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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第四話「江戸への道と、商家の倅」

江戸への販路を考え始めたのは、秋が深まった頃だった。

 帳面の数字は順調に伸びていた。鴻池との大坂ルートが軌道に乗り、御所御用達への道筋も着実に進んでいる。村岡は月に二度、近衛家に来て帳面の確認をしてくれるようになった。算術の正確さと、数字の裏にある問題を見つける目は、糸子の予測通りだった。

 しかし京都と大坂だけでは足りない。

 前世の修士論文で調べた数字が頭にある。幕末期の江戸は人口百万を超える世界最大規模の都市だった。大名の参勤交代で集まる武家の消費力、旗本・御家人の生活需要、豊かな町人文化……江戸の市場規模は京都や大坂を大きく上回る。

 そこへの販路を開かなければ、近衛家の商売は中途半端なままだ。

 問題は、どういう経路で江戸に入るか、だ。

 近衛家が直接江戸に人を送ることは難しい。朝廷の公家が江戸に出向くことは、幕府との関係上、いろいろと面倒な手続きが要る。

 だから仲介者が必要だ。

 江戸と京都を行き来している商家。幕府との関係を持ちながら、朝廷とも縁のある商人。

 そういう存在を探していた糸子の耳に、ある名前が入ってきたのは、お梅の情報網からだった。


「姫様、少しよろしゅうございますか」

 ある夕方、帳面から顔を上げた糸子に、お梅が声をかけた。

「どうぞ」

「近衛家への御挨拶を申し出ている商家がございます。松屋善兵衛と申しまして、江戸と京都を行き来している呉服商でございます。御所への出入りもあり、幕府の御用達も務めている、なかなかの大店でございます」

 糸子は帳面を閉じた。

「なぜ今の時期に挨拶を」

「近衛家のご商売が大坂まで広がったと聞き及んで、お付き合いを願いたいとのことだそうでございます」

 糸子は少し考えた。

 江戸の呉服商。幕府の御用達。御所への出入りもある。

 こちらが探していた条件に、かなり近い。

 向こうから来てくれるなら、好都合だ。

「いつ来ますか」

「明後日はいかがかと」

「父上のご都合を確認してから、通して頂戴」


 二日後、松屋善兵衛が近衛家を訪ねてきた。

 五十代前半の、恰幅のよい男だった。着物は上質だが派手ではない。商売で成功した人間の、落ち着いた身なりだ。頭を下げる動作が自然で、長年客と接してきた人間の所作がある。

