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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第十八話「それぞれの覚悟」

一 近藤勇の目


 安政二年の秋が深まった頃、近藤勇は毎朝、近衛家の周囲を歩いた。


 門から始めて、邸の外壁に沿って一周する。どこに死角があるか。どこから人が入り込めるか。夜と昼で何が変わるか。


 これは試衛館で教わったことではない。


 天然理心流は剣術の流派だ。歩き方を教える流派ではない。


 しかし近藤は、京都に来てから自然にこれをするようになっていた。


 守るとは、どういうことか。


 試衛館では「斬る」ことを学んだ。相手より速く、相手より正確に、相手を倒すことを学んだ。


 しかし近衛家に来てから、近藤は別のことを考えるようになっていた。


 斬ることより、守ることの方が難しいと……


 斬ることは一つの動作だ。しかし守るということは、先を読む力が必要だ。相手がどこから来るのかを考え、どのような手を使うのかを想定し、それに対して備えを作る。


 糸子は近藤にそれを教えてくれたわけではない。


 しかし糸子と話していると、自然にそのような考え方になっていた。


 この姫様は、常に先を見ている……


 三年後の交渉について話す時、糸子の目は今ここにはない何かを常に見ている。それはどこか遠くの場所ではなく、確実にそこに来る後の世だ。


 近藤は初めて糸子に会った時のことを思い出していた。


 御簾の向こうから声が聞こえた。


 穏やかだが、どこか切迫したものを持つ声だった。


 守りはある。しかしそれで足りるとは思えぬ。


 その言葉は、率直だった。


 公家の姫君が、農家出身の剣術師範に率直な弱さを告げた。


 そして御簾の外に出てきた時、近藤は思った。


 この方は、本物だと……


 礼法を崩して外に出てきた。そして頭を下げられた。


 近藤にとって公家とは、雲の上の存在だった。触れてはならないもの、遠くから拝むもの……


 しかし目の前の糸子は、膝を折って頭を下げていた。


「頼みまする——この近衛を、そなたらが守ってはくれぬか」


 近藤は、その瞬間のことを今も正確に覚えている。


 身分など、この際どうでもよい。


 生きねば、何もできぬ。


 その言葉を聞いた時、近藤の中で何かが決まった。


 剣を持つ理由が、決まった。


 今まで武士になりたかった。強くなりたかった。誰かを守れる立場になりたかった。しかしその「誰か」が誰なのかは、はっきりとは分からなかった。


 だが……今は違う。


 守る相手が、目の前にいる。


 頭を下げてまで頼んでくれた方が、ここにいる。


 近藤は邸の周囲を歩きながら、そのことを繰り返し確認していた。


 そして姫君から御門様の話を聞いた時、近藤はもう一つのことを知った。


 この姫君様の向こうに、御門様がいる。


 この姫君が守ろうとしているものの先に、この国の畏敬すべき御門様がおられる。


 農家の出の近藤には、御門様は遠すぎる存在だった。


 しかし御門様が「かかる忠義の者ども、軽んずることなかれ」とおっしゃったと聞いた時、近藤は初めて自分の剣が何かに繋がったような感覚を持った。


 武士になりたかった。


 しかし武士になることより、大切なものがあるかもしれない。


 守るべきものに、正面から向き合えること。


 それが近藤勇の、今の答えだった。


 正式な処遇が決まった日の朝も、近藤は邸の周囲を歩いた。


