第三十七話「安政の小獄」
一
安政六年の冬が来た。
江戸の空は鉛色だった。
十二月の風は刃のように冷たく、日本橋の通りを行き交う人々は皆、首をすくめながら歩いていた。屋台の湯気が白く立ち上り、すぐに冬風に流されて消えた。
条約が調印されてから数週間が経っていた。
街の空気は、あの調印の日から変わり続けていた。
最初は「やっぱり」という確認だった。
次に「流言が本当になった」という認識になった。
そしてその認識は、じわじわと、しかし確実に、次の問いに変わっていた。
「次は何が本当になるのか」という問いだ。
二 彦根藩江戸藩邸の夜
同じ頃、彦根藩の江戸藩邸の一室に、灯りが一つ灯っていた。
深夜だった。
城下の者たちが眠り始めた時間に、その部屋だけが起きていた。
井伊直弼が机の前に座っていた。
目の前に、書類が並んでいた。
名前が書かれた書類だった。
直弼はその書類を一枚一枚、静かに確認していた。
「梅田雲浜」
直弼が呟いた。
「この者は——尊王攘夷の急先鋒として、密かに朝廷に働きかけていた事実が掴めた」
直弼の指が書類の上を滑った。
「頼三樹三郎」
「反幕的な言動が問題視されてきた。記録も残っている」
一枚ずつ、丁寧に、静かに確認していく。
誰かが見れば、そこには普通の事務作業に見えたかもしれない。
しかし直弼の目は、普通ではなかった。
その目の奥に、何かが燃えていた。
怒りではなかった。
それより深いもの——執念と、どす黒い何かが混じり合った光だった。
「大老の権限で大規模な粛清は無理だ」
直弼は静かに考えた。
「合議という壁がある。老中たちが反発する。それは分かっている」
「しかし——やりようはいくらでもある」
直弼が少し微笑んだ。
その微笑みは、深夜の部屋の中で、冷たく不気味に見えた。
「大規模にはできない。しかし個別に動けば——それぞれの案件について、それぞれの理由で処断できる。一つ一つは小さく見えても、積み重ねれば、わたしの意志を示すことになる」
直弼が茶を一口飲んだ。
茶道の師である直弼は、茶を入れることが習慣だった。
冷たい夜に、温かい茶が喉を通った。
「一期一会…」
直弼が呟いた。
「この一会を、生涯に一度の機会として誠実に向き合う——それがわたくしの茶道の精神だ」
「そしてこれも——一期一会だ」
直弼が書類を一枚、手に取った。
「この機会を、逃さない…」
三 処断の始まり
翌日から、動きが始まった。
一件目は、梅田雲浜の捕縛だった。
元小浜藩士で儒学者の梅田雲浜は、尊王攘夷の立場から各地で活動していた人物だった。朝廷への接触という事実が、幕府の記録に残っていた。
捕縛の命令が出た。
担当の役人が動いた。
梅田雲浜は連行された。
二件目は、頼三樹三郎の処断だった。
著名な学者・頼山陽の息子として知られるこの京都の儒者は、反幕的な発言を繰り返してきた。その記録を証拠として、斬罪の処分が決まった。
三件目、四件目——
直弼は一件ずつ、丁寧に、静かに動いた。
大規模な粛清ではない。
しかし確実に、一人ずつ、処断していった。
四 処罰一覧
一、梅田雲浜——元小浜藩士、儒学者。尊王攘夷の急先鋒として各地で活動。密かに朝廷に働きかけていた事実が掴まれ、捕縛。投獄。
二、頼三樹三郎——京都の儒者。著名な学者・頼山陽の息子。反幕的な言動が問題視され、斬罪。
三、飯泉喜内——元土浦藩士、後に三条家家来。幕府への批判的な文書を起草したとして捕縛、斬罪。
四、鵜飼吉左衛門——水戸藩京都留守居役。一橋派の連絡役として動いていたことが証拠として掴まれ、斬罪。
五、鵜飼幸吉——水戸藩京都留守居役の助役。同上の件に連座、獄門。
六、茅根伊予之介——水戸藩奥右筆。水戸藩の一橋派への文書を作成したとして斬罪。
七、近藤正慎——清水寺成就院坊。御所との連絡役として動いていたとして捕縛、投獄。
八、藤井尚弼——西園寺家家臣。主君の意向を受けて動いていた疑いで捕縛、投獄。
九、信海——僧侶、月照の弟。幕府批判の動きへの関与を疑われ、捕縛、投獄。
十、日下部伊三治——薩摩藩士。薩摩藩と一橋派の連絡に関わっていたとして捕縛、投獄。
十一、中井数馬——与力。一橋派への情報提供を行っていたとして捕縛、投獄。
十二、黒川雅敬——一橋徳川家家臣。主君慶喜の意向を各方面に伝える役割を担っていたとして蟄居。
