第四十話「それぞれの裏工作」
一
春の終わりが近づく頃、京の空は夏への移行を始めていた。
日差しが強くなり、午後になると庭の石畳が熱を持ち始めた。御所の周囲の木々は濃い緑を持ち、昼間の光を跳ね返すように輝いていた。
坂本龍馬が近衛家を再び訪れたのは、そのような日の朝だった。
江戸へ帰る前の挨拶だった。
近藤が門で迎えた。
「坂本殿、今日はお一人ですか?」
「はいや、勝先生は江戸でお仕事がありますきに。わしだけで伺いに来ました」
「どうぞ、お入りください」
龍馬が門をくぐった。
前回来た時より、歩き方が少し違った。
近藤にはそれが分かった。
目的地を知っている者の歩き方と、まだ知らない者の歩き方は違う。
龍馬の今日の歩き方は——目的地を知っている者の歩き方だった。
二
座敷に通された。
御簾が下がっていた。
龍馬は今日は周囲を見回さなかった。
前回の戸惑いが消えていた。
深く頭を下げた。
「お姫様、坂本龍馬じゃ。挨拶ちと伺いとうて参った。江戸へ帰るき、一度お礼を言わなならんのじゃ」
「ようこそ、坂本」
糸子が言った。
「今日で江戸にお帰りですか」
「はいや。先生も待っちょりますきに」
「いくつか、お話しすることがございます」
「はい」
「まず、これを」
お梅が小さな包みを運んできた。
龍馬がそれを受け取った。
重さがあった。
「開けてもかまんろうか?」
「どうぞ」
龍馬が包みを開いた。
中に、巾着袋があった。
重い。
「五十両です」
糸子が言った。
「当面の活動資金として、お使いくださいまし」
「……五十両」
龍馬が少し固まった。
「こりゃあ、ちくと多すぎやせんか。こんなにようけ、もろうてえいもんじゃろうか」
「足りなくなったら、補充します。方法は後でお話し致しまする」
龍馬が巾着袋を置いた。
次に、もう一つのものが渡された。
扇子だった。
白い扇子だった。
「開けてみてくださいな」
龍馬が扇子を広げた。
表に、家紋があった。
近衛家牡丹の紋。
「裏をご覧ください」
龍馬が扇子をひっくり返した。
文字が書いてあった。
「この者、近衛家の関係者なり、最大限の支援を頼む」
その下に、署名があった。
近衛忠房。
龍馬がしばらく扇子を持ったまま動かなかった。
「……これは」
「近衛家の当主・わたくしの父上の言葉が書かれた扇子でございます。この扇子は近衛家との関係を証明するものでございます」
「姫様、こりゃあ…こじゃんと、大切なもんじゃ。まっこと、大事にさせてもらいますき」
「はい。だから慎重に扱ってくださいませ」
三
「いくつか、これから坂本が動くにあたっての注意事項をお伝えしておきます」
糸子が続けた。
「承知した。しかと聞かせてもらうぜよ」
「一つ目。信頼できる仲間を最低あと三人は作ること」
「三人?」
「一人の行動、一つの頭では出来ることに限界があります。あなたが動ける範囲を広げるためには、あなたの手足として動ける仲間が必要です。その人数の最低限として三人と指定致しました」
「承知したぜよ!」
「二つ目。行動するときには二人一組を基本とすること」
「二人一組…」
「これからの先の世は物騒になりましょう。一人での行動は危険でございます。二人であれば、互いに背を守り合えまする。緊急事態でも判断を共有できましょう。必ず二人で動くことを徹底してくださいまし」
「分かった。しかと承知したぜよ」
「三つ目。あなたが近衛家の関係者であることは、他の誰にも明かさないこと」
龍馬が少し引き締まった顔をした。
「行動を共にする仲間にも言わないこと。あなたを支援している者の存在は仄めかしても構いませんが、その者が誰かは明かさないこと。生命を脅かされる状況以外は、絶対に守ってくださいませ」
「生命の危機の時は?」
「四つ目がそれでございます。生命の危機がある状態で誰かに助けを乞う時——先ほどお渡しした扇子を広げて見せてください。それが近衛家との関係の証明になりまする。ただし、この扇子は不用意に見せないこと。使う場面は慎重に期してくださいまし」
「分かった。時と場合を見極めて、ここぞという時にぶちかましてやりや!」
「五つ目。活動資金が必要な時は——江戸と京では呉服商の松屋、大阪なら両替商の鴻池に資金を用立てて貰いなさい。わたくしへの報告の書状も、松屋か鴻池に預けて送ってくださいまし。話は既に通してありまする」
