第四十九話「天誅の後」
一 堀田の初動
江戸城、本丸御殿。
堀田正睦が執務に使う部屋は、本丸御殿の南側に位置する一室だった。
書院造りの落ち着いた部屋だった。床の間に松の掛け軸が下がっていた。窓の外には苔の庭があった。冬の苔は緑を保っていた。石組みの間に、霜がまだ残っていた。行灯の光が、夜の部屋を穏やかに照らしていた。
その夜、堀田は執務をしていた。
書状を読んでいた。返書を書いていた。問題が山積していた。
急使が来た。
「老中様! 御急使にございます!」
入ってきた家臣が、書状を差し出した。
堀田が受け取った。怪訝な顔をした。
差出人を見た。
近衛糸子——。
この姫君がかつて、堀田の使者に向かって「こちらはこちらで独自に調べさせていただきまする」と言った。その言葉が、堀田の脳裏に浮かんだ。
書状を急いで開いた。
内容を読んだ。
「……百人……だと」
堀田の手が止まった。
静かな座敷に、紙を開いた時の音だけが残った。
「……政を揺るがす刃だ」
堀田が低く言った。
次の瞬間、堀田の声が変わった。
「若年寄へ急使! 彦根藩邸へ兵を集めよ!」
一気に早口になった。
「町奉行に伝えよ、市中を閉じよ、木戸を落とせ!」
「火付盗賊改——武装して向かわせよ!」
「大目付——水戸藩および関係諸藩の監視を始めよ!」
家臣たちが、一斉に動いた。廊下を足音が走った。庭の向こうで、声が上がった。城の内部が、にわかに動き始めた。
家臣が全員出て行った後、部屋に堀田一人が残った。
外から、夜の江戸の気配がした。
報告が来た。
「申し上げます! 彦根藩邸——一部炎上中の模様でございます!」
「井伊殿様——討たれた、との由!」
堀田が沈黙した。
目を閉じた。
しばらく、動かなかった。
しかしすぐに目を開いた。その目は、感情を押し込んだ後の、冷たく澄んだ目だった。
「……そうか」
「遺体を確保せよ。騒ぎを広げるな」
一拍置いた。
「そして——証を集めよ。一つ残らずだ」
部屋に、堀田の呼吸だけが聞こえた。
「(これは好機か、それとも破滅の始まりか)」
心の中で問うた。
「(誰がこの政を支える)」
答えは出なかった。しかし——堀田は動き続けた。
「この一件、ただの乱心では終わらせぬ」
二 現場到着
幕府の戦力が彦根藩邸に到着したのは、書状が届いてから三十分ほど後だった。
町奉行の配下が外周を封鎖した。木戸を閉じた。通りに出入りする者を止めた。
火付盗賊改が到着した。武装した一団が、正門から押し入った。
「幕府役人! 道を開けよ!」
内部では、戦闘がほぼ終わっていた。
浪士の多くは既に離脱していた。逃げ遅れた者が、藩邸の各所に散らばっていた。負傷した者が倒れていた。
「刀を捨てよ! 囲まれている!」
火付盗賊改の声が飛んだ。
逃げ遅れた浪士たちが、次々と囲まれた。負傷している者は、抵抗できなかった。縄が打たれた。
藩邸の奥から、炎が上がっていた。燃えているのは、奥御殿の一角だった。火の粉が夜空に散っていた。
「水だ! 水を持って来い!」
藩士と幕府の役人が、消火に走った。
やがて炎が収まった。
現場の完全封鎖が完了した。
三 証拠の押収
夜明け前から、幕府の調査が始まった。
目付の役人が、藩邸の各所を調べた。倒れている者を確認した。武器を押収した。書状を回収した。名簿、連判状、所持品——全てを記録しながら集めた。
そして——。
藩邸の一室に、大量の品々が残されていた。
広げられた風呂敷の中に、水戸藩ゆかりの品々が詰まっていた。
目付の役人が、その前に立った。
「これは——」
声が止まった。
水戸拵の刀が、複数本。柄の紐が平巻きと革巻き。切っ先が突きに特化して鋭く研ぎ澄まされている。鍔には葵の紋を崩した意匠と、水戸藩ゆかりの彫り物。
鎖帷子。細かな鎖を丁寧に編み込んだ防具。着用の跡がある。
袖口の括り紐。水戸流の身なりとして知られる品。
常陸近辺の薬屋の印籠。水戸藩が医学で使う特有の常備薬が入っていた。
通行手形が数枚。水戸近隣の宿場や村の名前が記されていた。一部は古く、端が擦り切れていた。
懐紙の束。水戸学特有の用語が書かれていた。「尊攘」の二文字が、複数の紙に記されていた。血の染みが一部についていた。
「……これほどの量が、この場に」
目付の役人が、声に出した。
隣にいた別の役人が答えた。