 そして善兵衛の後ろに、一人の少年がいた。

 年の頃は七歳か八歳。糸子より少し上だろうか。父親と同じく頭を下げているが、目だけがきょろきょろと部屋の中を見回している。

 好奇心の強い子だ、と糸子は思った。

 父上への挨拶が済んだ後、善兵衛が少年を紹介した。

「倅の善次郎でございます。商いを学ばせるために連れてまいりました。ご無礼をお許しください」

 善次郎が深く頭を下げた。

「松屋善次郎と申します」

 その声が少し上擦っていた。緊張しているのだろう。しかし頭を上げた時の目が、緊張の中にも輝きを持っていた。

 糸子は善兵衛に視線を戻した。

「大坂の鴻池様からご紹介いただいたと伺いました」

「はい、鴻池の伊右衛門さんから、近衛様のご商売について詳しく聞かせていただきました。ぜひお付き合いをと思いまして」

「具体的には、どのようなお付き合いをお考えですか」

 善兵衛が少し驚いた顔をした。

 六歳の姫君が「具体的には」と聞いてくることへの驚きだろう。しかし善兵衛はそれを顔に出したのは一瞬で、すぐに商人の顔に戻った。

「近衛様のお品を江戸でも扱わせていただければと考えております。松屋は江戸の本店と京都の出店を行き来しておりますので、その流通をお手伝いできると思いまして」

「江戸でのお客様はどのような方々ですか」

「大名の奥方様方や旗本のご家族、それから富裕な町人の方々が主でございます」

「今、松屋さんが江戸で扱っている品の中で、一番よく売れているものは何ですか」

 善兵衛が少し考えてから答えた。

「呉服が中心でございますが、最近は唐物……唐土や南蛮からの品への関心が高うございます。珍しいものを求める方が増えております」

「珍しいもの、ですか」

「はい。特に江戸の大名方は、諸国から変わった品を集めることをお好みで。その点、近衛様のお品は……御所御用達となれば、江戸でも特別な価値を持つと思います」

 糸子は頷いた。

 善兵衛は分かっている。ただ品物を売りたいのではなく、「御所御用達」という付加価値を一緒に売りたいと考えている。

 それは悪くない。

 こちらの意図と合っている。

「具体的な条件については、改めてお話しましょう。今日はまずご挨拶ということで」

「はい、もちろんでございます」

 父上がお茶を勧めながら、穏やかに松屋との会話を続けている間、糸子は視線の端で善次郎を観察した。

 善次郎は父親の隣に行儀よく座っているが、その目は時々糸子に向けられていた。

 何かを考えている目だ。

 子供特有の、純粋な好奇心の目でもあるが、それだけではない。

 商家の倅として育ってきた子供の目がある。お金の話、商売の話を聞き慣れた人間の、微妙な反応の仕方がある。


 挨拶が一通り済んで、善兵衛がお手洗いに立った時だった。

 座敷に残されたのは、父上と糸子と善次郎の三人になった。

 父上がお茶を一口すすって、窓の外に目をやった。

 善次郎が、少しだけ身じろぎした。

 そして視線が、糸子に向いた。

 糸子は善次郎を見た。

 善次郎が、わずかに口を開いた。

 しかしすぐに閉じた。

 もう一度開いた。

 そしてまた閉じた。

 何か言いたいことがあるのに、言えないでいる。

 理由は分かった。

 父親のいない場で、商家の倅が近衛家の姫君に話しかけることは、礼法上かなり難しい。格式の差がある。先んじて話しかけることは、本来であれば軽率な行為だ。

 しかし善次郎の目が語っていた。

 言いたいことが、ある。

 糸子は父上を見た。

「父上、少しだけ善次郎とお話してもよろしゅうございますか」

 父上が糸子を見た。それから善次郎を見た。そして頷いた。

「ああ、構わんぞ」

 父上が「許可を出した」という事実が生まれた。

 これで善次郎が話しかけることへの礼法上の問題は消えた。

 糸子は善次郎を見た。

「何か聞きたいことがあるのですか」

 善次郎が少し赤くなった。

「……分かりましたか」

「目に出ていました」

「そ、その……姫君様は、商売のことを本当によくご存じなのでございますか」

 率直な問いだ。

 糸子は少し間を置いてから答えた。

「そこそこは」

「父から聞きました。近衛様が鴻池さんと取引を始めて、大坂での商いが大きくなったと。それを仕切っているのが……姫君様だと」

「父上のお名前でやっておりまする」

「でも実際には姫君様が」

「そうです」

 善次郎がじっと糸子を見た。

「なぜ、公家の姫君様が商売を」

 糸子は答えた。

「屋根が雨漏りしていたからです」

「……え」

「近衛家の屋根が雨漏りしていました。直したかった。そのためにはお金が必要だった。だから商売を始めました」

 善次郎が瞬きした。

 それから、小さく笑った。

「それは……とても正直な理由でございますね」

「嘘をついても仕方ありませんから」

「父は商売の理由を聞かれると、いつも『お客様のお役に立つため』と申します」

「それも本当のことでしょう。しかし全部ではない」

「全部では…ない?」

「お客様のお役に立ちながら、自分も利益を得る。それが商売でしょう。どちらか一方だけでは長続きしない」

 善次郎がしばらく考えた。

「……父にそのようなことを申し上げたら、叱られそうでございます」

「なぜですか」

「商人は奉仕の精神が大事だと。利益を前に出すのは品がないと、いつも申されます」

「品がないかどうかと、正しいかどうかは別の話です。利益を得ることは正当なことです。ただし相手も利益を得られる形でやることが大事で、そのための奉仕の精神であれば意味がある。利益を隠して奉仕だけ言うより、お互いに利益があることを正直に言うほうが、わたくしは信頼できると思います」

 善次郎がまた考えた。

 今度は長い時間、考えた。

 それから顔を上げて言った。

「姫君様、大変厚かましいお願いを申し上げます。わたし目に商売を教えていただけませんでしょうか?」

 糸子は少し驚いた。

 直接的すぎる申し出だ。しかしその目が真剣だった。

「近衛家のお手伝いをしてくださるなら…」

 善次郎が目を丸くした。

「て、手伝い……わたしが、姫君様のお手伝いを」

「教えるということは、教えながらこちらも学ぶということです。善次郎が商売の現場で何を見てきたか、何を感じてきたかを、わたくしは知らない。その代わり、わたくしが考えていることをお伝えします。それでよければ」


