第十七話「血と沙汰」
安政二年の秋は、京都を静かに包んでいた。
しかしその静けさは、嵐の前の静けさだった。
近藤勇が近衛家に来て数週間が経過した頃、糸子は御所への参内の日を迎えた。
今日はさとからの伝言で、御門様が糸子との話を望んでいらっしゃるとのことだった。前回の御前から、季節が一つ移っていた。南蛮の情報と、三年後の交渉についての続きを御門様は聞きたいのだろう。
糸子が出かける支度をしていると、近藤が縁側の外に来た。
「姫様、今日は御所への参内でしたね」
「はい」
「お供させていただきたい……」
糸子は少し考えた。
今まで御所への参内は、お梅と近衛家の男衆を数人連れていくだけだった。近藤たちが来てからは、近藤か土方のどちらかが常に近衛家の外回りを担当していた。
「よろしゅうございますが、御所への参内に、そなたらが同行することは……」
「表向きは荷物持ちということにいたしますゆえ」
土方が横から言った。いつの間にか縁側の端に来ていた。
「荷物持ち?」
「はい。刀を下げている者が護衛として同行すれば目立ちます。しかし荷物持ちであれば、特に問題はないと思われますが、いかに?」
糸子は土方を見た。
土方は常に一歩先を考えている。近藤が「守る」という本能で動くのに対して、土方は「どう守るか」という計算で動く。
「承知いたしました。では今日は土方殿にお供をお願いいたします。それから沖田殿も……」
「沖田も?」
「はい。二人の方が心強うございます」
土方が少し考えてから頷いた。
御所への道は、いつもと変わらなかった。
しかし変わらないと思っていたことが、実は変わっていた。
糸子には分からなかった。
土方には分かっていた。
道の途中で、土方の目が一瞬細くなった。沖田も同じ瞬間に反応した。二人の間で、言葉はなかった。しかしその目が合って、何かが確認された。
御所への参内は滞りなく行われた。
さとが案内し、御門様との御前が始まった。今日の御門様は、前回より少し体調がよさそうだった。
「面を上げよ」
「はい」
「南蛮の続きを聞かせよ」
糸子は話した。
今日の話は、清朝と英吉利国の関係の続きだった。阿片の戦の後に起きたことを、できるだけ具体的に伝えた。
「清朝は条約を結びました。しかしその条約は清朝に極めて不利なものでした。関税の自主権を失い、外国人が清朝の法律で裁かれない仕組みが作られ、港が次々と開かれましてございます」
「それはこの国も同じ道を歩むということか」
「先の、日米和親条約は通商を認めるものではございませんでした。なれど三年後、通商条約の交渉がありまする。その交渉が清朝と同じ形になるか、違う形になるかは、これから決まりまする」
御門様が静かに考えていた。
「先に申した条件とやらは、形になってきたか」
「骨組みだけは。外つ国の者をこの国の法で裁けぬ定めを認めぬこと。関税をこの国で定めること。金銀の替え率を対等にすること。この三つでございます。肉付けは、これから三年かけて」
「三つか」
御門様が、その数を確かめるように黙られた。
「三年、待つと申したな」
「はい」
御門様が少し間を置いた。
「ところで糸子、そなたは今日、どのようにして来た?」
突然の問いだった。
「はい?」
「糸子のお供は誰じゃ」
「お梅と……それから、剣術師範として召し抱えた者が二人、荷物持ちとして、でございます」
「剣術師範?」
御門様が繰り返した。「以前から雇い入れたと聞いていた、その者たちか?」
「はい」
「どのような者たちじゃ」
「江戸の天然理心流という剣術の使い手でございます。まだ若い者たちですが、実戦において極めて優れた剣の技を持っておりまする」
「武士か?」
「……農家の出でございます。しかし武士の格式を得ることを強く願っている者たちでございます」
御門様が静かに何かを考えているような間があった。
