第十四話「水面下の連鎖」
実光が近衛家を訪れたのは、翌日の昼過ぎだった。
梅雨の晴れ間で、空が珍しく高く見えた。縁側の外では、雨上がりの庭が光を受けて静かに乾いていた。
実光の顔を見た瞬間、糸子は何かが動いたと感じた。
いつも沈着で、感情を表に出さない実光の目に、何か新しいものが入っていた。決意、とも言えた。あるいは、長い間ためらっていた扉を開けた人間の顔、とも言えた。
「父と話しました」
実光は座るなり言った。前置きを省く話し方は、実光にしては珍しかった。
「昨日、善次郎殿からの文にあった名前を伝えたところ、父は長い間黙っておりました。そして——」
実光が少し間を置いた。
「水野忠精様、で間違いないとのことです」
糸子は静かに頷いた。
水野忠精。やはりそうか。
「広橋様は何とおっしゃっていましたか」
「近衛家に伝えることの重さは変わらないが、このまま黙っていることの重さの方が大きくなった、と」
糸子は広橋権中納言という人物を、少し理解した気がした。慎重で、しかし最終的には現実を見る人だ。実光が独自の判断で動けるのは、父親からその資質を受け継いでいるからかもしれない。
「お父上のご判断に、深く感謝申し上げます」
「ただし」
実光が続けた。「父には一つの懸念があります。水野様が近衛家を標的にしているとすれば、その理由は単純ではないかもしれない、と」
「単純ではない、というのは」
「田辺屋の利益を守ることが目的なら、こんなにも素早くは動かない。田辺屋が困っているという話が老中の耳に入ってから、田辺屋を動かして近衛家に圧力をかけるまでが、あまりに早い。父の見立てでは——」
実光は一拍置いた。
「水野様は以前から近衛家を、あるいは御所の動向を、注視していたのではないか、と」
糸子の中で、何かが静かに繋がった。
以前から。
「それはつまり」
糸子は言った。「天朝物産会所が始まる前から、という可能性もありますか」
「父はそこまでは言っておりませんでした。しかし……」
実光が糸子を見た。「近衛様が御所御用達の称号を賜ったことは、それなりに広まった話です。五摂家の筆頭が商売を始めた。これは公家社会だけでなく、幕府にとっても異例のことです」
「商売そのものではなく、御所との関係の深まりを警戒している」
「おそらくは」
糸子は庭を見た。
水野忠精が近衛家を注視している理由として、今考えられるのは二つだ。
一つは、御所が財政的・情報的に自立することへの警戒。幕府は長年、御所を「格式はあるが力はない」という状態に置いてきた。その均衡が崩れることを恐れている。
もう一つは、近衛家が単なる商売以上のことをしていることへの察知。御門様との非公式な関係、御所内の情報漏洩への対処、各所への影響力の構築——これらをどこまで把握されているか。
「実光様」
糸子は言った。「今日、御門様への報告をお願いしたい案件がございます」
実光が姿勢を正した。
「昨日の田辺屋の件と、水野様のお名前が繋がったことを御門様にお伝えしたい。ただしわたくし一人では御門様への御前は頻繁には難しい。実光様を通じて、さとにその旨を伝えていただけますか」
「さと様を通じて御門様へ」
「はい。御門様がお知りになることと知らないことの差が、今後の判断に影響します。御門様には正確な状況をお知りいただきたいのです」
実光は少し考えた後、頷いた。
「分かりました。さと様に文を送ります」
実光が帰った後、糸子は善次郎への返書を書き始めた。
善次郎は今、江戸にいる。松屋善兵衛の商売を手伝いながら、大名家の奥向き情報と幕府周辺の動向を収集している。
糸子が書いた内容は、表向きは「江戸向けの商品の仕入れについての相談」だった。西陣織の柄の流行、宇治茶の新しい産地情報、京焼の特注品の打ち合わせ——すべて商売の話として書かれていた。
しかしその中に、善次郎だけが読める別の問いが含まれていた。