十三、石河政平——一橋徳川家家老。同上の件に関わっていたとして謹慎。
十四、高須鉄次郎——外国奉行支配調役。外国との交渉において堀田派に近い立場を取っていたとして罷免・謹慎。
五 処罰された者たちの反応
梅田雲浜が連行された時、その知らせを聞いた同志の一人が、思わず声を上げた。
「梅田殿が——」
「捕縛されたとのことだ」
「なぜだ。梅田殿は——」
「朝廷への接触が掴まれたとのことで」
同志が黙った。
しばらくして、静かに言った。
「……流言に梅田殿の名前は出ていなかった。だから油断していた」
「しかし——流言に名前が出ていた者たちは、皆まだ無事だ」
「そうだ。氏名簿に出ていた者たちは、皆無事だ。しかし氏名簿に出ていなかった梅田殿が——」
「流言は、全てを網羅していたわけではなかった、ということか」
深い沈黙があった。
鵜飼吉左衛門が斬罪となった時、その知らせは水戸藩士の間に衝撃として走った。
鵜飼の同僚だった者が、報告を受けて動けなくなった。
「吉左衛門が——」
「斬罪だ。一橋派の連絡役として動いていたことが証拠として掴まれた」
「しかし——流言に吉左衛門の名前は出ていなかったはずだ」
「出ていた」
「え?」
「流言に、確かに鵜飼吉左衛門のお名前は出ていた。たしかに…」
「……では、流言を信じていれば」
「準備ができたかもしれない。証拠を残さないよう動くことができたかもしれない」
水戸藩士が拳を握った。
「あの流言は——警告だったのか」
「分からない。しかし——少なくとも、流言に名前が出ていた多くの方々が、今回は無事だ。橋本左内殿も、吉田松陰殿も」
「なぜ無事なのか」
「おそらく——流言を見て、警戒を高めたからだろう」
「では、流言に名前が出ていなかった吉左衛門は——」
「警戒できなかった」
深い後悔が、その言葉に混じっていた。
橋本左内は、松平春嶽の屋敷でその話を聞いた。
「梅田殿が、鵜飼殿が——」
「処罰された」
春嶽が静かに言った。
「しかし左内、あなたは無事だ」
「は……しかし殿、なぜ私は——」
「流言に、あなたの名前が出ていたからだ」
橋本左内が少し止まった。
「流言に、私の名前が出ていたとは知っていました。しかし——それがなぜ?」
「流言を見た後、私はあなたに言ったはずだ。証拠を残さないよう、言動を極めて慎重にするように、と」
「はい」
「その警告が機能した。あなたが慎重に動いたために、処罰の口実が掴めなかった」
「……流言が、私を守ったということですか」
春嶽が静かに頷いた。
「あの流言を流した者が誰かは分からない。しかし——その者がいなければ、今頃あなたも処罰されていたかもしれない」
橋本左内がしばらく動かなかった。
「……誰なのでしょう。あのような流言を、あれほど正確に流せた者は」
「分からない。しかし——この国に、我々が知らない味方がいる。それだけは確かだ」
吉田松陰は、萩の松下村塾でその話を聞いた。
「鵜飼殿が処罰された——」
弟子が知らせを持ってきた時、松陰は窓の外を見ていた。
冬の萩の山が、白く霞んでいた。
「流言に吉左衛門殿のお名前は出ていましたか?」
「……出ていました。私がはっきり覚えています。」
「では流言は正確だった……」
「はい。しかし先生、梅田先生や鵜飼殿のお名前も出ていて——」
「梅田先生のお名前は流言に出ていなかったはずだ」
弟子が少し考えた。
「……そうかもしれません」
「流言に出ていた名前の者は無事で、出ていなかった者が処罰された。つまり——流言は不完全だった。しかしその不完全さの中でも、かなりの精度で警告を発していた」
「先生のお名前は流言に出ていました」
「そうだ。だからわたくしは警戒を高めた。証拠を残さないよう気をつけた」
松陰が少し間を置いた後、言った。
「誰かが、わたしたちを守ろうとしてくれた。その誰かに——感謝する」
六 老中たちの反発
処罰が続いていく中で、老中たちの間に不満が高まっていた。
筆頭老中が言った。
「大老殿、これは——合議を経ていない処断が含まれているのではないですか」
「個別の案件に基づいた処断だ。合議を経なければならない規模ではない」
「しかし——処断の件数が積み重なれば、実質的に大規模な弾圧になります。これは合議の精神に反します」