 いつもと同じ道を歩きながら、近藤は一つのことを決めていた。


 三年後まで、この姫君を必ず守る。


 そしてその先も、守り続ける。


 武士という格式は、そのための道具に過ぎない。


二 土方歳三の目


 土方歳三は、最初から糸子を疑っていた。


 疑いというより、値踏みだった。


 善次郎から試衛館への文が来た時、土方は近藤に言った。


「公家の話には裏がある」


「なぜそう思う」


「文の言葉が丁寧すぎる。何かを隠している時、人は言葉を丁寧にする」


 近藤は笑った。


「お前は人を信じるのが苦手だな」


「信じることと、確認することは別だ」


 土方は答えた。


 京都に来て、御簾越しに糸子の声を聞いた。


 穏やかな声だった。しかし土方は、その穏やかさの下に何かを感じた。


 切迫……


 この姫は追い詰められている。しかしそれを表に出さないようにしている。


 御簾の外に出てきた時、土方は驚かなかった。


 驚かなかったのは、「やはりそうか」と思ったからだ。


 この姫は、礼法より実を取る人間だと感じていたからだ。


 しかし頭を下げた時には、さすがの土方も平静ではいられなかった。


 隣の近藤を見た。


 近藤の顔が変わっていた。


 あの近藤が、あんな顔をするのか。


 土方は内心で思った。農家の出に、公家の姫君が頭を下げた。世の中の秩序が、一瞬だけ逆転した。


 しかし土方が糸子を本当に評価したのは、襲撃の時だった。


 御所から帰る道で、土方は最初から気づいていた。付けられている。


 沖田にも伝えた。言葉はいらなかった。二人の間で、目が合えば意思は通じる。


 土方が「前に一人」を確認した瞬間、沖田は「後ろに二人」に気づいていた。


 糸子に「歩く速さを上げてください」と言った時、糸子は止まらなかった。そして聞いてきた。


「何が?」と。


 声色は一切変わらなかった。


 普通の人間は、脅威を告げられると声色が変わる。


 糸子の声は変わらなかった。


 これは訓練された静けさではない。


 判断の速さだ。そう思った。


 土方は走りながら——いや、走らせながら考えた。


 この姫君は今、恐れているはずだ。しかし恐れを出さない。それは恐れていないからではなく、恐れを出すことが最善ではないと判断しているからだ。


 その判断が、今この瞬間に正しくできている。


 刃物が空気を切る音の後、土方は前方の男を処した。


 それから振り返ると、糸子がいた。


 走るのを止めていた。


 土方を見ていた。


 震えているかもしれないと思ったが、そうではなかった。足は少し震えていたかもしれない。しかし目は、震えていなかった。


「二人とも、無事でございましょうか」


 その言葉が、刃が収まった後、糸子から最初に出た言葉だった。


 自分のことではなく、土方と沖田への心配が最初だった。


 土方はその時、決めた。


 この人についていく価値がある。


 土方は感情で動く人間ではない。計算で動く。


 しかし計算の結果、この人についていくことが最善だと判断した。


 正式な処遇が決まった時、土方は近藤に言った。


「武士になれたな」


「ああ」


「どんな気持ちだ」


 近藤が少し考えた後、答えた。


「夢が叶った気持ち、ではないな。なぜか」


「俺には分かる」


「なぜだ」


「夢は『武士になること』だったが、今の目標は『あの姫君を守ること』だからだ。武士になったことは、目標のための手段となった。夢が叶った感覚より、目標への道が整った感覚の方が強い」


