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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第三十八話「勝海舟という人」

一

 安政六年の春が、京に来ていた。


 御所の周囲の桜が咲き始めていた。


 薄いピンクの花びらが、朝の光を受けてかすかに輝いていた。冬の間ずっと枯れ枝だった木々が、一夜にして花を纏う。その変わり方の速さが、毎年糸子には不思議だった。


 縁側に出て、庭の桜の一枝を眺めていた糸子に、お梅が声をかけた。


「姫様、善次郎殿からの文が届いております」


「おおきに」


 文を受け取って開いた。


 善次郎の文は、いつも丁寧な字で書かれていた。


「姫君様、ご報告と、一つお願いがあります」


 糸子は読み進めた。


『このたび、ある方から姫君様への拝謁を強くご所望の書状をいただきました。その方のお名前は、勝海舟様と申します。幕府の軍艦方として、長崎の海軍伝習所でオランダ人から海軍技術を学ばれた方です。万次郎殿のご紹介にて、姫君様の存在をお聞きになり、是非ともお会いしたい、どうか機会をいただきたいとのことで、このような書状をしたためられました。その熱意はかなりのもので、わたくしも驚いております』


 文の後半に、勝の書状が同封されていた。


 糸子は勝の書状を開いた。


 流麗な字だった。しかし内容は、むしろ直截的だった。


『急啓。

 突然の白書を差し上げ、不礼の段、平に御容赦願いたく候。


 この度、万次郎殿より近衛家姫君様の御一事を聞き及び、居ても立ってもいられず、急ぎ一筆啓上仕り候。


 姫君様におかれましては、英学を修められ、条約の難題に御関与の志あられるとのこと、正直のところ、当初は到底信じ難きことに存じ奉り候。


 されど、万次郎殿の話したる内容、あまりに詳細かつ具体的であり、ただならぬ気配を覚え候。


 なにとぞ直々にお目にかかり、真偽を確かめさせていただきたく、伏して拝願申し上げ候。


 恐惶謹言。』


 糸子は書状を読み終えて、少しの間、何も言わなかった。


 勝海舟。


 前世の歴史知識の中で、その名前は非常に大きかった。


 咸臨丸で太平洋を横断した人物。坂本龍馬の師。江戸城無血開城の立役者。


 その勝海舟から、是非会いたいという書状が来た。


(……超びっくりだ)


 糸子は思わず心の中で前世の言葉で呟いた。


 公家の姫としての品格を保ちながら、内心は相当に動揺していた。


二

 返書を書いた。


『恐れながら申し上げます。近衛糸子にございます。


 この度、勝様より御書状を賜り、誠に有り難く存じます。


 是非ともお越しいただきたく存じますれば、御ゆかりの折にでもお運びくださいませ。


 ただし、当日は御簾越しでの対面となりますこと、あらかじめお含み置きくだされたく存じます。


 恐々謹言。』


 文を送り、二週間後に勝海舟が京にやって来た。


 当日の朝、近藤が報告に来た。


「姫様、勝様がいらっしゃいました。お供は二名です」


「はい。お通しして頂戴」


「御意」


 近藤が戻りながら、土方に小声で言った。


「勝海舟殿だ。幕府の軍艦方で、長崎で海軍を学んだ方だそうだ」


「どのような方だ」


「まだ会っていないから分からない。しかし万次郎殿から姫様のことを聞いて、京都まで来たそうだ」


「万次郎殿から?」


「ああ。姫様の英語と、条約への関わりを聞いて——確かめに来たとのことだそうだ」


 土方が少し眉を上げた。


「それで、姫様のお気持ちは?」


「……表情からは読み取れなかった」


「珍しいな」


三

 座敷に通された勝海舟は、最初に部屋全体を一度だけ見渡した。


 御簾が下がっていた。


 その内側に気配がある。


 善次郎が隣に座っていた。


 勝は三十六歳だった。がっしりとした体格で、顔に精気があった。しかしその精気の中に、どこか笑いを含んだ余裕があった。


 勝が深く頭を下げた。


 それはかなり丁寧な礼だった。


「勝麟太郎義邦、拝謁の機会をいただき、誠にありがとう存じます。まずは自己紹介をさせていただきます」


 糸子が御簾の内から言った。


「どうぞ」


「わたくしは江戸の旗本の家に生まれました。幼少より武芸と学問に励み、成長ののちに長崎の海軍伝習所に入り、オランダの方々から航海術、測量、砲術を学びました。その後、江戸に戻り、現在は講武所と軍艦操練所にて、後進の育成にあたっております。また幕府の海軍の整備についても、微力ながら関わっております」


