第二十四話「牙突と、夢のこと」
一
試衛館の京道場が、さらに変わった。
糸子がそれを感じたのは、旭狼衛が正式に結成された後のことだった。
近衛柿色のだんだら模様の羽織が九着揃い、守護集団としての形が生まれてから、道場の雰囲気が確かに変わった。
名前と形が人を変える、とはよく言ったものだと糸子は思っていた。
個別の剣士だった九人が、一つの集まりとしての意識を持ち始めている。それが稽古の密度に表れていた。
道場の前を通りかかると、以前にも増して賑やかな声がした。
聞き慣れない声も混じっている。
また人が増えたのか、と思いながら庭に回ってみると、見慣れない顔がさらに増えていた。
近藤が声をかけた者たちだろう。旭狼衛の結成を機に、近藤は江戸に文を送り、また京都の剣術道場に顔をつなぎ、少しずつ人を集めていた。
糸子は庭の端から道場の様子を眺めた。
活気があった。本当に活気があった。
木刀の打ち合う音、師匠の声、誰かの笑い声——それらが混ざり合って、一つの生きた空間を作っていた。
そこに、一人で汗を拭っている人物がいた。
斎藤一だった。
稽古の合間に、柱の影に立って静かに汗を拭っている。周囲の賑やかさとは無関係に、自分の内側を見ているような目をしていた。
糸子と目が合った。
斎藤が軽く頭を下げた。
糸子も会釈を返した。
そして——
糸子の頭の中に、ふっと何かが浮かんだ。
ずっと気になっていたことがあった。
前世の記憶の中に、斎藤一という人物についての「あの話」があった。
知っていた。漫画で読んだことがあった。いや、正確には前世の橘咲が十代の頃に読んだ漫画の記憶だ。
幕末を舞台にした、あの漫画…
斎藤一と言えば、あの技だ。
糸子は斎藤に近づいた。
二
「調子はいかがですか」
「……悪くはないです」
相変わらず口数が少い。これが斎藤という人物だ。
「一度、斎藤殿にはお聞きしたいことがあったのですが、よろしいでしょうか?」
「なんですか」
糸子は少しもじもじした。
こういう質問をすることへの躊躇いというより、質問した結果を想像した時の心の準備ができていない。
…しかし聞かずにはいられなかった。
前世から引きずっている好奇心というものは、厄介なものだ。
糸子は斎藤の近くに少し寄って、小声で言った。
「さっ、斎藤殿は……がっ……牙突を、お使いになりますか?」
斎藤が糸子を見た。
「はっ?」
「一式、二式、三式……零式、なんて技もあったりするのでしょうか」
糸子は期待に満ちた目で斎藤を見た。
斎藤は糸子を、しばらくまっすぐ見ていた。そして言った。
「……言っていることが、よく分かりませんが」
その言葉が、糸子に静かにクリーンヒットした。
やっぱりそうか。現実は違うんだな。
当然だ。あれは漫画の話だ。創作だ。
しかし分かっていても、分かっていても——実際に斎藤本人から「分からない」と言われると、別のダメージがある。
「……でっ、ですよねー。やっぱり現実は何て厳しいんだろう……」
糸子はそう呟いて、なんらかのダメージを受けたまま斎藤の元を立ち去っていった。
項垂れながら…
三
近藤が、立ち去る糸子の後ろ姿を見ていた。
「……姫様、なんか元気がないな」
隣に立っていた斎藤に聞いた。
「斎藤、お前、姫様に何か言ったのか」
「………」
斎藤は黙った。
近藤は斎藤を見た。
斎藤の沈黙には種類がある。何も言いたくない沈黙と、どう言えばいいか考えている沈黙と、言うべきかどうか迷っている沈黙だ。
今のは三番目だと、近藤には分かった。
「言ってみろ」
斎藤がしばらく考えてから、起きたことを素直に近藤に話した。
「牙突」とは何か。「一式、二式、三式、零式」とは何か。
近藤はその話を聞きながら、頷いた。
「……牙突?」
近藤は繰り返した。
「そういう技の話を、姫様が言っていたのか」
「……ひょっとすると書物で読んだのかもしれんな」
「姫様は時々、そういうことをおっしゃるからな」
近藤は腕を組みながら少し考えた。
糸子が何かを話す時の「書物で読んだ」という言葉は、近藤にとってすでに「姫様独自の言い方」として認識されていた。
斎藤に直接聞いて、がっかりして立ち去った。
ということは——その技について、姫様は本当に何か知っているのかもしれない。
「……牙突」
近藤はもう一度呟いた。
四
夜になっても、糸子はまだ微妙なダメージを受けたままだった。
帳面を開いていたが、英語の勉強もオランダ語の練習も、いつもより少し進みが悪かった。
現実はそうなんだ、と分かっているのに、なぜこんなにダメージが残るんだろう。
前世の記憶にある、あの漫画の斎藤一は——
「姫様、少しよろしいでしょうか」
縁側の外から、近藤の声がした。
「はい!、な、何でございましょう」
近藤が入ってきた。
「失礼致します。稽古の後、斎藤から話を聞いたのですが」
「はい」
「牙突とは、どのような技なのでしょうか?」
糸子は固まった。
近藤が、真剣な顔で聞いている。
あの近藤が、本当に真剣な、剣術家としての真剣さで聞いている。
糸子の中で、何かが猛烈に悶えた。
どうしよう。
どうしよう!!
