第三十五話「大老、就任する」
一
安政五年の秋が来た。
九月の江戸は、夏の熱が残りながら空気の質が少しずつ変わっていく季節だった。空が高くなり始め、雲の形が変わり、風の中に秋の匂いが混じってくる。
しかしその秋の空の下で、江戸城は普段とは違う空気を持っていた。
九月の半ば過ぎのことだった。
彦根藩主・井伊直弼が大老に就任することが正式に決まった、という知らせが江戸城内を走った。
大老就任。
幕府の最高職。将軍に次ぐ地位。緊急時にのみ置かれる、絶大な権限を持つ臨時の役職。
本来であれば、その就任は幕府の威信を示す出来事として、江戸城内に一定の重みを与えるはずだった。
しかしこの日の江戸城には、その重みがなかった。
二 就任の儀式
就任の儀式が行われた大広間。
老中たちが整列していた。
表情が、固かった。
全員が、必要最低限の礼儀を守りながら、しかし誰も積極的に祝意を示していなかった。
老中筆頭の松平忠固が、定められた言葉で就任を告げた。
「彦根藩主・井伊直弼殿を、幕府大老に任ずる」
その声は正確だったが、何かが欠けていた。
高揚感がなかった。
出席者たちの目が、直弼に向いていた。
その目の中に、温かさはなかった。
品定めする目。警戒する目。様子を見る目。
しかし直弼を真正面から支持する目は、どこにもなかった。
直弼は大広間の中央に立って、その視線を全身に受けた。
顔には何も出さなかった。
長年、埋木舎での不遇の生活を経てきた直弼は、自分の感情を外に出さないことに長けていた。
茶道で培った静けさが、今も顔に張り付いていた。
しかし内側では——
内側では、何かが燃えていた。
三 江戸の街の反応
大老就任の知らせは、その日のうちに江戸の街に広まった。
しかし街の反応は、幕府が期待したものとは全く違った。
日本橋の呉服商の番頭・清七は、得意先から知らせを聞いて言った。
「……やっぱり大老になったか」
「驚かなかったのですか」
「驚かないよ。前からそういう話が出ていたから」
「噂の通りになったということですか」
「そういうことだ。外国から金をもらっているとか、処罰の計画があるとか、そういう話が出ていた人物が大老になった。これからどうなるかは——」
清七が少し声を低くした。
「見ていれば分かるだろう」
神田の長屋では、左官職人の熊吉が女房のおきんに言った。
「大老になったぞ、あの彦根の殿様が」
「どうするんだい」
「どうするって——まあ、様子を見るしかないな。ただ」
「ただ?」
「あれだけの噂が出ていた人物だ。これからが怖いな」
「本当に日本を売り渡したりしないでしょうね」
「さあ。しかし御門様のお許しも取らずに条約を結ぶ、なんてことだけはしてくれるなよと思うよ」
浪人たちが集まる小料理屋では、より直接的な話になっていた。
「大老就任だと。しかし今の状況で、本当に動けるのか」
「動けないかもしれないな。これだけの噂が出回った後では」
「牽制になっているということか」
「噂が本当になれば——大老職が取り消されるどころか、彦根藩そのものが危うい。そう思っているから、慎重にならざるを得ないだろう」
「なるほど。噂そのものが、鎖になっているわけだ」
「うまく言ったな」
四 直弼が直面した現実
就任の翌日、直弼は早速動こうとした。
まず通商条約の問題だ。ハリスとの交渉を自分の主導で進めたい。老中を通じてではなく、直接に動きたい。
しかし老中筆頭の松平忠固が、丁重に、しかし明確に言った。
「大老殿、幕府内外の状況を鑑みますと、現時点での独断的な決定は——その影響が予測しがたく——合議の上で進めることが適切かと存じます」
「…合議?」
直弼が繰り返した。
「はい。老中全員での合議の上で、方針を定めることが、この時期には——」
「老中の合議の上で、大老が決裁するということに…?」
「その通りでございますが、この時期は特に——幕府全体の意見の一致が求められておりますゆえ——」
直弼は話が続くのを遮って言った。
「…あい分かった。今日のところは下がれ」
松平忠固が退室した後、直弼は一人で書院に座った。
「合議…」
また呟いた。
大老の役割は、老中の上に立ち、重要な政策決定を行うことだ。
合議が必要なのは老中の段階であって、大老がその合議を経た上でさらに慎重に進めろという話は——本来の大老職の権限とは相容れない。
しかし「合議が適切」と言われた瞬間、直弼は気づいた。
これは——形の上では誰も大老を否定していない。