「よしなにお頼み申します、勝殿」


「ところで——」


 勝が少し間を置いた。


「万次郎殿から、近衛の姫様が英語をお話しになるとのことを聞いて参ったのですが——本当でございましょうか」


「試してみてくださいまし」


 御簾の内から穏やかに言った。


「……試してみてよろしいのですか?」


「はい、遠慮せずどうぞ」


 勝が少し緊張した様子で、英語を口にした。


「Good morning. My name is Katsu Kaishu. I heard that you speak English. Is that true?」

(おはようございます。わたくしは勝海舟と申します。英語をお話しになると聞きましたが、本当でしょうか)


 御簾の内から、少しの間があった後、答えが来た。


「Good morning, Mr. Katsu. Yes, I have been studying English for about three years. I hope my pronunciation is acceptable.」

(おはようございます、勝殿。はい、英語を学んで約三年になります。発音が問題ないといいのですが)


 勝が止まった。


 完全に止まった。


 しばらく動かなかった。


 善次郎が勝の顔を見た。


 勝の顔に、様々な感情が素早く通り過ぎていった。驚き、困惑、確認、さらなる驚き——そして何か別のものが混じった表情に落ち着いた。


「……」


「勝殿?」


「……ちょっと待ってください」


 勝が少し前に乗り出した。


「Your pronunciation... it's very clear. Where exactly did you learn?」

(発音が……非常に明瞭です。どこで学ばれたのですか)


「I learned from Mr. Murata Zoroku and Mr. Nakahama Manjiro. Mr. Murata taught me the foundations, and Mr. Nakahama helped me with practical conversation.」

(村田蔵六殿と中浜万次郎殿に教わりました。村田殿が基礎を、万次郎殿が実践的な会話を教えてくださいました)


「I see... but I must say, your pronunciation is smoother than mine.」

(なるほど……しかし正直申し上げて、姫様の発音はわたくしより流暢です)


「You are too kind.」

(ご冗談を)


「No, I'm serious. I spent time at the Nagasaki Naval Training Institute, but... damn. I mean, I apologize.」

(いいえ、本気です。長崎で海軍伝習所にいたのですが……おっと、失礼しました)


四

 勝が日本語に戻した。


「これは——本物だ」


「勝殿、何か問題がございましょうや?」


「いや、問題どころか——万次郎殿がなぜあれほど興奮していたか、ようやく分かりました」


 勝が少し笑った。


「幕府の交渉担当者たちも、英語は勉強しております。しかしあれほど自然に使えるかといえば——正直なところ、そうではありません。発音もわたしよりもうまい。これは——」


「お褒めにあずかり、もったいなきお言葉」


「褒めているのではなく、事実を述べております。わたしは長崎で二年以上、外国の方々と共に学びました。それでもあの水準には——」


 勝が少し考えた後、言った。


「姫様、失礼ながら——なぜ英語をこれほど徹底的に学ばれたのですか」


 糸子が答えた。


「条約文を直接読んで確認するためです。そして条約交渉の場で、相手の言葉を直接理解し、こちらの言葉を直接伝えるためです」


「条約交渉の場に、姫様が?」


「御門様から、天朝外語御用掛というお役目を賜っておりまする。御門様のご意向を南蛮の言葉で伝える役でございます」


「……主上様から、正式に?」


「左様でございます」


 勝がしばらく黙った。


「分かりました。万次郎殿が言っていたことが、全て腑に落ちました」


五

「勝殿、今日は何かお聞きしたいことがあってお越しになったのではございませんか?」


 糸子が言った。


「はい、実は——少し失礼なことをお聞きするかもしれませんが」


「どうぞ」


「条約交渉の場で、姫様は何をしようとされていますか。具体的には?」


 糸子が答えた。


「三つありまする。一つ目は、英文の条約文と和文の条約文に差異がないかを直接確認すること。二つ目は、相手側の主張の論理的な問題点を指摘すること。三つ目は、御門様の条件——相互主義、関税の自主権、金銀の適正交換——これらを交渉の場に持ち込むことでございます」


