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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第三十九話「坂本龍馬という人?」

一

 安政六年、春が深まった京は、若葉の匂いに満ちていた。


 御所の周囲の木々が一斉に芽吹いて、薄い緑が重なり合って濃くなっていく季節だった。風が渡るたびに葉が揺れて、木漏れ日が地面に光の模様を作った。


 近衛家の庭でも、植え込みの若葉が光を弾いていた。


 その庭を背にして、縁側に糸子が座っていた。


 帳面を開いていたが、今日は勉強ではなかった。


 今日は客が来る日だった。


 勝海舟と——坂本龍馬が来る日だ。


 前世の記憶の中で、坂本龍馬という名前は特別な重みを持っていた。


 薩長同盟。大政奉還。海援隊。


 そして——慶応三年、暗殺される。


 …後はあの漫画とかこの漫画とかにも、登場していたことをよく覚えていた。


 糸子は帳面を閉じた。


 今日、わたくしはその人物と会う。


二

 近衛家の門前に、二人の人影があった。


 一人は勝海舟。前回来た時と同じ、落ち着いた足取りだ。


 もう一人は——大きかった。


 背が高い。がっしりとした体格。歩き方に勢いがある。


 そしてその大きな男は、近衛家の門を見た瞬間から、周囲をきょろきょろと見回していた。


 勝が隣でぼそっと言った。


「お前、さっきから何を見ているんだ」


「いや、こういうお屋敷に入るのは初めてですきに。こじゃんと立派ですねえ、まっこと」


「ぼーっとするな。姫様は五摂家の——つまりこの国の公家の頂点のお一人だ。くれぐれも失礼のないようにしろよ」


「分かっちょりますよ、先生。これで何回目ながですか? その話は……耳にタコができるばあですよ」


「くれぐれもだぞ! くれぐれも!!」


「こじゃんと、かなわん……」


 龍馬がめんどくさそうに答えながら、しかし足取りは少し慎重になっていた。


 近藤が門で二人を迎えた。


 近藤は坂本龍馬を一目見て、静かに分析した。


 大きい。剣を使う者の体格だ。しかし——力だけではない。目に何かがある。まだ定まっていない何かが。


「お越しをお待ちしておりました。どうぞ」


 三

 座敷に通された。


 龍馬は座敷に入った瞬間から、また周囲を見回していた。


 床の間の掛け軸。天井の高さ。畳の質。そして——


 御簾。


 奥に下がった御簾を見た瞬間、龍馬の体が少し固まった。


 あの向こうに、人がいる。


 普段は誰とでも気安く話せる龍馬が、この瞬間、急に緊張した。


 勝が小声で言った。


「な、緊張しただろう」


「……ちいとばかし」


「お前が緊張するの、初めて見たな」


「先生みたいに何度もお会いしているわけじゃないきに」


「とにかく、礼儀を守れ」


 勝と龍馬が平伏した。


「勝麟太郎義邦、またの拝謁の機会をいただき、誠にありがたきに存じます。そして私の隣にいる男が先日、姫様にお話しさせていただきました、坂本龍馬なる者にございます」


 龍馬が深く頭を下げた。


「坂本龍馬にございます。このたびは、お目にかかれてまっこと光栄に存じます」


 少し間を置いて、龍馬が続けた。


「わしは土佐の城下、才谷屋という商家から出た下士のせがれでございます。剣術修行で江戸へ出てきちょりました。今の日本は、まるで時化に遭うた小舟のよう。幕府も朝廷も、足並みが揃うておらんままでは、異国の波に飲み込まれてしまいかねんです。まっこと、土佐の山から飛び出した一介の郷士にすぎんがですが、日本の選択?を成し遂げたいという志だけは、誰にも負けんつもりぜよ」


 声が大きかった。


 しかし本人は精一杯、抑えているようだった。


「隣におわす勝先生との出会いは、まっこと奇妙な縁でございました。わしは開国を唱える先生を斬るつもりで屋敷へ乗り込んだがです。ところが、先生のお話を聞くうちに、自分の考えがいかに狭いものかと思い知らされました。先生は『今の日本に必要なのは軍艦と海軍だ』と、広い世界を見据えておられた。その大きさにすっかり惚れ込み、その場で『弟子にしてつかあさい』と頭を下げたがです」