「そうか」
それだけ言って、御門様は話を戻した。
御前を終えて御所の外に出た時、午後の光が石畳を照らしていた。
秋の風が、御所の塀の外の木を揺らしていた。
糸子はお梅と一緒に歩いていた。土方と沖田は少し後ろを歩いていた。
糸子が最初に異変に気づいたのは、土方の足音が変わった瞬間だった。
土方の歩き方が、わずかだが変わった。
それに気づいた瞬間、糸子は「何かある」と感じた。
「姫様」
土方が、低く静かに言った。
「少しだけ、歩く速さを上げてください」
「何が?」
「三人います。前に一人、後ろに二人。さきほどから道が変わっても付いてきています」
お梅の顔から血の気が引いた。
糸子は足を止めなかった。止まることが、相手に「気づいた」と知らせることになる。
「どのような者でございましょう?」
「武士の格好をしていますが、藩の紋は分かりません。素浪人か、あるいは素性を隠しています」
糸子は前を向いたまま、内側で考えた。
何者か。田辺屋の手の者か、久世の一派か、あるいはまったく別の誰かか。
御所の参内帰りを狙った、計画的な動きだった。
「沖田殿は」
「後ろを見ています」
「土方殿、わたくしはどうすれば……」
「今から道を左に曲がります。曲がった先に、少し開けた場所があります。そこまで行けば——」
土方の言葉は、続かなかった。
前方から一人が歩み出てきた。
武士の格好をしていた。年齢は三十前後。顔に刀傷がある。
「姫様とお見受けする」
男が言った。声は低く、穏やかだった。しかし手は刀の柄に置かれていた。
「少々お話を——」
土方が糸子の前に出た。
「用があるなら、此方に申せ」
「あんたらには関係ない」
「大ありだ」
土方の声は静かだった。しかし糸子は土方の背中を見ながら、何かが変わったのを感じた。
道の空気が変わった。
後ろで音がした。
振り返ると、沖田が刀を抜いていた。
後方から来ていた二人が、刀を構えていた。
「姫様、走ってください」
沖田が言った。笑顔は消えていた。
「どこへ……」
「どこでもいいです。とにかく前へ」
お梅が糸子の腕を引いた。
糸子は走った。
後ろで音がした。
刃物が空気を切る音だった。
糸子は走りながら、後ろを見た。
沖田が二人を相手にしていた。その動きは——糸子が今まで見たどんな動きとも違った。速い、という言葉では足りなかった。沖田の刀は、相手が構えを取る前に動いていた。
前方では、土方と刀傷の男が対峙していた。
男が斬りかかった。
土方は避けなかった。受けた。そして——糸子には何が起きたか分からなかったが、男がよろめいた。
三人の男たちが、あっという間に動けなくなっていた。
死んではいない。しかし刀を持っていられない状態になっていた。
沖田が刀を収めながら、軽く息を吐いた。
「大丈夫でしたか、姫様」
その声は、いつもの明るい声だった。
糸子は走るのを止めた。
お梅の手が、震えていた。
糸子自身の足も、震えていた。
しかし糸子は深く息を吸って、震えを止めた。
「……二人とも、無事でございましょうか」
「はい」
土方が言った。傷はなかった。
「三人は?」
「逃げられないようにしてあります。あとで確認が必要です」
「分かりました」
お梅が、震える声で言った。
「姫様……あの顔の傷。商家に因縁をつけた者と、人相が同じでございます」
糸子は、刀傷の男を見た。
三人は、その日のうちに町奉行所へ引き渡された。
糸子の声は落ち着いていた。落ち着いているように、努めていた。
しかし内側では、幕末の動乱の足音を、初めて肌で感じていた。
……知っていた。歴史として知っているつもりでいた。
けれど……知っていることと、実際に経験したことは全く違っていた。
事件の後、糸子は近衛家に戻った。
父・忠房には正直に伝えた。
忠房の顔が青くなった。
「糸子……」