「どうされました」
「……いえ、なんでもありません」
必死に感情を隠した。
近藤は不思議そうな顔をしていたが、引き下がらなかった。
「牙突のことを、宜しければ教えていただけますか。斎藤が姫様から聞かれたと言っていたので、姫様は何かその技についてご存知なのかと思いまして」
「……そっ、それはですね」
糸子は必死に言葉を探した。
「そう! 夢、夢で見たのです。斎藤殿が牙突を使っている夢を!」
夢という言葉を、やたら強調した。
「夢?」
「はい、夢です。夢でございます。夢の話です」
「夢で見た、その斎藤が使っていたという牙突は、どのような技だったのでありましょうか」
近藤は本当に真剣に聞いていた。
糸子は必死に考えた。
公家の姫が体を使って実際に説明するのは、礼法上どう考えてもまずい。
しかしどう伝えるか…
「あっ! 絵、絵を描いて説明します」
糸子は閃いた。
「絵もお描きになられるのですか、姫様……」
近藤が少し驚いた顔をした。
「あまり上手くはないと思いますが……」
五
糸子は紙と筆を持ってきた。
考えながら、丁寧に描いた。
腰を落とした構え。刀を左手一本で持ち、切先を相手に向けた低い姿勢。右手は前に突き出して、やや刀に重なるような位置にある。
その構えから、一気に間合いを詰めて突く瞬間の絵も描いた。
横に避けられた時に、突きが横薙ぎに変化する瞬間も描いた。
絵を描きながら、糸子は前世の記憶を懸命に思い出した。
あの技の特徴は何だったか。
最短距離での突き。横に避けられても横薙ぎへ移行できる変化…
それらを絵と言葉で説明できるよう、整理しながら描いた。
「……できました!」
糸子が絵を近藤に渡した。
近藤がそれを受け取って、じっくりと見た。
しばらく動かなかった。
「あまり上手くない、とおっしゃっておりましたが、非常によく描けていて、技のことも分かりやすいと思います」
「そっ、そうですか。それはよかったです」
「ところでその……牙突はいかがでございましょう」
糸子は恐る恐る聞いた。
近藤が絵を見ながら腕を組んだ。
真剣に考えている顔だった。
「……存外悪くないかもしれません」
「えっ?」
糸子は驚いた。
「試衛館の連中に一度話して試してみなければなりませぬが、使いどころは非常に限定されるでしょうが——例えば、室内戦ではかなり使える技になるかもしれません」
「室内戦?」
「はい。室内では柱や梁があり、刀を振り回すことはできません。しかしこの突きに特化した技ならば、その限りではありません。また通路などで戦う場合にも有効でしょう」
近藤が続けた。
「一人が死角になる場所に隠れて、一人が誘導して追い詰めるふりをしたところで、死角から突くというのもありでしょうな。これは研究すれば、使える技になるかもしれませぬぞ、姫様」
「えっ……ええっ」
「この絵はいただいても?」
「ど、どうぞ……」
近藤がうれしそうに絵を持って立ち上がった。
「忝う存じます。それでは失礼します」
すごくうれしそうに立ち去る近藤の後ろ姿を、糸子は呆気にとられながら見送った。
使えそうなんだ。
本当に使えそうだと思っているんだ。
六 試衛館の議論
翌朝から、試衛館京道場では牙突についての議論が始まった。
近藤が皆を集めて、糸子の絵を見せた。
「姫様から教えていただいた技だ。突きに特化した構えで、室内戦に有効そうだと考えた。みな、どう思う」
沖田が真っ先に絵を覗き込んだ。
「へえ。面白い構えですね。腰を落として半身に……」
「見切られたら終わりじゃないですか」
永倉が言った。直接的な性格の永倉らしい評価だ。
「一直線すぎる。避けられた瞬間に終わる」
「それについては横薙ぎへの変化がある」
近藤が絵の別の部分を指した。
「突きが外れた時に、刀身を寝かせてそのまま横に払う。逃げた方向へ流して斬る」
「……平牙突、か」
山南が静かに言った。
「突きと横薙ぎを連動させる技ですね。二手目を最初から込みにしている」