 善兵衛が戻ってきた時、座敷の空気が変わっていることに気づいたらしく、少し戸惑った顔をした。

「倅が何か失礼を」

「失礼ではありません」糸子は答えた。「見どころがあります」

 善兵衛が目を丸くした。

「は……はあ」

「善次郎に、時々近衛家のお手伝いをしていただけますか。商売の勉強も兼ねて」

 善兵衛が困惑した顔で善次郎を見た。善次郎が小さく頷いた。

「姫君様のお傍に、商家の倅などを……ご迷惑では?」

「迷惑ではありません。商売を一緒に考えてくれる人が要りますから」

「しかし姫君様、うちの馬鹿息子はまだ修業中の身で、一人前には程遠く」

「一人前でなくても構いません。一人前になっていく人が必要なのです」

 善兵衛がしばらく黙っていた。

 商人として長年生きてきた人間の目で、糸子を見ていた。

 それから、深く頭を下げた。

「……よろしくお願いいたします、姫君様。倅をお願い申し上げます」


 その日の夜、糸子は帳面に書き込んだ。

 松屋善兵衛、江戸ルートの候補として有望。江戸での販路確立に向けて具体的な条件交渉を次回行う。

 松屋善次郎、近衛家の手伝いに加わることになった。商家育ちで商売の現場感覚を持つ。算術は村岡ほどではないかもしれないが、商売人の目がある。村岡の数字の読み方と、善次郎の現場感覚を組み合わせれば、面白い。