「合議の精神とはなんだ。幕府の法に基づいた処断を行うことの、どこに問題がある」
「問題は——この処断が、政治的な意図に基づいている可能性がある点です。個別の法的根拠があったとしても、処断の対象が特定の立場の者に集中しているならば——」
直弼が静かに言った。
「証拠があった者を処断した。それだけだ」
しかし老中は引き下がらなかった。
「大老殿、このやり方を続けることには、老中全員が同意できませぬ」
「全員が?」
「はい。堀田殿も、松平忠固殿も——今回の件についての懸念を表明しています」
「これは余りにも独善的すぎますぞ!」
直弼が少し黙った。
「意見は聞いた…」
それだけ言っただけだった。
しかし——
「罷免することも、出来ない」
直弼は心の中で言った。
「堀田を罷免すれば、さらに大きな反発が起こるだろう。あの流言のせいで、わたしの権限は制限されている。老中を罷免することは、今の状況では政治的に不可能だ」
「だから——今できることをする。一件ずつ、証拠に基づいて、動く」
直弼は窓の外を見た。
冬の空が低かった。
「このままでは終わらない…終わらせてなるものか」
直弼が静かに言った。薄気味悪く笑いながら…
七 江戸の街の変化
処罰の知らせが江戸に広まるにつれて、街の空気がまた変わった。
最初の変化は「やはり流言は本物だった」という認識の深まりだった。
日本橋の長屋では、おきんが近所の女房たちに言った。
「聞いたかい、今度は処罰が始まったよ」
「本当かい。流言に出ていた名前の人たちが処罰されたって?」
「いや、そうじゃないんだよ。流言に出ていた名前の人たちはまだ無事なんだ。そうじゃない人たちが処罰された」
「どういうことだい?」
「流言に出ていない人が処罰されて、出ていた人が無事なんだよ。つまり——」
おきんが声を低くした。
「流言を信じていた人たちは、警戒していたから無事だったんじゃないかって話が出ているよ」
「……怖い話だね」
「あの流言がなかったら——もっと大勢が処罰されていたかもしれないってことだよ。あの流言が、人々を守ったんじゃないかって…」
神田の小料理屋では、より複雑な議論が起きていた。
「流言に名前が出ていた者が無事で、出ていなかった者が処罰された。これは——」
「流言がなければ、もっと大勢が処罰されていたということだ」
「つまり——あの流言を流した者が、味方だったということか?」
「そういうことになるな。流言を流した者は——処罰されるはずだった人々を、事前に警告していた」
「しかし誰が——」
「分からない。しかし一つだけ確かなことがある」
浪人が言った。
「あの流言は、正確だった。勅許なし条約の話も、処罰の計画も——本当になった。ならば——」
「残りの流言も本当になるかもしれない、ということか」
「そうだ。日本を外国に売り渡して逃げる、という話も——」
しばらく沈黙があった。
「……本当になる前に、何かしなければならない」
八 流言の信憑性が高まる
条約の調印が本当になり、処罰の計画が本当になった。
その積み重ねが、人々の認識を変えていった。
最初は「噂話」として受け取られていた流言が、「事実の予告」として受け取られるようになっていた。
そして——賄賂の話、売国奴の話、日本から逃げる計画の話——これらも「事実に違いない」と思い始める人間が出てきた。
深川の職人の熊吉は、仕事仲間に言った。
「流言に出ていたことが、一つ一つ本当になっているじゃないか。大老になった、条約が勅許なしで結ばれた、処罰が始まった——全部本当になった」
「そうだな」
「ならば——メリケンから金をもらっているって話も、本当じゃないか?」
「……そう考えるのが自然だな」
「日本を売り渡して逃げるって話も——」
「本当になるかもしれない」
熊吉が拳を握った。
「そんなことをさせるわけにはいかない」
「しかし相手は大老だ。どうすれば」
「何かしなければならない。このまま黙っていたら——」
九 水戸を中心とした集まり
江戸の一角にある、目立たない武家屋敷。
夜になると、数人の武士が集まってくる場所があった。
水戸藩と繋がりを持つ者たちだった。
鵜飼吉左衛門が斬罪となったことは、水戸藩士たちの怒りに火をつけた。
「吉左衛門殿が——」
「流言に名前が出ていた。しかし油断していた。証拠を残さないよう動くことができなかった」
