第三十二話「噂という名の剣と、腹黒い姫」
一
安政五年の春が、深まりつつあった。
堀田正睦が江戸に帰ってから十日ほどが経った頃、糸子は縁側に一人で座っていた。
夜の庭は静かだった。梅が散り、桃の花も終わりかけて、代わりに若葉が出始めていた。柔らかい緑が月明かりを受けて、ぼんやりと光っていた。
糸子は帳面を膝の上に開いていたが、しばらく筆を持ったまま動いていなかった。
頭の中で、一つのことを繰り返し考えていた。
井伊直弼。
最近、その名前をよく耳にするようになっていた。善次郎からの文に一度出てきた。実光が「幕府内でそのような名前が出始めている」と言っていた。村岡が「御所周辺でも少し話に出ているとのことです」と伝えてきた。
糸子は前世の知識の中で、この名前が持つ意味を知っていた。
「井伊直弼」と書いた。
そしてその名前から線を引いて、知っていることを書き出し始めた。
書き出しながら、糸子は前世の記憶を引き出していた。
橘咲として生きた二十八年間。大学院で幕末経済史を専攻した記憶。
井伊直弼について知っていることは多くない。しかし史実として起きたことは明確に分かる。
安政五年四月二十三日、大老就任。
日米修好通商条約の勅許なしの調印。
安政の大獄。
桜田門外の変での暗殺。
書き出しながら、糸子は改めてこの人物のやったことを並べて見た。
見れば見るほど、頭が痛くなってきた。
幕末の動乱は、すべてこの人物から始まっている。
日米修好通商条約の勅許なしの調印——これだけで、どれほどの問題が起きたか。御門様の権威が踏みにじられた。勅許なし条約への反対が、尊王攘夷運動を激化させた。金銀比率の問題で日本の富が海外に流れ出た。物価が高騰して庶民の生活が苦しくなった。そしてこの不平等条約を解消するために、明治になってから五十年という歳月が必要になった。
安政の大獄——百名以上が処罰された。吉田松陰が死んだ。橋本左内が死んだ。松平春嶽が謹慎になった。三条実万が追い詰められた。
見れば見るほど、ろくでもない行動の連続だ。
名前は井伊なのに、一つもいいことがない。
糸子は思わずそう思った。
いい名前のおっさんが、ろくでもないことをするのは、どうにかならなかったのか。
いやしかし、待て。
ふと、一つのことを思った。
今のところ、大筋で歴史は史実通りに動いている。
ならば、この情報は今のわたくしだけが知っている状態…
逆手に取れないか。その知識を、使えるのではないか。
糸子は帳面に、書き始めた。
二
考えながら書いた。消して、また書いた。
三つの制約を確認した。
第一に、近衛家の名前を直接の出所にしてはならない。第二に、御門様の名前は絶対に使えない。第三に、協力者に直接的な危険を及ぼしてはならない。
この三つを守りながら、どう情報を流すか。
答えは「糸子が直接流さない」ことだ。
種を蒔く。経路を使って流す。そして現実が噂に追いついてくる瞬間を待つ。
具体的な経路を整理した。
・善次郎ルート——江戸の商人ネットワーク。最も広い拡散力を持つ。
・村岡ルート——御所内の女官のネットワーク。「御所で聞いた話」という権威が生まれる。
・旭狼衛ルート——剣術道場から武士の世界全体へ。
・島津斉彬ルート——薩摩の情報網は全国に及ぶ。
・松平春嶽ルート——一橋派への直接的な警告として。
そして噂の「素材」を作る。
完全な嘘ではいけない。史実で実際に起きることを「これから起きること」として流す。真実の部分が確認されるたびに、噂全体の信憑性が上がる仕組みだ。
糸子は書いた。
「素材一:大老就任の動き——これは事実になる。既に周囲では話が出始めている。
素材二:勅許なしの条約調印の計画——これも事実になる。
素材三:処罰対象の具体的な名前——徳川斉昭、岩瀬忠震、川路聖謨、三条実万、山内豊信、松平春嶽、安島帯刀——これらは史実で実際に処罰される人物たちだ。
素材四:外国からの賄賂——これは嘘だ。しかし、疑問を植え付ければ、人々が自分で答えにたどり着く。」
糸子は書き終えて、少し間を置いた後、続けた。