 筆を置いて、糸子は天井を見上げた。

 雨漏りはしていない。

 あの染みが消えたわけではないが、桶が要らなくなったことは変わらない。

 お梅が部屋に来て、お茶を置いていった。

「善次郎というお子は、いい子でしたか」

「使えるかどうかはまだ分かりません。しかし正直な子です」

「正直な、と」

「商家の倅が公家の姫君に『商売を教えてくれ』と言うのは、普通は言えません。しかし言いました。それだけで十分です」

 お梅が少し笑った。

「姫様は、正直な人間がお好きなのですね」

「正直な人間は、裏切りにくいからです。計算して動いている人間は、条件が変われば方向を変えます。しかし正直に動いている人間は、多少条件が変わっても芯がぶれない」

「なるほど」

「それに」糸子はお茶を一口すすって続けた。「正直な人間は、こちらも正直に動けます。計算ばかりしていると疲れますから」

 お梅がまた笑った。

「姫様もそういうことを思われるのですね」

「当たり前です。疲れます、いつも計算ばかりしていると」


 善次郎が最初に近衛家に来たのは、その十日後だった。

 父親の善兵衛が京都の出店に立ち寄ったついでに連れてきた形で、善次郎だけが近衛家に残り、父親は出店に戻った。

 糸子は善次郎を帳面の前に座らせた。

「近衛家の今月の収支です。見てみて頂戴」

 善次郎が帳面を開いた。

 しばらく無言で読んでいた。

 それから顔を上げた。

「……思ったより、大きゅうございますね」

「何が」

「取引の規模でございます。京都だけでこれだけ回っているとは。鴻池さんを通じた大坂分を合わせると……」

「合計でいくらになりますか」

 善次郎が帳面に戻って、少し計算した。

「えっと……こちらとこちらを足して……」

「暗算でできますか」

「少し待ってくださいませ……」

 善次郎が口の中で何かを呟きながら計算している。

 かなり時間がかかった。

 答えが出た時、糸子はすでに頭の中で答えを出していた。

「合いましたか」

「……はい、合いました」

「時間がかかりましたね」

 善次郎が少し恥ずかしそうな顔をした。

「算術はあまり得意ではなくて……村岡様のほうがずっと速ゅうございますよね」

「速さは慣れで変わります。それより、帳面を見て何か気づいたことはありますか。数字以外で」

 善次郎が帳面に戻った。

 今度は数字を追うのではなく、全体を眺めるように見ている。

 しばらくして言った。

「……この品、西陣の絹地でございますが、先月より値段が上がっておりますね」

「気づきましたか」

「何かあったのでございますか」

「織元の職人が一人、怪我をしました。生産量が少し落ちました。品が減ると値段は上がります」

「では……今のうちに多めに仕入れておけばよかった、ということでございますか」

 糸子は少し考えてから答えた。

「どう思いますか」

「え、わたしが答えるのでございますか」

「善次郎が気づいたのですから、善次郎が考えてみて頂戴」

 善次郎がまた考えた。

「……多めに仕入れておけば、値上がり前の値段で持てる。売る時に値上がり後の値段で売れれば、その差が利益になる」

「合っています」

「でも……値段が上がっても戻ることがある。その場合は余分に仕入れた分が無駄になる」

「それも合っています」

「どちらが正解でございますか」

「場合によります。職人の怪我がいつ治るか。他の産地から同じ品が出てきていないか。買い手の需要が今後増えるか減るか。それらを総合的に判断して決めます」

 善次郎が真剣な顔で頷いた。

「商売は、先を読むことが大事なのでございますね」

「先を読むことと、先を読みすぎないことの、両方が大事です」

「両方……それは難しゅうございますね」

「難しいです」糸子は素直に答えた。「わたくしもたまに失敗します」

 善次郎が少し驚いた顔をした。

「姫君様でも失敗なさるのでございますか」

「します。先月、宇治茶を多めに仕入れすぎて、少しだぶつきました」

「どうなさいましたか」

「鴻池の伊右衛門さんに相談して、大坂の得意先に少し安く出してもらいました。損は出ましたが、在庫を持ち続けるよりはよかった」

「損を認めて、動かれたのでございますか」

「損を認めることより、損を引きずることのほうが、もっと大きな損になります。間違えたと気づいたら、早く修正する。それだけです」

 善次郎がしばらく黙っていた。

 それから言った。

「父は失敗した時、いつも自分を責めております。なかなか次に進めなくて」

「それは商売人として難しいですね」

「はい。だから同じ失敗を繰り返すことがないのは確かなのでございますが……動き出すまでに時間がかかります」

「善次郎はどうですか」

「わたしは……失敗してもあまり気にしないほうだと思います。怒られるのは嫌でございますが、次にどうすればいいかを考えるほうが面白くて」

「それは商売人に向いています」

 善次郎が照れたような顔をした。


 昼過ぎに、村岡が近衛家にやってきた。

 今月の帳面確認の日だ。

 村岡が座敷に入ってきて、善次郎を見た。

 善次郎が村岡を見た。

 二人が同時に糸子を見た。

「紹介します。村岡、こちらは松屋の善次郎。江戸の呉服商の倅です。善次郎、こちらは村岡。御所の女官見習いで、算術が得意です」

 村岡が静かに頭を下げた。

「村岡と申します。よろしくお頼み申し上げます」

「松屋善次郎でございます。よろしくお願いいたします」

 善次郎が村岡を見た。

「御所にお勤めなのでございますか」

「はい」

「すごいですね。御所に上がれるということは、それだけの家柄で」

「武家の出でございます」

「武家の方が御所に?」

「算術ができますと、重宝していただけることがございます」

 糸子は二人のやり取りを聞きながら、帳面を出した。

「今日は三人でやりましょう。村岡が数字を確認して、善次郎が現場の感覚で判断する。わたくしが全体をまとめます」

 村岡が少し驚いた顔をした。

「三人で、でございますか」

「一人より三人のほうが見落としが減ります。それぞれ得意なことが違うなら、組み合わせれば補い合えます」

 村岡が善次郎を見た。善次郎が村岡を見た。

 二人の間に、何か微妙な空気が流れた。

 互いに、相手を測っている。

 糸子はそれを止めなかった。