「水戸藩のものばかりでございます」
「なぜ彦根藩邸に——水戸の品がこれほど」
沈黙が流れた。
二人の役人が顔を見合わせた。
「……先の朝廷の使者の件」
「二十六名の刺客が、品川から江戸に向かう途中で近衛家の一行を」
「その時、現場に水戸藩の痕跡が多く残っていたという話が……」
「あれも——」
役人が口を閉じた。言葉にするには、あまりにも政治的な話だった。
しかし——考えたことは、一致していた。
水戸藩の品々が、彦根藩邸から見つかった。百名以上の浪士が目撃者として存在する。朝廷の使者を狙った刺客の件でも、水戸の痕跡が残されていた——。
これらを繋げると、一つの結論が浮かぶ。
「証拠として押収せよ。全て残さず」
目付の役人が言った。
「記録も取れ。何が、どこに、どういう状態で置かれていたかを」
「はい」
「堀田様に報告する。早急に」
四 堀田への報告
夜が明ける前に、目付の役人が堀田のもとに戻ってきた。
堀田は執務の部屋に座っていた。眠っていなかった。茶が冷めたまま、卓上に置かれていた。
「申し上げます」
「申せ」
「彦根藩邸内にて、水戸藩ゆかりの品々が大量に発見されました。刀、防具、薬、通行手形、書付——百名超の浪士たちが目撃者にございます」
堀田が、その言葉を聞いた。
「それだけではございません」
「続けよ」
「先の、近衛家の使者が品川で刺客に狙われた件——その時にも、現場に水戸藩の痕跡が残されていたと報告がございました」
堀田が、ゆっくりと目を閉じた。
「……なるほど」
しばらく、沈黙した。
「(朝廷の使者を狙った刺客の背後に水戸——という話が城内に流れた。それが誰によって流されたかは分かっていない)」
「(しかし今、彦根藩邸から水戸藩の品々が大量に見つかった)」
「(この二つを繋ぐと——)」
堀田が目を開いた。
「……井伊が水戸藩に罪をなすりつけようとしていた」
「そして先の朝廷の使者への刺客も——彦根が仕組んで、水戸に見せかけた」
「これが、真相か」
目付の役人は答えなかった。政治的に確定させるのは、自分の役割ではない。
堀田が静かに言った。
「…しかしあの姫君様……我々幕府の知らない、このような情報をなぜ先に知っている? どうやって手に入れた?」
堀田の背中を、冷たいものが流れた。
五 尋問
江戸町奉行所の吟味方は、本所の外れにあった。
薄暗い建物だった。木造の、質素な造りだった。廊下は板張りで、歩くと音がした。奥に進むにつれて、日の光が届かなくなった。外の喧騒が、だんだん遠ざかった。その代わりに、別の音が聞こえてきた。低い呻き声。鎖の音。水を流す音。
吟味の間は、畳敷きだった。しかし清潔な畳ではなかった。長年の取り調べが染み込んだ、重い空気の部屋だった。天井が低かった。窓が一つあったが、格子が嵌められていた。そこから差し込む光が、部屋の中を薄く切っていた。
捕縛された浪士が、縄で縛られて座っていた。
傷を負っていた。着物が汚れていた。右の袖が破れており、その下に白い布が巻かれていた。血が滲んでいた。髪が乱れていた。しかしその目は——死んでいなかった。
役人が前に座った。三十代半ばの、物静かな顔の男だった。しかしその目は、感情を完全に消していた。
「名を申せ」
浪士が沈黙した。
役人の横にいた者が、棒で床を叩いた。乾いた音が、部屋に響いた。
「申せと言うておる!」
「……名乗るほどの者ではない」
浪士が静かに答えた。声は落ち着いていた。
「誰の指図だ」
役人が続けた。
「水戸か」
一瞬、空気が止まった。
浪士の目が、わずかに動いた。しかし——すぐに戻った。
「我らはただ……天の命に従ったまでだ」
役人が目配せをした。別の役人が近づいた。
石抱きが始まった。
膝の上に石が置かれた。重かった。一枚、また一枚。
浪士は歯を食いしばった。声を出さなかった。顔が、じわじわと赤くなった。額に汗が出た。
役人が、静かな声で続けた。
「誰が計画したのだ」
「どこで準備した」
「資金はどこから出た」
浪士は答えなかった。
また一枚、石が乗せられた。
役人が別の者に目配せをした。縄で締め上げる準備を始めた。
その時、別の役人が書付を持って来た。浪士の前に差し出した。
「これは何だ」
そこには連判状があった。複数の名前が並んでいた。
「貴様らの仲間はすでに口を割っておる」