「父上、大事ありません。土方殿たちが守ってくださいました」
忠房は糸子の顔を見た。それから、糸子の後ろに立っている土方と沖田を見た。
忠房はしばらく何も言わなかった。
近藤たちを雇い入れた時、忠房は懐疑的だった。武士ではない農家の出身の者に、本当に命を守ることができるのか。公家の姫の護衛として、それは相応しいのか。
しかし今目の前に、娘が無事に立っている。
その事実が、すべての答えだった。
「……近藤殿はどこにおる」
「近衛家の周囲の確認を続けています」
「呼んできなさい」
近藤が来た時、忠房は正座して向き合った。
「糸子を守ってくれた。礼を言う」
「当然のことをしたまでにございます」
近藤が頭を下げた。
「当然ではない」
忠房は言った。
「命がけで守ることを、当然とは言わぬ。かたじけない」
近藤が、深く頭を下げた。
忠房は続けた。
「糸子が、おぬしらを信じていた。わたしはその判断を懐疑的に見ていたのだ。なれど今日、わたしは自分の判断が間違っていたと認めなければならぬ」
「……恐れ入ります」
「これからも、糸子を頼む」
「はい。この命に代えましても……」
近藤が顔を上げて言った。
事件のことは、翌日にはさとを通じて御門様の耳に入った。
御所の中が静かに揺れた、とさとは後に言った。
御門様は最初、長い間黙っていたという。
それからおっしゃった言葉を、さとは一字一句覚えていた。
「昨日の参内帰り……糸子に何かあったとのことじゃが」
「はい。道中で三人の男に襲われましたようにございます。なれど、お供の者たちが見事にこれを退けましたとのことにございます」
「お供の者か……」
「姫君様がお雇いになっていらっしゃる、剣術師範の方々でございます」
御門様が少し間を置いた。
「たしか……農家の出と聞いた」
「はい。江戸の天然理心流という流派の使い手たちと聞いてございます」
また間があった。
「……朕を訪ねた帰りに、かかることが起きるとは」
御門様の声が、わずかだが変わったとさとは言った。
「御門様、姫君様はご無事にございます」
「分かっておる。分かっておるが……」
御門様が続けた。
「農家の出の剣術遣いの者が、命をはって糸子を守ったのじゃな」
「はい」
「その者どもは、今どこにおる?」
「近衛家の守護として引き続き詰めているとのことでございます」
御門様が静かに言った。
「かかる忠義の者ども、軽んずることなかれ」
さとは頭を下げた。
御門様は続けられた。
「相応の沙汰、あるべし……」
この言葉は、御所の中を静かに流れた。
御門様のお言葉は、命令ではない。しかし単なる「言葉」でもない。
朝廷においては、御門様のお言葉は「重し」だった。それを無視することは、誰にもできない。
近藤が御門様のお言葉を聞いたのは、さとが村岡を通じて糸子に伝え、糸子が近藤に話したからだった。
夜の縁側で、糸子は近藤に向き合った。
「御門様がそうおっしゃっていたそうです」
「……はい」
「かかる忠義の者ども、軽んずることなかれ。相応の沙汰、あるべし、と」
近藤が動かなかった。
糸子は続けた。
「御門様がそなたらのことを知ってくださいました。そなたらが命をかけてわたくしを守ってくれたことを」
近藤の肩が、わずかに揺れた。
「……主上様が」
「はい」
「……主上様が、某たちのことを?」
声が、かすかに変わっていた。
糸子は黙って待った。
近藤は長い間、何も言わなかった。
夜の庭で、虫が鳴いていた。
「……主上様とはどのようなお方なのでしょうか?」
近藤がようやく言った。
「わたくしはまだ数度しかお会いしておりません」
糸子は言った。
「なれど、この国を心よりご心配なされていらっしゃるお方でございます。外国のことを知りたがっていらっしゃる。日本がどうなっていくかを、ご自身で考えようとしておられるのでございます」
「……お会いになられるのですか?」