「これは道義的に完全に正しいとは言えない。嘘と真実を混ぜた工作だ。しかし——安政の大獄で何人の人が傷つくかを知っている。その傷を少しでも小さくするために、できることをする。噂を流すことで自分の手が汚れることは分かっている。しかしその手が汚れることで、誰かの命が救えるなら——やる。」
糸子は帳面を置いて、もう一度整理した。
やれる。
これはやれる。
そう確信した瞬間、糸子の胸の中で何かが弾けた。
前世の橘咲は、百貨店のバイヤーとして海外の取引先と交渉し、社内ベンチャーで情報戦を経験してきた。情報の使い方は知っている。噂の拡散の仕組みは知っている。
やれる。
そして——
なぜか笑いがこみ上げてきた。
自分が今やろうとしていることの、あまりにも「腹黒い」性質に、自分で呆れたような、しかしどこか痛快な気持ちになった。
「うけけけけけーーーー」
思わず声が出た。
小さい声のつもりだったが、夜の静けさの中では思ったより響いた。
三
縁側の外で、土方歳三が夜警護についていた。
その笑い声を聞いた瞬間、土方の体が反応した。
危険を察知した時の、体の反応だ。
しかしこの笑い声は——
(何だ、この笑いは)
土方の知っている笑い声のどれとも違った。
公家の姫の笑いではない。子供の笑いでもない。
何か企んでいる人間の笑いだ。
土方は迷わず糸子の部屋に向かった。
「姫様、失礼いたします」
戸を開けた。
糸子は机に向かっていた。帳面を閉じて、筆を置いて、何事もなかったような顔をしていた。
「土方殿、いかがなさいましたか」
穏やかな声だった。
完全に穏やかな声だった。
土方は部屋の中を見回した。
乱れたものは何もない。怪しいものも何もない。
糸子は品の良い公家の姫の顔をして、机の前に座っている。
「……いえ」
土方が言った。
「姫様の部屋から、不気味な笑い声がしたものですから。危険を察知しましたもので…」
「不気味な笑い声?」
糸子が首を傾けた。
「何もありませんでしたよ。気のせいではないでしょうか」
「……気のせいですか」
「夜はいろいろな音がしますから。わたくしも気になることがあって、少し考えておりましたが、もう夜も遅いですし、寝まする」
糸子が立ち上がった。
「土方殿、後の警護をよろしゅう頼みましたよ」
土方が部屋を出た。
しかし戸を閉める前に、もう一度部屋を見た。
糸子は穏やかに微笑んでいた。
土方は戸を閉めた。
廊下を歩きながら、一つだけ思った。
(あの笑いは気のせいじゃない)
(しかし何が起きているのかは分からない)
(……この姫様の前では、何も分からない方が安全なのかもしれない)
部屋の中で、糸子は土方の足音が遠ざかるのを確認した。
「あぶねー」
思わず小声で糸子は言った。
「危うくばれるところだった。あの笑いは公家の姫様のする笑いじゃなかったわー」
糸子は深呼吸した。
「反省しよう。あの笑いは絶対にまずかった。土方の勘は鋭すぎる」
帳面をもう一度開いた。
最後に一行書いた。
「情報工作の開始にあたり、自分の感情管理に注意すること。特に夜中の独り笑いは厳禁。」
四
翌日から、糸子は動き始めた。善次郎への文を書いた。
文面は慎重に選んだ。
「善次郎殿、京都の近況をお伝えします。最近、幕府の動向について気になることを耳にしています。江戸では、彦根藩の井伊直弼様についての話はどのように聞こえていますか。わたくしの聞いた話では、大老職への動きがあるとか。また、某筋からの話では、幕府内部において外国との条約交渉を巡って、内部に外国からの働きかけがある者がいるとも聞きました。さらに——これは噂話の域を出ませんが——大老職に就いた場合、政策に反対する者を処罰する計画があるとのこと。その名前として、徳川斉昭様、岩瀬忠震様、川路聖謨様、三条実万様、山内豊信様、安島帯刀様などが挙がっているとも。これらの話は江戸ではどのように聞こえていますか。わたくしは京都でそのような話を耳にしましたが、真偽のほどは善次郎殿の情報網で確認していただければと思います。」
文を書き終えて、糸子は少し考えた後、もう一行付け加えた。
「これらはあくまでも、わたくしが耳にした話です。近衛家として何かを主張しているわけではありません。善次郎殿の判断で、適切にお取り扱いくださいまし。」
この最後の一行が重要だった。
「近衛家は関係ない」という免責の布石だ。
