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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第十五話「三年先の地図」

 安政二年の夏が、じりじりと熱かった。

 近衛家の縁側で、糸子は三冊目の帳面を開いていた。

 庭の蝉が鳴いている。その声を聞きながら、糸子は頭の中で地図を描いていた。

 今がある。

 そして三年先がある。


 安政五年——一八五八年——に日米修好通商条約の交渉がある。これは糸子が前世の知識から確実に知っていることだ。

 ハリスが来る。岩瀬忠震と井上清直が幕府側の交渉担当になる。不平等条約が結ばれる。孝明天皇が勅許を拒否する。井伊直弼が強行する。安政の大獄が始まる。


 この流れを、糸子は変えたい。

 変えたい、というより——変えなければならない。

 金銀比率の問題、治外法権、関税自主権の欠如……これらが確定してしまえば、日本は五十年にわたって不利な条件に縛られる。その五十年の重さを、糸子は前世の歴史として知っていた。

 しかし。

 糸子は筆を持ったまま、庭を見た。

 今の糸子に、条約交渉の席に座る資格があるか。

 九歳の公家の姫君が、アメリカの外交官と直接交渉する。そのためには、何が必要か。

 糸子は頭の中で、逆算を始めた。


 三年後に交渉の席に座るためには、まず「座る理由」が必要だ。

 糸子が持っている最大の資産は、御門様との関係だ。御門様は条約の勅許を与えることを拒否される。その拒否の「内容」を糸子が形作れれば、単なる感情的な攘夷論ではなく、具体的な条件を持った拒否になる。

 「勅許を与えない」ではなく「この条件なら勅許を与える」という形に変えられれば、交渉そのものが変わる。

 そのためには糸子が、御門様の代理として——あるいは御門様のご意向を体現する立場として——交渉の場にいる必要がある。

 しかし公家の姫君が外交交渉に直接関与することは、前例がない。

 前例がないことをするためには、根拠が必要だ。

 根拠を作るためには、三年間で積み重ねが必要だ。

 糸子は帳面に書き始めた。

「必要なこと、第一。御門様との信頼関係をさらに深め、対外交渉における御門様のご意向の代弁者として認められること。」

「必要なこと、第二。天朝物産会所を通じた情報収集能力を高め、条約交渉の内容と問題点を事前に把握すること。」

「必要なこと、第三。幕府の開明派(阿部正弘様、岩瀬忠震様など)との関係を構築し、近衛家の存在を交渉の枠組みに組み込むための地ならしをすること。」

「必要なこと、第四。外国語——少なくとも英語——をある程度理解できるようになること。」

 糸子は筆を止めた。

 第四の項目を書いてから、少し考えた。

 前世の橘咲は英語をビジネスレベルで話せた。フランス語も日常会話程度ならできた。

 しかし糸子の体は九歳だ。幕末の公家の姫君が外国語を学ぶことは、現時点では「書物で読んだ」という説明が使えるかどうかも怪しい。

 しかし——

 糸子はもう一行書いた。

「方法は後で考える。必要であることは変わらない。」


「姫君様」

 お梅の声がした。

「村岡様がいらっしゃいました」

「お通しして頂戴」

 村岡が来た。顔に何か、重要な知らせを持っている人間の表情があった。

「善次郎からの文が届きました」

 糸子は文を受け取った。

 表書きは「商談の件」。しかし開くと、糸子だけが読める別の記法で書いてあった。

 糸子は素早く目を通した。

 読み進めるにつれ、糸子の中で何かが固まっていった。

「村岡、聞いてください」

「はい」

「善次郎からの情報です。水野忠精様が御用商人組合を通じて、近衛家だけでなく御所全体の動向を把握しようとしている。そのために複数の商家を使っていることが分かりました。女官長の息子への貸し付けは、その一つに過ぎなかった」

「複数の商家を」

「はい。御所に出入りする商家のうち、少なくとも三つが田辺屋を通じた水野様の情報網に組み込まれているようです。全部は特定できていませんが」

 村岡の顔が引き締まった。

「では御所内の情報漏洩は、装束担当商家一つの問題ではなく——」

「もっと広い構造の問題です」

 糸子は言った。「わたくしはずっと気になっていました。水野様が近衛家の動きを知るには、田辺屋の報告だけでは情報が速すぎる。田辺屋が来た翌日に女官長が動いた。その速さは、複数の経路があることを示しています」

