第十六話「守護を求む」
秋の気配が忍び込む前の、安政二年の晩夏だった。
糸子が最初に異変を感じたのは、善次郎からの文ではなく、お梅の顔だった。
朝の支度を手伝いながら、お梅の手が微かに震えていた。いつも穏やかで動じないお梅が、震えていた。
「お梅」
「はい」
「何かありましたか」
お梅は少し間を置いた後、低い声で言った。
「昨夜、近所の商家の者が、知らない武士に因縁をつけられたとのことです。大事には至りませんでしたが」
「武士が…」
「はい。見慣れない風体で、どこの藩かも分からない。ただ……その商家は近衛家とお付き合いのあるところでして」
糸子は鏡の前で動きを止めた。
偶然かもしれない。しかし偶然ではないかもしれない。
「他に何か聞いていますか」
「御所の近くの辻に、見慣れない者が立っているという話も」
「いつからですか」
「ここ十日ほどと聞きました」
十日。
田辺屋が近衛家を二度目に訪ねてきたのが十日ほど前だ。偶然にしては、時期が一致しすぎる。
糸子は支度を終えた後、縁側に出て庭を見た。
秋の風が、庭の木を揺らしていた。
京都の空気が、変わり始めていた。
ペリーが来て二年。日米和親条約が結ばれて一年半。開国という現実が少しずつ人々の日常に染み込んできた今、京都には目に見えない緊張が積もりつつあった。
各藩の藩士たちが、任務とも何とも言えない理由で京都に集まり始めている。それは善次郎の文にも書いてあった。「志士」と呼ばれる者たちが、朝廷の周辺に近づこうとしている。
その中には純粋な理想を持つ者もいるだろう。しかし中には、暴力を辞さない者もいる。
糸子は三年先の地図を持っている。
しかしその地図の上を歩くためには、まず生きていなければならない。
近衛家の警備は、今の状態では心もとない。
これが糸子の率直な判断だった。
近衛家には門番がいる。しかしその門番は高齢で、実戦的な能力はない。邸内の男衆も、武家ではなく使用人だ。
御所の警備は別にある。しかし御所の外、近衛家そのものを守る力が薄い。
糸子は帳面を開いて、頭の中にある考えを書き出し始めた。
必要なこと。実戦的な剣術の使い手を、近衛家の守護として召し抱える。しかし誰を?
幕末に向けて、剣術の世界では様々な流派が名を上げている。しかし糸子が前世で知っている知識の中で、この時代の「最も実戦で役に立った」者たちの名前は決まっていた。
天然理心流。試衛館。
近藤勇。土方歳三。沖田総司……。
今はまだ無名の彼らが、後に京都で何をするかを糸子は知っている。
しかし今この瞬間、彼らは江戸の市ヶ谷で、武士になることを夢見ながら剣を振っている。
今しかない。
糸子は筆を止めた。
今の試衛館の者たちを京都に呼ぶことは、彼らの運命を変える。後に新選組という形で京都に来る流れを、糸子が前倒しする形になる。
それは歴史の改変だ。
しかし糸子はすでに、歴史を変えようとしている。条約交渉に同席することを御門様と約束した時点で、糸子は歴史の流れを変えることを選んだ。
ならば、守護についても同じことだ。
糸子は筆を取り直した。
善次郎への文を書いた。
内容は試衛館についての調査依頼だった。
「江戸の市ヶ谷に天然理心流の道場があると聞きました。近藤勇という方が道場主と聞きます。その道場の評判と、道場主の人となりについて、可能な範囲でお調べいただけますか」
表向きは「剣術師範を近衛家の子弟の稽古のために探している」という体だ。
実際に子弟への稽古は建前でしかなかったが、建前は必要だ。
次に実光に文を送った。
「近衛家の警護についてご相談したいことがあります。折を見てお越しいただけますか」
そして最後に、お梅を呼んだ。
「お梅、商家に因縁をつけた武士の話ですが、その者たちの特徴を、もう少し詳しく集めてもらえますか。背丈、着物の紋、刀の様子、言葉の訛りなど」
「どのようにして集めましょう」
「商家の主人に直接聞いてください。お梅が聞けば、詳しく話してくれます」
お梅が頷いた。
糸子は縁側に戻った。
庭の木が、また風に揺れていた。
十日後、善次郎からの返書が来た。
いつもより厚い文だった。
糸子は部屋の中で一人、それを開いた。
善次郎の文字で、こう書いてあった。