糸子は文を閉じて、村岡に渡した。
「善次郎殿への文です。急ぎで送ってくださいまし」
「かしこまりました」
五
同じ日の夕刻、糸子は近藤を呼んだ。
「近藤殿、少しご相談がありまする」
「なんでしょう、姫様」
「最近、井伊直弼様についての話を耳にします。幕府内で大老職への動きがあるとか。また、そのような立場になった場合に一橋派の方々への処罰が計画されているという話もありまする」
「それは——」
「わたくしが耳にした話でございます。試衛館の皆さんにも、そのような話が入っているかどうか、自然な形で確認していただけますでしょうか。もし同じような話が入っているようであれば——旭狼衛として警戒の態勢を高めておきたいと思いまする」
近藤がしばらく考えた。
「姫様が耳にした話というのは、どこから来たのですか」
「複数の筋からでございます」
「……御所関係ですか」
「それも含みまするが、具体的な出所は申し上げにくい状況でございます」
近藤が頷いた。
「分かりました。道場の者たちに、そのような話が流れているかどうかを、自然な形で確認してみます」
「よろしくお頼み申し上げます。それから——もし道場の方々が話題にするようなことがあれば、わたくしの名前は出さないでくださいましね」
「承知仕りました」
近藤が退室した後、糸子は少し考えた。
これで旭狼衛ルートが動き始める。
道場に出入りする剣士たちの口を通じて、武士の世界に情報が入る。
六
村岡ルートについては、翌日に動かした。
「村岡、一つお願いがありまする」
「はい、なんでしょう?姫君様」
「御所の台所方のさとに、伝言をお願いしたいのですが…」
「何とお伝え致しましょうか」
「最近、幕府の動向について心配な話を耳にしております。特に彦根藩の方が大きな役職に就く動きがあるとか。朝廷の方々にも影響があるかもしれないので、御所内で気を付けていただくようにと…」
「……さとに伝えればよろしいのですか」
「はい。さとが、他の女官の方々に自然な形でお伝えしていただければ、と思いまする」
村岡が少し首を傾けた。
「姫君様、これは——」
「情報の共有でございます。御所の方々に危険が及ぶかもしれないので、事前に知っていただきたいのでございます」
「分かりました」
村岡は頷いたが、その目には「姫君様は何かを考えておられる」という認識があった。
…村岡は問わなかった。
糸子の判断を信じることが、村岡の役割だった。
七
四月になった。
京都の空は春の雲を流していた。白い雲が東から西へとゆっくり動いて、それを追うように風が吹いていた。御所の周辺の若葉が風に揺れて、ざわざわと音を立てていた。
善次郎からの返書が来た。
「姫君様のご質問の件について、江戸での状況をご報告します。井伊直弼様については、幕府内で既に大老職への動きがあることは、商人の間でも話題になっています。姫君様がお聞きになった話——外国からの働きかけ、処罰の計画——については、わたくしは直接には確認できていませんでした。しかし先日、そのような話を複数の商人から聞きました。出所は様々で、誰が最初に言い出したかは分かりません。しかし江戸の商人の間では、そのような話がかなり広まっているようです。」
糸子は文を読んで、静かに笑った。
種が、既に芽を出し始めていた。
善次郎が他の商人に「近衛家の方面からこういう話を聞いたが、知っているか」と振ったことで、独立した噂として動き始めたのだろう。
返書の最後に、善次郎はこう書いていた。
「なお、わたくしには姫君様からこのような話を聞いたことは、誰にも申しておりません。これは江戸の商人の間で独自に流れている話として、お取り扱いください。」
善次郎は賢い。
何をすべきかを、正確に理解していた。
八 江戸の街
四月の江戸は、日本橋から深川まで春の匂いが漂っていた。
米問屋が並ぶ日本橋の大通りでは、荷車が往来し、商人たちが声を張り上げていた。しかしその活気の中に、最近、いつもとは少し違う空気が混じっていた。
噂だ。
日本橋の呉服商・越後屋の番頭・清七は、その日の朝、得意先の武具商から話を聞いた。
「清七さん、聞いたかい、彦根の井伊様の話」
「何がですかぃ」