「理には適っている」
土方が言った。腕を組んで、絵を見ている。
「振りかぶる余地がない室内では確かに突きが最短だ。だが単調すぎる。深く踏み込むほど戻れない。外された時の対処が甘い」
「だから変化が必要だ」
「しかし変化にも問題がある」
土方が続けた。「刀は槍のようには曲がらない。切先だけを横に走らせることはできない。突き→横薙ぎへ移行するなら、体ごと開く必要がある。突き→半身→横薙ぎ、という連動になる」
「つまり最初から二手目込みで打つ、ということですか」
沖田が言った。
「そういうことだ」
斎藤が絵を見ながら、静かに言った。
「切先を手で覆う、というのはありですかね」
「間合いの錯覚を狙うのか」
近藤が説明した。「切先の位置が分かりにくくなる。刀身の長さも測りづらい。相手が『まだ届かない』と思うか、『もう届く』と誤認する。その一瞬のズレに突きが入り込む」
「奇策だな」
永倉が言った。
「自分の視界も殺すぞ」
「それに手が前に出る。斬ってくれと言っているようなものだ」
「籠手を着けて使うことを想定すればいい」
「……初見なら通じる」
土方がゆっくりと言った。「しかし二度は効かない。熟練の者は刃ではなく間と腰を見る」
「では試してみよう」
近藤が立ち上がった。
「実際に動かさないと分からないことがある」
七 実践と検証
道場の中で、実際に試すことになった。
まず近藤が構えを作った。
絵を見ながら、腰を深く落とした。刀を左手のみで持ち、切先を前に向けて刀身を地面と水平に保つ。右手を前に突き出す。
「……こういう構えか」
「窮屈ですね」
沖田が言った。
「普通の構えより体が固定される」
「固定されるから安定する。突きの安定性が高まる」
「なるほど」
最初に近藤が土方を相手に試した。
土方は正眼に構えた。
近藤がじり、と間合いを詰めた。
土方の目が細くなった。
「……読みにくいな」
「切先の位置が分かりにくい?」
「刀身の長さの見当が付けにくい。どこまでが間合いか測りづらい」
近藤が踏み込んだ。
突きが走る。
土方が体を開いてわずかに避けた。
そのまま近藤の刀が横へ流れた。
土方の袖をわずかに掠めた。
「……っ」
「避けた先を追った」
近藤が構えを解いた。
「確かに一手で終わらない。突きが起点になって横薙ぎが来る」
「問題は突きが外れた後の体の開き方だ」
山南が言った。「体を開く瞬間に隙が生まれる。そこを狙われる可能性がある」
「どう処理する」
「体を開く速度を上げるしかない。あるいは——」
山南が少し考えた。
「突きを完全に打つのではなく、浅く打って相手の反応を引き出す。避けた瞬間に横薙ぎへ移行する」
「牽制として使う、ということか」
「突きは"決め技"ではなく"起点"だという考え方です」
斎藤が静かに言った。
「……深追いしない。必ず二手目を持つ。そういう使い方なら、現実でも通る」
「それだ」
土方が言った。「牙突とは名のある必殺技ではない。ただの速い突きだ。しかし条件が揃えば強い」
「狭い場所、短い間合い、初動の速さ。そして外された後に死なない工夫がある」
「室内戦における旭狼衛の基本戦術の一手として、研究する価値がある」
八 永倉の追加検証
その後、永倉が別のことを言い出した。
「連携でどう使えるか、考えてみたい」
「連携?」
「一人が表から圧をかけて相手を誘導する。もう一人が通路の陰や柱の死角から牙突で仕留める」
「それは近藤様が姫様の絵を説明してくれた時に言っていたやつですね」
沖田が言った。
「やってみよう」
道場の中で、実際に試した。
道場の柱を使った。
永倉が正面から相手に圧をかけながら後退させていく。斎藤が柱の陰に控えている。
相手が柱の角を曲がる瞬間——斎藤の突きが走った。
「……通じる」
土方が言った。
「相手は正面の永倉に意識が向いている。死角からの突きは見えない」