 勝が少し眉を上げた。


「相互主義を——直接交渉の場で主張されると」


「はい」


「ハリスが相手ですよ」


「存じておりまする」


「ハリスは交渉の場で、かなり強引な戦術を使います。具体的には——」


 勝が前に乗り出した。


「まず時間的な圧力をかけます。本国からの期限があると言って、急がせる。焦った相手は、不利な条件でも飲みやすくなります」


「その焦りを逆用することはできましょうや」


「逆用?」


「相手が急いでいるなら——こちらが明確な条件を提示することで、交渉を一点に集中させることができましょう。出口を示せば、急いでいる相手は今すぐ決着させようとしまする」


 勝が少し考えた後、言った。


「……その発想は正しい。しかしその条件が相手にとって受け入れられるものでなければ、かえって交渉が長引きます」


「だからこそ、相手がどの条件なら受け入れられるかを事前に把握しておく必要がございます」


「そのために——万次郎殿を使ったのですか」


「はい。万次郎殿からハリスという人物の思考の癖を学びましてございます。どのような論理に弱いかを。どのような状況で焦るかを」


 勝がしばらく黙った後、言った。


「……わたしより、準備が整っている」


「まだ不十分でございます」


「どこが不十分だと思っておられますか」


「実際の交渉の場の空気感です。どのような緊張があって、どのような流れで議論が動いていくか——これは経験した方からお聞きしなければ分かりませぬ」


「それを——わたしに聞かせに来い、ということですか?」


「今日、勝殿が来てくださった理由の一つは、それではないのですか?」


 勝が少し笑った。


「姫様は実に……鋭い」


六

 勝が教えてくれたことは、糸子が書物では得られなかった情報だった。


「ハリスは論理的な人間です。しかし同時に、感情的な部分も持っている。特に——自分が軽んじられていると感じた時に、感情的になりやすい」


「軽んじられていると感じた時?」


「そうです。日本側が自分の提案を全く理解していないと思われた時——あるいは日本側に論理的に反論されて、それに応えられないと感じた時——ハリスは感情的になります。そしてその状態では、判断が乱れます」