「天然理心流試衛館については、近藤周助先生の道場として以前から評判がございます。現在は第四代を近藤勇様が継ぎ、多くの門弟を指導しているとのこと。稽古は実戦を重視した厳しいものと聞き、道場の評判は江戸でも確かなものです。」
「近藤勇様については、多摩の農家の出ながら剣術に天賦の才があり、武士への強い志を持つ方と聞いています。人望が厚く、土方歳三・沖田総司・山南敬助・藤堂平助ら優れた門人を束ねています。」
「特に沖田総司様については、江戸でもその剣の速さが噂になっております。まだ若いのに、師範代格の腕だと聞きました。」
「ただ一つ気になることがあります。彼らは今、武士への道を強く求めています。農家出身の近藤様にとって、武士になることは一生の夢だと聞きます。もし近衛家がその夢に何らかの形で応えられるなら、それが最も強い動機になるのではないかと、この善次郎は考えます。」
文の最後に、善次郎らしい一行があった。
「商売の目で見れば、今が最も安価に最高の品を手に入れる時機です。」
糸子は文を畳んで、しばらく考えた。
善次郎は分かっている。糸子が何を求めているかを。
問題は、どのような形で近藤勇たちを京都に呼ぶか。
そして召し抱えることが、幕府の目にどのように映るか。
実光が来たのは翌日だった。
糸子は警護の件を切り出す前に、まず実光に京都の現状を確認した。
「実光様、最近の京都の空気をどのようにお感じですか」
実光は少し考えてから言った。
「以前より、見慣れない武士を見かけることが増えました。父も同じことを申しています。どこの藩かも分からない者が、御所の近くをうろうろしていると」
「その者たちは、何者でしょうか」
「攘夷の志士、と呼ばれる人々だと思います。各藩から脱藩したり、あるいは浪人として京都に集まってきたりしている。彼らの多くは純粋な憂国の念を持っていますが、その行動は必ずしも穏やかではない」
「暴力に及ぶ者もいる…」
「はい。最近、三条や四条の辺りで、開国派と目された商家が脅しを受けたという話があります。近衛家と取引のある商家も、その例外ではないかもしれません」
糸子は頷いた。
「近衛家の警護を強化する必要があると思っております。実光様、このことについて有職故実の観点からご意見をいただけますか。公家が武士を直接召し抱えることについて」
実光が少し複雑な顔をした。
「本来の規範からすれば、難しい問題です。幕藩体制においては、武士は幕府または各藩の支配下にあります。公家が独自の武力を持つことは、幕府の権威への挑戦と見なされかねない」
「かねない、ということは、前例がないわけではない?」
「……実際には」
実光が少し声を低くした。「この時期、各藩から離れた志士や浪人が、朝廷に近い公家と結びつく動きはすでに起きています。幕府もそれを完全には止められていない。幕府の権威が揺らいでいる今、規範と現実の間には相当な乖離があります」
「表向きの名目があれば、実質的には可能だということですか」
「……名目が重要です。『剣術の師範』として召し抱える、あるいは『近衛家の家務を補佐する者』として扱う、という形であれば、直接的な武力組織とは言えない」
「なるほど」
糸子は言った。「では手続きを教えてください。どのような形で行えば、最も問題が少ないか」
準備に一ヶ月かかった。
まず善次郎を通じて、試衛館への打診の文を送った。文面は慎重に作った。
「近衛家では、子弟への剣術指導と邸内の警備補佐を担える者を求めております。天然理心流の評判を聞き、もし京都への出向が可能であれば、ご相談したい案件がございます。費用・処遇についてはご要望にお差し支えございませぬ。」
文を持たせた使者には、口頭でもう一言伝えさせた。
「近衛家の用件は、剣術師範の話だけではないかもしれない、と申し添えてくださいまし」
その一言が、近藤勇を動かした。
善次郎からの返書が十五日後に来た。
「近藤様ご本人が、一度お話を聞かせていただきたいとのことです。数名をお連れして、京都にまいります。」
安政二年の初秋、京都に来た近藤勇は、糸子の想像より大きな男だった。
背が高く、肩幅が広い。顔は農家の出らしい日焼けした肌で、しかしその目には知性と誠実さが宿っていた。
一緒に来たのは三名だった。土方歳三、沖田総司、山南敬助。
善次郎が彼らを近衛家に案内して来た時、玄関で出迎えたのはお梅だった。
