第三十六話「勅許なき調印——しかし形が違う」
一
安政五年の冬が、江戸に来ていた。
十二月の江戸湾は、灰色の空の下で冷たく光っていた。冬の北風が海から吹き込んで、街の路地を走り抜けていく。商人たちの声が、いつもより少し低く、少し急いだ調子になっていた。
年の瀬が近づく季節特有の忙しさの中に、今年は別のものが混じっていた。
重さだ。
街全体に、何か重いものが漂っていた。
井伊直弼が大老に就任して数ヶ月が経ち、その間に様々な噂が現実になっていくのを、人々は目撃し続けていた。
そして——十二月のある日。
日米修好通商条約が調印された。
勅許なしで。
二 江戸城内の様子
調印の当日、江戸城内に独特の空気が流れた。
幕府の役職者たちが廊下を行き交っていた。しかしその動きは、通常の業務とは少し違う質を持っていた。
早足で歩く者。立ち話をしている者。書類を抱えて急ぐ者。
表向きは業務が続いているように見えた。しかし全員の顔に、何かを確認したいという表情があった。
老中の詰所では、筆頭老中が部下に言った。
「堀田殿の交渉は——どのような結果になった」
「将来の改正条項と、金銀比率の見直し条項が入りました。勅許は得られませんでしたが、ハリス殿は調印に同意しました」
「将来の改正条項か」
老中が少し考えた。
「それは——堀田殿が粘ったからか」
「はい。堀田殿は最後まで、この条項にこだわっておられたとのことです」
「……そうか」
老中が窓の外を見た。
冬の空が、江戸城の瓦屋根の上に広がっていた。
「勅許なしで結ばれたことは——後に問題になる。しかし改正条項が入ったことは——」
「後の世にとって、意味があるかもしれません」
「そうだな…」
三 堀田正睦の表情
その日の夕刻、堀田正睦は自分の屋敷に戻ってから、しばらく書物を開いたまま動かなかった。
調印は成立した。
ハリスとの長い交渉が、一応の決着を見た。
勅許は得られなかった。それは残念だった。しかし——
「将来の改正条項が入った」
堀田は静かに言った。
その条項を入れることに、最後まで強くこだわったのは堀田だった。
ハリスは最初、この条項に難色を示した。「将来の改正という曖昧な文言を入れることで、条約の安定性が損なわれる」という主張だった。
しかし堀田は粘った。
「改正の可能性があることは、条約の安定性を損なわない。むしろ、両国が将来にわたって対等な関係を築くための基盤になる」
この論理は——どこかで聞いたような論理だった。
堀田はふと思った。
「京の近衛家で、あの姫君が言っていたことと同じ論理だ」
「将来の改正条項という出口があれば、相手は今すぐ調印できる。相手の急ぎたいという気持ちを利用できる」
あの時、姫君から聞いた言葉だった。
堀田はその言葉を使って、ハリスを説得した。
そして——実際に機能した。
「あの姫君は——本当に先を読んでいた…」
堀田は少し笑った。
しかしその笑いは、すぐに消えた。
「本来ならもう少し粘りたかったのが、正直なところだった…しかし大老には逆らえなかった。結局…条約締結では、押し切られる形になってしまった」
堀田の胸に、悔しさが残っていた。
四 井伊直弼の苦い一日
同じその日、井伊直弼は別の場所にいた。
調印の儀式が行われた部屋の隣の、控えの間だった。
大老として、調印の場に出席することはできた。
しかし実質的な交渉は、堀田が主導していた。
直弼が主導しようとした時、老中たちが「合議の上で」という言葉を使って、直弼の独断を防いだ。
その結果として、調印の主役は堀田になっていた。
まだ粘ろうとしていた堀田を、結局は押し切る形で条約の早期締結を意見して諦めさせた。それがわたしの細やかなる抵抗でもあった。
直弼は控えの間の入口から、調印の様子を窓越しに見ていた。
ハリスが書類に署名する様子を見た。
幕府の担当者が署名する様子を見た。
堀田が最後の確認をする様子を見た。
直弼はその全てを、顔に何も出さずに見ていた。
顔には何も出さなかった。
しかし内側では——
内側では、どす黒い何かがゆっくりと積み重なっていた。