「大老職に就く動きがあるらしいんだが——どうもその裏に、メリケンの金が動いているらしいんですよ」
「……メリケンの金が?」
「さあ詳しくはわからないが、そういう話があちこちで出ているんですよ。幕府の中枢に、外国の金で動いている人間がいるんじゃないかって…」
清七は首を傾けた。
「それりゃあ——大変な話ですねえ」
「大変どころじゃないですよ。しかも、大老になったら、反対する者を大粛清するって話まであって」
「大粛清?」
「具体的な名前まで出てるんですよ。徳川斉昭様、岩瀬忠震様——」
清七の表情が変わった。
その話を聞いた日の昼、清七は別の得意先の砂糖問屋で同じ話をした。砂糖問屋の主人は、夕方に顔なじみの料亭で話した。料亭の女将は、翌朝には出入りの魚屋に話した。
噂は川の流れのように、止まらない。
九
日本橋から浅草にかけての長屋が並ぶ一角でも、同じ噂が流れていた。
左官職人の熊吉は、棟梁から聞いた話を女房に伝えた。
「なあおきん、彦根の殿様が大老になるらしいんだが」
「大老って何だい」
「幕府の偉い役職だよ。で、その殿様が——メリケンに日本を売り渡そうとしているって話があるんだよ」
「売り渡す?」
「条約って知ってるか。外国と約束を交わす紙のことだ。それを、御門様のお許しも取らずに勝手に外国と結ぼうとしているんだそうだ」
「御門様のお許しも取らずに? そりゃひどい話だ」
「そうだろ。しかも、反対する者を次々処罰する計画まであるって話だ。名前まで出てるんだってよ。水戸の殿様、越前の殿様——」
「……それは、本当なのかい」
「どこから来た話か分からないが、江戸中で同じ話が出てるんだから、根も葉もない話じゃないだろう」
おきんは翌日、町内の井戸端で同じ話をした。
十
神田の浪人が集まる小料理屋では、夜になると議論が起きていた。
「井伊直弼とはどういう人物だ」
「大名で、一番強い立場の者だ。今、大老に就こうとしている」
「問題はその中身だ。メリケンから金をもらって日本を売り渡すとは——」
「売国奴だ」
「しかも処罰の計画まである。水戸の斉昭公や一橋様を排除しようとしているとか」
「それは——許せない」
浪人たちの顔が赤くなった。
「御門様の御心を踏みにじって、外国の意のままに動く者が大老になれば——この国はどうなる」
「尊王の精神を持つ者が、黙っていられるか」
「しかし相手は大老だ。直接動くことは——」
「動けないとしても、せめて声を上げるべきだ」
十一
江戸城の大手門前でも、登城する武士たちの間で噂は飛び交っていた。
幕府の目付を務める旗本の中村左衛門が、同僚から話を聞いた。
「中村殿、彦根の井伊様の話を聞きましたか」
「大老就任の話ですか。耳に入っています」
「それだけではないのです。外国から——特にメリケンから——相当な働きかけがあるという話がありまして」
「……それは確かな話ですか」
「どこから来た話かは分かりません。しかし、江戸の方々で同じ話が出ているのは確かです」
中村左衛門は少し眉を寄せた。
「大老就任の動き自体は、幕府の事情として分かる。しかし外国との関係となると——」
「処罰の計画まであるとのことで。具体的な名前も出ているようですが」
「名前まで?」
「はい。岩瀬忠震様のお名前も出ているとか」
中村左衛門が黙った。
岩瀬忠震は優秀な幕臣として知られていた。その名前が処罰対象として出るとすれば——
「これは、単なる噂話ではないかもしれませんね」
十二 彦根藩江戸藩邸
四月の中頃。
彦根藩の江戸藩邸に、一人の家老が血相を変えて飛び込んできた。
「直弼様、大変です」
「何だ」
井伊直弼は書物を置いて、家老を見た。
「江戸の街で——殿についての噂が広まっています」
「噂?」
「はい。内容が——その——」
家老が躊躇った。
「申せ」
「メリケンから賄賂を受け取って日本を売り渡そうとしているとか、大老になったら一橋派を大粛清する計画があるとか——そのような話が、江戸中に広まっております」
直弼が静かに言った。
「……もう一度言え」
「メリケンから——」
「聞こえておる」
直弼の顔が変わった。
表情というものが、消えた。
石のように固まった顔で、直弼はしばらく動かなかった。