水野忠精と御用商人組合の関係の詳細。組合の会合に出席した目付の名前。最近の江戸城周辺での動き。
糸子は書きながら、善次郎のことを考えた。
善次郎は商売の現場感覚と聞き上手の才能を持つ。江戸の商業世界に自然に溶け込みながら情報を集める能力は、糸子や村岡には真似できない。
しかし善次郎は今、相当な危険の端に立っているかもしれない。
幕府の目付が御用商人組合の動きを把握しているとすれば、その組合に近い情報を集めようとする善次郎は、目付の視野に入るリスクがある。
糸子は文の最後に一行加えた。
「くれぐれも無理をなさらないように。今は把握することが目的です。深追いは不要です」
折りたたんで、表書きに「松屋善次郎殿 商談の件」と書いた。
村岡が夕刻に戻ってきた。
今日は御所に一日いたらしく、髪が少し乱れていた。しかし目には、何か重要なものを持ち帰ってきた人間の光があった。
「姫君様」
村岡は座ると、声を少し落とした。「さと様から直接、お話を聞きました」
「女官長の件ですか」
「それもあります。しかしそれより先に——」
村岡が小さく息を吸った。
「女官長が、泣いていたとのことです」
糸子は静かに村岡を見た。
「泣いていた?」
「はい。さと様が昨日の装束方への接触について女官長に確認しようとしたところ、女官長は最初は言い訳をしていたのですが……やがて崩れて、さと様の前で泣いた、と」
「話したのですか」
「はい。女官長は、御所内の情報を外に流していたことを認めました。しかしそれは自分の意思ではなかった、と」
「どういうことですか」
「女官長の息子が、商売の失敗で大きな借財を抱えているとのことです。その借財を抱えた息子のもとに、田辺屋の手の者が現れた。借財を肩代わりする代わりに、御所の動向を伝えてほしい、と」
糸子は目を閉じた。
そういうことか。
「女官長は最初は断ったそうです。しかし息子の借財がどんどん膨らんで、逃げ場がなくなった。それで仕方なく——という話でした」
「さとは、それを信じましたか」
「さと様は……信じたと思います。女官長の様子が、本当に苦しんでいる人間のそれだったと。ただ信じるとしても、それで情報漏洩が許されるわけではない。さと様も、その点は明確にしていたとのことです」
糸子は目を開けた。
田辺屋は御所の内部に、借財という弱みを持った人間を使って情報源を作った。商人らしい方法だ。しかし——
「女官長の息子の借財は、今どうなっていますか」
「そこまでは分からないとのことです。ただ最近また、田辺屋の方から『しばらく大人しくしていろ』という指示が来ていたとのこと。昨日の女官長の動きは、その指示に従ったものだそうです」
「田辺屋が、御所内から近衛家の動きを止めようとした」
「はい」
糸子は少し考えた。
「村岡、さとに伝えてください。女官長の件は、今すぐ動くことはしないと」
「罰しないのですか」
「罰することと、解決することは別です」
糸子は言った。「女官長を罰すれば、田辺屋はその穴を別の人間で埋めます。問題は女官長の個人的な行動ではなく、田辺屋が御所内に弱みを使った情報網を作っているという構造です。その構造を変えなければ、同じことが繰り返されます」
「では、どうするのですか」
「女官長の息子の借財の額と、借主を確認してほしいと伝えてください。田辺屋が直接貸しているのか、田辺屋の系列の誰かが貸しているのか。それによって対処が変わります」
村岡が目を見開いた。
「姫君様、まさか借財を——」
「肩代わりすることを考えています」
糸子は言った。「田辺屋への返済を、天朝物産会所が引き受ける。その代わり、女官長の息子は天朝物産会所に対して何らかの形で働いてもらう。田辺屋への借財がなくなれば、田辺屋は御所内に情報源を持てなくなります」
「しかし費用は——」
「それなりにかかります。いくらかによります。村岡、まず額を確認してください。その上で判断します」