 龍馬が少し顔を上げた。


「今日、こうして勝先生に連れられ、近衛様という雲の上のようなお方にお会いできるとは、夢にも思うておりませんでした。この屋敷の佇まい、漂う空気の清らかさに、わしゃあ身の引き締まる思いぜよ。けんど、こうして膝を突き合わせ、お話しできる機会をいただいたからには、わしの持てる知恵も命も、すべてこの国の行く末のために捧げる覚悟でございます」


 龍馬が再び深く頭を下げた。


「なにとぞ、よろしくお願いいたしとうせ」


四

 糸子は御簾の内で、坂本龍馬の口上を聞いていた。


 声が大きい。しかし偽りがない。


 この人は——演じていない。


 御所の公家の前でも、江戸の武士の前でも、おそらく同じような話し方をするだろう。


 糸子はまず、その点を評価した。


 大きな男だった。


 御簾の外に座っているその姿を、糸子は静かに観察した。


 背が高く、肩が広い。剣を使う者の体格だ。しかし体の動かし方が、剣術家の硬さではなく、もっと自由な感じがあった。


 目が明るかった。


 しかしその目に、まだ何かが定まっていない。


 焦りと、可能性が混じり合ったような目だ。


 これが——本物の坂本龍馬か。


「坂本殿、ようこそ」


 糸子が言った。


 龍馬が少し顔を上げた。


「はい、かたじけない。礼を言うぜよ」


「先ほどの口上、お聞かせていただきました。日本の洗濯、という言葉が気になりましてございます」


「はあ、ほうですか」


「少し詳しく、お聞かせいただけますでしょうか」


五

 龍馬は少し姿勢を正した後、話し始めた。


「今の日本にゃあ、三つのもんが足りんと思うちょります。一つは海軍。もう一つは、この国ちゅうもんを動かす力。そして三つ目は——各藩がばらばらに動くきに、それをやめさす仕組みにございます」


「海軍については、勝殿から学んでいるということでございますね」


「はい。西洋の列強っちゅうもんは、軍艦で動き回っちゅうがです。その軍艦なしに、日本が外国と対等に付き合うこたぁできん。まずは海軍を作ることが、一番の急務やと思うちょります。」


「この国全体を動かす力、というのは?」


「幕府でも一藩でもなく——この国全体が一つになって動く力ながです。例えば、薩摩と長州がばらばらに動いちょっても力はありませぬ。けんど、この二つが手を組めば、大きな力になりますき」


「薩摩と長州が手を組む、という考えでございますか」


「はい。今は反りが合うておりませぬが——」


「なぜ対立しているのですか?」


 龍馬が少し考えた。


「両藩の間に、いくつかの行き違いと利害の対立がございましょう。けんど、根本的な目的——この国をどうしていくかという志——においては、必ずや一致できるはずながです」


「その一致をどのようにして作りましょうや?」


「仲介ながです。どなたかが間に入って、両方の言い分を聞き、同じ志を持っちゅうことを確かめれば——」


「その仲介を、あなたがするということでございますか?」


「……左様に考えちょります」


六

 糸子は静かに聞いていた。


 龍馬の話は、大きかった。


 海軍。薩長の連携。日本全体の改革。


 しかし——


「坂本殿」


 糸子が言った。


「はい」


「一つだけ確認させてくださいまし。海軍を作って、薩長を繋いで、日本を洗濯して——その後、この国はどうなりましょうや」


「え?」


「具体的には、どのような国になりましょうや?」


 龍馬が少し考えた。


「えっと……異国と対等に付き合える、開かれた国になりますき」


「それは目的地ですか。それとも途中の景色でしょうか?」


「……どういう意味ながですか?」


「対等に付き合える国になることは、到達点ではないという意味でございます。では到達点は何でありましょう。この国の人々が、どのような状態になることが、洗濯の完成でございますか」