 近藤が土方を見た。


「……お前は正直だな」


「お前もそう思っているだろう」


「ああ……」


 土方は夜の京都を見た。


 この街はまだ、動乱の始まりに過ぎない。


 これからもっと荒れる。


 その中で、あの姫は三年後に条約交渉の席に座ろうとしている。


 正気の沙汰ではない。


 しかし正気の沙汰ではないことを、正気で進める人間がいる。


 そういう人間を、土方は守りたいと思った。


三 沖田総司の目


 沖田総司は、糸子のことが最初から好きだった。


 好き、という感情は複雑ではない。


 沖田にとって、糸子は面白い人だったからだ。


 御簾越しに声を聞いた時から、何か普通とは違うと感じていた。


 声が落ち着いている。年齢に似合わず思慮深かった。しかしその落ち着きは、冷たさではなく、何か深いところから来ているように思えた。


 名前を呼ばれた時、沖田は少し驚いた。


 沖田総司殿。


 御簾の向こうから、その名前が出た。


「そなたの剣は、江戸でも評判と聞きました」


 沖田は思わず笑ってしまった。


 江戸で評判、というのは大げさだ。しかしその言葉に悪意はなかった。情報として持っていた、というだけのことだ。


 この姫君は、ちゃんと俺たちのことを調べてきている。


 御簾の外に出てきた時、沖田は内心で「あ、来た」と思った。


 来るだろうと思っていた。この空気なら、この姫は来る。


 頭を下げた姿を見た時、沖田は笑えなかった。


 笑えなかったのは、その場の重さを感じたからではない。


 本気だ、と思ったからだ。


 この方は、本当に俺たちに命を預けようとしている。


 沖田は剣術の才能については自信があった。速さについては、師匠にも負けないかもしれないと思っていた。


 しかしこの方の前では、その自信は関係ない。


 速く斬れることよりも、この方の覚悟の方がずっと重たかった。


 襲撃の時、沖田は後ろの二人を処した。


 後になって考えると、あの時の沖田は普段と違った。


 普通、沖田は剣を振る時に考えない。体が動く。考える前に体が決断している。


 しかしあの時は、糸子を守らなければならないという一点が、体の動きをより鮮明にしていた。


 守る対象がいると、剣が違う。


 これは試衛館で学んでいないことだった。


 しかし沖田は、これが剣術の本質かもしれないと思えた。


 誰かを守るために剣を振るう。その時、剣は最も冴え渡る。


 処遇が決まった後、近衛家の子供たちに剣術を教えていた時、沖田は糸子に声をかけられた。


「沖田殿、楽しそうですね」


「はい。子供たちが素直で」


「そなたも子供みたいですからね」


「それは褒め言葉ですか?」


「はい」


 糸子が笑った。


 沖田は、その笑顔を見て思った。


 この方が笑えるように、守り続けよう。心底そう思えた。


 単純だが、それが沖田の答えだった。


四 山南敬助の目


 山南敬助は、四人の中で最も多くのことを考える人間だった。


 考えすぎるとも言えた。


 試衛館で近藤と出会ってから、山南はずっとこのことを考えていた。


 剣を持つことの意味は?


 強くなることは目的か、手段か?


 武士という身分は、何のためにあるのか?