しかし実質的に、大老が動ける範囲が極めて狭くなっている。
誰かが——何かが——大老の権限を骨抜きにしていた。
五 権限の骨抜きという現実
その日の夜、直弼は家老の長野義言を呼んだ。
「義言、正直に答えよ」
「はい」
「大老の権限が、実質的に機能していないと思うか?」
長野義言が少しの間、黙った。
「……はい。そのように見受けられます」
「原因は何だ」
「複数の要因が重なっています」
長野が続けた。
「まず、殿に対する噂が広まったことで、幕府内の人心が殿から離れています。老中たちは殿の指示を遂行することで、自分たちまで批判の対象になることを恐れています」
「だから合議という盾を使うのか…」
「はい。合議の結果として動いたのであれば、責任の所在が分散されます。殿一人の責任にはならない」
「そして」
「将軍継嗣の問題でも、諸大名の間で意見が割れています。慶福様を推す南紀派と、慶喜様を推す一橋派が対立している状態で、大老が一方を支持する形で動けば——もう一方の反発が大きくなります」
「つまり?」
直弼が静かに言った。
「大老になったが、大老として動けない状態になっている?」
「……端的に言えば、そういうことです」
「そして——」
直弼が立ち上がった。
「この状態を作ったのは、あの流言だ」
「おそらくは」
「あの流言がなければ、わたしは今頃、ハリスとの交渉を主導して通商条約の問題を解決し、将軍継嗣の問題も決着をつけていた」
「はい」
「しかし流言のせいで、わたしの就任前から『問題のある人物』という印象が形作られた。幕府内の人間は、わたしに従うことの危急を計算している。その計算が、わたしの権限を実質的に奪っている」
長野が頷いた。
「…おっしゃる通りかと存じます」
六 夜の独白
長野が退室した後、直弼は書院に一人で残った。
秋の夜の江戸は静かだった。
遠くで犬の声がした。風が木の葉を揺らした。
直弼は机の前に座ったが、何も書かなかった。
頭の中で、この数ヶ月を振り返っていた。
春から夏にかけて広まった噂。
賄賂。売国奴。大粛清の計画。処罰対象の名前。
あの流言が出始めた時から、直弼は犯人を探し続けていた。
しかし犯人は見つからなかった。
複数の独立した経路から同時に出ていた。商人の口から、御所の周辺から、剣術道場から——それぞれ別々の場所で同じような話が出ていた。
出所を一つに絞ることができなかった。
「どこかの組織が動いている」
直弼は確信していた。
「しかし——どの組織なのかが見えない」
水戸藩か。一橋派か。薩摩か。
あるいは——これらのどれでもない、別の何かか。
直弼は考え続けた。
「あれほどの噂を組織的に流せるのは——幕府の内部事情を知っている者だ。御所との繋がりがある者だ。しかし幕府の内部でも御所でも、手がかりが掴めなかった」
「どこかに、わたくしが見落としている何かがある」
「必ず——必ず見つける」
直弼は机を静かに叩いた。
「このままで終わるつもりはない。大老になった。形の上では、この国の最高位に近い立場だ。その立場を使えない状態にしたのが誰であれ——必ず報いを受けさせる」
秋の夜が深まっていった。
書院の灯りが、直弼の顔を照らしていた。
その顔に、怒りとも悲しみとも取れる表情が浮かんでいた。
七 直弼の裏工作
翌日から、直弼は密かに動き始めた。
表向きは「大老として合議に従って動く」という姿勢を示しながら、その裏で、犯人を特定するための仕掛けを始めた。
「長野」
「はい」
「一つ、密かに動いてほしいことがある」
「何でしょうか」
「囮の話を流す」
長野が少し眉を動かした。
「囮の話、とは」
「特定の内容の話を、特定の経路から流す。その話がどのように広まるかを追いかける。犯人は、何らかの方法で風聞を収集している。その収集の仕掛けに引っかかる話を流せば——風聞が向かう先が見えてくる」
「なるほど。犯人の収集の仕掛けを逆用するわけですね」
「そういうことだ。流す話の内容は、わたしが考える。それぞれの経路に少しずつ違う内容を流して、どの風聞がどこに届くかを確認する。複数の違う話が合流している場所があれば——そこに犯人の仕掛けがある」
長野が考えた後、言った。
「非常に巧みな方法です。しかし——」
「しかし?」
「相手も賢い可能性があります。同じような方法を想定して、囮の話を意図的に避けるかもしれません」
「それも踏まえている」
直弼が続けた。「囮の話を一種類だけ流すのではなく、複数の種類を異なる時期に流す。相手が最初の囮を避けても、次の囮には引っかかる可能性がある。長期的な追跡になる」