「松屋と鴻池か!。しかと、承知いたしましたぜよ。」
「覚えましたか」
「おう、万事整いましたぜよ!」
「六つ目。命あっての物種です。失敗しても命さえあれば、いくらでも挽回できまする。無理は絶対にしないこと。撤退が必要な時には早めに判断し、早めに行動すること」
「死んで花実が咲くものか。生きて大きな仕事を成さんといかんぜよ」
「はい。あなたが死ねば、何もかもが終わりまする。あなたが生きていれば、何度でもやり直せましょう。この点は最も重要でございます」
「七つ目。今言ったことのうち、三つ目——近衛家の関係であることを秘密にすること——を除いて、お仲間に情報を共有し徹底させること。あなただけが知っていても意味がありませぬ。仲間全員が同じ判断基準で動けるようにしてくださいませ」
龍馬が頷いた。
「……なんぞ、こじゃんと具体的じゃのう」
「当然です。あなたが動くことで、わたくしも動けまする。坂本が失敗すれば、わたくしの計画にも影響しましょう。だから細かく伝えまする」
「姫様は——まっこと、十二かえ?」
「はい」
「……こじゃんと、かなわん」
四
「最後に一つ…」
糸子が言った。
「なんじゃろうか」
「わたくしはあなたの主になったわけですから——姿を知らないままでいる、というのも問題がありましょう。ならばわたくしの姿をお目にかけましょう」
「え?」
「少しだけでございますが…」
御簾が動いた。
糸子が御簾の外に出てきた。
龍馬が目を上げた。
その瞬間——龍馬が固まった。
本当に十二歳の少女だった…
それは分かっていた。聞いていた。
しかし…
実際に目の前に立つ糸子の姿は——龍馬が今まで見てきた女性の誰とも違っていた
気品があった。
立ち姿の一つ一つに、生まれながらの格式が自然に出ていた。
しかしそれだけではない…
目が違った。
十二歳の少女の目ではなかった。
何か深いところから見ている目だった。
龍馬は——自分が知っている「女人」というものとは違う、何か別の生き物を見ているような感覚を覚えた。
気づいた時には、頭が下がっていた。
知らず知らずのうちに平伏していた。
五
しばらく、龍馬は頭を下げたままだった。
糸子が少し近づいた。
「坂本、顔を上げてくださいまし」
「……は、はあ」
龍馬がゆっくりと顔を上げた。
その顔に、まだ呆然とした色が残っていた。
糸子が少しもじもじ…していた。
「二つ、聞いてもよいでしょうか?」
「は、はい…」
糸子が少し声を落とした。
「坂本、貴殿は陸奥出海という方をご存知でしょうか?」
「え?」
龍馬が少し首を傾げた。
「陸奥宗光ならしっちょりますが、陸奥出海殿というお名前はとんと聞いたことがないぜよ」
「……そうでございますか」
糸子が少し肩を落とした。
「そ、それでは——蘭方医の南方仁という方は、お知り合いにおりませんか?」
「南方?」
龍馬が考えた。
「いんや、同郷の土佐藩士で蘭方医の松岡道安ならば知り合いにおるぜよ。南方仁という御仁は、とんと知らんぜよ」
糸子がまた少し肩を落とした。
「……ですよねー」
「姫様?」
「創作の人だとわかってはいても、つい期待してしまう……。現実は厳しいなぁ……」
糸子の目が、わずかに潤んでいた。
龍馬が首を傾けた。
「?」
何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
「……姫様、わし、何か失礼なことをしてしもうたがじゃろうか」
「いいえ。かたじけなく存じます。元気でいってらっしゃいませ」
糸子が御簾の内に戻った。
龍馬はしばらく御簾を見た後、退室した。
その顔に、困惑が色濃く残っていた。
六
近衛家の門を出たところで、近藤が声をかけてきた。
「坂本殿、少しよろしいですか」
「あ、はあ…」
「今日、姫様とはどのようなお話でしたか」
「いろいろと大事な話を言うておったぜよ。それから——」
龍馬が少し考えた。
「帰り際に、姫様がなにやら妙なことを訊いてこられましてのう。」
「妙な質問?」
「なにか、元気がのうなったというか……。わし、姫様に悪いことをしてしもうたんじゃろうか、と、まっこと考え込んでしもうちょるがぜよ。」
近藤の目が、急に輝きだした。
「坂本殿——姫様は何とおっしゃっていましたか」
「『人を知らんか?』と……。姫様、そんな妙なことを訊いてこられたがぜよ。」
近藤の目が、さらに輝いた。
「坂本殿…いや坂本!」