 測り合いは自然なことだ。一緒に仕事をするなら、相手を知ることが先だ。

 帳面を広げて、糸子は言った。

「始めましょう」


 三人での帳面確認は、思った以上にうまくいった。

 村岡が数字の間違いを即座に見つけ、善次郎がその品物の市場状況について話し、糸子が今後の方針を決める。

 三つの視点が、うまく噛み合った。

 作業が終わった後、村岡が静かに言った。

「……三人でやりますと、早うございますね」

「一人でやると、どこかで止まります。止まった時に別の人の視点があると、すぐ動けます」

 善次郎が頷いた。

「父の店でも、番頭さんが二人おるのでございますが、二人の見方が違うから面白いと父が申しております。一人が強気で一人が慎重で、その真ん中を取るのが父の仕事だと」

「良い番頭さんたちですね」

「でも二人ともおじいさんで……わたしには厳しくて」

 村岡が少しだけ表情を緩めた。

「御所でも、新参者には厳しい方が多うございます」

 善次郎が村岡を見た。

「村岡様も?」

「はい……少し」

「算術がおできになるのに、なぜ御所で厳しくされるのでございますか。できる人間は重宝されるはずでは」

 村岡が少し間を置いた。

「できることと、重宝されることは、同じではないようでございます」

「どういうことでございますか」

「できることを見せすぎますと、できない方々が……ご不快に思われることがある、という話でございます」

 善次郎が眉をひそめた。

「おかしいと思います。できる人間がいれば、みんなが助かるのに…」

「さようでございますが」

「なんか、商売と違いますね。商売は結果が出れば誰でも認められますから」

 村岡がじっと善次郎を見た。

「商売は……そうなのでございますか」

「少なくともうちの父の店は。番頭さんが丁稚の意見でも、売れるなら取り入れます」

「それは……良いお店でございますね」

 二人の会話を聞きながら、糸子は内心で頷いた。

 村岡と善次郎は、育った場所が全く違う。御所の格式社会と、商売の実力主義。その二つの視点を持つ人間が近衛家に集まっていることは、面白い。

 御所の感覚だけでは、外の世界で通じない。

 商売の感覚だけでは、御所や公家社会では動けない。

 両方を知っている人間が要る。

 それが糸子自身の役割だと思っていたが、二人を組み合わせることで、その範囲が広がる。


 夕方、善次郎が帰る前に、糸子は一つだけ伝えた。

「善次郎、江戸に戻った時に一つ調べてきてほしいことがあるのです」

「何をでございましょうか」

「江戸の富裕な方々が、今一番欲しがっているものは何か。商品でも、情報でも、なんでも構いません。松屋さんのお客様と話す機会があれば、さりげなく聞いてみて頂戴」

 善次郎が真剣な顔で頷いた。

「分かりました。でも……上手く聞き出せるかどうか」

「聞き出そうとしなくてよいです。ただ話を聞いていれば、自然に出てきます。人は欲しいものを、誰かに話したがっています」

「話したがっている」

「そうです。特に富裕な方々は、欲しいものを簡単には手に入れられない場合が多い。だからその話をしたがります。聞いてあげるだけで、相手は喜びます」

 善次郎がまた考えた。

「それは……商売というより、人の話を聞くということでございますか」

「商売の半分は、人の話を聞くことです」

 善次郎が目を輝かせた。

「父に申し上げたら、また叱られそうな気がいたします」

「なぜですか?」

「父はいつも『しゃべれ、売り込め』と申します。聞けとは申しません」

「松屋さんのやり方が間違っているわけではありません。ただ聞くことができれば、売り込む前に相手が何を求めているかが分かります。求められているものを売るのは、求められていないものを売るより、ずっと楽です」

 善次郎が頷いた。今度はすぐに、迷いなく。

「……分かりました。やってみます」

 善次郎が立ち上がりかけた時、村岡が静かに言った。

「善次郎殿、一つよろしゅうございますか」

 善次郎が村岡を向いた。

「なんでございましょう、村岡様」

「江戸のお客様の話を聞く時、どのようなことを聞けばよいか……今日の作業で出てきた品の中で、大名の奥方様方にお好みのものを、少し絞り込んでおきましょうか。その品について話題を向ければ、欲しいものの話が出やすいかと思いまして」

 善次郎が目を輝かせた。

「それは助かりますっ。村岡様、ありがとうございます」

 村岡が帳面を開いて、指で数か所を示した。

「こちらの西陣の絹地と、こちらの京焼の茶器。この二つは、格式のある家の奥方様方にご関心が高い品と思われます。この二つについて話題を向けてみてくださいませ」

「分かりました」

 糸子は二人のやり取りを見ながら、黙っていた。

 自分が何も言わなくても、二人が動いた。

 村岡が善次郎の動きを補おうとして、善次郎が村岡の言葉を素直に受け取った。

 これでいい。

 糸子が全部指図する必要はない。それぞれが考えて動ける人間が、近衛家の周りに集まってきている。


 二人が帰った後、糸子は帳面の最後のページを開いた。

 今日の収穫を書き込んでいく。

 松屋との江戸ルート、具体的な条件交渉を次回行う。

 善次郎と村岡、初めて一緒に作業した。互いの得意なことが違い、補い合える可能性がある。帰り際の二人のやり取りを見るに、その可能性は予測より高い。引き続き観察する。

 善次郎に江戸での情報収集を依頼した。村岡が品の絞り込みで補った。次に来た時の報告が楽しみだ。

 筆を止めて、糸子は少し考えた。

 今日、三人でいる時間の中で、何か手応えのようなものがあった。

 村岡の正確さと、善次郎の現場感覚と、糸子の全体把握。

 三つが組み合わさった時の、仕事の進み方のよさ。

 これが、組織というものかもしれない。

 前世の百貨店で、チームで動く仕事の面白さを知っていた。一人では絶対に出せない結果が、何人かで動くと出せることがある。

 まだ糸子のまわりにいる人間は少ない。お梅、村岡、善次郎。

 しかしこれが出発点だ。

 ここから広がっていく。

 糸子は帳面を閉じた。

 窓の外で、秋の虫が鳴いていた。

 黒船まで、あと何年か。

 一つずつ、積み上げていく。

 それだけだ。


第四話 了

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