「かなりの時間と手間がかかります」
「構わない。時間はある」
直弼が窓の外を見た。
「わたしは今、動けない状態にある。しかし動けない間も、準備はできる。犯人を特定する準備を、じっくりと進める。いずれ——必ず——その者を見つける」
長野が頷いた。
「かしこまりました。どのような話を、どの経路から流しますか」
「まず——大老として、次の動きを密かに検討しているという話を流す。内容は——実際にはしない予定のことを、するように見せかける。その話が誰の耳に入るかで、相手の情報の仕掛けの一端が見えてくる」
「具体的な内容は」
「特定の幕臣への接触を検討している、という話を流す。その幕臣の名前も、わたしが決める。実際には接触しない。しかしその話が、その幕臣に届くかどうかを確認する」
「届けば——その幕臣に近い人間が、犯人の風聞収集の仕掛けに繋がっているということですね」
「そういうことだ」
直弼が少し微笑んだ。
その微笑みは、冷たかった。
「一期一会、という言葉がある。茶の湯の言葉だ。この一会の出会いを、生涯に一度の機会と思って誠実に向き合う。わたくしはその精神で、この戦いにも向き合う」
「戦い、とおっしゃいますか」
「そうだ。これは戦いだ。刀を使わない戦いだが、戦いだ。わたくしを追い詰めた者と、これからじっくりと戦う」
八 江戸の善次郎から届いた知らせ
京都の近衛家に、善次郎からの文が届いたのは、秋の深まる頃だった。
お梅が文を持ってきた。
「姫様、善次郎殿からです」
「ありがとう」
糸子は文を受け取って開いた。
「姫君様、江戸の状況をご報告します。井伊直弼様が大老に就任されました。しかし就任後の江戸城内の様子が、通常の大老就任とは全く異なっています」
善次郎の文が続いた。
「老中たちが積極的に大老殿に従う様子がなく、合議という形で大老の独断を実質的に防いでいます。幕府内では、大老が就任したことよりも、大老が動けない状態にあることの方が話題になっています」
「また、大老殿が犯人の特定に向けて、密かに何かを動かし始めているとの話が出ています。具体的な内容は分かりませんが、複数の商人が『彦根藩の関係者から、変な話を聞かされた』という話をしています。その話の内容が、少しずつ違う形で、複数の人間に伝えられているとのことです」
糸子は文を読みながら、少し静止した。
「複数の内容が、少しずつ違う形で…」
直弼の裏工作が、早くも動き始めていた。
九 近藤を呼ぶ
糸子はすぐに近藤を呼んだ。
二人になった座敷で、糸子は静かに言った。
「近藤殿、少し大事な話がございます。まず座ってくださいまし」
「はい」
「これからお話しすることは——わたくしが今まで、近衛家の外に一切明かしていなかったことでございます」
近藤が糸子を見た。
「……はい」
「この春から夏にかけて、江戸で広まった井伊直弼についての噂をご存知でしょうか」
「はい。道場でも話題になっていました」
「あの噂を流したのは——わたくしでございます」
近藤が止まった。
しばらく動かなかった。
「……姫様が?」
「はい。善次郎、村岡、そして道場の方々を通じた形で——複数の経路から同時に流しました。全て間接的な形で、近衛家の名前が出ないように、細心の注意を払いながら…」
近藤がしばらく黙っていた。
その沈黙は、驚きからくるものだったが、動揺ではなかった。
「……なんとなく、そのような気はしておりました」
「やはり」
「全ての時期が合っておりましたので。しかし確証はありませんでした」
糸子が言った。
「なぜ今頃に打ち明けるのか?と、お思いですか」
「……はい。今頃に、なぜ?」
「井伊直弼は近衛家の影すら掴んでおりません。またこれからも掴ませません。しかしわたくしは一切油断致しませぬ。井伊は今回のことで、犯人を相当恨んでおります。今後、必ず何かをしてきます。だから近藤殿に今、お話しをしているのです」
近藤が頷いた。
「一つだけ、お聞かせ願えますか」
「はい、なんでしょう?」
「なぜ姫様は、あのような行動を取られたのですか?」
糸子が少し間を置いた後、答えた。
「理不尽な理由で処罰される方々を一人でも少なくするためでございます」
「理不尽な処罰、とは」
「あの井伊直弼という人物は、独善的な人間です。そのような人間が大老という権力を持てば、邪魔者、邪魔になりそうな者、自分に反対する者、逆らう者を次々に排除するでしょう。あらゆる手を使って。そしてそれを見せしめとして、さらなる権力を強化しようとするでしょう。だから——先に動きました」