近藤が龍馬の肩を両手でつかんだ。
龍馬がぎょっとした。
「な、なんぜよ?」
「姫様はなんと言われたのだ。言え——いや、吐け!!」
「こじゃんと、圧が強いぜよ……」
龍馬がたじろいだ。
後ろで様子を見ていた土方が、静かに一歩後退した。
「南方仁という蘭方医と、陸奥出海という方——を尋ねられたぜよ」
「南方?……うーむっ」
近藤が腕を組んで考えた。
「後は——陸奥出海……」
「…陸奥!!」
近藤の目が、まるで別人のように輝いた。
「なるほど! 陸奥圓明流の遣い手は、陸奥出海殿とおっしゃるのだな!!」
「え?」
「絶対に見つけ出してやるぞ!! わははははーーーーー!!!」
近藤が空に向かって叫んだ。
春の空に、その声が響いた。
龍馬が、唖然としながら土方を見た。
「……なんながぜよ、あの人は?」
「おれに聞くな…」
土方は頭を抱えた。
七
この出来事が後に「陸奥騒動」と呼ばれることになる、その始まりだった。
近藤が試衛館で「陸奥圓明流の遣い手・陸奥出海を探し出せ!」と言い出したことで、旭狼衛全員を巻き込んだ大捜索が始まるのだが——それはまた別のお話。
ちなみにこの騒動のおかげで、本来、陸奥は時代の影に生きるはずであったが、全く影として生きられなくなってしまうのであった。
なお、糸子はこの一連の流れを全く知らなかった。
知らないままに、次の課題に向き合っていた…
八 彦根藩江戸藩邸の夜
同じ頃、江戸では直弼が動いていた。
深夜の書院に、長野義言が呼ばれていた。
「義言、商人の口伝の追跡について、続報はあるか」
「はい。先日ご報告した内容から、さらに一歩進みました」
「言え」
「大坂経由で京に届いた話の流れを辿ったところ——京の商人と、御所周辺の何かとの繋がりがある可能性が見えてきました」
「御所周辺?」
「はい。ただし——御所内の具体的な誰かまでは、まだ特定できていません」
直弼が少し考えた。
「御所周辺——つまり公家の可能性がある?」
「否定はできません」
「公家が商売の口伝を通じて、わたくしの情報を集めていた?」
直弼が立ち上がった。
「……公家が商売をしているとしたら、どこかあるか」
「調べましたところ——御所御用達の称号を持つ近衛家が、天朝物産会所という商事の仕組みを持っているとのことです」
「近衛家? 五摂家の筆頭が…」
「はい」
直弼が少し目を細めた。
「公家が商いをしている。しかもそれが御所御用達で動いている?」
「はい。公家が商いをすることは本来異例のことですが——御所御用達という形で幕府も認めてきた経緯があります」
直弼がしばらく沈黙した。
「近衛家が犯人だと思うか?」
「……断定はできません。しかし——商人の口伝と御所周辺との繋がりがある可能性がある中で、商いを通じて広い情報網を持っている公家の存在は——無視できませぬ」
直弼が窓の外を見た。
「近衛家——五摂家の筆頭…か」
「はい」
「あの者たちが——」
直弼がゆっくりと言った。
「証拠はない。しかし——可能性があるのだな」
「はい」
「では、揺さぶりをかけろ」
「揺さぶり、とは」
直弼が机の前に戻った。
「天朝物産会所の商売に、幕府の規制をかけることができないか検討しろ」
九
「商売に規制をかけることで——」
直弼が続けた。
「財政への打撃を与えられる。財政的に追い詰められれば、近衛家の活動が制限される」
「しかし——御所御用達の商いに幕府が規制をかけることは、政治的に難しいのでは?」
「難しいからこそ、意味がある」
直弼が静かに言った。
「御所御用達の商いを規制することで反応を見る。もし近衛家が犯人であれば——このような規制の動きに対して、何らかの行動を取る可能性がある」
「行動を見て、犯人か否かを判断する」
「それだけではなく、仮に近衛家が犯人でなくとも、それを見た他の公家に動きがあるかもしれませんな」
「そうだ。揺さぶって、動きを見る。動いた瞬間に、尻尾を掴む」
「しかし——何も反応しなければ…」
「それならそれで、公家は無関係ということだ。揺さぶりによる損失は最小限に抑える。大規模な規制ではなく——調査という名目で、少し圧力をかける程度にする」
長野が頷いた。
「では——幕府の事務方で、御所御用達の商売についての調査という形で動かします」
「そうしろ。ただし——正式な規制ではなく、まず調査という形だ。調査の知らせが届いた時の近衛家の反応をまずは見よう」