「つまり——ハリスを感情的にすることは、交渉を有利に進める可能性があると…」


「その通りです。しかし難しいのは——感情的にさせる方法が、相手に対して失礼にならない形でなければならないことです。露骨に挑発すれば、交渉が決裂します」


「では、どうすれば?」


「相手が知っている原則を使うことです」


 勝が言った。


「相手の拠り所にしている論理を、相手自身に向けることで——相手は感情的になりながらも、論理的には反論できなくなります」


 糸子が静かに言った。


「相互主義という原則を、アメリカの価値観として突きつける、ということでございましょうか」


「……それを、もう考えておられたのですか?」


「万次郎殿から、アメリカが自由と平等を建国の精神としていると聞きました。その精神を使えば、相手は自国の精神に反することなしには否定できなくなりまする」


 勝が少し間を置いた後、言った。


「相手の時間的な圧力を、こちらの条件の実現に使う。そして相手の自国の価値観を、こちらの主張の根拠にする。この二つを組み合わせれば——」


「交渉の主導権を取れる可能性がございまする」


「……正直に申し上げます」


 勝が言った。


「わたくしは幕府の交渉担当者たちを見てきました。実に優秀な方々です。しかし——姫様の考え方は、彼らとは根本的に違ます」


「どこが違いましょうや」


「彼らは『相手にどこまで譲るか』という発想で交渉に臨みます。しかし姫様は——『相手をどう動かすか』という発想で臨もうとしておられる」


「その違いは重要でありましょうや?」


「決定的に重要です。前者は守りです。後者は攻めです。同じ交渉の場でも、守りと攻めでは結果が全く違います」


七

 対話が深まる中で、勝がふと話題を変えた。


「一つ、お願いがあります」


「何でございましょうか?」


「一人、姫様にご紹介したい人物がおります」


「どのような方でございましょう?」


「名を坂本龍馬と言います。土佐藩の郷士です」


 トクン…と糸子の胸が静かに動いた。


 坂本龍馬。


 前世で何度も聞いた名前だった。


「どのような方なのでございますか?」


 勝が顎に手を当て、少し考えてから言った。


「まず、剣の腕前は相当なものです。北辰一刀流の免許皆伝を持っています。しかしそれ以上に——人を見る目が鋭い。物事の本質をつかむのが速い」


「どのような考えを持っておりましょうや」


「今はまだ——少し間違った方向に向いています」


「間違った方向とは?」


「当初は、尊王攘夷の急進的な立場を取っていました。幕府の要人を問題のある者として、排除しようとする気持ちがあった」


「それが変わりつつあるのでございますか」


「はい。わたしのことを、アイツは斬りに来たのです」


「……斬りに?」


「幕府の犬として、排除しようとしていたのです。わたしを…」


 糸子が少し間を置いた。


「それで、どうなりましたでしょうか?」


「わたしの話を聞いて、考えが変わりかけています。海軍の話、世界の情勢の話——日本がどうあるべきかについての話を聞いて」


「完全には変わっていらっしゃらないのですか?」


「まだ途中です。しかし——あなたに会えば、完全に変わるかもしれない…」


「なぜそう思われるのでございましょうか?」


 勝が少し考えた後、言った。


「あいつは実に面白い人物です。姫様にとってみれば、土佐藩の郷士——それこそそこら辺の有象無象の連中と大差ないとお思いになるかもしれません。お会いになる価値のない人間かもしれません」


 勝が続けた。


「しかし、どうにも本日…姫様にお会いして——わたしの勘がささやくのですよ。龍馬に会わせれば、必ず面白くなるって…」


 勝が平伏する。


「どうか伏してお願い致します。姫様に龍馬をご紹介させていただく機会をいただけないでしょうか?」


八

 御簾の内の糸子は、少し黙っていた。


 坂本龍馬。


 その名前を聞いた時、糸子の胸の中で何かが動いた。


 前世の歴史知識の中で、坂本龍馬という人物は特別な位置を持っていた。


 薩長同盟の仲介。大政奉還への貢献。海援隊の創設……


 そして——慶応三年に暗殺される。


 その事実も、糸子は知っていた。


 今から約八年後に、この人物はいなくなる。


 しかし今、この人物は生きている。


 糸子はその問いを、心の中で整理した。


「坂本殿について、もう少し教えていただけましょうや。その方が今、どのような状態にあるのかを…」


「はい。今は、攘夷から開国への移行の途中にいます。幕府を否定することから、日本全体をどうするかという問いに移りかけている」


「その問いへの答えは、持っておりましょうや」


「まだありません。だから——行動が空振りになりかけている。どこに向かって動けばいいか、まだ分かっていない」


「その状態の人物に、今わたくしが会う意味はありましょうか?」


 勝が少し考えた後、言った。


「意味はありと思っております」


「なぜでしょう?」


「姫様は、答えを持っていらっしゃいます。この国がどうあるべきかについての、具体的な答えを。龍馬はその答えを探している。その二人が会えば——龍馬に地図が生まれます」