「姫様は、それほど先を読まれていたのですか」
近藤が静かに言った。
「この近藤は、姫様の守護者でございます。姫様が最良と思うことをなさってください。どんなことがあっても、旭狼衛が全力で姫様と、この近衛家をお守りいたします」
糸子は少し間を置いた後、頭を下げた。
「御厚情に深く感謝申し上げます」
近藤が驚いた。
糸子が頭を下げることは、極めて珍しかった。
「姫様、頭をお上げください」
「いいえ。わたくしが判断したことで、近藤殿たちに危険が及ぶ可能性がございましょう。その危険を、正直にお伝えしなければなりませんでした。それが遅くなったことを——お詫び致しまする」
「……旭狼衛は、始めからそういう集団です」
近藤が言った。
「危険も含めて、守護することを選んだ者たちです。姫様のお詫びは——かたじけないですが、必要ありません」
十 対策を考える
「直弼が犯人を探している」
糸子が続けた。
「善次郎の文に、複数の経路から少しずつ違う内容の話が出ているとあります。これは——囮を使って、情報の流れを追跡しようとしているものでございます」
「囮の話、ということですか」
「はい。少し違う内容の話を、別々の経路に流して——その話がどのように広まるかを見る。どこかで話が合流すれば、そこが情報収集の仕掛けのある場所だと判断できまする」
近藤が考えた。
「それは——善次郎殿が引っかかる可能性がありますか」
「はい。だから善次郎に今すぐ文を送りましょう。内容は『しばらく、彦根藩の関係者からの話は一切取り上げないように』ということでございます。引っかかりそうな話が来ても、聞き流すことを伝えます」
「村岡殿には?」
「御所内の話については、さとを通じて同じことを伝えまする。幕府の関係者から不自然な話が来た場合は、すぐに知らせるようにと…」
「道場については?」
「道場に入ってくる新しい人物については、当面警戒を高めてくださいまし。直弼が追跡のために、道場に近づく人物を送り込む可能性がございましょう」
近藤が頷いた。
「分かりました。永倉と斎藤に、新規の入門者への対応を厳しくするよう伝えます」
「よろしゅ、お頼み申し上げます」
「もう一つございます」
糸子が続けた。
「天朝物産会所の商売の経路についても、一時的に整理しまする。直弼が商売を通じた追跡を試みた場合、経路が複雑すぎれば手がかりを掴めませぬ。逆に単純すぎれば分かってしまいましょう。適切な複雑さを保つ必要がありまする」
「それは姫様が直接管理されますか」
「はい。この件については、善次郎と二人だけで動きまする。余計な人間を経由させませぬ」
十一 直弼の囮作戦の状況
その頃、江戸では直弼の囮作戦が動き始めていた。
長野義言が、慎重に複数の経路を通じて、少しずつ違う内容の「囮の話」を流した。
「大老殿が、某幕臣との接触を検討しているとのこと」——これが第一の囮の話だった。
「大老殿が、御所の特定の公家との対話を求めているとのこと」——これが第二の囮の話だった。
「大老殿が、外国の通訳を独自に採用しようとしているとのこと」——これが第三の囮の話だった。
それぞれ、少しずつ違う経路を通じて流した。
そして——それぞれの話がどのように広まるかを、彦根藩の人間が追跡し始めた。
しかし問題があった。
善次郎が引っかからなかった。
御所周辺が引っかからなかった。
道場から出ていかなかった。
追跡の結果、話が広まるのは全て「通常の商人の口伝」の経路だった。
どこかに特定の収集の仕掛けがある、という証拠が出てこなかった。
長野が直弼に報告した。
「殿、現時点では——いずれの囮の話も、特定の仕掛けに引っかかった形跡がありません」
「まだ時間が足りないのか、それとも——相手も察している」
「どちらかは判断できません」
直弼が窓の外を見た。
秋の空が高かった。
「相手は賢いな…」
直弼が静かに言った。
「動きを止めた。あるいは、動きの質を変えた。どちらにしても——こちらの追跡を知っているか、あるいは本能的に察している」
「ではどうされますか」
「続ける。時期を変えて、内容を変えて、経路を変えて、続ける。必ず尻尾を出す瞬間がある」
「長期戦になりますね」
「構わない。わたしには時間がある」
十二 糸子の分析
京都の近衛家では、糸子が帳面に向かっていた。
秋の午後の光が座敷に差し込んでいた。
