話を聞いていた。しかしそれは確認されていない情報であった。
ハリスは、この時点で、御簾の向こうにいるのが十二歳の公家の姫とは、夢にも思っていなかった。
八 朝の支度
翌朝、葵と小夜が糸子の部屋に入ってきた。
まだ夜明け前だった。空がうっすらと白み始めたばかりの時刻だった。
行灯が消えていた。葵が新しい蝋燭を灯した。その光が、部屋を暖かく包んだ。
「姫君様、お時間でございます」
葵の声で、糸子は目を開いた。
漆塗りのたらいに、湯が張られていた。湯気が細く立っていた。
「ぬか袋でございます」
小夜が差し出した。白い布に米糠を詰めたものだった。糸子はそれで顔を洗った。柔らかな感触が、眠りから覚ます。
「今日は特別の日でございますね」
葵が言った。
「特別に、と言っても、いつも通りにやれば良いのでしょうが……」
「はい。いつも通りに参ります」
糸子が答えた。
次に、髪の支度が始まった。
葵がすきぐしを手に取った。糸子の長い黒髪を、丁寧に梳いていった。すきぐしが通るたびに、髪がさらさらと動いた。細い音がした。
「椿油でございます」
小夜が小さな器を持ってきた。葵が少量を手に取り、糸子の髪に馴染ませた。光沢が出た。艶やかな黒が、行灯の光を受けて深く輝いた。
垂髪を整えながら、葵が言った。
「姫様は本当にお髪が綺麗でございますね。手入れをするたびに思います」
「そう言ってくれると、嬉しいですよ」
糸子が少し笑った。
次に、着付けが始まった。
何枚もの小袖を重ねた。季節の変わり目の装いだった。まだ冬の余韻がある今日は、少し厚めの打掛を上に羽織ることになった。
公家の装束は、重かった。
しかし——今日の糸子は、その重さを感じなかった。
「化粧は?」
葵が聞いた。
「いつも通りに」
糸子が答えた。
糸子は白粉を使わなかった。鉛の毒性を知っているからだ。代わりに、少し顔を整える程度にとどめた。眉も、剃り落とさずに整える程度だった。これも転生前の記憶が、どうしても受け入れさせてくれなかった。
「姫君様は白粉を使わなくても、本当にお顔が白くて綺麗でございますね」
小夜が言った。
「そうかしら」
「本当にそう思います、姫君様」
葵も頷いた。
支度が全て整った。
「今日は——姫君様にとって、とても大切な日でございますね」
葵が言った。静かな声だった。
「はい」
「どうか、ご武運をお祈り申し上げます。姫君様」
葵が深くお辞儀をした。
「小夜も、心よりお祈り申し上げます」
小夜が続けた。
「ありがとう」
糸子が言った。
「怖くはないのですか、姫君様は?」
小夜が聞いた。
ふと、見上げるような目で聞いた。
「この交渉会談までに——いろいろな人に助けてもらいながら準備して、ここまでやってきました」
糸子が静かに答えた。
「本当に準備できることは、全部やってきました」
「そして——手伝ってくれた人たちが、わたくしを信じてくれています」
「だから——わたくしも、自分自身を信じています」
「何の不安も、心配もないのですか?」
「ないとは言いません。でも——」
糸子が少し間を置いた。
「今のわたくしの心は穏やかに、ただ静かに凪いでおります」
小夜が、その言葉を聞いた。
小夜の目が、少し潤んだ。
「……姫君様」
「何ですか?」
「……一緒に御供致します」
「おおきに、小夜…」
糸子が笑った。
それは出発の朝に相応しい、澄んだ笑いだった。
九 実光と村田の挨拶
身支度が整った頃、広橋実光と村田蔵六が、糸子のもとにあいさつに来た。
「このたびはご一緒させていただく光栄、誠に恐れ入ります」
実光が深くお辞儀をした。
「いえ、こちらこそよしなにお頼み申し上げまする」
「我々は姫様より先に会場へ移動いたします。ご到着を心よりお待ちしております」