村岡は少し黙った後、頷いた。
「かしこまりました。ただ姫君様、一つよろしいですか」
「なんですか」
「女官長が本当のことを話しているとして、田辺屋がなぜ今になって『大人しくしていろ』と指示したのでしょうか。借財を使って情報を得られているなら、続けさせるはずではありませんか」
糸子は村岡を見た。
鋭い問いだ。
「田辺屋が焦っているからです」
糸子は答えた。「近衛家への直接の圧力が効かなかった。御所内の情報源を動かしてみたが、装束方の件は止められなかった。田辺屋は今、次の手を考えている。その間は御所内の情報源を『大人しく』させて、動きを悟られないようにしているのです」
「次の手、というのは」
「老中が直接動く、ということかもしれません」
糸子は静かに言った。「田辺屋という商人を通じた圧力が効かなかった。次は幕府が別の形で動く可能性があります」
三日後、実光から知らせが来た。
御門様が糸子の報告を受けたい、とのことだった。
しかも今回は「お庭への散歩のついで」という非公式な形ではなく、さとの取り計らいによる少し改まった御前だった。
糸子は前日から準備をした。
お梅に手伝ってもらい、几帳の前での礼法を確認した。御前での言葉遣いを頭の中で何度も繰り返した。
何を伝えるか。
水野忠精の名前。田辺屋の御所内への浸透。女官長の問題とその対処方針。そして——
糸子は少し迷った。
もう一つ、伝えるべきことがある。
御門様に糸子の立場では伝えるべきかもしれないこと…
それは「幕府の動きがこれからどう変化するか」という、糸子が前世の知識から持っている大きな見通しだ。
安政の大獄が来る。井伊直弼による大規模な弾圧が来る。御所の近くの公家たちも処罰される。
その前に御門様が知っておくべきことは何か。
糸子は結局、「今起きていること」に絞ることにした。
未来の話をするには、まだ信頼の積み重ねが足りない。今あることを正確に伝えることが先だ。
御前は静かな小部屋で行われた。
正式な謁見室ではなく、御所の中でも比較的小さな、几帳と簾が設けられた空間だ。さとが同席し、糸子は几帳の前で深く頭を下げた。
「面を上げよ」
御門様の声は前回と同じ、静かで深みのある声だった。
「はい」
「田辺屋という商人が近衛家に参ったとのことじゃが」
「はい」
糸子は顔を上げた。几帳越しの御門様の気配を感じながら、静かに言葉を選んだ。
「田辺屋儀兵衛は二度目の訪問において、『幕府として看過できない』という言葉を近衛家に向けてまいりました。その背後に老中・水野忠精様のお名前があることが、複数の情報源から確認されております」
御門様が静かに聞いていた。
「水野様が近衛家の動きを警戒している理由は、御所の物資調達の改善そのものではなく、御所が独自の活動を行うことへの警戒ではないかと拝察しております」
「独自の活動、とな」
「御所御用達の称号を賜り、近衛家が御所のお役に立てる形を模索しておりますが、それが御所の自立的な動きとして幕府に映っている可能性があります」
しばらく沈黙があった。
「朕のことを守れと言うたのは朕である」
御門様が言った。
「朕が、近衛家に動くことを許した。それを幕府が問題にするとすれば、それは幕府が朕の意向に反することになる」
「はい」
「水野とやらは、それを承知の上で動いておるのか」
「承知した上で、正式な対立にはしたくないと判断しているようです。商人を使った非公式の圧力を使ったことが、その証左かと思われます」
「なるほど」
御門様の声に、何か重いものが混じった。
「近衛糸子よ」
「はい」
「そなたは、これからどうするつもりじゃ」
糸子は一呼吸置いた。
「御所内の情報漏洩の経路を断ちます。これは時間をかけて、目立たない形で行います。田辺屋の動きは引き続き注視し、老中が次の手を打つ前に、対処できる準備をしておきます」