「はい。さとという御所の女官が橋渡しをしてくださっています」
近藤が驚いたような顔をした。
「姫君様が……主上様に直接お会いになる?」
「驚きまするか」
「……はい。正直に」
「わたくしも初めは、あさましいほどに驚きました」
糸子は静かに言った。
「なれど御門様は、知りたいと思っていらっしゃる。外の話を、正直にお話してくださる人を求めていらっしゃる。御所の中には、御門様に正直な外の話をお伝えする人がおられないのです」
「それがなぜ、姫様に?」
「さとが最初に橋渡しをしてくださいました。そしてわたくしが外の情報を持っていたからでございましょう」
近藤が少し考えた。
「……主上様は、どのようなお顔をされておいでですか」
「初めて御前に参った時に、拝しました。穏やかなお顔で、目にお力のある方でございます。近頃は几帳越しのことが多うございますが、お声はいつも聞いております」
「そうでしたか……」
「静かで深みのあるお声でございます。お疲れの時もあれば、お元気な時もある。そしてこのたびのお言葉は——」
糸子は少し間を置いた。
「怒っていらっしゃったと……お聞きしてございます。わたくしが御所からの帰り道に襲われたことを、御門様はご自身のことのように心苦しくおもうておられたと……」
近藤が静かに聞いていた。
「この国を、民を守りたいと思う気持ちは、御門様もわたくしも同じでございます。その方法については、御門様とわたくしは意見が一致していないこともあるときがございます。なれど『この国を守りたい』という根っこは、同じなのでございます」
「……そのような方が、遠くにいらっしゃる」
「遠くはありません。御所はすぐそこでございます」
「いや、そういうことではなく」
近藤が言った。
「そういうお方が……おられるのだということが、某には」
言葉が途切れた。
糸子は近藤の顔を見た。
武骨な顔の男が、何か深いところで動かされている顔をしていた。
「武士になりたかったのは、そういうお方をお守りしたかったからなのかもしれません」
近藤がぽつりと言った。
「守れる立場になって、守るべきもののそばにいたかったのです。そのそばにいる資格が、武士という身分だと……ずっと思っていました」
「資格は身分ではないと思いまする」
糸子は言った。
「先日、そなたらは資格があることを示してくださいました。身分ではなく、行動で」
近藤が深く頭を下げた。
「……忝う存じます、姫様」
半月ほどして、江戸から老中、阿部正弘の動きが伝わってきた。
善次郎からの文で、糸子はそれを知った。
「老中阿部様が、京都の事件について独自に調べを進めておられるとのことです。詳細は不明ですが、江戸城内でも事件についての話が出ているようでございます」
実光が近衛家を訪ねてきたのはその翌日だった。
「父から話を聞いて参りました」
実光の声は、いつもより少し緊迫していた。
「阿部正弘様が、父を通じて近衛家の件を確認されたとのことです。事件の経緯と、姫君様を守った者たちについて」
「阿部様がご自身で動かれましたか」
「はい。阿部様は先の事件について、幕府内部から目を光らせておられたようです。事件の直後から、京の様子を調べさせていたと」
糸子は頷いた。
阿部正弘は幕末で最も開明的な老中の一人だ。近衛家の動きを「問題」として見ている久世広周とは立場が異なる。
「阿部様は、この件をどのようにご覧になっていますか」
「父の伝えるところでは——」
実光が少し間を置いた。
「阿部様は、今回の事件について内部での調査を進めた結果、久世様の関与を示唆する動きを掴んだとのことです。しかし久世様ご本人は事件を知らなかった。久世様に近い一部の下級武士が、独断で動いたと見られています」
「独断で?」