「これが——大老の姿か」
直弼は心の中で言った。
「この国の最高職にある者が、権限を狭められ、自分で動けず、他の者が動くのを眺めているだけとは…」
「誰のせいだ。誰がわたくしをこのようにした」
その問いに対する答えは、まだ出ていなかった。
しかし直弼の心の中で、その問いは毎日、重くなり続けていた。
調印の儀式が終わった後、ハリスが退室する際に、直弼と廊下で行き合った。
ハリスが礼を取った。
直弼も礼を取った。
その一瞬、二人の目が合った。
ハリスの目には、礼儀と、何か別のものが混じっていた。
品定めするような目だ、と直弼は感じた。
「大老というが、実際にはどの程度の権限を持っているのか」——そう問いかけているような目だ。
直弼は顔に何も出さなかった。
しかし内側では、また何かが積み重なった。
五 江戸の街の反応
調印の知らせは、その日のうちに江戸の街に広まった。
日本橋の呉服商の番頭・清七は、得意先から話を聞いた。
「清七さん、聞いたかい。調印されたよ、条約が」
「……知っています。しかし——」
「しかも御門様のお許しなしで、だ」
清七が少し黙った。
「あの流言は、本物だったということですね」
「そういうことだよ。大老になった。条約も勅許なしで結ばれた。流言が言っていた通りになった」
「聞いた話では、老中首座の堀田殿が相当粘り強く交渉はされていたとか」
「そうらしいな。しかし結局は——」
「流言通りになった」
清七が言った。
「このままだと、他にあった流言もそのうち本当になるんでしょうか」
「……さあ。しかし大粛清の話もあったな。処罰氏名簿も出ていた」
「怖い話ですね」
「とんでもないやつが偉い職についちまったもんだね」
「まったくだよ」
二人はしばらく黙って、互いに目を合わせなかった。
六 長屋の声
深川の長屋では、おきんが近所の女房たちと話していた。
「聞いたかい、条約が結ばれたって」
「御門様のお許しもなしに、だって?」
「そうらしいよ。うちの亭主が商売先から聞いてきた」
「井伊様がそうさせたのかい」
「どうもそういう話で。堀田の殿様は反対していたけど、押し切られたって話が」
「御門様のお気持ちを踏みにじるなんて、酷い話じゃないか」
「流言では、あの御方が日本を売り渡すって言っていたけど——本当になってきちゃったね」
おきんが顔を曇らせた。
「これからどうなるんだろうねえ」
「さあ。でも——お天道様が見ている。そういうことをした人は、いずれ報いを受けるよ」
七 浪人たちの会話
神田の小料理屋では、夜になって浪人たちが集まっていた。
酒が入ると、声が大きくなった。
「御門様のお許しなしで条約を結ぶとは——許せん話だ」
「勅許なしで結ばせたのは、間違いなく井伊だろう。あいつが邪魔をしたせいで、堀田殿が何とか粘っていたのにも関わらず、勅許なしで結ばせたに違いない」
「御門様を踏みにじる行為、許すまじ」
「あの売国奴から日本を救わねば——」
一人の浪人が声を落とした。
「しかし相手は大老だ。どうすれば」
「まず声を上げることだ。此度の条約が、いかに問題であるかを広める必要がある」
「水戸の殿様も反対されていると聞く。各地の志士たちも怒っている」
「この怒りを、一つの力にまとめる必要がある」
声がさらに低くなった。
「……極端な話をすれば——問題の根を断つという選択肢も」
その言葉が出た瞬間、小料理屋の空気が変わった。
誰も答えなかった。
しかし誰も否定もしなかった。
その沈黙の中に、やがて来るものの予感が静かに漂っていた。
八 京の糸子
調印の知らせが京都に届いたのは、数日後だった。
善次郎からの文だった。
「姫君様、ご報告します。日米修好通商条約が調印されました。勅許は得られませんでした。しかし——将来の改正条項と、金銀比率の見直し条項が入りました。堀田様が最後まで粘られたとのことです」
糸子は文を読みながら、しばらく動かなかった。
縁側の外では、冬の庭が静かだった。
枯れ木が風に揺れていた。
遠くで鴨の声がした。
糸子は帳面を開いた。