浪士の目が動いた。
呼吸が乱れた。
「……」
しばらく、沈黙があった。部屋の中で、浪士の荒い呼吸だけが聞こえた。
やがて——浪士が口を開いた。
「藩ではない……志だ」
声が、ゆっくりと続いた。
「井伊は、討たれるべきであった」
「日本が異国に食い物にされるのを、黙って見ていることはできなかった」
「それだけだ」
役人が、その言葉を聞いた。
短く、小声で言った。
「……使えるな」
その言葉は、浪士には届かなかった。しかし隣の役人には聞こえた。
二人の役人が視線を交わした。
真実が必要なのではなかった。「構図」が必要だった。誰を悪者にして、誰を弁護し、どう整理するか——それを決めるための証言が必要だった。
幕府にとって、この浪士の「志」は罰するべきものだった。しかし同時に——彦根藩が何をしていたかを示す、証拠としての価値があった。
「彦根が水戸に見せかけた」という構図は、この浪士たちの証言があれば、より確かなものになる。
役人が記録を取り始めた。
六 江戸市中の動揺
夜が明けた。
江戸の木戸が閉じられていた。
朝早くから荷を担いで市中に出ようとした担ぎ屋が、木戸の前で止められた。
「通れんのか」
「今日は戸を開けておりません」
「なんでだ? 何があった?」
「詳しいことは申せません。お引き取りを」
担ぎ屋が引き返した。
路地の角で、魚屋が声を落として商人と話していた。
「聞いたか、昨夜のこと」
「聞いた。大老様がやられたってよ」
「まさか江戸のど真ん中で——」
「しかも百人での討ち入りだったとか」
「百人!?」
「赤穂浪士の再来じゃないか」
「しかしあれは幕府への討ち入りだぞ。赤穂とは訳が違う」
「そうだな……。しかし、それだけの者が動いたということは——」
声が止まった。続きを言うのが怖かった。
武士の間でも、声がひそめられた。
若い武士が、先輩格の者に言った。
「ついにやったか……」
「馬鹿なことを言うな」
先輩格が厳しい顔で答えた。
「これは大事になるぞ。うかつな口を叩くな」
しかし——若い武士の目には、何かが宿っていた。憧れとも、恐れとも、分からない何かが。
「しかし……江戸城のすぐそばで、百名が動いた」
「止められなかった」
「そういうことだ」
先輩格が、最後だけ小声で言った。
その言葉の意味を、若い武士は長く考えた。
町の隅では、老人が女の問いに答えていた。
「戦になるのかい……?」
「いや……これは『見せしめ』が始まる」
老人が静かに言った。
「見せしめ?」
「捕まえた者を、公の場で処す。『幕府に逆らえばこうなる』と、皆に見せる」
女が黙った。顔が暗くなった。
幕府の触書が出た。
「騒ぐな。犯人は捕縛中。市中の安全は保たれている」
しかし触書を読んだ者たちの間に、別の声があった。
誰が広めたか分からないが、流言が走っていた。
つい先ごろに江戸城内で流れた流言——「堀田が水戸と組んで朝廷の使者を狙った」という話——が、今や市中にも漏れ出ていた。
しかしその流言は、市中では別の形で変化していた。
「水戸藩士に化けた彦根藩士が、朝廷の使者を襲撃した。実は井伊がその真の黒幕だったらしい。老中・堀田様を陥れるために、水戸を利用したとか」
最初は小さな声だった。しかし、それが人から人へ伝わる間に、形を少し変えながら広まった。
この流言が市中に広まったことで、討ち入りした浪士たちを擁護する声が上がった。
「彦根が悪さをしていたなら——やはり井伊は討たれるべき逆賊だった」
「筋は通っている」
商人の一人が小声で言った。
「口に出すな、捕まるぞ」
隣の者がすぐに止めた。
しかし——止められた後も、その商人の顔には、納得の色があった。
この空気が、後に効いた。
討ち入りした百二十七名のうち、数十名は幕府の追跡を逃れた。
匿った者がいたからだ。
市中の、ある商人の蔵に、ある武士の屋敷に、ある農家の離れに——一人、二人と、人知れず匿われた者たちがいた。
赤穂浪士の再来——そういう声が、市中のあちこちで聞こえた。
赤穂の四十七士は、主君の無念を晴らすために動いた。
今回の浪士たちは、日本の行く末を憂えて動いた。
動機が違う。規模が違う。しかし——命をかけて動いた、という点は同じだった。
その共通点が、市中の人々の間に、ある種の敬意を生んでいた。