「久世様が近衛家を快く思っていないことは、周辺に知れていたと。その気持ちに乗じて、自分の出世のために画策した者がいた——というのが阿部様の見立てとのことです」
糸子はしばらく黙って考えた。
久世広周は近衛家を直接つぶそうとしていたわけではなかった。ただ快く思っていなかった。しかしその感情を、周囲が読んで動いた。
これは組織というものの危険な側面だ。上の者の感情が、下の者の暴走を生む。上の者は何も命じていないのに。
「その下級武士は」
「内々に処断されたとお聞きしました。表沙汰にはしないとのことです」
「久世様は」
「事件との直接の関係は問われません。ただ……阿部様としては、久世様へのある種の牽制として、この件を把握されたということだと思います」
糸子は頷いた。
阿部正弘は賢い政治家だ。
今回の件で久世を追い詰めることはしない。しかし「幕府の内部で何があったのかを把握している」という事実を持つことで、今後の牽制材料にするつもりなのだろう。
「阿部様は、御門様のお言葉についてはどのようにご存知でございましたか」
「そこが……」
実光が少し困った顔をした。
「父の見立てでは、阿部様はお言葉を知った上で、それを無視することはできないとお考えのようです」
「御門様のお言葉は、命令ではありません。しかし重しです」
「そうです。御門様が『相応の沙汰』とおっしゃった。朝廷の意向を尊重する立場をとる阿部様としては、その言葉を受けて何かをしなければならない」
「その何かが——」
「近藤殿たちの処遇です」
糸子は近藤たちに話した。
夜の座敷で、全員が集まっていた。近藤・土方・沖田・山南の四人と、糸子と村岡と実光。
「阿部正弘様という老中がおられます」
糸子は言った。
「幕府の老中で、この国で最も開明的な方というお話でございます。その方が、今回の件を把握されました。そして御門様のお言葉を受けて、そなたらの処遇について動かれようとしています」
近藤が静かに聞いていた。
「具体的にはまだ分かりません。しかし御門様のお言葉がある以上、阿部様が何もしないことはできないでしょう。朝廷と幕府の関係において、御門様のお言葉を無視することは、阿部様の立場では難しく……」
「……つまり?」
土方が言った。
「俺たちが武士になれるかもしれない、ということですか?」
「その可能性がありまする。ただし形は分かりません。幕臣として召し抱えられるか、あるいは別の形か。阿部様がどのような形で動かれるかは、今後の交渉次第でございます」
沖田が、ぽかんとした顔をしていた。
「……えっと、つまり」
「どうしましたか、沖田殿」
「主上様が俺たちのことをおっしゃってくださって、老中がその言葉を受けて動く、ということですか」
「そうでございます」
「それって……」
沖田が口を閉じた。
山南が静かに言った。
「とても信じがたい話ですが」
「はい」
「しかし本当のことですか」
「本当のことでございます」
山南が深く息を吐いた。
「……剣一本で江戸から出てきた我々が、主上様のお言葉をいただき、老中が動く」
「そうでございます」
「それは……」
山南が続けなかった。
近藤が、手のひらを膝の上に置いていた。
その手が、わずかに震えていた。
百姓の出だった。
武士になることを夢見て、剣を磨いてきた。
まさかその夢が、このような形で現実に近づくとは。
「姫様」
近藤が言った。
「はい」
「これは姫様が動いてくださったからです」
「違います」
糸子は首を振った。
「そなたらが動いてくれたからです。わたくしを守ってくださったから、御門様がご存知になったのでございます。御門様がお言葉をくださったから、阿部様が動かれたのです。連鎖しているだけでありましょう」
「しかし姫様が——」
「近藤殿」
糸子は言った。
「一つお願いがございます」
「はい」