「調印された。勅許なしで。しかし——将来の改正条項は入った」
「これは史実とは違う条約だ」
「史実では、この条約を改正するのに約五十年かかった。一八九四年に領事裁判権が撤廃され、一九一一年に関税自主権が回復された。二つ合わせて五十年以上」
「しかしこの改正条項があれば——その道筋が確実に変わる」
「今すぐ対等にはなれない。なれど——対等になれる道が、最初から条文に組み込まれた」
糸子は少し間を置いた後、続けた。
「種は入った。今はそれで十分と…思うことに致しましょう」
筆を置いた。
帳面を閉じた。
九 御門様への報告
数日後、糸子は御所に参内した。
冬の御所は静かだった。木々が葉を落とし、枯れ枝が冬の空に向かって伸びていた。石畳が霜で白くなっていた。
小部屋に通された。
御門様の気配は、今日は重かった。
「面を上げよ」
「はい」
「……来たか」
「はい」
「聞いておろう」
「はい、知らせが届いておりまする」
「勅許なしで——結ばれた」
御門様の声に、怒りと落胆が混じっていた。
「あれほど朕が反対を示したのに。朕の意向を踏みにじって、幕府は勝手に動いた」
「……はい」
「朕の言葉には、力がないのか?」
その言葉を聞いた時、糸子は少し胸が痛んだ。
御門様が——ご自分の言葉の力に…疑問を持たれている。
これほど真剣に、この国のことを考えてきたお方なのに…
糸子は静かに言った。
「御門様のお言葉には、力がありまする」
「しかし条約は結ばれた」
「はい。なれど——一つだけ、御門様にお聞きしていただきたいことがございます」
「申せ」
「今回の条約に、将来の改正条項が入っておりまする」
「……どういうことじゃ?」
「『将来、双方の合意により条項を見直すことができる』という文言が、条約の中に入りましてございます。また金銀の比率についても、将来的な見直しを行うという条項が入ってございまする」
御門様がしばらく黙った。
「……それは、朕の条件に関わることではないか」
「はい。御門様が以前わたくしにお示しになった条件——相互主義、関税の自主権、金銀の適正交換。そのうちの金銀比率については、将来の見直しという形で条文に入りましてございます」
「そなたが入れさせたのか」
「わたくしが働きかけた結果かどうかは、確認できませぬ。なれど——その条項が入ったことは、後の世に必ず意味がありましょう」
「どのような意味が?」
「この条項がなければ、予想しますに改正するまでには、大凡五十年以上の時はかかりましょう」
「…なれどこの将来の改正条項があれば、その道が短くなりまする。御門様の条件が完全には実現致しませんでした。なれど、実現できる道が最初から条文に組み込まれたのでございまする」
御門様がまた長い間、黙った。
部屋の中に静かな時間が流れた。
「……朕は怒っておる」
「はい」
「怒りは収まらぬ」
「はい」
「しかし——そなたの言う通りなら…」
御門様が続けた。
「今日結ばれた条約は、完全な敗北ではない、ということか?」
「はい。不完全ですが——種は入りましてございまする」
「種か…」
「はい。種が入れば、芽が出る可能性があります。芽が出れば、いつか花が咲きます。今日はその種が入った日だと、わたくしは思うておりまする」
御門様がしばらく黙った後、言った。
「……そなたの言葉は、いつも朕を困らせる」
「申し訳の候わぬ次第に御座します」
「…怒りをそのまま怒りでいさせてくれない」
「……御門様」
「朕が怒るのは正しい。しかしそなたの言葉を聞くと、怒りの中に次のことが不思議と見えてくる。それが困る…」
糸子が少し頭を下げた。
「それが——わたくしにできることでございます」
「……そうじゃな」
御門様が静かに言った。
「種が入ったとするならば——その種を守ることが、これからの仕事か?」
「はい。種が芽を出し、花が咲くまで——守り続けることが必要でございまする」
「朕も守ろう」
「深甚なる感謝を申し上げます、御門様」
「ただし——勅許なしで条約を結んだことへの怒りは、朕は表に出す。出し続ける。それは正当な怒りだ」