「では……女官長の借財を買い取っても」

「他の経路が残ります。だから女官長の件は進めますが、それで解決したとは思わない。むしろ女官長の経路が閉じたことで、水野様が別の経路を強化する動きに出るかもしれない」

 村岡が静かに考えていた。

「姫君様、それではどこまでも追いかけっこになりませんか。情報漏洩を一つ塞ぐたびに、別の穴が開く」

「そうです」

 糸子は頷いた。「だから方針を変えます」

「変える?」

「漏洩を塞ぐことに力を使いすぎない。その代わりに——漏れても問題ない情報と、絶対に漏らしてはいけない情報を、明確に分けます」

 村岡が目を細めた。

「漏れても問題ない情報を、意図的に流す、ということですか」

「はい」

 糸子は言った。「水野様が知りたいことを知らせながら、本当に重要なことは別の経路で動かす。情報漏洩を塞ごうとするより、情報漏洩を管理する方が現実的です」

「それは……」

 村岡が少し考えた。「難しいですが、理にかなっています」

「問題は何が本当に重要かを正確に判断することです。そこで村岡に頼みたいことがあります」

「はい」

「御所内で、今後外に知られても問題ない動きと、絶対に知られてはいけない動きを整理する。その基準を一緒に作ってほしいのです。村岡は御所の内側を知っている。わたくしは外側を知っている。二つを合わせれば、正確な整理ができます」

 村岡が頷いた。今度は迷いのない頷きだった。


 三日後、実光が来た。

 今日の実光は何か、急いでいる様子があった。座り方が少しだけいつもと違った。

「近衛様、一つ急ぎの話があります」

「なんでございましょう」

「阿部正弘様のことです」

 糸子は真剣に聞く姿勢を取った。

 阿部正弘。老中首座。ペリー来航に対して諸大名・朝廷への意見諮問を行った開明派の要人。糸子が三年後の交渉のために最も早く関係を構築したい幕府側の人物だ。

「阿部様のご健康が、優れないとの話が入っています」

 糸子の中で、何かが緊張した。

 阿部正弘は安政四年(一八五七年)に三十八歳で亡くなる。

 今は安政二年の夏だ。あと二年しかない。

「お身体がどの程度優れないのか、お分かりになりますか?」

「詳しくは分かりません。ただ父が、阿部様のご様子が最近変わった…とお聞きしたと申しておりました。以前の覇気がないと…」

「実光様、阿部様とお父上様には接点はございますか」

「直接ではありませんが、清華家と老中の間には儀礼上の交流があります。父が直接お会いする機会は限られますが、全くないわけではございません」

 糸子は考えた。

 阿部正弘に会う必要がある。

 しかし九歳の公家の姫君が、老中首座に直接会いに行く方法は存在しない。

 ならば間接的に。

「実光様、一つお願いがございます」

「はい」

「お父上様を通じて可能なら、阿部様に天朝物産会所の話を伝えていただけませんでしょうか。具体的な内容ではなく——近衛家が御所のお役に立てる形での商売を行っている、という話だけで十分でございます」

「それは……何のために?」

「阿部様は開明的な方でいらっしゃいます。御所が商売を通じて独自の活動を行っているということを、幕府側の開明派が知っていることは、後で役に立ちます」

 実光がしばらく考えた。

「近衛家の動きを幕府側に知らせることは、水野様に知られることでもありますが」

「水野様はすでに知っています。問題は水野様だけが知って、阿部様は知らない、という状況です。阿部様と水野様の間で、近衛家への評価が分かれることが理想です」

 実光の目が、少し変化した。

「……幕府内の分断を利用する、ということでしょうか」

「利用というより、利用してもらう、です。阿部様が近衛家の動きを『問題ではない』と判断してくださるならば、水野様が一方的に近衛家を標的にすることが難しくなりましょう」