「三年後の交渉に向けて、そなたらにも準備をしてほしいのでございます。武士の格式を得た後も、近衛家のそばにいてほしいと思うております。京は、これよりさらに動乱の時代になりましょう。それはわたくしが書物で読んで知っていることであり、此度身をもって感じたことでもありまする」
「はい」
「その動乱の中で、わたくしが動き続けるためには、そなたらが必要なのです」
近藤が頭を下げた。
「この命、姫様のお心次第にございます」
一ヶ月後、阿部正弘からの正式な動きが始まった。
実光の父・広橋権中納言を通じて、近藤たち四人の処遇についての内々の調整が行われた。
形式は「京都警衛の補佐」という名目だった。幕府の正式な武士として召し抱えるには、まだ手続きが複雑だった。しかし「京都の警備を補佐する者」として幕府が認める形であれば、実質的に武士に準じた格式が与えられる。
阿部正弘の手際は鮮やかだった。
朝廷の意向を尊重する形で動きながら、幕府の面目も保つ。久世広周を直接批判することなく、事件を内々に処理する。そして近藤たちの処遇を「御門様のお言葉に応えた」という形にする。
すべてが静かに、しかし確実に動いた。
近藤勇に処遇が伝えられた夜、近藤は縁側で一人で座っていた。
糸子が声をかけた。
「近藤殿」
「はい」
「此度のこと、目出度きことでございます」
近藤が振り返った。
「ありがとう存じます」
「どんなお気持ちでございますか」
近藤が少し考えた。
「……不思議な気持ちです」
「不思議……とな」
「はい。ずっと武士になりたいと思ってきました。しかし武士になる、ということは、藩に仕えて主君のために戦うことだと思っていました。それが——」
「違う形になりましたね」
「はい。主君は姫様であり、御門様のお言葉があり、阿部様が動いてくださった。これは近藤が思い描いていた武士への道とは全く違います。しかし……」
「しかし?」
「これの方が、本物のような気がします」
糸子は近藤の隣に座った。
「なぜそうお思いになるのでしょうか」
「守る理由があるからです。主君が何者かを知っているからです。姫様が何を目指しているかを知っている。御門様がどのような方かを、姫様から聞いている。何のために自分が剣を振るうかが、分かります」
「それは大切なことでございますね」
「はい。剣を持つ理由が分かっていれば、迷わずに振れます」
糸子は夜空を見た。
星が出ていた。
「近藤殿、三年後に大きな交渉があります。その交渉の場に、わたくしは座るつもりでおります。御門様から預かった言葉を持って」
「はい」
「そなたらにその場のそばにいてほしい。交渉の場は外国人と幕府の役人が集まる場でございます。様々な思惑がありましょう。安全は保証できません」
「承知しています」
「怖くありませんか」
近藤が糸子を見た。
「姫様は怖くないのですか?」
「怖いですよ」
糸子は言った。
「此度、初めて刀が人を傷つける音を聞きました。初めて命が脅かされることを身をもって感じました。怖かった。今もとても怖いです」
「でも……」
「それでも、やらなければならないことがありまする。生きていれば怖い。なれど動かなければ、もっと多くの人が怖い思いを致しまする」
近藤が静かに頷いた。
「……同じです。この近藤も同じことを思います」
「それは……心強く思いまする」
糸子は言った。
「近藤殿、今後ともよしなにお願い申し上げます」
「はい」
近藤が深く頭を下げた。
「この近藤勇、近衛家と姫君様の守護として、この命……惜しみませぬ」
事件からひと月あまりが過ぎた京都は、さらに変わっていた。
各藩の志士が集まる速度が上がっていた。御所の近くの旅籠には、見慣れない顔が増えていた。
善次郎から来た文には、江戸でも同様の緊張が高まっているとあった。
糸子は四冊目の帳面を開いた。「天朝物産会所 三年計画」と書いた帳面だ。
三年計画の第一年が、今まさに進んでいる。