「狭い廊下や室内でこそ活きる動きだ」
「問題は連携の精度だ」
山南が言った。「誘導する者と突く者の間で、頃合いを合わせなければならない。事前の打ち合わせがなければ使えない」
「訓練すれば精度は上がる」
「定石として覚えておけばいい。こういう状況ではこう動く、という共通認識を持てれば、言葉がなくても動ける」
「それが連携の本質だな」
九 斎藤の試行
最後に、斎藤が一人で構えを試した。
全員が黙って見た。
斎藤は絵を見て、腰を落として構えを作った。
自分なりに調整しながら、位置を少しずつ変えていった。
しばらく構えたまま、静かに立っていた。
「……どうだ」
近藤が聞いた。
「やりにくい」
「やりにくい?」
「普通の構えではない。体の中心が違う場所に来る。慣れるまで時間がかかる」
「しかし?」
「しかし……」
斎藤が少し間を置いた。
「悪くはないかもしれない」
「具体的には」
「突きを打つ前の静止状態で、相手の動きが読みやすい。この構えだと、自分の体のどこも揺れない。揺れないから相手の揺れが見える」
「なるほど」
「突く瞬間まで、ただ見ていられる。それは今の自分の構えにはない感覚だ」
近藤が頷いた。
「研究する価値がある、ということだな」
「……はい」
道場の空気が少し落ち着いた。
木刀が構えられる音が響いた。
十
数日後、近藤が近衛家を訪ねてきた。
糸子は縁側で英語の練習をしていた。
「姫様、少しよろしいでしょうか」
「はい」
「あの牙突という技ですが」
近藤が嬉しそうに言った。
「室内戦における旭狼衛の基本戦術の技のひとつになるかもしれませぬぞ」
「……そうでございますか」
糸子はすっかり忘れていたわけではなかったが、この数日間で別のことをいくつも考えていたため、牙突のことは心の隅にあった。
「使える技になってよかったですね」
「はい。それで技名なんかはあったりするのでしょうか」
「姫様がせっかく教えてくださったので、技名はそのまま牙突になりました」
糸子の体の中で、何かが盛大に悶えた。
牙突という技名が、本当にこの世界でついた。
試衛館の旭狼衛の、室内戦の技として。
前世の漫画の話が、現実の剣術の一手として生まれた。
なんだこれ。
何がどうなってこうなったんだ。
「……そうでございますか」
「姫様、また夢で何か見ましたら、ぜひ教えてください」
近藤が嬉しそうに言った。
「それでは失礼します」
近藤が立ち去った。
糸子はその後ろ姿を見送ってから、ゆっくりと空を見上げた。
秋の空は高く、澄んでいた。
「……なんかごめんなさい!!」
空に向かって、静かに謝った。
誰に謝っているのかは、自分でも分からなかった。
前世で漫画を描いた人に、かもしれない。
あるいは漫画の斎藤一に、かもしれない。
あるいはこの世界の斎藤一に、かもしれない。
糸子はしばらく空を見ていた。
そして——
ふと思った。
今度は、九頭なんちゃら、みたいな技を言ってみようかな。
あるいは天翔けるなんちゃら……
糸子は帳面を開いて、前世の記憶を少しずつ掘り起こしながら、真剣に悩み始めた。
言っていいものか。
言ったらどうなるのか。
近藤がまた真剣に考えて、また試衛館で議論して、また「使える技になるかもしれません」と言ってきたら——
糸子は帳面を閉じた。
やっぱりやめておこう。
そう思いながら、また帳面を開いた。
いや、でも……
十一
その夜、糸子は気持ちを切り替えて、帳面を開いた。
牙突の件はいったん脇に置いておこう。
今考えなければならないのは、より大きなことだ。
善次郎からの文に書いてあった、ハリスの動きについて。
ハリスが将軍家への謁見を求めている。これが実現すれば、通商条約の交渉が一気に加速する。
糸子の手元にある時間が、想定より短くなるかもしれない。
村田蔵六に相談する必要があった。
翌朝、授業の後に糸子は切り出した。
「村田殿、少し急ぎの相談がございます」
「なんでしょうか」