四人は庭に面した座敷に通された。
糸子は御簾の内に座っていた。
正式な対面の場として、最初から御簾を取り払うことはしなかった。これは礼法の問題であり、同時に意図的な演出でもあった。最初は身分差をきちんと示す。それが後の展開をより深いものにする。
座敷に静寂が満ちた。
御簾越しに、近藤たち四人の姿が見えた。全員、武士の礼法で正座している。
「遠路ようこそ。近衛家の糸子でございます」
糸子は言った。「まずはご苦労をねぎらいたい。長い道中、いかがでしたか」
「はっ」
近藤の声は低く、よく通った。「ありがたいお言葉、恐縮にございます。道中は特に問題なく」
「江戸から京都への道は、最近ますます物騒と聞きます。道中でお気づきのことはありましたか」
「……いくつか」
近藤が少し間を置いた。「箱根を越えたあたりから、見慣れない浪人風の者を多く見かけました。みな一様に、西へ向かっておりました」
「西へ。つまり京都へ」
「はい」
「近頃、都の騒がしさは……そなたらも耳にしておろう」
糸子は言った。御簾越しの声は穏やかだったが、どこか切迫した何かが混じっていた。
「道中で感じたこと、そして今この京都の空気……それをそなたらはどのようにお感じなられますか」
近藤が答える前に、土方歳三がわずかに顔を上げた。
糸子は御簾越しにその顔を見た。
土方は整った顔立ちの男だった。しかしその目は、近藤よりも鋭かった。計算と直感が同居している目だ。
「失礼ながら」
土方が口を開いた。低い、しかし切れるような声だった。「姫様がわざわざ江戸の道場に声をかけてくださったのは、剣術師範の件だけではないと存じます」
糸子は少し黙った。
「そうお思いですか…」
「はい。文の言葉は丁寧でしたが、その行間に別のものがある」
「土方殿とおっしゃいましたか」
「はい。土方歳三にございます」
「察しのよい方でございますね」
糸子は言った。「その通りでございます。今日お話ししたいことは、剣術師範の件を含みますが、それだけではございませぬ。ただ——その話をする前に、近衛家と京都の現状をお伝えしなければなりません」
糸子は話した。
天朝物産会所の商売のこと。御所御用達の称号のこと。幕府の老中が近衛家の動きを警戒していること。
詳細なことは明かさなかった。しかし外から見えることを、きちんと語った。
「近衛家は今、御所のお役に立てる形で商売を行っています。それが幕府の一部から面白くないと思われているのでございます。そして京都の空気は、ご覧の通りでございます」
近藤が静かに聞いていた。
「守りはありまする」
糸子は続けた。「なれど……それで足りるとは思えぬのじゃ」
はっきり「信用できない」とは言わない。しかし御簾越しの声には、明確な不安が滲んでいた。
「幕府との関係もありまする。表立って争うことは相成りませぬ。しかし、近衛家を守るためには、実際に剣を扱える者が必要なのでございます」
座敷に、静かな時間が流れた。
近藤たち四人は、それぞれに考えていた。
糸子はその沈黙を破らなかった。
やがて近藤が口を開いた。
「一つ、お聞きしてもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「姫様がわたくしどもを選ばれた理由は何でしょうか。江戸には他にも剣術道場がございます。なぜ試衛館に?」
糸子は答えた。
「そなたらが、実戦において最も強いからです」
断言だった。
近藤が、わずかに目を細めた。
「買いかぶりすぎかと」
「そうは思いませぬ。天然理心流は道場剣術ではなく、実戦のための剣術です。わたくしは書物と情報で世の中を判断する性分でございますが、剣術については、そなたらの評判が書物に等しきやうに御座します」
沖田総司が、御簾越しにわずかに顔を上げた。
若い。糸子が思ったよりずっと若かった。二十以下か?しかしその姿勢の中に、何か他の三人とは異なるものがあった。軽さ、とも言えた。あるいは——剣を振る者だけが持つ、重心の低さ、とも言えた。
「沖田総司殿」
糸子は名前を呼んだ。
「……はい」
沖田の声は、思いのほか明るかった。
「そなたの剣は、江戸でも評判と聞きました」
「それはありがたいですが、まだまだ未熟です」
「未熟とおっしゃる方が、江戸で敵なしと言われているとも聞きまするが」