「地図?」


「目的地と、そこへの道筋です。龍馬は動く力を持っていますが、地図がない。地図があれば——この国で最も速く、最も遠くまで動ける人間になるかもしれません」


「……………」


 何かを考える糸子。


九

 座敷の外の廊下では、近藤が警護についていた。


 その隣に土方がいた。


 御簾越しの対話は聞こえていなかった。しかし座敷の空気感は、廊下にいても何となく感じられた。


 近藤が少し体を動かした。


「土方、今の姫様の気配が分かるか?」


「……何か考えている?」


「そう。何かを考えている時の気配だ。しかし、普通の何かを考えている時の気配と、少し違う…」


 土方が近藤を見た。


「どう違う?」


「(自主規制)突の時と——(自主規制)流の時と——同じ気配だ…」


 土方がしばらく黙った後、静かに言った。


「……まさか!」


「おそらく——勝殿が紹介しようとしている人物について、何か思うところがおありなのだろう」


 近藤の目が光った。


「またあの気配が出た。これは——何かあるぞ!」


「近藤さん」


 土方が静かに言った。


「今回は——深追いしない方がいいかもしれん」


「なぜだ?」


「(自主規制)突の時は試衛館が研究した。(自主規制)流の時も試衛館が研究した。今回はその比ではないかもしれない」

「そんな気がしてならない…」


 近藤がしばらく土方を見た後、笑った。


「それはそれで、面白そうだがな」


「おれは面白くない…」


「なぜだ?」


「(自主規制)突は剣術の話でした。(自主規制)流も剣術の話だった。しかし今回は——人の話になるような気がする。人が関わると、話は複雑になる」


 土方が少し後退した。


「今回はおれは遠慮させてもらますよ、近藤さん」


「わはははー、土方は心配症だな!」


 ばんばん土方の肩を叩く近藤だった。


十

 座敷の中で、糸子は決断した。


「…分かりました、勝殿」


「……本当に?」


「はい。坂本様をご紹介してくださいまし」


 勝が少し目を大きくした。


「本当によろしいのですか。先ほど少し迷っているような——」


「迷っておりました。なれど決めました」


「どういう理由で、お気持ちが変わりましたか?」


 糸子が少し間を置いた後、答えた。


「地図を持っていても、動く人間がいなければ意味がありませぬ。動く人間がいても、地図がなければ迷いまする。その二つが揃えば、動けます」


「なるほど」


「ただし、一つ条件がございます」


「何でしょうか?」


「坂本様に会う前に、勝様からその方の今の状態を詳しく聞かせてくださいまし。どのようなお考えをしていて、どこで迷っているのか?」


「それを事前に把握した上で、お会いしとうございます」


「それは——今日、話を聞いていただけるのでしょうか」


「はい。勝殿はお時間はまだありましょうや」


「大丈夫です、姫様」


「では、坂本様について、もう少し教えてくださいまし」


十一

 勝が龍馬についての話を続けた。


「豪快な男です。見た目も大きく、声も大きい。しかし——騒がしいだけではない。ある種の静けさがある」


「静けさ、とは」


「人を見る時の静けさです。相手の本質を見ようとする時、龍馬は静かになります。その目が鋭くなる。その瞬間のあいつは——本当のあいつです」


「今、その目は何に向いておりましょうや?」


「この国の行く先です。しかし焦りがある。早く動かなければという焦りが、目を曇らせることがある…」


「焦りの原因は何でありましょう」


「周囲の藩士たちが、一橋派だの攘夷だのと激しく動いているからです。自分だけが正しい方向を見えていないような…そんな焦りがあるように感じられます」


「その焦りは、どうすれば取れましょうや」


「目的地が見えれば——焦らなくなります。どこへ向かうかが分かれば、急ぐ必要がなくなる…」


 糸子が静かに言った。


「勝殿、その方は——信頼できる方でございましょうか」


 勝がすぐに答えた。


「はい、その点は信頼できる男です」


「根拠はなんでございましょう?」


「あいつはわたしを斬りに来た時、一人で来ました。仲間を連れてこなかった。一人で来て、一人でわたしの話を聞いた。そして一人で考えて、一人で決断した。そういう人間は、信頼できます」