「なるほど」

 実光は静かに言った。「姫君様は、先のことまで考えて動いていらっしゃるのでございましょうか」

 糸子は少し間を置いた。

「三年後に、大きな交渉がありまする」

「大きな交渉?」

「南蛮の国々との条約の交渉です。御門様のご意向が、その交渉の行方を左右いたします。その時のために、今から準備が必要なのでございます」

 実光が糸子を見た。

 長い沈黙があった。

「……姫君様は」

 実光が口を開いた。「その交渉の場に、ご自身が関わるおつもりなのでございましょうか?」

「はい」

 糸子は静かに言った。「御門様のご意向を代弁できる立場で、交渉の席に同席することを目指しておりまする」

 実光の表情が、複雑に変化した。驚き、思案、そして何か——敬意に近いもの——が混ざり合っていた。

「前例がございません」

「前例がないことをするのですから、三年かかります。だから今から始めなければならないのでございます」


 その夜、糸子は父・忠房のもとに行った。

 父上はいつものように書を読んでいた。縁側の行灯の灯りが、父上の穏やかな顔を照らしていた。

「父上」

「糸子か。どうした、夜分に」

「少し、お話がしたいのです」

 忠房が書を置いた。

「近衛家の当主として、一つご相談があります」

 糸子は正式な口調で言った。父上の前でこういう話し方をする時、忠房はいつも少しだけ背筋が伸びる。

「言いなさい」

「三年後に、南蛮の国々との通商条約の交渉がございます」

「……ほう」

 忠房が少し目を細めた。

「三年後にそのような交渉があることを、糸子はどこで知ったのだ」

「書物と、天朝物産会所を通じた情報でございます」

「なるほど」

 忠房は簡単には問い詰めなかった。糸子が「書物で読んだ」と言う時の信頼性を、もう十分に知っていた。

「その交渉において、御門様のご意向が問われます。これまでの幕府は朝廷のご意向を後回しにして条約を結ぼうとしてきました。御門様がただ反対するだけでは、幕府は強行いたします。しかし御門様が具体的な条件を持って臨めれば、交渉の形が変わりまする」

「具体的な条件、とは?」

「治外法権を認めないこと。関税の自主権を守ること。金銀の交換比率を対等に定めること。この三点が最低限の条件でございます」

 忠房が静かに聞いていた。

「わたくしはその交渉の場に、御門様の意向を代弁できる立場で同席したいと思っていまする」

「……同席」

「はい。天朝物産会所は三年後には、御所の物資調達だけでなく情報収集と外交的な役割も担える器になっているはずです。その天朝物産会所の代表として、そして御門様から信任を受けた近衛家の者として」

 忠房が長い間、黙っていた。

 庭から虫の声が聞こえた。夏の夜の、静かな音だった。

「糸子」

 父上が言った。

「はい」

「お前は九歳だ」

「知っております」

「三年後でも十二歳だ」

「はい」

 忠房がふっと息を吐いた。笑いとも溜息とも取れる、柔らかい呼気だった。

「お前が生後七ヶ月で喋った時から、この子は何か違うと思っておった」

「父上」

「お前が六歳で近衛家の帳面を整理し始めた時も、そう思った。お前が鴻池の伊右衛門を相手に渡り合った時も。お前が御門様の御前に参って、さとを守ることを約束して帰ってきた時も」

 忠房が糸子を見た。

「近衛家の当主として言う。お前が必要だと思うことをしなさい。わたしはお前の判断を信じる。ただし——」

「はい」

「一人でするな。実光殿も、村岡も、善次郎も、みんなを巻き込みなさい。お前一人が頑張ることより、みんなで動くことの方が、この家にとってもこの国にとっても大切だ」

 糸子は深く頭を下げた。

「ありがたき幸せに存じます、父上様…」


 翌朝、糸子は四冊目の帳面を新しく作った。

 表書きに「天朝物産会所 三年計画」と書いた。

 第一年(安政二年から三年)として、御所内の情報管理体制を整備する。水野忠精の動きを注視しながら、漏洩の管理体制を確立する。女官長の件を解決して、御所内の信頼関係を強固にする。阿部正弘との間接的な接点を作る。