 京都に来て、糸子に会って、その問いが少し形を変えた。


 御簾越しに話を聞きながら、山南は糸子の言葉の構造を分析していた。


 この方は、感情で動いていない。


 感情がないわけではない。御簾の外に出てきた時の糸子は、確かに感情で動いていた。しかしその感情の背後に、論理がある。


「生きねば、何もできぬ」


 この言葉は感情だ。しかし同時に論理でもある。


 生きることが前提として、何かを成し遂げようとしているのだ。


 山南は試衛館の仲間の中で、最も書物を読む人間だった。


 剣術書だけでなく、儒学書、兵法書、歴史書。


 その知識から言えば、糸子のような人間は歴史に時々現れることを知っていた。


 目標が明確で、方法が論理的で、しかしその行動の根には感情があることを……


 そのような人間が、大きな変化を起こすのだ。


 山南は処遇が決まった後、糸子に一度だけ直接話しかけたことがあった。


「姫様、一つお聞きしてもよろしいですか?」


「はい、なんでございましょう山南殿」


「姫様は、三年後の交渉において何を最も重要とお考えか?」


 糸子が少し考えた後、こう答えた。


「対等な関係を作ることでございます。この国が、外国と対等な立場で付き合えるようにすること。それが最初の一歩でございます」


「対等、とは? 具体的には……」


「治外法権を認めないこと。関税を自分たちで決められること。金銀の交換を適正な比率で行うこと。この三点が最低条件でございます」


 山南は頷いた。


「姫様はそれを、小さき頃からお考えになられていたのか?」


「転生した直後から考えていました」


 糸子が言った。


 山南は一瞬動きを止めた。


「……転生?」


「……書物で読んだ言葉が口から出てしまいました。気にしないでくださいまし」


 糸子が少し慌てた様子ではにかんだ。


 山南はそれ以上聞けなかった。


 しかし山南は思った。


 この方には、何か他の人間とは違う「背景」があるのだと……


 書物を読んで得た知識にしては、深すぎる。この方の語ることの細部が、体験から来ているように聞こえることがあった。


 しかし山南はその疑問を誰にも話さなかった。


 理由は単純だ。


 それがどのような背景であれ、この方がしようとしていることは、山南が正しいと思えることだったからだ。


 この国が対等な関係で外国と付き合えるようになる。


 その一歩のためなら、山南は何でもする。


 山南の覚悟は、感情ではなかった。


 論理と信念から来ていた。


 それが山南敬助という人間の、守護者としての姿だった。


五 四人の決意


 正式な処遇が伝えられた夜、四人は近衛家の庭に集まった。


 月が出ていた。秋の月は、鋭く輝いていた。


 近藤が言った。


「正式に、京都所司代配下の京都警衛補佐として、武士に準じる格式を与えられることになった。警護対象は近衛家と近衛糸子様だ」


 土方が頷いた。


「形式はともかく、やることは変わらない」


「ああ」


 沖田が月を見ながら言った。


「武士になれたな」


「なれた」


「夢みたいだな」


「夢ではない。現実だ」


 山南が静かに言った。


「しかし、これはまだ始まりに過ぎない」


「そうだ」


 近藤が三人を見た。


「三年後、姫様は条約交渉の席にお座りになる。その場に俺たちも関わることになるかもしれない。それまでの三年間、俺たちは姫様と近衛家を守り続ける。同時に、もっと強くならなければならない」


「今の俺たちでは足りないということか」


「足りるかどうかは分からない。しかし足りなくなる前に備えることが、守護者としての仕事だ」


 土方が言った。


「俺たちは今のところ四人だ。姫様の活動がこれからさらに広がれば、四人では確実に足らなくなる」


「それは俺も考えていた」


 近藤が月を見た。


「そこで一つ、考えがある」


「聞かせろ」


「ここで話すより、姫君様に直接相談したい。明日にでも早速……」


 三人が頷いた。


 月の光が庭を白く照らしていた。


 四人はしばらく黙って、その光の中に立っていた。


 農家の出で剣を磨いてきた男が、公家の守護者として武士の格式を与えられた夜だった。


六 近藤の提案


 翌日の夕刻、近藤は糸子に「相談がある」と申し出た。


 座敷で、糸子と近藤が向き合った。


 村岡も同席した。


「何でございましょうか?」


 糸子が言った。


 近藤は少し間を置いた後、話し始めた。


「姫君様の活動は、これからさらに広がると某は見ております」


「はい」


「三年後の交渉に向けて、外に出る機会が増えれば……幕府や各藩、そして外国の人間と直接交わる場が増えるはずです。今の四人での警護では、いずれ足りなくなる恐れがあります」


「それは、わたくしも感じておりました」


「一つ、ご提案申し上げたき儀がございます」


 近藤が続けた。


「江戸の試衛館の名前のもとに、京都でも道場を開きたいと思っております。場所は近衛家の近くに。そこを我々の拠点と致します」


「道場を?」


「はい。表向きは剣術道場です。しかしその実は——」


 近藤が少し考えてから言った。「剣術の研鑽と集団戦術の研究の場にしたい。そして、そこに集まる人間を選りすぐり、近衛家の家人として半武士化することです。非公式な守護集団を作りたいと考えます」


 糸子は静かに聞いていた。


「家人として?」


「はい。武士の格式を与えることは難しい。しかし近衛家の家人という形であれば、表向きは使用人です。しかし実質は、いざという時に動ける者たちになります」


 近藤は言葉を継いだ。


「格式を得た我らが表を、家人が裏を固めまする。外から見える守りと、見えぬ守りの二重でございます」


 村岡が少し前に乗り出した。


「姫君様、これは……」


「理にかなっておりますね」


 糸子は言った。


「公家が独自の武力を持つことは、表向きは難しい。なれど家人という……名目であれば、有職故実の観点からも使用人の範囲内に収まるわけですね。その家人が実際には剣術の訓練を受けた集団だとしても、それは家の自衛の範囲と解釈できましょう」