「流言を信じていれば——」
「救えたかもしれない」
「しかし今となっては遅い。問題は——これからどうするかだ」
「井伊を——」
「声に出すな」
一人が制した。
「しかし——このまま黙っていることは、御門様への不義だ。流言が全て本当になっていくとすれば——あの売国奴から日本を守らなければならない」
「同志は集まっているか」
「集まっている。しかも——今回の処罰の件を聞いて、新たに加わりたいという者が相当数いる」
「どれほど?」
「正確にはわからん、ただそれ程までに日を追うごとに増えつづけている」
その言葉を使いかけて、話者が止まった。
「もしあの流言がなければ、これほどの人数が集まることはなかっただろうという規模だ。しかし流言が全て本当になっていくことで——怒りを抱える者の数が、どんどん増えている」
「当然だ。売国奴が大老として君臨して、御門様を踏みにじって、この国を外国に売り渡そうとしているとすれば——その怒りは正当だ」
「では——」
「時を待て。今はまだ時ではない。しかしその時は必ず来る」
十 糸子に届いた知らせ
京都の近衛家に、善次郎からの文が届いた。
処罰が始まった、という知らせだった。
十四名の名前が書かれていた。
糸子は文を読んだ。
読みながら、少しずつ表情が変わっていった。
「梅田雲浜様……頼三樹三郎様……鵜飼吉左衛門様……」
名前を一つ一つ確認した。
読み終えた後、糸子はしばらく動かなかった。
「防げたのではないか…」
糸子の心に、その問いが生まれた。
「もっと他にやりようがあったのでは。氏名簿に載っていなかった方々も救えたのではないのか?」
流言によって処罰が大幅に減ったことは分かっていた。
しかし処罰された十四名の名前を見ていると——
「この方々も、救えたかもしれない」
その思いが消えなかった。
糸子は帳面を開こうとした。
しかし筆が動かなかった。
十一 近藤の言葉
「姫様、少しよろしいでしょうか」
近藤が縁側から声をかけた。
「はい」
「善次郎殿からの文を、わたくしも確認させていただきました。処罰された方々の件ですね」
「はい」
「姫様の表情が、先ほどから気になっておりました」
糸子が少し間を置いた後、言った。
「防げたのではないかと、思うておりまする」
「……はい」
「あの方々にも、何かができたのではないのか?。氏名簿にお名前を入れることができていれば——」
「姫様」
近藤が静かに言った。
「防げたことと、防げなかったことがありましょう。今回処罰された方々については——残念でなりません」
「はい」
「なれど——姫様の行動によって…防げたことの方が、はるかに多いと思います」
「しかし——」
「現に、姫様が流された氏名簿に載っていた方々は、今回の処罰をほとんどまぬがれておりました」
糸子が少し動いた。
「橋本左内殿も、吉田松陰殿も、松平春嶽殿も、一橋慶喜様も——全員、今回は無事でした。氏名簿を見て警戒し、証拠を残さないよう動いた方々が守られました」
「なれど——」
「姫様が流された流言に感謝している人は、今頃たくさんおられましょう。橋本左内殿も、吉田松陰殿も——もし流言がなければ、今頃どうなってことか…」
糸子が少し俯いた。
「そうでしょうか」
「そうに決まっておりましょう」
近藤が力強く言った。
「大丈夫です、姫様。防げたことを見てください。防げなかったことは——次の糧にしてください。それが、今の姫様にできることです」
糸子はしばらく黙っていた。
そして——静かに頷いた。
「……分かりました」
「必ず守ります。これからも、姫様が動けるよう。我々旭狼衛が…」
「誠に、お心配りをありがとうございます、近藤殿」
糸子は帳面を再び開いた。
筆を取った。
「次に何ができるかを考えまする」
十二 直弼の囮作戦が一歩前進する
同じ頃、江戸では直弼の囮作戦が、ようやく一つの手がかりを掴もうとしていた。
長野義言が夜遅く、直弼の書院に入ってきた。
「殿、報告があります」
「来たか」
「はい。囮の話の一つについて——追跡に成功しました」
直弼が少し前に乗り出した。
「どのように?」
「第三の囮——外国の通訳を独自に採用しようとしているという話について追跡していたところ、その話が京方面に流れた経路を辿ることができました」