七 処罰の決定
数日後、幕府の裁きが下った。
主犯格は切腹。重関与者は斬首。軽関与者および協力者には遠島または獄門。
高橋多一郎には切腹が命じられた。金子孫二郎には斬首が命じられた。関鉄之介は逃走中だった。
八 切腹
江戸の、大名預かりの屋敷だった。
座敷は静かだった。白い畳が敷かれていた。新しい畳だった。その白さが、却って場の重さを際立てていた。
床の間に何も飾っていなかった。掛け軸も、花も、何もなかった。
高橋多一郎が白装束で座っていた。
立会の役人が、端正な声で読み上げた。
「これより御裁きにより、切腹を申し渡す」
高橋がうなずいた。
短刀が、白木の盆に乗せられて前に置かれた。
「何か申すことはあるか」
役人が形式通りに聞いた。
高橋が、静かに口を開いた。
「……我らの志、潰えず」
「ただ一人を斬ったにあらず」
「世を正さんとしたのみ」
立会の役人が、表情を変えなかった。
高橋が短刀を取った。
一瞬の静寂があった。
腹に当てた。
横一文字に引いた。
うめき声があった。
介錯人が動いた。
「御免!」
一閃。
首が落ちた。
血が白い畳に広がった。
役人が静かに言った。
「……相違なし」
記録が取られた。
九 小塚原
小塚原刑場は、千住の外れにあった。
冷たい風が吹いていた。土の匂いがした。人いきれがあった。
刑場は広い土地だった。地面は踏み固められていた。四方に柵が立てられていた。その外側に、見物人が集まっていた。町人、商人、職人——様々な身分の者が、遠巻きに集まっていた。誰も大声を出さなかった。皆が、同じ方向を見ていた。
一人の若い武士がいた。新之助と呼ぶ。
二十代の前半だろうか。下級藩士の装いだった。刀を腰に差していた。人混みの後ろに立っていた。なぜここに来たのか、自分でも分からなかった。ただ——見なければならない気がした。
幕府の役人の声が響いた。
「大逆の徒——これより成敗に処す」
新之助は眉をひそめた。
(大逆……か)
浪士たちが引き出された。
縄で縛られていた。足取りが重かった。しかし——姿勢は崩れていなかった。痩せていた。着物が汚れていた。傷を負っている者もいた。
しかし——目は死んでいなかった。
隣の町人が声を落として言った。
「あれが井伊様を斬った連中だ」
「赤穂の再来だって聞いたぞ」
新之助は黙っていた。ただ見ていた。
最初の一人が引き出された。役人に押さえられた。
「我らは——」
浪士が叫ぼうとした。しかし口を塞がれた。
ザンッ。
首が落ちた。
血が地面に流れた。赤い血が、乾いた土に吸い込まれていった。
群衆がどよめいた。
しかし声を出す者はいなかった。静かなどよめきだった。
新之助の内心で、何かが動いた。
(なぜ、あれほど静かな顔をしていた)
二人目が引き出された。
三人目。
無機質に、次々と処刑されていった。
しかし——その中の一人が、こちらを見た。
引き出された時、その浪士の目が、群衆の側を見た。
一瞬、新之助の目と合った。
その目は——恐怖ではなかった。
怒りでもなかった。
ただ——静かだった。まるで、何かを伝えようとしているような、静かな目だった。
次の瞬間、役人に押さえられた。
ザンッ。
新之助は、目を閉じなかった。
(……迷いがない)
処刑が終わった。
人々が散り始めた。
町人が言った。
「やっぱり幕府は強ぇな」
「逆らえばああなる」
新之助は動かなかった。周囲の人が去っていく中で、一人立っていた。
「(強い……のか?)」
頭に浮かんだことがあった。
何も言わせずに斬った。理由を語らせなかった。ただ「逆賊」とした。
「(それで、よいのか)」
後ろで、年配の浪人が呟いた。
「あれは敗者だが……」
「志は、負けておらぬ」
新之助が振り向いた。浪人はすぐに去っていた。
(志……)
帰り道、江戸の町はいつも通りだった。商い、笑い声、行き来する人々——しかし新之助には、何かが違って見えた。
全てがいつも通りに動いていた。しかし——大老が殺された。百名が動いた。処刑が行われた。それでも江戸は動き続けている。
(何かがおかしい)
家に戻った。刀を置いた。
自分の手を見た。
「(私は……何のために刀を持っている)」
十 思想の伝播
数日後、幕府の触書が出た。
「逆賊はすべて処断された」
新之助はそれを読んだ。
(終わった……のか?)