「……どこから出た話だ」
「それが——出所が分かりません。複数の方向から同時に流れているようで、どこが最初かを特定できないのです」
「複数の方向から?」
「はい。商人の間でも、浪人の間でも、幕臣の間でも——同じような話が、独立して流れているようです」
直弼が立ち上がった。
窓の前に立って、外を見た。
江戸の春の空は青かった。しかしその青さが、今の直弼には冷たく見えた。
「賄賂か…」
呟いた。
「その話が、どこまで広まっているか確認しろ」
「はい、すでに——確認しましたが——」
家老が言いにくそうにした。
「言え」
「日本橋から深川まで、既に相当に広まっているようです。長屋の住民まで知っているとの話が」
直弼が少し動いた。
「長屋の住民まで?」
「はい」
直弼が振り返った。
その顔に、初めて感情が戻っていた。
怒りではなかった。
それより深い、何か暗いものだった。
「これは——」
直弼が静かに言った。
「仕組まれた話だ」
「はい。そう思われますが——」
「誰が仕組んだ?」
「……出所が複数の方向に分散しているため、特定が難しい状況です」
「複数の方向に分散——」
直弼が繰り返した。
「一人の人間が流した噂ではない、ということだな」
「はい。おそらくは——組織的な動きかと」
「組織的な…」
直弼がゆっくりと窓の方を向いた。
江戸の空を見ながら、考えていた。
誰が、このような噂を組織的に流せるのか。
一橋派か。
水戸藩か。
しかし——これほど広範囲に、これほど速く噂を拡散できる組織は——
直弼の頭に、一つの可能性が浮かんだ。しかしすぐに否定した。
まさか。
あり得ない。
十三
その夜、直弼は一人で書物を読もうとしたが、読めなかった。
文字が頭に入らなかった。
処罰対象として名前が挙がっているとの話——徳川斉昭、岩瀬忠震、川路聖謨、三条実万。
自分が何かを動かす前に、なぜその名前が噂として出回っているのか。
これは——誰かが、将来を知っている?。
それとも——誰かが、自分の考えを読んでいる?。
どちらにしても、不気味だ。
賄賂という話は、完全な嘘だ。
しかしその嘘が、江戸中に広まっている。
嘘であることを証明しようとすれば——かえって話題になる。「大老が賄賂の噂を否定している」という事実が、逆に噂を広める。
黙っていれば——噂はそのまま広がり続ける。
どちらを選んでも、噂は広がる。
直弼は茶を一口飲んだ。
冷たくなっていた。
こんな経験は初めてだった。
剣で来るなら斬れる。言葉で来るなら論じられる。しかし噂は——どこを斬れば良いのか分からない。
「……シャレになっておらん」
直弼は呟いた。
これほど身に詰まる言葉を、これほど静かな声で言ったのは、生まれて初めてだった。
十四
江戸城内でも、噂は入り込んでいた。
大奥の廊下を歩く女中たちの間でも、その話は飛び交っていた。
「井伊様って、外国から金をもらっているって本当?」
「さあ、でもそういう話があちこちで出ているって」
「怖いわね、もし本当だったら」
老中の控え室でも、待機している幕臣の間で小声の会話があった。
「彦根の話、聞きましたか」
「……聞きました。しかし出所が不明で」
「出所が不明なのに、これほど広まっているということは——」
「複数の場所で同時に出ているということで」
「誰が仕組んだのかが問題で」
「一橋派かと思ったが——一橋派の動きとは少し違う気がして」
「では誰が——」
「それが、分からないのです」
十五
糸子は京都の縁側で、春の庭を眺めていた。
善次郎からの最新の文が来ていた。
「噂は江戸中に広まっています。長屋の住民から大奥まで、同じような話が流れているとのことです。出所については誰も特定できていないようです」
糸子は文を閉じた。
「うまくいっている」
心の中で思った。声に出すのは、土方に聞かれてからは自重していた。
お梅が茶を持ってきた。
「姫様、最近よく一人で外をご覧になっていますね。何かお考え事ですか」
「少し。お梅、江戸の商人の間で、最近どのような話が流れているか知っておりますか」
「さあ、わたくしには————何かあるのですか?」
「彦根藩についての話が色々と流れているようなのです」