「さすがは姫様」


 近藤が言った。「その様な問題についても、すでにお考えが……」


「実光様に確認が必要ですが、方向性としては問題ないはずでございましょう」


 糸子は続けた。


「近藤殿、人を集めることについては、そなたらにお任せ致しまする。どのような基準でお選びか?」


「剣術の腕と、人柄です。剣がいくら強くても、人として信じられない者は入れない。それが基準です」


「正しい基準だと思いまする」


「それから——」


 近藤が糸子を見た。


「費用の問題があります。道場の運営、人件費、京都での拠点の維持……これは相当な額になります」


「費用はすべて近衛家と天朝物産会所が出しましょう」


 近藤が目を見開いた。


「姫君様、それは——」


「近藤殿」


 糸子は言った。


「わたくしが商売を始めたのは、近衛家の屋根を直すためでした。それから御所のお役に立てる形を作るためでした。しかし今、もう一つの目的が加わりましてございます」


「何でしょうか」


「この国の人々が安全でいられるための基盤を作ることでございます。その一つが、近衛家を守ることであり、御門様を守ることであり——そしてそなたらが安心して働ける場所を作ることでございます」


「………」


「天朝物産会所は商売の組織です。なれどその商売の利益が、どこに使われるかは、わたくしが決めまする。道場の運営費と家人への給金は、商売の利益から出しましょう。これはわたくしが必要だと判断した支出でございます」


 近藤が深く頭を下げた。


「……忝う存じます」


「お礼を言うことではございません。これはわたくしの判断でございます。そなたらが動けてこそ、わたくしが動けるのです。その当然の対価でございます」


七 話し合いの続き


 次の日、四人全員が集まった。


 近藤が提案の内容を話した後、土方が口を開いた。


「道場の名前は試衛館にするのか」


「京都の道場なので、別名でもいいかもしれない。しかし試衛館の名前は残したい。師匠への敬意でもある」


「場所はどうする」


「近衛家の近くで、広さのある場所を探す必要がある。これは姫様に土地の手配をお願いできますか」


 糸子が頷いた。


「天朝物産会所の伝手で探せると思います。村岡、可能でございますか」


「はい。さと様を通じて御所周辺の情報も集められましょう」


「集める人間については」


 土方が言った。


「今すぐ大勢を集める必要はない。最初は少人数で、信頼できる者から始める。俺には江戸に何人か心当たりがある」


「江戸から呼ぶのか」


「全員江戸からというわけではない。京都にも腕の立つ者はいる。ただ最初の核となる人間は、試衛館で共に稽古した者たちが良い」


 沖田が言った。


「永倉新八なんかどうです。腕は確かですし」


「声をかけてみる価値はある」


 山南が静かに言った。


「一つ確認したいことがあります」


「なんだ」


「この道場に集まる者たちは、近衛家の家人として近藤さんの指揮下に入る。しかし三年後以降、情勢が変わった時に、近衛家と朝廷の方針に必ず従うことができるかという確認が必要です」


「どういうことだ」


「今後、幕府に刃を向けよという論が強まれば、この道場に集まる者たちの中にも、そちらへ傾く者が出てくるかもしれない。しかし姫君様の目指すところは、幕府を倒すことではなく、外つ国と対等に渡り合うことです。思想的な軸が違う者が入り込んだ場合、問題になる可能性がある」