御所内の情報管理体制の整備。久世広周の動きへの対処。近藤たちの召し抱えとその処遇。老中、阿部正弘との間接的な接点の形成。
これらが、この秋の間に動いた。
自分でも驚くほど速い。
しかし速く動かざるを得ない理由があった。此度は身をもってそれを知った。
動乱は、思っているより早く来る……
歴史として知っていても、実際にその世界の中にいると、時間の感覚が変わる。
三年は長いようで、短い。
糸子は帳面に書いた。
「安政二年秋。近藤勇らが近衛家の守護として機能し始めた。御門様が近藤たちのことをご存知になった。阿部正弘様が動かれた。今年の積み重ねが、三年後への道を少しだけ広げた。」
「しかし京都の空気はさらに険しくなっている。来年はより一層、用意が必要である。」
「英語の習得を本格的に始めること。天朝物産会所の情報事業を次の段階に進めること。阿部様との関係をより確かにすること。」
「そして——近藤たちと共に、来たるべき日に備えること。」
糸子は筆を置いた。
縁側の外で、近藤が夜番についていた。
その背中を見ながら、糸子は静かに考えた。
三年後に条約交渉の席に座る。
御門様の言葉を持って。
近藤たちに守られながら。
その日まで、できることをすべてやる。
京都の秋の夜が、深くなっていった。
第十七話 了
【人物紹介】土方歳三という男
土方歳三という名前から、まず何を思い浮かべるだろう。
「鬼の副長」。
新選組を知る人なら、たいていこの言葉が浮かぶはずだ。厳しい規律、容赦のない粛清、近藤勇を支えた副長。そして最後は函館の戦場で銃弾に倒れた男。
けれど、土方歳三という人間を少し丁寧に眺めてみると、この「鬼」という一文字だけでは、とても収まりきらない。
むしろ面白いのは、その生涯そのものだ。
土方は武士の家に生まれたわけではない。天保六年(一八三五)、武蔵国多摩郡石田村の比較的裕福な農家に生まれた。家では「石田散薬」を扱い、若い頃にはそれを売り歩いてもいる。
そんな男が、やがて京都へ出て新選組の副長となり、幕府から正式に認められる存在になった。
さらに戊辰戦争が始まると、宇都宮、会津、仙台へと戦場を移し、最後には北海道へ渡る。
そこで土方は、もう「新選組の副長」だけではなかった。
旧幕府軍の指揮官として、自分の軍隊を率いている。
ここに、土方歳三の凄さがある。
京都時代の土方といえば、刀を手にした姿を思い浮かべる。だが、時代が変われば、戦い方も変えなければならない。鳥羽・伏見で旧幕府軍が敗れたあと、土方はそれを身をもって知ることになる。
刀だけでは戦えない。
銃があり、大砲があり、陣地を築き、兵を動かす戦争になっていた。
土方はそこで立ち止まらなかった。
宇都宮や会津を経て北海道へ渡り、箱館では陸軍奉行並という立場にまで上がる。二股口では激しい戦闘を指揮し、新政府軍を相手に粘り強く戦った。
そして最後の日も、土方は戦場にいた。
明治二年(一八六九)五月十一日。新政府軍による箱館総攻撃が始まる。土方は弁天岬台場の救援に向かう途中、一本木関門付近から異国橋方面で銃弾を受け、戦死したとされている。
三十四年の生涯だった。
考えてみれば、不思議な人生である。
農家の少年として生まれ、剣術を身につけ、近藤勇と出会い、新選組を作り、京都では「鬼の副長」と恐れられる。そして、最後には洋装で銃と砲の戦場を駆ける軍事指揮官になった。
一人の人間の生涯の中に、江戸時代の終わりがそのまま詰め込まれている。
土方が面白いのは、戦うことだけに人生を捧げたように見えて、実はかなり風流な男だったことでもある。
「豊玉」という雅号を持ち、俳句を詠んだ。現在も『豊玉発句集』として知られる句集が残っている。日野市にも、土方が残した俳句や愛刀、鎖帷子など、彼が実際に身につけ、使った品々が伝えられている。