実光が言った。
「万事、お取り計らいのほど、伏してお願い申し上げ候」
糸子が頭を下げた。
「必ずや万全を尽くして参ります」
村田が続けた。
「姫様の三年半の準備を、私は知っています。今日がその日でございます」
糸子は、その言葉を胸に受けた。
実光と村田が頭を下げ、退室していった。
十 出発
幕府より用意された女乗物が、一橋藩上屋敷の表に用意されていた。
豪華な駕籠だった。漆塗りの黒に、金の蒔絵が施されていた。屋根が平らで、側面に格子窓がついていた。金属の金具が、朝の光を受けて光っていた。それが公家の姫君にふさわしい、女乗物だった。
表の庭に、旭狼衛が整列していた。
近藤勇が先頭に立っていた。土方歳三がその横に立っていた。そして以下に旭狼衛の隊員が続いて立っていた。
沖田総司
斉藤一
永倉新八
原田左之助
伊東甲子太郎
井上源三郎
藤堂平助
秋山恒一
榊原直正
三浦清次郎
早川新之助
長谷川辰吉
木村伊助
——それぞれが、顔を引き締めていた。
侍女の葵と小夜も立っていた。
しかしその中に、暖かさがあった。
糸子が縁側から出てきた時、旭狼衛の面々が一斉にそちらを向いた。
誰も言葉を発しなかった。しかし——それぞれの顔に、同じものが宿っていた。
これだけの人が、自分の今日のために、ここに立っている。
糸子は、その顔々を見た。
この人たちが守ってくれた。南海路の船の上でも。品川宿の本陣でも。札の辻の刺客の包囲の中でも。
「姫様」
近藤が前に出た。
「姫様の御身はこの旭狼衛が全力を持ってお守り致します。姫様は何の心配もせず、会談のみに集中してください」
糸子は、近藤を見た。
近藤勇——この男が、いつも言葉少なく、しかし確実に、糸子の横にいてくれた。怖いことを怖いと言える人だと、糸子は知っていた。それでも動く人だと、知っていた。
「近藤殿——お心尽くし、痛み入りまする」
「旭狼衛の皆様——よしなにお頼み申し上げまする」
糸子が軽く会釈した。
旭狼衛の面々が、それぞれに頷いた。
沖田が、小さく手を振った。いつも通りの沖田だった。
土方は、無表情だった。しかしその目の中に、帰還後のあの問いが残っていた。「あの連中は、本当に間違っていたのでしょうか」——その問いをまだ抱えながら、今日もここに立っている。
葵と小夜が、女乗物の横に立った。二人とも、顔が引き締まっていた。しかし目は温かかった。
糸子は女乗物に近づいた。
乗り込む前に——一度だけ、振り返った。
一橋藩上屋敷の奥御殿が見えた。この数ヶ月、過ごした場所だった。梅の白い花が、春を待つ冬の空気の中に咲いていた。
糸子は前を向いた。
女乗物に乗り込んだ。
近藤の声が、朝の空気の中に響いた。
「これより出発致す。おのおの方、道中抜かりなく!」
女乗物が、上がった。
一行が動き始めた。
供の者たちの足音が、揃った。
旭狼衛の気配が、女乗物の周りを固めた。
糸子は、駕籠の中で目を閉じた。
行列の音が、耳に入ってきた。足音。駕籠の揺れ。旭狼衛の気配。梅の香りが、かすかに風に乗って届いた。
この数年間の準備が、今日に向かっていた。
九歳から始めた全てが、この先の交渉会談に繋がっていた。
目を閉じたまま、糸子は静かに、自分の中心を確かめた。
「相互主義」
「対等な関係」
「この国の百年先」
この三つが、ある。
言葉は出てくる。
女乗物は、会場に向かっていた。
春の前触れを帯びた冬の朝の風が、行列の周りを流れていた。
第五十話 了
物語としては…井伊の彦根藩江戸藩邸討ち入りは、単なる前哨戦に過ぎなかったりします。
糸子の…直接の戦いはここからが本番になります((o( ̄∀ ̄)o))ワクワク