しかし思い出した。
あの目。
(終わっていない)
夜、一人、呟いた。
「……もし、あの者たちが誤りでなかったとしたら」
沈黙があった。
「このままでは、何も変わらぬ」
刀を握った。
「ならば——」
数日後、町外れで、例の浪人と偶然出会った。
「来たか」
浪人が言った。
「……教えてほしい。あの者たちの"志"を」
浪人が、わずかに笑った。
「戻れなくなるぞ」
新之助が少し迷った。
「構わぬ」
風が吹いた。遠くで鐘が鳴った。
「ならば聞け」
浪人が言った。
「これより先は——命のやり取りだ」
新之助が、うなずいた。
処刑は、志を殺さなかった。
むしろ——志が生きていることを、見た者たちの胸に刻んだ。
十一 堀田の孤独
夜が更けた。
堀田正睦の部屋は、静かだった。
報告が全て終わっていた。家臣が最後に言った。
「すべて、滞りなく」
「……そうか」
家臣が退室した。
堀田が一人残った。
苔の庭が、窓の外に見えた。冬の夜の庭は、暗かった。石組みの輪郭だけが、かすかに見えた。
「(これで収まるか)」
心の中で問うた。
「(いや、収まるまい)」
「(血で抑えたものは、また血を呼ぶ)」
堀田は、それを知っていた。歴史が証明していた。見せしめは、抑止ではなく、燃料になることがある。
しかし顔は変えなかった。
「次を考えねばならぬ」
堀田が静かに言った。
後継者問題が、まだある。朝廷との関係が、まだある。条約の実施細則交渉が、まだある。
そして——近衛家の姫君が、まだ江戸にいる。
あの書状を送ってきた姫君。幕府も知らない情報を先に持っていた姫君。
「……あの姫君様」
堀田が、もう一度呟いた。
「なぜ…知ることができたのだ?」
答えは、まだ出ていなかった。
十二 幕府権威の揺らぎ
事件から数日が経った。
表面上、江戸は落ち着きを取り戻していた。木戸が開いた。市中が動き始めた。荷車が走り、商いが再開された。
しかし——その落ち着きの下に、何かが変わっていた。
若い武士たちの間で、言葉が交わされていた。
「幕府は——大丈夫か?」
誰かが小声で言った。
「大丈夫だろう。しかし——以前と同じではない」
別の者が答えた。
江戸城のすぐそばで、大老が討たれた。百名以上が藩邸に討ち入り、一刻以上戦った。幕府の戦力は、間に合わなかった。
「大老が、城の真下で殺された」
「それでも幕府は続くのか」
「続くだろう。しかし——絶対に逆らえない、という感覚が、少し変わった」
その言葉が、核心だった。
その会話が、各地に広まっていた。
諸藩の若手藩士たちが、この事件を聞いた。
「やれるのか」
「百名が、江戸で動いた」
「幕府が、止めきれなかった」
「ならば——自分たちも」
幕府の権威は、まだあった。しかし——その権威に対して「絶対に逆らえない」という恐怖が、少しずつ薄れ始めていた。
脱藩する者が増えた。
藩の枠を超えて、「尊王攘夷」を掲げて動く者が増えた。
この事件が、一つの転換点になっていた。
十三 水戸の証拠と政治
幕府の内部では、別の議論が進んでいた。
彦根藩邸から押収された水戸藩ゆかりの品々。その扱いを、どうするか。
老中の間で、声が割れていた。
「これは——彦根が水戸に罪をなすりつけようとした証拠だ」
「その通りだ。朝廷の使者の件も含めて、全て彦根が水戸に見せかけた」
「しかし——それを公にすれば、井伊への評価がさらに落ちる」
「しかし隠せば、水戸に対して不当な嫌疑が残る」
「どちらを取るか」
議論は、すぐには結論が出なかった。