「はい。それは当然でございまする」
「朕が怒ることで、後の世の人間が『朕は最後まで抵抗した』という記録が残るのであろう?。なればその記録もまた、後の改正交渉において意味を持つはずじゃ」
糸子は御門様の言葉を聞いて、少し驚いた。
「すべては御門様の仰せの通りにございます」
御門様が——後の交渉への種として、怒りを位置づけていらっしゃる。
「御門様は——すでに次を考えておられるのでございますね」
「そなたから教わった」
御門様が言った。
「先を見ることを…」
深く平伏する糸子の姿がそこにはあった。
「身に余る光栄、恐悦至極にございます」
十 江戸の反応が続く
調印の知らせは、日を追うごとに江戸全体に広がっていった。
そして広がるにつれて、人々の反応が深くなっていった。
最初は「やっぱり」という確認だった。
次第に「やはり流言は本物だった」という認識になった。
そしてその認識が、「これからも流言通りのことが起きる」という不安に変わった。
日本橋の砂糖問屋では、主人が番頭に言った。
「堀田殿が粘ったにもかかわらず、勅許なしで結ばれた。これは——大老が押し切ったということだな」
「おそらくは。老中たちは合議を求めていたとの話ですが、最終的には——」
「大老が上に立っているということか。しかし流言では——大老になって処罰の計画があると言っていた。本当になるのか」
「さあ。しかし条約の話は本当になったわけですし——」
「だとすれば、あの処罰の名前も本当になるかもしれない」
番頭が声を低くした。
「あの名前の中に、堀田殿のお名前もありましたね」
「あった。もし本当になれば——」
「怖い話です」
十一 志士たちの動き
一方、浪人や志士たちの間では、調印への反応がより激しかった。
水戸藩と繋がりのある志士たちが集まる場所では、声が高まっていた。
「御門様を踏みにじって条約を結んだ。これは尊王の精神への挑戦だ」
「井伊が大老にならなければ——こうはならなかったかもしれない。堀田殿が粘っていたとのことだし」
「そうだ。これは井伊の問題だ」
「売国奴め」
「しかし——どうする。大老は幕府の最高職だ」
「それでも——このまま黙っていることはできない。御門様がこれほど明確に反対を示されていたにもかかわらず、踏みにじった。この怒りを、どこかにぶつけなければ」
「水戸の殿様(斉昭)も怒っておられるとのことだ」
「各藩の志士たちも同じ思いだろう」
「力を合わせれば——」
その先の言葉は、誰も口にしなかった。
しかし全員が、同じ方向を考えていた。
十二 万次郎の分析
江戸に戻っていた万次郎は、調印の様子を近くで見ていた。
その日の夕刻、万次郎は帰宅してから、しばらく一人で考えていた。
「将来の改正条項が入った」
万次郎が呟いた。
「老中首座の堀田殿がかなり粘られたと聞いたが、これは——姫様の言っていたことだ」
ハリスがなぜこの条項を受け入れたか、万次郎には分かった。
「急いでいたからだ。この条項を受け入れることで、今すぐ調印できる。それがハリスの計算だった」
それは私の見立て通りでもあった。
万次郎は京の近衛家を思った。
「御簾の向こうから英語で返事が来た」あの時のことを。
「姫様は一体どれくらい先まで見ておられるのだろうか?」
しかし、万次郎は感じていた。
「この条項は——後に使われる。将来の改正交渉において、この条項が必ず根拠になる。その根拠を、今の時点で条文に入れることの意味を理解している人間が…」
万次郎は少し笑った。
「……はたして今の日本には、どのくらいいるのだろうか?」
十三 直弼の夜
調印が成立した夜、直弼は一人で書院に座っていた。
表向きには「大老として条約調印を見守った」という立場だった。
しかし実際には——
「わたしは何もしていない」
直弼が静かに言った。
「大老でありながら、実質的に何もできなかった…」
堀田が主導した交渉。老中たちの合議。
その全てに、直弼は参加できなかった。「合議の上で」という壁に遮られて。
それでもなんとか細やかなる抵抗はした、いや————それしかできなかった…