「一人で考えて一人で決断する、というのが信頼の根拠でございましょうや?」


「群れで動く人間は、群れの中でしか判断できません。しかし一人で判断できる人間は——どんな状況でも、自分の頭で考えられます。そういう人間との関係は、長続きします」


 糸子がしばらく考えた後、言った。


「…分かりました。ご紹介くださいまし」


「承知つかまつりました」


 勝が深く頭を下げた。


「必ず、後悔させませんよ。姫様…」


十二

 勝が帰り際に、善次郎に小声で言った。


「善次郎殿、あの姫様は——本当に御簾の内にいらっしゃるのかい?」


「はい」


「今年で十二歳に御成になります」


「そうかい」


「……オイラより英語が上手い十二歳の公家の姫君が、主上様のお役目で条約交渉に関わろうとしている」


「そういうことです」


 勝がしばらく黙った後、言った。


「オイラは長崎で二年以上かけて外国から学んだ。帰ってきてから、日本の行く先のために何ができるかを毎日考えてきた」


「はい」


「しかし、あの姫様は、オイラが考えてきたことを、もっと別の方向から実践しようとしている。商売と言葉と主上様の権威をお使いになられて…」


「そうですね」


「オイラは海からこの国を守ろうとしている。あの姫様は言葉でこの国を守ろうとしていらっしゃる」


 勝が少し笑った。


「同じ方向を向いている人間が、こんなところにいるとは思わなかったぜ」


「勝様も、坂本様と同じことをおっしゃっていますね」


「同じことを?」


「はい。坂本様も——目的地が同じ人間に会えば、信頼できると言っていました」


 勝が笑い声を上げた。


「龍馬めが。オイラと同じことを言うとは——あいつは本当に面白い男だ」


十三

 勝が帰った後、糸子は帳面を開いた。


 今日の対話を記録した。


「勝海舟という人物:現実主義者。海軍と開国の立場から、この国の行く先を考えている。交渉の具体的な空気感を知っている。実際に外国人と対話してきた経験がある」


「提供してもらった情報:ハリスの感情的な弱点…自分が軽んじられると感じた時に乱れる。時間的な圧力の逆用の方法。相手の価値観を使った主張の組み立て方」


「これらは、今まで村田蔵六殿や万次郎殿から得た情報と組み合わせることで、交渉の準備がさらに具体的になる」


「そして——坂本龍馬という存在…」


 糸子は少し筆を止めた。


「坂本龍馬かー」


「この人物に会うことを決めた。前世の知識からすれば、重要な人物だ。そして今から約八年後に……いなくなる」


「その事実を知っていながら、会うことを決めた」


「理由は——今、この人物が生きていることは事実だからだ。八年後のことより、今のことを考える必要がある」


「坂本龍馬が何者になれるか——それは、今から八年間の選択によって大きく変わる可能性だってある…」


 糸子は帳面を閉じた。


 近藤が縁側から声をかけた。


「姫様、今日の勝殿とのお話はいかがでしたか」


「とても有益でございました」


「それは良かった。それから、坂本という方のご紹介が決まったとのことで…」


「はい」


「それについて、旭狼衛として何か準備することはありますか」


 糸子が少し考えた後、言った。


「近藤殿、その方が来た時、少し離れたところで見ていてくださいまし」


「少し離れて、というのは?」


「どのような方なのか?を、近藤殿の目で確かめてほしいのでございます。剣士としての目で、その方を見極めてほしいのです」


 近藤が頷いた。


「承知仕りました。しかし——何を見極めればよいのでしょう?」


「その方が、何のために剣を持っているのか?を…」


 近藤がしばらく考えた後、言った。


「……分かりました。見極めてみます」


 春の夕刻が、庭に長い影を作っていた。


 桜の花びらが一枚、縁側に舞い落ちた。


 近衛糸子は次の対話に向けて、静かに準備を始めていた。


 第三十八話 了

【人物解説】勝海舟という男


幕末の人物を思い浮かべるとき、勝海舟ほど「食えない男」はいない。


幕臣なのに、幕府そのものに執着しているようには見えない。剣術の達人でありながら、刀で時代を変えようとも考えない。西洋を知っているからといって、外国をありがたがるわけでもない。江戸を守った男でありながら、徳川家だけを守ろうとしたわけでもなかった。


何より不思議なのは、幕府が滅びるその瞬間まで幕臣の立場にありながら、その先の日本を見ていたことである。


勝麟太郎。のちの勝海舟。


文政六年(一八二三)、江戸の本所に生まれた。家は旗本といっても、決して裕福ではない。父の勝小吉は、旗本の家に生まれながら型破りな人生を送った人物として知られている。


そんな家に生まれた麟太郎は、幼いころから剣術を学び、やがて直心影流の免許皆伝を得るほどの腕前になった。けれど、彼の本当の武器は刀ではない。


学問であり、外国であり、そして人間を見る目だった。


当時の日本で外国のことを知るのは容易ではなかった。まして英語など、普通の武士には必要のない学問である。ところが麟太郎は蘭学を学び、オランダ語を手がかりに西洋の兵学を吸収していく。海軍についても学び、船の構造を調べ、航海術を身につけ、世界の地図を眺めた。