「ハリスが将軍家への謁見を求めているとの情報がございます。これが実現すれば、通商条約の交渉が早まる可能性がありまする」
村田蔵六が静かに頷いた。
「その可能性は、わたくしも懸念しておりました。ハリスは急いでいます。本国の指示と、自身の任期の問題があります」
「三年後と言っていましたが、二年後になるかもしれない」
「はい。あるいは——」
村田蔵六が少し考えた。
「安政四年中に交渉が始まる可能性もあります」
「安政四年。来年でございますね」
「はい」
糸子は帳面に書いた。
来年、安政四年。
阿部正弘が亡くなる年だ。
阿部が倒れた後に、堀田正睦が主導してハリスとの交渉を進める。
「村田殿、堀田正睦様との接触を急ぎたいと思いまする。今の間接的な関係から、もう少し直接的な形へ」
「具体的にはどのような形で?」
「天朝物産会所から、佐倉藩への物産の提供をすでに始めていると聞いておりまする。その実績を踏まえた上で、堀田様に近衛家の立場を直接お伝えする機会を作りとうございます」
「近衛家の立場、というのは?」
「御門様のご意向を、通商条約の交渉において正式に反映させることを求める、という立場でございます。御門様が単に拒否するのではなく、具体的な条件を持って臨めるようにしたいと思うておりまする」
村田蔵六が少し間を置いた後、言った。
「堀田様は、朝廷の意向を尊重する立場の方です。しかし同時に、幕府の立場として交渉を進めなければならない。その間でどう動くかは、堀田様ご自身の判断に委ねるしかありません」
「だから早めに接触して、近衛家の立場を理解してもらう必要がございます。敵対ではなく、協力できる可能性があることをお伝えするのでございます」
「分かりました。実光様を通じて、広橋権中納言様に動いてもらえるよう、早めにお伝えします」
十二
その夜、糸子は縁側に出た。
近藤が夜番についていた。
「近藤殿、一つよろしいですか」
「はい」
「交渉が思っていたより早まるかもしれません」
「三年後というのが、二年後に変わる可能性がある、ということですか」
「はい」
近藤が静かに言った。
「旭狼衛の人数は、今の倍にする必要があるかもしれませんな」
「必要だとお思いますか?」
「はい。姫様が外に出る機会が増えれば、守護の人数が必要になります。今の九名では、全てを補うには足りません」
「人の選定は引き続き近藤殿にお任せし致しまする。費用は天朝物産会所から出しましょう」
「忝う存じます」
近藤が少し間を置いた後、言った。
「姫様、一つ聞いてもよいですか」
「何でございましょう」
「早まる可能性があるとして、姫様は今から何を最も重視しますか」
糸子は少し考えた。
「英語です。文書を読めるだけでなく、その場で修正を提案できる水準にまで話せることを上げたい。それが今の最優先です」
「言葉の戦い、ということですか」
「はい。刀を振るうより、言葉を使う場での戦いになりまする。近藤殿たちには、その場を守っていただく必要がありましょうや」
「承知しました」
近藤が頷いた。
「言葉での戦いに、私たちの剣が必要なのは妙な話ですが——」
「妙ではありませぬ」
糸子は言った。「言葉の戦いも、背後に力がなければ成立致しませぬ。旭狼衛のみながいることで、わたくしは言葉だけに集中できましょう」
「牙突も、その文脈で使える技になるかもしれません」
「……なるほど」
近藤が少し笑った。
「姫様がおっしゃるなら、そうなるかもしれません。またよい夢を見ましたら、ぜひお知らせください」
「……気が向いた時にでも」
糸子は少し遠い目をして言った。
夜の京都は静かだった。
しかしその静けさの下に、動乱の足音が近づいていた。
糸子はそれを聞きながら、次の手を考えていた。
牙突のことは、もうしばらく脇に置いておこう。
九頭なんちゃらは——もう少し後で考えよう。
今は、英語と交渉の準備が先だ。
第二十四話 了