 龍馬が少し止まった。


「……それは」


「具体的にお聞かせくださいまし」


 糸子が静かに続けた。


「坂本殿のお話しは、それは——夢の話でしょうか、計画でありましょうや?」


「えっ」


「夢なら誰でも語れましょう。わたくしも夢を持っておりまする。なれど計画には、具体的な手順と、現実の制約と、失敗した時の次の手が必要でございます。坂本殿の話には、今のところその部分が——」


 龍馬が少し背筋を伸ばした。


「……言われてみれば、左様ながです」


「では、海軍を作る話から始めましょう。費用はどこから出しましょうや?」


「それは——各藩から寄せるか、あるいは……」


「各藩が海軍の費用を出す動機は何でございますか。今、各藩は自藩の利益を優先しておりましょう。海軍に費用を出すことで、その藩に何が得られましょうや」


「……国全体の守りが強まりさえすれば」


「その利益は、藩に直接返りませんね。公共財の問題でございます。公共財に個々の主体が自発的に費用を出すためには、何らかの仕組みが必要でございます。その仕組みは何でございましょうか?」


 龍馬が少し黙った。


「人材はどうでしょう。海軍を動かせる人材はどこから集めましょうや?」


「それは——藩の中より」


「各藩が優秀な人材を海軍に出す動機は何でございますか」


「………」


「建造する技術は、どこから得ましょうや。外国から買いまするか。自国で作りましょうか。外国から買えば外国への依存が生まれましょう。自国で作るには、まず技術者の育成が必要でございます。その育成には何年かかりましょうや?」


 龍馬が額に汗をかき始めていた。


七

 廊下で控えていた近藤が、土方に小声で言った。


「……姫様、かなり攻めているな」


「見ていればわかる」


「坂本殿が押されている」


「当然だ。あの姫様の問いに、即興で答えられる人間はいない」


 近藤が少し心配そうな顔をした。


「あまり攻めすぎて、坂本殿が立ち直れなくなれば——」


「それはない」


 土方が静かに言った。


「姫様は、壊すために問うているのではない。確認するために問うている」


「確認?」


「この男がどこまで考えているかを、確認している。問いに答えられなかった部分が——この男の課題だ。姫様はその課題を見つけようとしている」


 勝が座敷の後ろで、一人で苦笑いしていた。


(龍馬、頑張れ……)


八

「薩摩と長州を繋ぐ話に戻りましょう」


 糸子が続けた。


「なぜ薩摩と長州が繋がる必要があるのでございましょう——その根拠を教えてくださいまし」


「薩摩と長州は、西国の有力な藩ながです。この二つが手を組めば、幕府に対して大きな圧力を……」


「幕府に圧力をかけることが、目的でございますか」


「……それは手段で」


「では目的は何でございますか。薩摩と長州が手を組むことで、最終的に何が実現しましょうや?」


「それが、この国の改革への確かな一歩になると信じちょります。」


「改革の内容は何でございますか?」


「えっと……幕府の権力を縮めて、より多くの者が政に関われる仕組みを……」


「その仕組みを、誰が作りまするか」


「……各藩の有力者がぁ」


「各藩の有力者が作れば、各藩の利益を優先した仕組みになる可能性がございましょう。この国全体の利益を優先した仕組みを作るためには、各藩の利益より上位にある権威が必要でございます。その権威は何でありましょうや」


 龍馬が止まった。


「……」


「それは御門様ですか。幕府ですか。それとも別の何かでございますか」


「主上様……でしょうか」


「御門様の権威を政治に活かすための仕組みを、どのように作りましょうや?」


 龍馬が完全に黙った。


 勝が後ろで、静かに頭を抱えていた。


九

「日本を洗濯するとはどういうことか、最後に聞かせてくださいませ」


 糸子が言った。


「具体的に何を洗濯するのでございますか」


「……不平等な条約を、対等なものに改める。古うなった仕組みを、今の世に合うたものに変えるがです。」


「その洗濯を、誰が決めまするか。あなたですか。薩摩ですか。長州ですか。幕府ですか。御門様でございますか」


「……それは、話し合いで」


「誰と誰が話し合うのでございますか。何を根拠として話し合うのでありましょう?。一方が他方に押しつけることなく、この国全体の合意として変化を作るためには——何が必要でございましょうや」