そうしているうちに、彼の目には、日本の中だけで争っている人々とは違う景色が見えてくる。


日本の周りには海がある。その海の向こうには、巨大な国々がある。しかも、それらの国々は蒸気船と大砲を備え、日本へ近づいてきている。


このままでは、日本は取り残される。


勝がそう考えたのは、外国が怖かったからではない。むしろ逆だった。外国を知らないことこそが怖い。だから学ばなければならない。そこに、勝海舟という男の考え方がよく表れている。


その後、勝は幕府の海軍建設に関わるようになる。


安政七年(一八六〇)、咸臨丸で太平洋を渡った。ただし、ここは少し注意しておきたい。よく「勝海舟が咸臨丸の艦長として日本人初の太平洋横断を成し遂げた」と語られるが、実際の航海ではアメリカ海軍士官ジョン・ブルックが航海を支援しており、勝は日本側の指揮官として乗り込んでいた。


しかも、本人は航海中ずっと颯爽と甲板に立っていたわけではない。船酔いに苦しんでいたのである。後年、福沢諭吉らから、その様子が書かれている。


これが、なんとも勝らしい。


後世の私たちは、「太平洋を渡った海軍の英雄」という立派な像を作りたがる。しかし本人は、船の上で散々苦しんでいた。英雄というのは、案外そんなものなのかもしれない。


それでも、アメリカへ渡った経験は勝の人生を大きく変えた。日本の外には、これほど大きな世界がある。そして、その世界と渡り合うには、国内で「幕府が正しい」「薩摩が正しい」「長州が正しい」と争っているだけではどうにもならない。日本そのものが強くならなければならない。


その思いは、ますます強くなっていった。


帰国後、勝は神戸に海軍操練所を設ける。ここで目指したのは、徳川家だけの海軍ではなかった。幕府の人間であろうと諸藩の人間であろうと、海軍を学ぶ者には学ばせる。身分や藩の違いを越えて、人材を集めようとした。


そこには坂本龍馬の姿もあった。


ただし、「龍馬が勝を斬りに行き、その場で弟子になった」という有名な話は、後世に作られた部分を含む逸話として慎重に扱った方がよい。龍馬が勝を訪ね、その話を聞いて大きな影響を受けたこと自体はよく知られているが、「暗殺しに来た龍馬を勝が一喝し、その場で弟子にした」という劇的な場面まで、そのまま史実として描くのは難しい。


それでも、勝が龍馬に与えた影響の大きさまで消えるわけではない。勝は龍馬たち若い人間に、これまでとは違う日本の姿を見せた。


藩の境目よりも、日本という国そのものを見る。


その視線を持たせたことに、勝の大きな意味がある。


しかし、幕末という時代は、そんな勝を悠長に海軍建設だけへ専念させてはくれなかった。やがて日本は、内戦へ向かっていく。


徳川幕府が倒れ、新政府軍が東へ進む。慶応四年(一八六八)、江戸は戦場になる寸前まで追い込まれた。


新政府軍は江戸総攻撃を決める。一方、江戸には徳川慶喜を支持する旧幕臣たちがいる。ここで戦えば、江戸の町は火の海になりかねない。


町人がいる。女も子供もいる。商人も職人もいる。長年そこで暮らしてきた何十万もの人々がいる。そのうえ外国勢力も、日本の混乱を見ている。


勝海舟が見ていたのは、その先だった。


徳川幕府を守れるか。それだけではない。


日本そのものを戦火に巻き込んでよいのか。


ここで勝は、薩摩の西郷隆盛と向き合う。慶応四年三月十三日と十四日、二人は江戸で会談した。この会談によって江戸総攻撃は回避され、江戸城は無血開城へ向かうことになる。


ただ、「勝海舟が西郷を説得して一人で江戸を救った」と単純化するのも正確ではない。西郷にも江戸を戦火にさらしたくないという判断があり、新政府側にもそれぞれの事情があった。徳川慶喜自身が恭順を選んでいたことも大きい。