 第二年(安政三年から四年)として、天朝物産会所の事業を拡大する。食材・工芸品の流通に加えて、情報の商品化を本格的に始める。各藩の奥向きへの情報提供事業を、慎重に立ち上げる。外国語の習得を始める——これについては方法を別途考える。

 第三年(安政四年から五年)として、条約交渉に向けた直接的な準備をする。ハリスが下田に来ることを事前に知っている糸子が、その交渉の内容と問題点を正確に把握した上で、御門様への具体的な「条件」の提示を行う。幕府の開明派との関係を通じて、交渉の場への同席を実現する。

 糸子は書きながら、一つの問いに戻ってきた。

 どのような立場で交渉の席に座るか。

 近衛家の姫君として、では弱い。天朝物産会所の代表として、では権威が足りない。

 御門様から正式に何らかの役を賜ること——それが最も確実だ。

 しかし御門様からの役というのは、前例のない形になる。前例のない形を作るためには、御門様自身がそれを必要と判断されなければならない。

 糸子はさらに書いた。

「御門様への報告を継続し、信頼を積み重ねる。三年間で、御門様がわたくしを『外交的な役割を任せられる存在』と認識してくださることを目指す。」

 そして最後に、一行書いた。

「条約交渉は、商売の交渉と同じだ。相手が何を求めているかを知り、こちらが何を守らなければならないかを明確にし、互いにとって受け入れられる形を見つける。ただし今回は、日本という国の百年先がかかっている。」


 その日の午後、村岡が戻ってきた。

 村岡はさとから伝言を持ってきた。

「御門様が、糸子様に会いたいとおっしゃっております。できれば早めに…」

 糸子は少し驚いた。こちらから求めたのではなく、御門様の側から。

「理由は何と?」

「さとにも詳しくは分からないとのことでございました。ただ御門様が最近、南蛮の国々のことをよく聞かれるそうで。糸子様が以前お約束した、南蛮の情報をお伝えする件かもしれない、とのことでございました」

 糸子は頷いた。

 御門様が南蛮の情報を求めている。これは想定の範囲内だった。ペリー来航から二年が経ち、日米和親条約も締結された。御門様が「これから何が起きるのか」を知りたいと思うのは自然なことだ。

 しかし同時に、糸子の中で一つの決断が固まった。

 この機会に、三年後の交渉について御門様に話す。

 漠然とした話ではなく、具体的な話として。

「村岡、さとに伝えてください。できれば明後日に御前に参りたい、と。それまでにわたくしが御門様にお伝えする内容を整理いたします」

「かしこまりました」

 村岡が部屋を出た後、糸子は新しい紙を取り出した。

 御門様に伝えること。

 南蛮の国々の実情——これは以前から話してきたことの続きとして。清朝で起きたことの詳細。英吉利国とフランス国の動き。

 そして——三年後に来る交渉について。

 御門様がどのような役割を果たすことができるか。

 糸子がどのような形でその役割を支えることができるか。

 糸子は書きながら、御門様の顔を思い浮かべた。

 前回の御前で「朕の気持ちは使えるかもしれない」とおっしゃった御門様の言葉。その言葉の重さを、糸子はずっと考えていた。

 御門様は今、攘夷と現実の間で苦しんでいる。外国を嫌いながら、外国を排除できないという現実の前に立っている。

 その苦しみに対して、糸子が提示できることは何か。

「排除できないなら、対等になることを目指す。そのために御門様のお力が必要です」

 これが糸子の答えだった。

 しかし御門様がこの答えを受け入れてくださるかどうかは、まだ分からない。


 明後日の朝、糸子は御所に参内した。

 さとが廊下で待っていた。

「糸子様、今日は御門様がいつもよりお疲れのご様子です。あまり長い御前は難しいかもしれません」

「分かりました。一番大切なことだけをお伝えいたします」

 小部屋に入り、几帳の前で頭を下げた。

「面を上げよ」

「はい」

「南蛮の話を聞かせよ」

 御門様の声は、確かに今日は少し疲れていた。

 糸子は静かに話し始めた。

 清朝でアヘン戦争が起きたこと。南京条約で清朝が受けた不平等な条件。英吉利国が清朝にどのようにして条約を押しつけたか。

 御門様が静かに聞いていた。

「……清がそれほどまでに」

「はい。清朝は大国でありながら、対等な交渉ができませんでした。その理由の一つは、交渉に臨む前から準備が足りなかったことです」

「準備?」

「相手が何を求めているかを知ること。自分が何を守らなければならないかを明確にすること。そして交渉の場に、信任を受けた代弁者がいることでございます」

 御門様が少し黙った。

「三年後に、この国でも同じような交渉がございます」

 糸子は言った。

「南蛮の国々との通商条約の交渉でございます。幕府が主導しますが、御門様の勅許をお求めになられまする。その交渉がどのような結果になるかが、この国の百年先を決めまする」