糸子は直弼の動きについて、分析を書いていた。
「直弼が囮の話を使って追跡を試みている。しかし今のところ、こちらの仕掛けには引っかかっていない。理由は以下の通り」
「第一に、善次郎に事前に警告を伝えた。善次郎は彦根藩の関係者からの不自然な話を取り上げていない」
「第二に、御所内の経路についても、さとを通じて警告が届いている」
「第三に、道場の警戒を強めている。新規の入門者への対応が厳しくなっている」
「この三点が機能している間は、直弼の追跡は空振りに終わる」
糸子は少し考えた後、続けた。
「しかし——長期的には、どこかに綻びが生じる可能性がある。直弼は長期戦を覚悟している。こちらも同じ覚悟が必要だ」
「直弼が追跡をしている間に、こちらがすべきことがある」
糸子が次の頁を開いた。
「ハリスとの交渉の準備を加速させる。直弼の注意が犯人探しに向いている今が——こちらにとって動きやすい時期だ」
「英語の習熟をさらに高める。万次郎との実践的な対話を増やす。堀田様との情報経路を維持する。旭狼衛の江戸対応体制を整える」
「直弼を見ながら、しかし直弼に気を取られすぎない。この国には、直弼以外にも動かさなければならない物事がある」
糸子は筆を置いた。
十三 旭狼衛の現状
試衛館京都道場では、この頃から新しい訓練が始まっていた。
近藤が主導した訓練だ。
「今日から、江戸での警護を想定した動きを練習する」
道場に集まった十五名が、近藤の言葉を聞いた。
「江戸は京都と地形が違う。街の作りが違う。人の動きが違う。その違いに対応できなければ、江戸での守護はできない」
永倉新八が聞いた。
「江戸での警護は、いつ頃になりますか」
「具体的な時期は分からない。しかし——姫様がいずれ江戸に行く必要が生じることは、ほぼ確実だ」
「それはなぜですか」
「条約交渉の問題があるからだ。詳しいことは今は言えないが——姫様が外国の方と対話する必要が生じた場合、その場は江戸か横浜になる」
「御簾越しで、外国の方と」
「そうだ。姫様は英語を学んでいる。その理由を考えれば——自ずと答えが出る」
近藤が全員を見た。
「旭狼衛の役割は、剣で戦うことではなく、姫様が動ける環境を整えることだ。姫様が言葉で戦える場所に、安全に辿り着けるよう——そして戦いを終えた後、安全に帰ってこられるよう——それが俺たちの仕事だ」
道場に、静かな空気が流れた。
沖田総司が言った。
「姫様が言葉で戦う——格好いいですね」
土方歳三が言った。
「格好いい、で済む話ではない。姫様が言葉で戦っている間、俺たちは外で戦っている可能性がある」
「え、刀を使いますか」
「最悪の場合はそうなる。だから今から準備する」
近藤が頷いた。
「その通りだ。姫様が言葉で戦い、俺たちが剣で守る。それがこれからの旭狼衛の形だ」
江戸に詳しい人間を三名加えるため、近藤はすでに動いていた。
一人は江戸の深川出身で、江戸の地理に明るい者。
一人は横浜の近くの生まれで、開港後の横浜の様子を知っている者。
一人は幕府の末端に仕えていた者で、江戸城周辺の動きに詳しい者。
この三名を加えることで、旭狼衛は江戸での活動に対応できる体制に近づいていた。
十四 直弼と糸子、それぞれの夜
秋の終わりが近づいていた。
江戸の彦根藩邸では、直弼が一人で書院に座っていた。
囮作戦は続いていたが、手がかりが掴めなかった。
直弼は茶を入れていた。
茶道は、直弼にとって最も落ち着ける時間だった。
埋木舎での不遇の三十二年間、直弼を支えたのは茶道だった。一期一会の精神。この一瞬を、生涯に一度の機会として誠実に向き合う。
今、直弼はその精神を、犯人探しに向けていた。
「必ず見つける…」
茶を飲みながら、直弼は思った。
「この一会に、必ず決着をつける」
一方、京都の近衛家では、糸子が縁側に出ていた。
秋の夜の空に、星が多く出ていた。
御所の木々が風に揺れていた。葉が落ち始めていた。
「直弼は追ってくる」
糸子は星を見ながら思った。
「しかし——今は追ってこれない。こちらが先手を打ったから」
「その間に、次の手を進める」
「英語の仕上げ。万次郎との最終的な実践。堀田様との情報確認。旭狼衛の江戸準備」
「全てが、一点に向かっている」
糸子は少し深く息を吸った。
秋の夜の空気は冷たかった。しかし清潔だった。
「来年が——本番だ」
縁側から戻った。
帳面を開いた。
やるべきことはまだたくさんあった。
近衛家の灯りが、秋の夜に温かく灯り続けていた。
第三十五話 了