 龍馬がしばらく動かなかった。


 精魂尽き果てた顔だった。


「……わしには、答えられんです」


 その言葉が、静かに座敷に落ちた。


「…堪忍してつかあさい」


 そして龍馬は…ちょっと泣きそうになっていた。


十

 しばらくの沈黙があった。


 勝が後ろで、深呼吸した。


 近藤が廊下で、土方を見た。


 土方が小さく頷いた。


 そして糸子が、静かに言った。


「坂本殿」


「……はい」


「今の問いに答えられなかったことは、恥ではありませぬ」


「え?」


「今の問いは——わたくしが数年かけて考えてきたことでございます。即興でお答えできる問いではございません」


 龍馬が少し顔を上げた。


「では——」


「一つずつ、お話し致しまする」


 糸子が続けた。


「まず海軍の費用について。費用の問題を解決する一つの方法は、商売の利益を海軍の建設に向けることでございます。各藩が個別に出費するのではなく、共同の商社のような仕組みを作り、その利益を防衛に回す。各藩にとっての動機は、商売からの利益でございます」


 龍馬が少し目を開いた。


「商社……」


「薩長の連携についての根拠は——この二藩だけではなく、より多くの藩が、共通の目的に向かって動ける仕組みを作ることでございます。その共通の目的として、外国との対等な関係の確立というものを提示できれば——藩の利害を超えた連携の根拠になりましょう」


「異国との対等な付き合いを、共通の志として……」


「はい。攘夷でもなく、ただの開国でもなく——対等な関係の確立という目的は、どの立場の者にも共有できましょう」


「……なるほど、左様ながですか」


「洗濯の根拠については——御門様の権威を使いまする。御門様が認めた変化は、この国全体の合意として成立しやすい。幕府でも藩でもなく、御門様を中心に据えた合議の仕組みを作れば——誰かが押しつけるのではなく、共通の権威に基づいた変化ができましょう」


 龍馬がしばらく黙っていた。


「……なして、そがいに細かに考えられるがですか?」


「数年かけて考えてきました。それだけでございます」


「けんど——」


 龍馬が御簾の方を見た。


「姫様は、おいくつになられますがですか?」


「十二になりまする」


 龍馬がまた黙った。黙ってしまった。


 長い沈黙があった…


十一

「坂本殿、あなたの夢は正しい方向を向いておりまする」


 糸子が言った。


「……えっ」


「海軍が必要であること、薩長の連携が必要であること、この国全体の変化が必要であること——全部、正しいでのでございましょう。方向は正しい…」


「けんど——」


「なれど、まだ地図がないのでごさいましょう。地図なしに歩いても、目的地には辿り着けませぬ」


「地図を——どうすれば」


「わたくしが持っておりまする」


 龍馬が御簾の方を見た。


「持っちゅう、とは?」


「この国が対等な国として外国と付き合えるようになるための地図を、わたくしは数年かけて作ってまいりましてございます。御門様との関係を深め、外交の論理を整え、幕府の開明派と情報を共有し、言葉で外国と渡り合う準備をしてきました。その地図があれば、あなたの夢に具体的な道ができましょう」


「……それを、わしに?」


「条件があります」


「何じゃろうか」


 糸子が少し間を置いた後、はっきり言った。言い切った。


「坂本、あなたはわたくしの——いえ、近衛家の犬におなりなさいな」


十二

 座敷が静まり返った。


 勝が顔を手で覆った。


 近藤が廊下でわずかに動揺した。


 土方が「やはりこの姫には逆らってはいけない」という顔をした。


 龍馬は、しばらく御簾の方を見ていた。


 その顔に、様々なものが通り過ぎていった。


 驚き。戸惑い。考え。そして——


「犬とは、どういう意味ぜよ?」


「近衛家のために動くということでございます。わたくしが必要だと判断した時に、わたくしの代わりに動ける人間になるということでございます」


「どがいな動きを?」


「今すぐ具体的には言えません。なれど——あなたには、わたくしが行けない場所に行ける力がありましょう。わたくしは御所の近くにおりまする。あなたは海の近くにいる。薩摩にも長州にも、身軽に動けまする。その違いが必要でございます」