「……百年先」

「はい」

「そなたは三年後の話をしておるのじゃな」

「はい」

 御門様が少し間を置いた。

「朕に、何を望む」

 糸子は頭を下げた。

「御門様に、具体的な条件をお持ちいただきたいのです。単に条約を拒否するのではなく、『この条件なら勅許を与える』という形で臨んでいただければ、交渉の形が変わりましょう」

「条件を」

「はい。わたくしが三年かけて、その条件の根拠となる情報と論理を整えまする。三年後に御門様の前に、交渉に臨める形でお持ちいたします」

 しばらくの沈黙があった。

 さとが静かに息を詰めているのが分かった。

「近衛糸子よ」

 御門様が言った。

「はい」

「そなたはその交渉の場に、どのような形で関わるつもりじゃ」

「御門様のご意向を代弁できる立場で、同席することを願っておりまする」

「同席?」

「はい。前例はございません。しかし御門様から何らかのお役目をいただければ、その資格が生まれまする。そのお役目の形は、御門様がお決めになることでございます。わたくしはどのような形でも、御門様のご意向に添えるよう尽くしまする」

 また沈黙。

 今度は長い沈黙だった。

「……朕が、そなたに役を与えるとすれば」

 御門様がゆっくりと言った。

「朕の意向を南蛮の者どもに伝える役目じゃ。朕の言葉を、南蛮の言葉に変えて伝える役」

 糸子の胸が、静かに高鳴った。

「恐れながら、その役のためにわたくしは三年間で南蛮の言葉を学ぶことが必要です」

「学べるか」

「学びます」

 御門様が、小さく笑った。糸子にはそう聞こえた。

「九歳で南蛮の言葉を学ぶと申す」

「はい」

「面白い子じゃ」

 御門様の声に、疲れの中にわずかな温度が戻っていた。

「三年、待つ」

 御門様が言った。

「三年後にそなたが持ってくるものを、朕は見る。それが朕の判断の材料になる。よいか」

「はい」

 糸子は深く頭を下げた。

「必ず持ってまいりまする」


 御所の廊下を歩きながら、糸子は一人でいた。

 さとは別の用で別れていた。

 廊下の外は、夏の光が庭を白く焼いていた。

 三年後。

 一八五八年。

 日米修好通商条約の交渉。

 御門様は「三年待つ」とおっしゃった。これは約束だ。

 しかしこの約束には、大きな重みがある。

 三年後に糸子が交渉の席に座るためには、英語を話せるようになっていなければならない。天朝物産会所が情報収集機関として機能していなければならない。幕府の開明派との関係が構築されていなければならない。

 そして何より——安政の大獄が来る前に、御門様の周囲を守る準備ができていなければならない。

 安政四年に阿部正弘が亡くなる。

 安政五年に井伊直弼が大老になる。

 安政の大獄で、多くの人が傷つく。

 この流れを、糸子はどこまで変えられるか。

 全部は変えられないかもしれない。

 しかし一つだけ確実に変えられることがある。

 条約の内容だ。

 糸子が交渉の席に座れれば——御門様の意向を具体的な条件として交渉の場に持ち込めれば——不平等条約の内容を、少しでも日本に有利な形に変えられる可能性がある。

 それだけでいい、と糸子は思った。

 全部を変えようとしなくていい。

 一つだけ。

 条約の内容を、対等に近い形にする。

 それが近衛糸子の、三年先の地図だった。

 蝉の声が、御所の庭に満ちていた。


第十五話 了

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3年後に同席をはたした糸子「ファッキンジャップくらいわかるよバカ野郎」
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