「あの流言のせいだ」
直弼が言った。
「あの流言がなければ——わたしが主導して、この条約交渉を動かせた」
「わたしが直接交渉していれば、あのような将来の改正条項など、決して入れなかった。そのような曖昧な条項は、交渉を弱くするだけだ。あのような条項に一体なんの意味があるのだ?」
「しかし——わたしの権限が骨抜きにされたせいで、堀田が動いた。そして堀田は、あのような条項を入れた」
直弼が少し考えた。
「将来改める……。そんなものを入れた時点で、“この条約はまだ決まりではない”と言っているようなものだ」
「“後で変える”などと書けば、異国の連中はこう思う。押せば好きなように変えられる”と…そう思うに決まっておる」
「結果的には外国に隙を見せるだけにすぎぬ」
「条約とは、ここが限界だというものを突きつけるべきものなのだ。揺らぎを見せた時点で、負けなのだ」
「それにこんな内容の条約しか結べない…となれば、それは幕府の弱さを示すことにもなる」
直弼の中で、怒りと分析が混ざり合っていた。
「誰かが——わたしをこの状況に追い込んだ犯人が——いる」
「その犯人を見つけることが、今のわたしの最優先事項だ」
直弼は机に向かった。
囮作戦の進捗を確認する書面を開いた。
まだ手がかりがない。
「しかし——必ず見つけだしてやる」
冬の夜が深まっていた。
彦根藩江戸藩邸に、静かな怒りが満ちていた
十四 糸子の帳面
京の近衛家の夜。
糸子は帳面を開いていた。
御門様への報告を終えて、今日一日のことを整理していた。
「調印された。史実より形が違う条約が結ばれた。将来の改正条項が入った。金銀比率の見直し条項が入った」
「これをどう評価するか」
「決して勝利ではない。勅許は得られなかった。条約は依然として不平等な部分を持っている」
「しかし——種は入った」
「今から数十年後、この国が外国と対等に付き合えるようになったその時——その道を切り開いた最初の一歩として、今日の改正条項は必ず引用される」
「前世では、条約改正に五十年かかった。この世界線では——どれくらいになるのか」
「はっきり言って分からない。けれども確実に短くなる」
糸子は筆を置いた。
縁側の外では、冬の夜が静かだった。
遠くで何かの声がした。
「次は何をするか?、どうするか?」
糸子は考えた。
「英語の習熟を仕上げる。万次郎との最終的な実践。旭狼衛の江戸対応体制の完成。そして——」
「ハリスとの直接の対話に備える」
「条約は結ばれた。しかしこの条約の内容について、御門様の天朝外語御用掛として、何かを伝える機会は必ず訪れる…」
「その機会に備えて、準備を続けるだけね」
糸子は帳面を閉じた。
近藤が縁側の外で夜番についていた。
「近藤殿」
「はい」
「今日、条約が調印されました」
「……知っています。善次郎殿からの文の内容を聞きましたゆえ」
「どう思いまするか?」
近藤がしばらく考えた後、答えた。
「完全ではないと思いました。しかし——姫様が動いた結果が、条約の中に改正条項を残したと考えます」
「そうですね」
「姫様が準備したものが、一つの形になったと感じます」
「はい」
「次は——その形を守ることですか」
「いいえ」
糸子が言った。
「次は——その形を使うことでございます」
「使う、とは?」
「将来の改正条項という出口を、実際に使えるようにするために動くことでございます。種を入れただけでは意味がない。芽が出るように、育てることが必要でございます」
近藤が頷いた。
「では自分たちも——まだまだ動き続けるということですね」
「はい。まだ終わっていません」
「分かりました」
近藤が言った。
「旭狼衛は、今日も明日も、いつまでも続けましょう。姫様と共に…」
冬の京都の夜は静かだった。
しかし江戸では、今日の調印が新たな怒りを生んでいた。
その怒りは、やがてどこかに向かうのだろうか。
近衛糸子は、帳面を再び開いた。
そして次の手を考え始めるのであった。
第三十六話 了
一部内容を変更して訂正させていただきました m(_ _)m