沖田が少し笑った気配がした。御簾越しでも分かった。
話が一段落した後、糸子は少しの間を置いた。
次に何をするか、すでに決めていた。
しかしそれをする前に、一度深く息を吸った。
御簾の内から外に出ることは、本来の礼法では行うことではない。御簾は身分の境界だ。
しかし糸子は立ち上がった。
お梅が小さく「姫君様」と言った。止めるような声だったが、糸子は歩いた。
御簾の端を少し上げて、外に出た。
座敷の空気が変わった。
近藤たち四人が、一瞬だけ固まった。
糸子は彼らの前に立った。
九歳の少女が、正式な公家の装束で立っている。
近藤が反射的に頭を下げた。土方も、沖田も、山南も。
「顔を上げてください」
糸子は言った。「今日は礼法よりも、大切なことを申し上げたいのでございます」
四人が顔を上げた。
糸子は近藤の目を見た。
近藤の目が、一瞬だけ驚いた。公家の姫君が自分の目を真正面から見ている。農家の出の自分の目を。
糸子は静かに、膝を折った。
深く、頭を下げた。
座敷の中で、誰も動かなかった。
「頼みまする——この近衛を、そなたらが守ってはくれぬか」
糸子の声は小さかった。しかし座敷の隅々まで届いた。
「姫様っ!」
お梅が立ち上がろうとした。しかし糸子はそのままの姿勢でいた。
「人にものを頼むに、頭を下げるは道理…」
糸子は続けた。「まして命のことなれば、なおさらじゃ」
沈黙。
「身分など、この際どうでもよい…」
糸子が言った。「生きねば、何もできぬ。守れぬ。わたくしには三年後に成し遂げなければならないことがあるのです。そのためには生きていなければならない。そして近衛家に仕える者たちを守らなければならない。一人ではできませぬ」
糸子は顔をずっと伏したままでいた…。
公家の、近衛家の姫が自分たちに頭を下げられている。
近藤の顔から、血の気が引いていた。
百姓の出の男が、武士にも頭を下げられたことなど一度もない。ましてや公家の姫君が、自分の前で頭を………。
それは近藤の頭の中にある「世界の秩序」を、根本から揺さぶるものだった。
しかし揺さぶられたのは秩序だけではなかった。
この方は、本気だ。
近藤はそう感じていた。形だけの依頼ではない。礼法を破ってまで、自分たち農家出身の剣士に頭を下げている。
それは計算ではない。
覚悟だ。
「姫様…」
近藤の声が、低くなっていた。「そのようなこと、頭を上げてくだされ」
「まだ上げられませぬ」
糸子は言った。「お返事をいただいてから上げまする…」
座敷の外で、秋の風が木を揺らした。
近藤は隣の土方を見た。
土方の顔に、珍しいものがあった。
動揺、だった。
あの土方歳三が、動揺している。
その横で沖田総司が、静かに何かを噛み締めているような顔をしていた。山南敬助が、深く考え込んでいた。
近藤は前に向き直った。
この方は、本気で俺たちに命を預けようとしている。
剣術師範という名目があるが、それは建前だ。この方が求めているのは、命を守ることのできる者たちだ。
そしてその命を守ってほしいと、自らの身分を捨てて頭を下げている。
武士になりたかった。ずっとそう思ってきた。
しかし武士になるとは、こういうことではなかったか。
力がある者が、力のない者を守る。
今、この座敷で、全く逆のことが起きている。
守られるべき立場の方が、守ってほしいと頭を下げている。
これを断ることができる男が、世の中にいるだろうか。
「…………承知仕りました」
近藤の声は、低く静かだった。
「この近藤勇をはじめとする一団、命に代えてもお守り申す」
糸子がゆっくりと顔を上げた。
近藤は続けた。
「お頼みとあらば、断るわけにはいきませぬ」
土方が少し遅れて、頭を下げた。
「土方歳三、同じく」
沖田が、今度は笑っていなかった。真剣な顔で言った。
「沖田総司、お供いたします」
山南敬助が静かに頭を下げた。
「山南敬助、この近藤の意に従います」
糸子は立ち上がった。
四人の前に立ったまま、しばらく黙っていた。
「かたじけなくも御厚情に感謝いたします」
糸子の声は、いつもの穏やかなものに戻っていた。しかしその声に、何か別のものが混じっていた。
お梅が、袖で目元を押さえていた。
処遇の話は、その日の夕刻に行われた。
近藤たちが落ち着いた後、糸子は具体的な条件を提示した。