「……それは、姫様がご存知なのですか」
「耳に入ってきています。わたくしは京にいますから、直接は何も知りませんが…」
お梅が糸子を見た。
その目には、何かを見抜いているような光があった。
しかし何も言わなかった。
「そうですか。お茶が冷めませんうちに…」
「はい、いただきます」
糸子は茶を受け取りながら、心の中で思った。
わたくしは………
京にいるわたくしには、江戸の噂の出所など分かるはずがない。
まぁ、そういうことだ。
十六
四月二十三日が近づいていた。
史実では、この日に井伊直弼が大老に就任する。
糸子は帳面を開いた。
「噂は広まった。処罰対象として名前を挙げられた方々が警戒を高めている可能性がある。松平春嶽様には、実光殿を通じて間接的に警告が届いているはずだ。島津斉彬様にも、善次郎ルートで情報が届いている。」
「しかし——大老就任を完全に止めることは、おそらく難しい。構造的な力が働いている。勅許問題の行き詰まり、将軍継嗣問題の対立——これらが『強力な決断者』を求める空気を作っている。」
「だから——大老就任を止めることより、大老になった後の行動を制約することが現実的な目標だ。」
「噂があれば、井伊は行動に慎重になる可能性がある。『賄賂』と『大粛清の計画』が既に噂として出回っている状態で、あまりにも露骨な行動を取れば、噂が事実として確認される形になる。それは井伊自身も避けたい。」
「完全な解決ではない。しかし、安政の大獄の規模を小さくすることはできるかもしれない。」
糸子は筆を置いた。
縁側の外では、近藤が夜番についていた。
「近藤殿」
「はい」
「最近、道場の方々の間で、幕府の動向についての話は出ておりましょうや?」
「はい。出ています」
「どのような話が」
「彦根藩の方が大老に就く動きがある、という話と——それに伴う処罰の計画があるという話が」
「旭狼衛として、何か対策を取る必要がありましょうか」
「姫様、一つだけお聞かせください」
「はい」
「これらの噂は——どこから来たのですか」
糸子が少し間を置いた後、答えた。
「複数の方向から来ています。具体的な出所は、わたくしには分かりません」
近藤がしばらく黙った。
「……そうですか」
「近藤殿?」
「いえ、なんでもありません」
近藤が続けた。
「旭狼衛として、警戒を高めます。江戸への移動に備えた体制も、引き続き整えておきます」
「よろしゅうおたのみ申します」
近藤が退室した後、土方が縁側に戻ってきた。
少し遠くから糸子の方を見た。
糸子は春の夜の庭を眺めながら、静かに帳面を閉じていた。
その横顔は穏やかだった。
あまりにも穏やかだった。
土方は少し眉を寄せた後、何も言わずに夜番の場所に戻った。
この姫には、何か自分には分からないものがある。
それだけは確かだった。
十七
春の夜が深まった。
糸子は最後に帳面に書いた。
「井伊直弼の大老就任は止められないかもしれない。安政の大獄は来るかもしれない。」
「しかし——噂という形で、その準備をしておいた。処罰対象となる方々が警戒を高めていれば、証拠を残さない行動を取りやすくなる。処罰の口実が作りにくくなる。」
「そして——この工作の出所は、誰にも特定できない形になっている。近衛家の名前は出ていない。善次郎も、村岡も、近藤も——それぞれが自然な形で動いただけだ。」
「わたくしは京にいる。江戸の噂の出所など、知るはずがない。」
筆を置いた。
「わたくしは一切、しーらない」
小声で言った。
春の月が、庭を照らしていた。
白い月明かりの中で、糸子は静かに立ち上がった。
帳面を机の引き出しにしまって、就寝の準備をした。
翌朝目覚めた時、庭では鶯が鳴いていた。
春の鳴き声だった。
しかし糸子の耳には、遠い江戸の方から、何か大きなものが動き始める音が聞こえているような気がした。
嵐の前の静けさだ。
しかしその静けさの中に、糸子はかすかな手応えを感じていた。
種は蒔いた。
噂は流れた。
あとは——来たるべき嵐の中で、蒔いた種がどこまで育つかを見ることだ。
第三十二話 了
今回は糸子さんというよりは前世の橘咲の一面が顔を覗かせた回だと思います(・ε・`*)ゴニョゴニヨ・・・