「京方面に?」
「はい。具体的には——大坂の商人を経由して、京の特定の商人に届いていることが分かりました」
直弼が静かに言った。
「大坂経由で、京の商人に…」
「はい。その京の商人は——複数の情報を各方面に伝える役割をしているようです」
「名前は?」
「まだ特定できていません。しかし——大坂の商人の口伝を通じて、京に繋がっていることは確認できました」
直弼が窓の外を見た。
冬の夜の江戸が、暗く静まっていた。
「商人の口伝を経由しているのか」
直弼が繰り返した。
「つまり——犯人の情報収集の仕掛けは、商人の口伝を使っている」
「おそらくは」
「しかも京方面との繋がりがある」
「はい」
直弼がしばらく考えた。
「京都——朝廷のある場所だ。商人と朝廷の双方に繋がりを持っている組織あるいは人物」
直弼の頭の中で、何かが形になりかけていた。
「朝廷周辺で、商売を行っているもの」
その問いが浮かんだ。
しかし答えは——まだ見えていなかった。
近衛家という名前は、その候補の中に浮かんでこなかった。
五摂家の姫君が商売をしているとは、直弼には思い浮かばなかった。
「もう一歩だ」
直弼が言った。
「もう一歩で、その商人に辿り着ける」
長野が言った。
「しかし商人の口伝は複数の人間を経由しています。一人ずつ辿ることは——時間がかかります」
「構わない。時間をかける」
直弼が静かに言った。
「この糸を、必ず手繰り寄せる」
その目が、深夜の灯りの中で光った。
怒りと執念が混ざり合った、どす黒い光だった。
「一期一会——このきっかけを絶対ものにする。その正体を、必ずつかんでやる」
直弼は茶を一口飲んだ。
その顔に、冷たい微笑みが浮かんだ。
十三 江戸の人々の複雑な思い
冬の江戸で、様々な声が交差していた。
「流言があったから、あれだけの規模で止まったんだろう」
「そうだよ。流言がなければ、もっと大勢が処罰されていたに違いない」
「つまり——あの流言を流した者は、人々を守ろうとしていた」
「しかしそれでも、十四名が処罰された」
「残念だよ。しかし——もっと増えていた可能性があった」
「あの流言がなければ、松陰先生も橋本左内殿も——」
「今頃どうなっていたか分からない」
「それを思えば——あの流言には、本当に感謝したい」
別の場所では、怒りの声があった。
「しかし流言で防げたのは一部だけだ。十四名が処罰された事実は変わらない」
「その通りだ。あの売国奴を、このままにしておくわけにはいかない」
「流言が本当になっていくということは——メリケンからの賄賂も、日本を売り渡すことも——全部本当になるかもしれない」
「いや、もうすでに本当のことになっているかもしれん」
「手遅れになる前に——」
「今こそ、声を上げる時だ」
十四 糸子の夜の帳面
京都の近衛家の夜。
糸子は帳面を開いた。
「安政の大獄——この世界線では、十四名が処罰された。史実の百名以上と比べれば、大幅に少ない。しかし十四名が処罰されたことは、依然として重い事実だ」
「防げた者が多いことは確かだ。橋本左内殿、吉田松陰殿——この二人が今も生きていることは、後の歴史に大きな意味を持つ可能性がある」
「橋本左内殿は、松平春嶽殿のもとで引き続き活動できる。吉田松陰殿は、松下村塾で引き続き弟子たちを育てられる」
「この二人が生きていることで——後の時代が変わるかもしれない」
糸子は少し考えた後、続けた。
「しかし直弼の追跡が、一歩進んだという情報がある。商人の口伝を通じた追跡が、京方面に繋がっていることが直弼に把握された。善次郎への警告を強化する必要がある」
「直弼はまだ近衛家の影を掴んでいない。しかし一歩、近づいた可能性がある」
「油断できない、そしてしない」
糸子は帳面を閉じた。
縁側の外では、近藤が夜番についていた。
「近藤殿」
「はい」
「旭狼衛の体制を、明日確認させてください。直弼の追跡が一歩進んだ可能性があります」
「分かりました。明日、全員で確認します」
「よろしくお頼み申し上げます」
冬の夜が深まっていた。
御所の方角の空に、冬の星が少しだけ見えていた。
糸子はその星を少しの間見た後、部屋に戻った。
次の手を考え始めた。
直弼との見えない戦いは、まだ終わっていなかった。
第三十七話 了