「表向きは、近衛家の剣術師範と家務補佐として召し抱えまする。給金は一人月三両。加えて京都での住居と食事は近衛家が手配いたしまする」
「それは……」
近藤が躊躇した。「過分にございます」
「過分ではございません。そなたらの剣の値段でございます」
糸子は続けた。「もう一つ、申し上げます」
「はい」
「近衛家の守護として働いてもらう間に、わたくしは実光様を通じて、そなたらの武士としての身分の正式化を図ります。今すぐには難しいかもしれませぬ。しかし三年以内に、何らかの形で武士の格式を与えられるよう尽力致し等ございます」
近藤の顔が、静かに変わった。
土方が小さく息を吸った。
……武士。
それは近藤勇が生まれてから、ずっと夢見てきたものだった。
「それは……本当に」
「お約束はできません」
糸子は言った。「できると言えば嘘になりまする。ただ、尽力することは約束できましょう。近衛家は五摂家の筆頭です。その名前を使えることがあれば、使いまする」
近藤が深く頭を下げた。
「……姫様」
「はい」
「わたくしどもを、信じてくださっているのですか」
糸子はしばらく考えた。
「信じているというより——信じなければならない、と思っています」
「違いは」
「信じているは過去形です。信じなければならないは、これから先の話です。これから先、そなたらに命を預けるのです。その覚悟が、信じなければならないという言葉になりましょう」
近藤が、糸子を見た。
九歳の少女の目は、まっすぐだった。
「この近藤勇、その言葉に応えます」
試衛館の者たちが近衛家の守護として動き始めたのは、安政二年の秋も深まった頃だった。
表向きは「剣術師範と家務補佐」。しかし実際には、近衛家の周囲に複数の目と腕が加わったことになった。
近藤は毎朝、近衛家の周囲を確認する習慣を作った。昨日と違う人間がいないか、不審な動きがないか。
土方は近衛家に出入りする者たちの顔を把握していった。商家の使いから物売りまで、土方の目は一度見た顔を忘れなかった。
沖田は——糸子が内心で驚いたことに——近衛家の子供たちに剣術を教えることを楽しんでいた。使用人の子供たちに囲まれて、沖田は生き生きとしていた。
山南は静かで、しかし観察力が鋭かった。近衛家の周囲の変化を最初に気づくのは、たいてい山南だった。
糸子は時折、縁側から彼らの様子を見た。
四人が近衛家に馴染んでいく様子を見ながら、糸子は三年後のことを考えた。
彼らが京都で名を上げるのは、もう少し先のことだ。しかし今この瞬間、彼らはここにいる。近衛家にいる。
歴史が、少しだけ変わっている。
それで良い、と糸子は思った。
生きていなければ何もできない。
守られて、初めて守れる。
ある夜、糸子は縁側で帳面を開いていた。
近藤が、少し離れた縁側の端に座っていた。夜番の時の近藤の習慣だ。
「近藤殿」
糸子は呼んだ。
「はい」
「少し聞いてもよろしいですか」
「なんですか?姫様…」
「武士になりたいと思うのは、なぜなのですか」
近藤が少し考えた。
「……強くなりたいからでしょうか」
「強くなるだけなら、武士でなくてもいいのではございませんでしょうか」
「そうですね」
近藤が夜空を見た。
「守りたいからだと思います。守れる立場になりたい」
「何をお守りしたいのですか」
「それは……まだ、はっきりとは分かりません。しかし今は」
近藤が糸子を見た。
「この近衛家を守ることが、その答えの一つのような気がします」
糸子は帳面を閉じた。
「三年後に、大きな交渉があります。その時にわたくしはある場所にいなければなりません。そなたらにも、その場所の近くにいてもらう必要があるかもしれません」
「どのような場所ですか」
「今はまだ言えません。けど——」
糸子は夜空を見た。星が鮮明に見えた。
「その時に、そなたらが武士の格式を持っていてくれると、わたくしは助かります」
「……姫様は、三年後のことまで今から考えておられるのですね」
「考えておかなければ、間に合いません」
近藤が静かに頷いた。
「承知いたしました。三年後、姫様のお役に立てるよう、この近藤、精進いたします」
夜の風が、庭を渡った。
近衛家に、新しい守護が生まれた夜だった。
第十六話 了
ようやく物語が激動の時代に向けて動いてきました((o(*゜ω゜*)o)) わくわく