「急がずに、か」
「はい。急げば田辺屋も老中も、より強い手を打ってきます。静かに、しかし確実に進めることが、今のわたくしにできる最善だと思っております」
御門様が、わずかに笑ったような気配があった。
「そなたは九つのくせに、ずいぶんと落ち着いておるな」
「恐れ入ります」
「朕は、そなたの申すことを聞いていると、不思議な気持ちになる」
御門様の声が、少し柔らかくなった。
「何かを知っておるような顔をしておる。先のことを、朕より知っておるような」
糸子の胸が、一瞬だけ止まりそうになった。
「恐れながら」
糸子は言った。「書物で読んだことが多うございます。他の国々のこと、過去に起きたことのこと。それが今起きていることと重なって見えることがございます」
「書物、か」
「はい。先のことは分かりません。しかし似たことが起きた時に何が起き、どうすれば防げたかは、書物が教えてくれます」
御門様が静かに考えているような間があった。
「近衛糸子よ」
「はい」
「朕は、さとを守れと言うた。御所の中にさとのような者が必要じゃ」
「はい」
「そなたは御所の外から、朕を守ろうとしておる」
糸子は何も言わなかった。
「それが商売という形をとっておることは、朕も承知しておる。商売をしながら御所を守るというのは、並大抵のことではない」
「勿体ないお言葉でございます」
「名を使うなと、朕は言うた」
御門様が言った。「しかしそなたの動きを朕は見ておる。見ておるということは、覚えておるということじゃ。いざという時には、朕の名は使えないかもしれないが、朕の気持ちは使えるかもしれない。覚えておれ」
糸子は深く頭を下げた。
「ご厚情に感謝申し上げます」
御前から帰る道で、さとが糸子の隣を歩いた。
廊下の外は夕方の光が差していた。御所の庭の木々が、橙色に染まっていた。
「糸子様」
さとが小さな声で言った。
「御門様が、珍しい顔をされておりました」
「珍しい顔、とは」
「笑うような顔ではなく、かといって怒っているわけでもなく……何か久しぶりに面白いものを見た時の顔、とでも申しましょうか」
糸子は少し考えた。
「御門様は、長い間ずっと同じ人しか周りにいらっしゃらなかったのではないでしょうか。御所の中というのは、そういう場所ですから」
「はい」
「わたくしのような者が御前に参ることは、御門様には珍しいことなのだと思います。九歳のお子が商売の話をして、幕府の老中の名前を持ち出して、御所の情報漏洩について報告する」
「確かに珍しゅうございます」
「さと」
糸子は歩きながら言った。「女官長の件ですが、一つお願いがあります」
「はい」
「女官長の息子の借財の詳細が分かったら、できるだけ早く教えてください。天朝物産会所での対処を考えています」
さとが足を止めた。
「糸子様、まさか——」
「田辺屋の御所内への経路を、商売で断ちます」
糸子は振り返って、さとを見た。
「罰することよりも、問題の根を断つことが先です。女官長の息子の借財が田辺屋への鎖になっているなら、その鎖を別の形に変えます」
さとは少しの間、糸子を見ていた。
その目に、何か深いものがあった。
「……御門様が、糸子様のことを見ておられるわけですね」
「さと」
「はい」
「あなたも、ずっと見ていてください。御所の中のことは、あなたにしか見えないことがあります。わたくしはあなたの目を信じています」
さとが、深く頭を下げた。
糸子は廊下を歩き続けた。
夕方の御所は、光の色が変わる時間だった。白から橙へ、橙から深い青へ——その変化の中に、しかし変わらないものが確かにあった。
近衛家に戻ると、村岡が待っていた。
「姫君様、女官長の息子の借財の額が分かりました」
「いくらですか」
「三十二両です。貸主は表向きは大坂の両替商ですが、その両替商は田辺屋と深い取引関係にあります」
三十二両。
糸子は頭の中で素早く計算した。