 近藤が考えた。


「山南の言う通りだ。最初から、この道場の目的を明確にしておく必要がある」


「目的は」


「近衛家の守護。そして姫君様が動ける環境の維持。それ以外に目的はない。政治的な活動は目的ではない。これを入る者全員に徹底させる」


 糸子が頷いた。


「山南殿の懸念は正しいと思いまする。入る者には必ず、その点を伝えてくださいませ。政治的な活動のための道場ではございません。守護のための道場でございます」


八 それぞれの覚悟、再び


 準備が始まった。


 土方が近衛家の周囲の土地を見て回った。近藤が江戸への文を書いた。沖田が現在の警護の形を見直した。山南が法度の上の問題を実光に確かめるための草案を作った。


 それぞれが動き始めた中で、ある夜、四人はまた庭に集まった。


 今度は月がなかった。


 星だけが、静かに輝いていた。


「正直に言う」


 近藤が言った。


「俺は最初、この話の全体が見えていなかった。公家の姫君が商売をしている、外の情報を集めている、御門様と話している——これがどのような意味を持つのか、最初は分からなかった」


「今は分かるのか」


「少し分かってきた」


 近藤が続けた。


「この姫君は、この国の行く先を変えようとしている。幕府でも藩でもない立場から、朝廷の権威と商売の力を使って、外国と対等に交渉できる日本を作ろうとしている」


「大きな話だな」


「ああ。大きすぎる話だ。七つの姫君がしようとしていることにしてはな」


 土方が言った。「しかしその大きさが、信じる理由にもなる」


「なぜだ」


「小さな利益のために動いているのではないからだ。出世のためでも、金のためでも、名声のためでもない。この国の後の世のために動いている。そういう人間は、信用できる」


 沖田が言った。


「三年後まで守れるかな」


「守る」


 近藤が断言した。


「守り続ける。その先も……」


「その先も……だな」


「ああ。姫様が動く必要がある限り、俺たちが守る。それが俺たちの役目だ」


 山南が静かに言った。


「この国の後の世のために動く方を守ること。それがこれからの我々の剣の意味となる」


「そうだ」


「剣を持つ理由として、これ以上のものはない」


 四人は星を見た。


 京都の夜空は、江戸とは違う星の見え方をしていた。


 しかし同じ国の空だ。


 この空の下で、今から三年間、この国の形が決まっていく。


 その真ん中に、七つの公家の姫君がいる。


 その姫君を守るために、四人の剣士がいる。


 近藤勇は静かに、しかし確かに誓った。


 この姫君が三年後に座るべき場所に座れるよう、命をかけて守る。


 武士の格式は手に入った。


 しかしそれは始まりに過ぎない。


 本当の意味での武士の仕事が、今ここから始まった。


九 糸子の夜


 その夜、糸子は一人で帳面を開いていた。


 四冊目の帳面。「天朝物産会所 三年計画」と書いたものだ。


 新しい頁に、今日の出来事を書いた。


「近藤勇殿から提案あり。試衛館京都道場の設立と、近衛家家人としての非公式守護集団の形成。了承。費用は近衛家と天朝物産会所が全額負担。」


 そして次に書いた。


「近藤殿ら四名の処遇が正式に決まった。京都所司代配下、京都警衛補佐の名目で武士に準じる格式を与えられた。警護対象は近衛家と近衛糸子。」


 筆を置いた。


 縁側の外で、近藤が夜番についていた。


 月のない夜だったが、星の光で近藤の背中が見えた。


 糸子は静かに思った。


 あの人たちが来てから、近衛家が変わった。


 建物が変わったわけではない。家族が変わったわけでもない。


 しかし空気が変わった。


 これまで、守られているという感覚が糸子にはなかった。


 生まれてこのかた、自分で考えて自分で動いてきた。前世の記憶を持って転生した時から、「自分でやる」しかないと思っていた。