「鬼の副長」と呼ばれた男が、机に向かって俳句をひねっている。
この落差が、いかにも人間らしい。
しかも、土方は単なる剣術馬鹿でもなかった。
新選組という組織を動かすうえで、土方が果たした役割は極めて大きい。近藤勇が局長として人を惹きつける存在だったのに対し、土方は規律を作り、隊をまとめ、組織を実際に動かす側に回った。
新選組が後世まで強烈な印象を残しているのは、近藤の存在だけでも、沖田総司の剣だけでもない。
近藤を表に立て、その横で土方が組織を締め上げる。
この組み合わせがあったからこそ、新選組は単なる浪士の集まりから、幕府にとって無視できない武装組織へと成長していったのだろう。
もちろん、そのために土方は嫌われた。
規律を破れば処罰する。組織を守るためなら、情を捨てることもあった。
だから「鬼の副長」という呼び名が生まれた。
だが、人間はそんなに単純ではない。
歳三の故郷である日野には、彼と仲間たちとの関係を伝える資料が数多く残っている。土方自身の手紙や俳句、戦場での記録を追っていくと、冷酷なだけの男という姿からは次第に離れていく。旧幕府軍とともに北へ転戦した中島登が残した記録などからも、戦場での土方が単なる「鬼」とは違う顔を持っていたことがうかがえる。
何より印象的なのは、近藤勇を失ったあとである。
二人は多摩の頃からともに歩き、新選組を作り上げた。ところが戊辰戦争の途中で近藤は捕らえられ、処刑される。
ここで土方が戦いをやめても、不思議ではなかった。
それでも彼は北へ向かった。
会津へ行き、仙台へ行き、榎本武揚らとともに蝦夷地へ渡る。
もはや新選組そのものを守る戦いではない。
それでも戦う。
なぜなのか。
「幕府への忠義」という言葉だけでは説明しきれない気がする。
土方は、自分が選んだ生き方を途中で捨てなかったのではないだろうか。
農民の家に生まれた自分が、剣を学び、武士として生きる道を掴んだ。その道の先に近藤勇がおり、新選組があり、幕府があった。
だから最後まで行く。
それは、時代の流れから見れば敗者の道だった。
けれど本人にとっては、自分自身が選び取った人生そのものだったのかもしれない。
土方歳三を語るとき、「鬼」という言葉は確かに便利だ。
だが、それだけでは惜しい。
俳句を詠む男でもあった。人を惹きつける華もあった。近藤を支える現実的な頭脳もあった。そして、戦場そのものが変われば、自分自身も変えてみせる柔軟さを持っていた。
刀の時代が終われば、銃を取る。
江戸を離れなければならなくなれば、北へ行く。
最後には五稜郭に立つ。
土方歳三は、古い時代にしがみついただけの男ではない。
むしろ、自分が信じたものを守るためなら、その手段まで変えてしまう男だった。
だからこそ、最後の姿が忘れがたい。
箱館の町で銃声が響く。
かつて京都を駆けた新選組副長は、もう刀だけの剣士ではない。兵を率いる指揮官として、最後の戦場へ向かっていく。
その先に待っているのが、自分の死だと分かっていたとしても。
土方歳三の人生を振り返ると、幕末という時代の残酷さがよく分かる。
生まれたときには、まだ江戸幕府が当たり前に存在していた。
死んだときには、その幕府はもう消えていた。
その間に、農民の青年が武士になり、新選組の副長になり、最後には北海道で軍を率いるまでになる。
たった三十四年。
短すぎる生涯である。
けれど、その短さの中で、土方歳三は自分の時代を最後まで走り抜いた。
「鬼の副長」という呼び名の奥にいるのは、冷たい男ではない。
自分で選んだ道を、時代が終わるところまで歩き切った男だ。
だから今も、土方歳三の姿は消えない。
新選組という物語の中だけではない。
江戸が終わり、武士の時代そのものが終わっていく、その最後の場所に立っていた一人の男として。
それが、土方歳三という人なのだと思う。