「……つまり、姫様の手足になれと?」


「手足というより——別の目と耳を持つということでございます。わたくしが見えないものを見てくる。聞こえないものを聞いてくるのでございます」


「その代わりに——地図を?」


「その代わりに、地図を共有致しましょう。あなたが動く方向が、地図の示す方向と一致するように——一緒に考えましょう」


 龍馬がまた長い間、考えた。


 座敷の時間が、ゆっくり流れた。


 やがて龍馬が言った。


「……承知したぜよ」


「本当によろしいでございますか」


「はい。わしは……正直なところ、これまで自分がどこへ向かやあええんか、さっぱり分かっちょりませんでした。勝先生のお話を聞かせてもろうて、海軍が必要っちゅうことはよう分かりました。けんど、その先がまだ見えちょりませんでしたき。」


「はい」


「姫様に今日、めっためたにやられてしもて——」


 勝が後ろで思わず笑い声を上げかけた。


「……一つ分かったことがありますき」


「何ですか」


「わしが答えられなんだ問いに、ことごとく答えを持っちゅうお方がおる。やったら——そのお方の犬になることは、恥でも何でものうて、むしろ光栄なことにございます。」


 龍馬が頭を下げた。


「まっこと、承知いたしました、姫様」


「よしなにお頼み申します、坂本」


十三

 龍馬と勝が帰り始めた後、廊下で勝が小声で龍馬に言った。


「お前、本当にいいのかい?」


「何がぜよ、先生」


「近衛家の犬になるって言っていたが」


「構わんぜよ。あの姫様が主やと言うがなら、むしろ光栄ぜよ」


「……普通じゃない反応だな」


「先生はどう思われるがぜよ?」


「オイラは——」


 勝が少し考えた後、言った。


「あの姫様は、本物だ。オイラが今まで会った人物の中で——あれほど具体的に、あれほど遠くまで考えているお人は、ちょっといねーな」


「のう。わしもそう思うぜよ」


「負けを認めるのは、お前らしくなかったが」


「負けを認めて、その上で立ち上がる――それが人間というもんぜよ。負うたことのない者は、立ち上がる力を知らんき。わしゃあ今日初めて、まことの意味で負けた。……やき、立ち上がれる気がするがぜよ」


 勝が龍馬を見た。


「……目が変わったな、お前さん」


「え?」


「来た時と、目が明らかに違うぜ」


 龍馬が少し首を傾けた。


「ほうかえ?」


「実に良い目になった…」


(龍馬をあの姫様に会わせて正解だったぜ…)