 しかし今は違う。


 守ってくれる人がいる。


 それは糸子を弱くするのではなく、糸子をより遠くまで動けるようにするためのものだった。


 糸子は帳面に最後の一行を書いた。


「三年後まで、できることをすべてやる。そしてその三年間、近藤たちが守ってくれる。わたしは一人ではない。」


 筆を置いた。


 近藤の背中が、夜の風に揺れる木の影の中で、静かに立っていた。


 守護者たちの覚悟が、京都の夜に刻まれた。


 第十八話 了

【人物紹介】沖田総司――剣に選ばれ、時代に置いていかれた青年


沖田総司という名前を聞いて、多くの人が思い浮かべる姿は、どこか似ている。


若い。

美しい。

よく笑う。


そして、刀を握れば誰よりも強い。


けれども、この人物を史料から追っていくと、そんな一枚絵のような沖田総司は、案外、後世の人間が作り上げたものだと分かってくる。


実際の沖田について、私たちが知っていることは、決して多くない。


むしろ、分からないことのほうが多い。


だからこそ、残されたわずかな記録を拾っていくと、後世の物語では見えなかった、一人の若者の姿が浮かんでくる。


沖田総司は、白河藩士の家に生まれた。


生年については天保十三年(一八四二)と天保十五年(一八四四)の二説があり、確定していない。これだけでも、私たちが知っている「沖田総司」という人物が、実は霧の中に立っていることが分かる。


彼が剣を学んだのは、近藤周助の試衛館だった。


ここで近藤勇や土方歳三らと出会い、若い頃から剣術の修業を積んでいく。


沖田は、ただ道場で腕を磨いていただけではない。


早くから多摩へ出稽古に赴き、人に剣を教える側にもなっていた。若い頃の沖田を知る人々の記録には、その剣の力量を高く評価する言葉が残っている。つまり、後世の小説が「天才剣士」という人物像を作ったのではなく、少なくとも同時代に近い人々から見ても、沖田の剣術は際立っていたのである。


そして、近藤勇自身も沖田を特別な存在として見ていた。


近藤が長州へ向かう際に残した書簡には、自分の身に万一のことがあった場合、天然理心流の師範を沖田総司に譲りたいという趣旨が記されている。


これは、かなり重い言葉である。


近藤にとって沖田は、単に「腕の立つ弟弟子」ではなかった。


自分の後を託してもよいと考えるほどの剣士だったのである。


その沖田が、やがて京都へ向かう。


新選組では一番隊を率いる立場となり、池田屋事件にも参加した。


ここで忘れてはいけないのは、沖田が「美しい青年剣士」というだけの存在ではなかったことだ。


彼は実際に刀を抜き、人を斬る側にいた。


新選組という組織そのものが、京都の治安維持を担う武装集団であり、その最前線に沖田は立っていた。


池田屋事件で沖田がどのように戦ったのかについては、後世にさまざまな物語が生まれている。


戦闘中に喀血した。


病を悟った。


それでも最後まで戦った――。


あまりにも有名な話だが、こうした細部までを確実な史実として断定することはできない。


同じように、「三段突き」という必殺技や、「沖田の愛刀は菊一文字だった」という話も、現在の沖田像を形づくった有名な伝説ではあるものの、史料によって確定できる事実ではない。


沖田を描くとき、こうした伝説をすべて否定する必要はない。


ただ、伝説は伝説として楽しみ、史実とは一歩分けておく。


そのほうが、かえって本当の沖田総司が見えてくる。


なぜなら、史料に残っている沖田は、伝説以上に人間らしいからだ。


沖田自身の手紙が、わずかながら残っている。


慶応元年(一八六五)三月二十一日付の佐藤彦五郎宛書簡では、山南敬助が切腹したことを知らせている。


また、慶応三年(一八六七)十一月十二日付と推定される手紙では、土方歳三と井上源三郎が江戸から戻ったことを伝え、病気の近藤周助を見舞いたいと思いながら、自分自身も病気のため江戸へ下ることができない、と書いている。