「かしこまりました」
直弼がまた窓の外を見た。
夜の江戸が静まっていた。
「もう一つ、別の動きも始める」
「何でしょうか?」
直弼の声が、少し低くなった。
「一橋派の問題だ」
十 直弼の裏工作の全容
「大老としての権限を回復するためには——一橋派の力を弱める必要がある」
直弼が静かに言った。
「しかし政治的に一橋派に対抗することは、今の状況では難しい。老中たちが合議を求める壁がある」
「はい」
「では——政治的ではない方法を使うとしよう」
ニヤリと笑う直弼。
長野が少し緊張した。
「どのような方法でしょうか?」
「将軍の健康問題だ」
直弼が続けた。
「家定様の病状が優れないことは、幕府内では知られていることだ。しかしその病状が、後継者問題に影響を与えるという事実が、まだ十分に使われてはおらん」
「将軍の病状を——利用するということですか?」
「利用するとは穏やかではない言い方だな。言い換えれば——現実を正確に反映させる、ということだ」
直弼が言葉を選んだ。
「家定様が重病の状態で後継者を指名されれば、それは将軍の明確な意志として記録される。慶福様を後継者として正式に指名させることができれば——一橋派が推す慶喜の可能性が、公式に否定される」
「しかし——将軍が自らそのような意思表示をされるかどうか」
「そのための働きかけが必要だ」
直弼が静かに言った。
「家定様の周辺——大奥を通じた働きかけを、密かに始める」
「大奥を」
「大奥は、将軍の意向に大きな影響を与えられる場所だ。家定様の御身体の状態から考えれば——大奥を通じた働きかけは、十分な効果が期待できる」
長野が少し間を置いた後、言った。
「……これは、かなり危険な道ではないでしょうか」
「危険だ」
直弼が認めた。
「しかし——このままわたしが何もできない状態が続けば、もっと危険なことになる。大老として権限を取り戻すためなら、多少の危険は取る」
「分かりました。密かに動かします」
「それから——近衛家への揺さぶりと、この大奥への働きかけは、どちらも絶対に外に漏らすな。特に大奥への働きかけは——露見すれば、わたしの立場が終わる」
「はい。厳重に管理します」
直弼が一人になった後、書院に座った。
「一期一会——この機会を逃さない」
その顔に、どす黒い笑みが浮かんだ。
十一 善次郎からの文
京の近衛家に、善次郎からの文が届いた。
「姫君様、急ぎの報告がございます。幕府の一部で、天朝物産会所の商いに対する規制の議論が出ているとのことです。正式な規制ではなく、調査という名目ですが——御所御用達の商いについて、幕府が調べ始めているとの話を複数の商人から聞きました」
糸子は文を読んで、少し考えた。
まだ井伊は近衛家が流言の発信元だとは気づいていない。
ならばこれは——単に犯人を炙り出すための井伊の動きにすぎない。
「揺さぶりをかけて、反応を見ようとしている…」
糸子が帳面を開いた。
「井伊は商人の口伝を経由した情報が京方面に繋がっていることまで掴んだ。そして御所周辺の公家が関与している可能性を疑い始めた。天朝物産会所を調査することで——近衛家が何かの反応を示せば、それが手がかりになる可能性がある」
「しかし——これは同時に、財政への打撃でもある」
「対策が必要だ」
糸子は近藤を呼んだ。
十二
「近藤殿、少し相談があります」
「はい」
「善次郎から、天朝物産会所に対する幕府の調査が始まりつつあるとの知らせがありました」
「調査、とは?」
「御所御用達の商いについて、幕府が調べ始めているとのことでございます。直接の規制ではありませぬが——近い将来、規制になる可能性がありまする」
「それは——井伊の動きですか」
「おそらく。井伊は商人の口伝を通じた情報が京方面に繋がっていることを掴んでいます。公家が関わっている可能性を疑って、揺さぶりをかけているのだと読みまする」
近藤が静かに聞いていた。
「どう対処しますか」
「二つの方向で動きまする」
糸子が答えた。
「一つ目は、天朝物産会所の名義の整理です。御所御用達という格式をより明確にする形で、名義を整え直しましょう」
「どういう意味ですか?」
「幕府が御所御用達の商いを規制することは、政治的に極めて難しい。御所への商いを幕府が妨害するとなれば、御門様の権威を幕府が侵すことになりましょう。その政治的な危険性を、井伊は取れないはずでございます」