 龍馬を見ながら、そう思う勝であった。


十四

 勝が最後に糸子に挨拶した。


「あの言い方は——かなり乱暴だったぜ」


「効果的ではありませんでしたか?」


 糸子が少し恥ずかしそうに言った。


「……効果的でした。あの男は、今まで誰にも本当の意味で負けたことがなかった。しかし今日、姫様に負けた。そして負けてから、目が変わりました」


「変わりましたか」


「はい。実に良い目になりました。今までの迷いがある目ではなく——何かが定まった目になりました」

「それは、よかったです」


「姫様、一つ申し上げてよいか?」


「はい」


「あの男は——必ず大きくなります。今日、姫様に会って、地図を得た。その地図がある限り、あいつは正しい方向に動けます」


「重畳に存じます」


「あと——」


 勝が少し笑った。


「オイラも、もし役に立てることがあれば、遠慮なくおっしゃってください。近衛家の犬は、龍馬だけじゃなくてもいいのかもしれません」


「勝殿も?」


「いえ、わたくしは犬ではなく——旧知として、という形で…」


「では旧知として、よしなにお取り計らい願いたく存じまする。」


十五

 勝と龍馬が帰った後、糸子は一人で帳面を開いた。


 春の夕刻が、庭に長い影を作っていた。


 若葉の匂いが、開いた窓から入ってきた。


「坂本龍馬と会った。思わず言い負かしてしまった。そして——近衛家の犬になることを承諾させてしまった」


 糸子は少し間を置いた後、続けた。


「坂本龍馬。この人物が、前世の歴史において何をしたかを、わたくしは知っている」


「薩長同盟を実現する。大政奉還に貢献する。海援隊を作る」


「そして——慶応三年、暗殺される」


 糸子の筆が、少し止まった。


「今から約八年後に、この人物はいなくなる」


「しかし今、この人は生きている。目も変わった。これから大きく化けるかもしれない」


「八年間。長いようで短い。その数年間で、この人に何をしてもらえるか?」


「地図を渡した。これから、その地図を使って動いてもらう」


「そして——」


 糸子は帳面に書いた。


「その最期を、わたくしは変えられるのか?」


 その一行を書いた後、しばらく帳面を見た。


 答えは、まだない。


 しかし問いは生まれた。


 それが、糸子と龍馬の関係の最初の問いだった。


「…あと機会を見つけて、あの漫画のことも聞いてみよう。多分現実は厳しそうだけれども」と、密かに思う糸子であった。


十六

 近藤が縁側で夜番についていた。


「姫様、今日はいかがでしたか」


「坂本は——本物でございました」


「それはよかったですね」


「よかったと思いまする。あの方は動く人間でございます。動く力を持っている。その力に地図が合わされば——何かが変わるかもしれません」


「姫様が犬という言葉を使ったのには、驚きましたが…」


「少し乱暴でしございましたか?」


「……正直に申し上げれば」


「なんでしょう?」


「乱暴でしたが、効果的でした。あの男の目が、言葉を聞いた後に確実に変わりました」


「近藤殿にもそう見えましたか」


「はい。守護者ですから、見ておりました」


 糸子がしばらく黙った後、言った。


「近藤殿、一つだけ聞かせてくださいまし」


「はい」


「坂本のことを、守ってほしいと言ったら——難しいでしょうか」


「……どういう意味ですか?」


「近衛家の関係者になったということは——何かがあった時に、旭狼衛が動ける対象になる可能性があるということでございます。今すぐにではありませぬが、将来的に…」


 近藤が少し考えた後、答えた。


「姫様が必要と判断される方ならば——旭狼衛は動きましょう」


「かたじけなく存じます」


「ただし」


「はい」


「姫様が一番の守護対象です。坂本殿への守護は、姫様の守護の範囲で行います」


「それで十分でございます」


 春の夜が深まっていた。


 庭の若葉が、夜の風に静かに揺れていた。


 近衛糸子は帳面を閉じた。


 坂本龍馬という人物が、これからこの国の何を変えるか——それは、まだ分からない。


 しかし今日、その人物が覚醒への扉を開いた。


 その扉の向こうに何があるかを見るために、糸子はまだ、動き続けなければならなかった。


 第三十九話 了

勝と龍馬の帰り道…


「龍馬、江戸に帰ったらお前さんに贈り物をしてやるぜ」勝

「進物かの? 先生、何ながですか?」龍馬


「立派な首輪を買ってやるぜ、あと芸もついでにしこんでやろう」勝

「勘弁しとうせ、先生。そればっかりは、堪えてつかあさい」龍馬


「うわははははーーーーっ」お互いに笑い合う二人であった。

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― 新着の感想 ―
なぜ龍馬が死ぬ前提で進めるのですか? 既に歴史は大きく変わり龍馬が死ぬ必然は薄れています、糸子が狙われる可能性はかなり高く身代わりで死ぬというのなら納得できます。
この時代って戦国時代と同じくらい人が濃いと言うか、キャラ立ってるよねぇ。
亀山社中爆誕の真実(*´ω`*)
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