勝は、そうした状況を見抜き、使えるものをすべて使って交渉した。


ここに、勝海舟という男の本領がある。


理想論だけでは動かない。相手の立場も見る。自分の立場も見る。そして、何を譲れば何を守れるのかを考える。最後に、一番大切なものを残す。


勝にとって、それは徳川幕府そのものではなかった。


江戸であり、日本だった。


だからこそ、幕府がなくなってからも生きていけたのだろう。


明治になると、勝は新政府の中でも仕事をしている。海軍に関わり、政府の要職にも就いた。しかし、維新の勝者として明治政府を礼賛したわけではない。


むしろ、旧幕臣たちのその後を気にかけ続けた。


徳川家が敗れ、職を失った幕臣が大勢いる。生活に困る者もいる。勝は、そうした人々の面倒を見続けた。


西郷隆盛が西南戦争で敗れて死んだ後も、西郷を単純な「賊」として扱うことをよしとしなかった。西郷の名誉を惜しみ、その顕彰にも尽力している。


敵だったから憎む。味方だったから庇う。


勝には、そういう単純な線引きがなかった。


だからこそ、彼の人間関係は面白い。薩摩もいる。長州もいる。幕臣もいる。新政府の人間もいる。そして、その誰とでも話をする。


おそらく勝海舟という男は、「仲間を増やす」というより、敵を敵のままにしておかないことが得意だったのだろう。


そんな勝を、後世の人間は「平和主義者」と呼びたくなる。確かに、江戸を戦火から救った人物ではある。けれど、本人はもっと現実的だった。


必要なら戦う。しかし、戦って得るものと失うものを考える。刀を抜く前に、刀を抜かずに済む方法を探す。


そういう男だったのではないだろうか。


若いころには剣術を極め、幕末には暗殺の危険にもさらされた。それでも勝は、剣で名を上げた男にはならなかった。


彼が使った最大の武器は、言葉だった。


その言葉の奥には、「日本をどうするのか」という視線があった。


そこに、勝海舟の魅力がある。


幕府の人間でありながら、幕府の終わりを理解していた。徳川家を大切にしながら、そのためなら日本を焼いてよいとは考えない。


西洋の力を認めても、日本が外国の言いなりになればよいとは思わなかった。古いものを知りながら、新しいものを見る。敵の強さを認めながら、自分たちの価値も捨てない。


そうした、いくつもの矛盾を一人の中に抱えた人物だったのだと思う。


勝海舟は、坂本龍馬のような青年ではない。西郷隆盛のような英雄でもない。大久保利通のような国家建設者でもない。


むしろ、その誰とも違う。


時代が大きく動くとき、人間は「こちら側」か「あちら側」かを選ばされる。ところが勝海舟は、その境界線を平気でまたいでいく。


幕臣でありながら新政府の人間とも話す。徳川を思いながら、日本全体を見る。旧幕臣を助けながら、西郷を評価する。


そういう男だからこそ、江戸を救うことができたのだろう。


もし勝が徳川幕府だけを守ろうとする人間だったら。もし西郷が新政府軍の勝利だけを求める人間だったら。


江戸は、もっと大きな戦火に包まれていたかもしれない。


歴史には、戦って勝った人間の名前が残る。


けれど、本当に大きな仕事というのは、ときに「起こらなかったこと」の中にもある。


焼けなかった江戸。死なずに済んだ人々。失われずに残った町。そして、幕府が終わったあとも続いていった日本。


それらを考えるとき、勝海舟の存在は決して小さくない。


明治三十二年(一八九九)、勝海舟は七十七歳で亡くなった。


幕府がなくなってから三十年余り。江戸が東京へ変わり、日本がまったく別の国になっていくのを見届けてからの死だった。


最後まで、勝は勝だったのだろう。


理屈より現実を見る。肩書より人を見る。昨日の敵だからといって、今日も憎む必要はない。そして何より、目の前の勝ち負けより、その先に何が残るのかを見る。


幕末という時代は、剣で切り結ぶ男たちの時代として語られがちである。


けれど、その激しい時代を本当に次へ渡したのは、刀を抜かなかった人間たちでもあった。


勝海舟は、その代表だったのだと思う。


江戸を守った男。


そう呼んでもいい。


けれど、それだけでは足りない。


勝海舟が最後に守ろうとしたものは、江戸城でも徳川幕府でもなかった。


その先に続いていく、日本そのものだった。

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― 新着の感想 ―
自主規制とはなんだったのかについて
小栗こうづけのすけを登場させて頂ければと思います。坂本は船の衝突で幕府から金を騙し取ったイメージが強いので
三十六話で調印終わってますけど。 時空が歪んだ\(^_^)/
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