しかし——城内にいた堀田は、この議論の行方を見ながら、静かに考えていた。
「(誰にやらせるか、だ)」
以前、直弼が流した流言——「堀田が水戸と組んで朝廷の使者を狙った」という話——は、今や逆転していた。
彦根藩邸から水戸の証拠が出た。百名以上の目撃者がいる。朝廷の使者を狙った刺客も、彦根が仕組んで水戸に見せかけたものだった。
流言の向きが、変わった。
「堀田が悪い」から「井伊が悪かった」へ。
その流れの中に、あの姫君の書状があった。事前に情報を送ってきた。幕府が動けるよう、先に教えてきた。
堀田は、その意味をゆっくりと理解していた。
「(あの姫君は——幕府の敵ではない)」
「(しかし——幕府の味方でもない)」
「(あの姫君は、自分の目的のために動いている)」
「(そしてその目的が、今回たまたま幕府の利益と一致した)」
一致した理由を、堀田は考えた。
井伊は糸子を江戸に来させないために刺客を放った。糸子はそれを知り、井伊を討とうとしている者たちの計画を利用した。ひょっとしたら…水戸藩の品々を彦根藩邸に持ち込ませたのも、百名超の目撃者に見せたのも——。
堀田は窓の外を見た。
苔の庭に、朝の光が当たり始めていた。
「……厄介な、いや末恐ろしい姫君様だ」
堀田が静かに言った。
しかし——その顔には、微かに、敬意に似た何かがあった。
十四 春の前触れ
事件から十日ほどが経った。
江戸の空気が、少しずつ変わり始めていた。
冬の固まりが、溶け始めていた。
梅の花が、市中のあちこちで咲いていた。淡い白と、薄い紅が、枝の先に点々とあった。風が吹くたびに、その花びらが舞った。まだ冷たい風の中に、かすかに甘い香りがあった。
一橋藩上屋敷の奥御殿では、糸子が朝の茶を飲んでいた。
上段の間の付書院の障子を少し開けていた。小庭の梅が見えた。白い花が、朝の光の中に静かにあった。石灯籠の脇に、二、三輪だけ咲いていた。
外の風が入ってきた。冷たかったが、その中に春の気配があった。
近藤が来た。
「姫様、市中の様子が落ち着いてきたとのことでございます」
「そうでございますか」
「堀田様より、改めて会談の打診がございました」
「……ハリスとの交渉の件でありましょうか」
「はい」
糸子が、茶を一口飲んだ。
窓の外の梅を見た。
白い花びらが、一枚、落ちた。庭の地面に、小さく落ちた。
やるべきことが、まだあった。
直弼は消えた。しかし——幕末は動き続けていた。後継者問題は、まだある。篤姫がまだ動いていた。条約の実施細則は、まだ決まっていない。ハリスとの交渉が、待っている。
英語を学んだのは、そのためだ。
御門様の宣旨を持って江戸に来たのは、そのためだ。
九歳から三年半かけて準備してきたのは、そのためだ。
「近藤殿」
「はい」
「打診をお受けする旨、堀田様にお伝えくださいまし」
「承知いたしました」
近藤が礼をして、退室した。
糸子は一人になった。
帳面を開いた。
筆を取った。
書き始めた。
次の会談に向けて、確認すべきことを整理した。ハリスという人物の交渉の癖を書き出した。中浜万次郎から聞いたことを振り返った。村田蔵六との模擬交渉で学んだことを思い出した。
外の庭で、梅の花がまた一枚落ちた。
しかし——梅の木には、まだ多くの花が残っていた。
糸子は筆を動かし続けた。
これで終わりではなかった。
むしろ——これからが、本当の始まりだった。
答えを出す時が近づいていた。
江戸の春が、一橋藩上屋敷の小庭に、静かに来ていた。
第四十九話 了
今回は割と真面目なお話でした(;^ω^A