最後には、送ってもらった味噌漬けへの礼まで記している。


この手紙が、私はとても好きである。


そこには「天才剣士」という言葉はない。


「新選組一番隊組長」という肩書もない。


ただ、病気になった一人の若者がいる。


師の病気を気にし、仲間の帰還を知らせ、自分も早く江戸へ帰りたいと思いながら、それができずにいる。


そして、味噌漬けを送ってくれた相手に礼を言う。


そんな、ごく普通の人間としての沖田総司が、そこにはいる。


この頃には、沖田の病はすでに彼自身の日常を縛るほどになっていた。


そして慶応四年(一八六八)になると、時代は大きく動く。


鳥羽・伏見の戦い。

江戸への撤退。

甲陽鎮撫隊。


そして、新選組は最後の戦いへ向かっていく。だが、沖田はそこへ行けなかった。


病に身体を奪われ、江戸に残ることになる。


ここに、沖田総司という人物の悲しさがある。


土方歳三は、最後まで戦った。


刀を握り、銃を取り、北へ北へと戦場を渡り、最後は箱館の地で倒れた。


沖田総司は、その道を歩くことができなかった。


戦うことをやめたのではない。


戦いたくても、身体がそれを許さなくなったのである。


これは、若い剣士にとって、死そのものとは別の苦しさだったのではないだろうか。


沖田がどこで最後を迎えたのかについても、実は異説がある。


永倉新八の記録などには浅草今戸の松本良順の宿で病死したとする伝えがあり、一方、後年の吉野家文書などには千駄ヶ谷の植木屋の離れを死地とする記述がある。現在では千駄ヶ谷の植木屋で亡くなったという説が広く知られているが、史料上、完全に一つへ決着したとは言い切れない。


死んだ日は、慶応四年五月三十日。


まだ二十代半ばだった。


そして、そのわずか十三日前。


五月十七日、近藤勇が処刑されている。


近藤が死に、沖田が死ぬ。


試衛館でともに剣を学び、京都で新選組を作り、激動の時代を駆け抜けた二人が、ほとんど同じ時期にこの世から消えていった。


しかも近藤は、その少し前に、沖田を天然理心流の後継者にしようと考えていた。


その未来は、とうとう実現しなかった。


沖田総司について語るとき、私は「最強の剣士」という言葉をあまり使いたくない。


誰が一番強かったのかを、幕末の剣士たちについて正確に比べることなどできないからだ。


「三段突きの使い手だった」と断言する必要もない。


「菊一文字を差していた」と決めつける必要もない。


「絶世の美少年だった」と言う根拠もない。


そうしたものを一つずつ取り除いていったあとにも、沖田総司は残る。


若くして剣の才を認められたこと。


人に剣を教えるほどの力量を持っていたこと。


近藤勇から、その先を託されようとしていたこと。


新選組の一番隊を率い、実戦の中に身を置いていたこと。


そして、その才能が最も輝こうとしていたときに、病によって剣を置かざるを得なくなったこと。


そこにいるのは、「美少年の天才剣士」という絵に描かれた英雄ではない。


時代の真ん中で、懸命に剣を振るっていた一人の青年である。


もし沖田総司が、あと十年生きていたらどうなっていただろう。


近藤勇の跡を継いで、天然理心流を伝えただろうか。


新しい時代になっても剣を教えていただろうか。


あるいは、まったく違う人生を歩んでいたかもしれない。


それは、もう誰にも分からない。


ただ一つ確かなのは、沖田総司が「若くして死んだ天才」だったというだけではないことだ。


彼は、これから先にまだ続いているはずだった人生を、病によって途中で断ち切られた。


剣を握れば、まだ前へ進めたはずの青年が、身体だけはその歩みを止められた。


だからこそ、沖田総司という人物は、今も人の心に残るのだと思う。


伝説の中の沖田ではなく、史料の隙間からかすかに見える沖田。


笑っていたかもしれない。


冗談も言ったかもしれない。


子供と遊んだのかもしれない。


それらは、もう確かめることができない。


けれど、手紙を書き、仲間を気遣い、病に苦しみ、それでも剣士として生きた青年がいたことだけは、残された記録から確かに分かる。


沖田総司は、時代に敗れたのではない。


剣に敗れたのでもない。


ただ、あまりにも若いその身体だけが、彼の生きようとした時代の速さについていくことができなかった。


そして、その短い生涯の先にあったはずの「もう一つの人生」を、私たちは永遠に見ることができない。


それが、沖田総司という人物の、いちばん大きな謎なのかもしれない。

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