近藤が頷いた。
「名義を整えることで、幕府の規制が難しくなる壁を作る、ということですね」
「はい。二つ目は、動かないことでございます」
「動かない?」
「井伊は揺さぶりをかけて、近衛家が何かの反応を示すのを待っていましょう。だから——反応を示さないことが最善でございます。規制の動きが来ても、普通通りに商いを続ける。慌てて動けば、その動きが尻尾となりましょう」
「しかし財政への打撃は」
「一時的な打撃は甘受しまする。それより、井伊に尻尾を掴まれることの方が大きな問題でございましょう」
近藤が少し考えた後、言った。
「……姫様の判断は正しいと思います。しかし一つだけ確認させてください」
「はい」
「この調査が、井伊の商いへの圧力という形で来ているとすれば——旭狼衛として、何か動くことはありますか」
「今はまだありませぬ。なれど——」
糸子が続けた。「井伊が次の手として、もっと直接的な何かを動かす可能性がございます。その時には、旭狼衛に動いてもらう必要が出るかもしれません」
「御意。備えておきます」
「よろしくお頼み申し上げます」
十三 実光への相談
翌日、糸子は実光を呼んだ。
「実光様、一つご相談がございます」
「何でしょう」
「天朝物産会所の名義について、整理をしたいと考えておりまする。御所御用達の格式をより明確にする形で、有職故実の観点から問題がないかをご確認していただけますでしょうか」
実光が少し考えた。
「……幕府からの調査が来るということでしょうか?」
「そのような動きがあるとの話が入っておりまする」
「御所御用達の商いに幕府が調査を入れることは——確かに政治的に難しい部分がありましょう。御所への物産の供給を幕府が妨害するとなれば、朝廷との関係に悪影響が出まする」
「その点を明確にした上で、天朝物産会所の名義を整え直したいのでございます」
「分かりました。有職故実の観点から、御所御用達の定義と、それに基づく商いの範囲について、文書を整理しまする」
「よしなに」
実光が少し間を置いた後、言った。
「姫様、一つだけ聞いてもよろしゅうございますか」
「なんでございましょう?」
「この調査の動きは——誰かが意図して動かしているのでありましょうか。それとも幕府内の自然な動きでございますか」
糸子が少し考えた後、答えた。
「誰かが意図している可能性がありまする。なれどそれが誰かは、今の段階では確認できておりませぬ」
「なるほど…」
実光が頷いた。
「対処の方向は正しいと思いまする。御所御用達という格式を盾にして、幕府の介入を難しくする。これは有職故実として正当な防衛でございます」
「では、よろしゅうお頼み申します」
「はい。急いで整理しましょう」
十四 糸子の夜の帳面
夜、糸子は帳面を開いた。
初夏の京都の夜は、まだ少し肌寒かった。
「今日の整理をする。直弼は二つの方向で動き始めている可能性がある」
「一つ目は天朝物産会所への調査。これは揺さぶりだ。対策として、御所御用達の名義の明確化と、反応を示さないことを徹底する」
「二つ目は——まだ詳細が掴めていないが、一橋派への何らかの圧力。これは善次郎からの次の報告を待つ」
「井伊はまだ近衛家を特定していない。しかし一歩一歩、近づいている。こちらは決して油断はしない。井伊に尻尾は掴ませない」
「だから——井伊が近づいてくる間に、こちらがより多くのことを成し遂げる必要がある」
糸子は筆を止めた。
「坂本が江戸に帰った。活動資金と扇子を渡し、注意事項を徹底させた。これから坂本が動き始める」
「勝海舟との関係も生まれた」
「万次郎との英語の練習も、最終段階に近づいている」
「御門様との関係は、引き続き深まっている」
「旭狼衛は江戸対応の体制が整いつつある」
「全ての準備が、一点に向かっている」
糸子は最後に書いた。
「ハリスとの交渉。その日が近づいている」
「井伊の動きは、その日までの時間を奪おうとしている。しかし——間に合わせる」
帳面を閉じた。
縁側の外では、近藤が夜番についていた。
その背中を見ながら、糸子は思った。
井伊との見えない戦いと、ハリスとの見える戦いが、同時に進んでいる。
どちらも落とせない戦いだ。
しかし——どちらも勝てる戦いだ。
そのためにこそ、この数年間準備してきたのだ。
近衛糸子は次の手を考え始めた…
第四十話 了