天朝物産会所の現在の手持ち資金は、先月の売り上げを加えれば約二百両強ある。三十二両は大きな額だが、出せない額ではない。
しかし出し方が問題だ。
「村岡、その両替商の名前は分かりますか」
「堺屋忠兵衛と申します」
「大坂の両替商ですね」
「はい」
糸子は考えた。
鴻池の伊右衛門が大坂の窓口だ。大坂の商業ネットワークの中で、堺屋忠兵衛の情報を掴めるかもしれない。
しかし鴻池に頼むことには慎重でなければならない。鴻池は田辺屋とも取引関係があるかもしれない。情報が田辺屋に流れるリスクがある。
「村岡、鴻池家に直接聞くことは今は避けましょう。別の方法で堺屋の情報を集めます」
「別の方法、とは」
「善次郎の父上——松屋善兵衛殿は、大坂の商売にも詳しいですか」
「ある程度は、と存じます。江戸の呉服商ですが、大坂との取引もあるはずです」
「善次郎への次の文に、堺屋忠兵衛について父上に確認してもらうよう書き加えます。田辺屋との関係の深さと、借財の買い取りが可能かどうか」
「借財の買い取り、ですか」
「はい。三十二両の借財を、天朝物産会所が堺屋から買い取ります。その結果、女官長の息子の借主が田辺屋の系列から天朝物産会所に変わります。田辺屋への鎖が、切れます」
村岡が少しの間、黙った。
「……女官長の息子は、天朝物産会所に対して返済することになるのですか」
「急いで返す必要はないと伝えます。しかし返済の代わりに、できることをしてもらいます。例えば大坂の商業事情についての情報提供。あるいは別の仕事のお手伝い。無理のない範囲で」
「田辺屋の情報源だった人間が、天朝物産会所の協力者に変わる」
「そうなれば理想的です。ただし強制はしません。選択肢を与えて、選んでもらいます」
村岡が頷いた。その顔に、今日初めて少し柔らかいものが出た。
「姫君様は、人を懲らしめるより、引き込む方が好きなのですね」
「怖い顔をして追い返しても、どこかでまた現れます。それより手を差し伸べた方が、長い目で見れば得です」
「商売の考え方ですね」
「商売の考え方です」
糸子は少し笑った。
その夜、糸子は帳面を開いて今日の動きを整理した。
実光から水野忠精の名前が確認された。御門様への報告が完了した。女官長の問題の解決策に見通しが立った。
三つのことが今日、前に進んだ。
しかし同時に、新しい問いが生まれていた。
水野忠精は、なぜこんなに早く動いたのか。
田辺屋が困っている、という話が老中の耳に入ってから、行動までが早すぎる。まるで以前から、近衛家への対応策を用意していたかのように。
あるいは——
糸子は筆を止めた。
あるいは、近衛家が御所御用達の称号を賜った時点から、水野は動いていたのかもしれない。田辺屋への指示は最近のことではなく、ずっと前から始まっていたのかもしれない。
それならば——
田辺屋が御所内に情報源を作ったのも、水野の指示だった可能性がある。
女官長の息子の借財を使って情報源を作ることは、田辺屋一人が思いついた商売上の知恵ではなく、老中レベルの工作だったかもしれない。
そうだとすれば、借財を買い取って問題を解決したとしても、水野は別の手を用意しているはずだ。
糸子は帳面に書いた。
「御所内の情報源は女官長だけではない可能性がある。さとを通じて継続的な確認が必要。」
そして次の行に書いた。
「水野の本当の目的を理解することが先決。田辺屋は手段に過ぎない。」
最後に、一行だけ。
「天朝物産会所は、今の形では大きくなりすぎている。あるいは、まだ足りていない。どちらが正しいかを見極める必要がある。」
これが今の糸子の最も深い問いだった。
天朝物産会所は今、近衛家の商売として動いている。しかしその実質は「御所を守るための情報・経済・外交の機構」になりつつある。
その機構がどこまで育てば、水野のような老中に対して本当の意味で対等に渡り合えるのか。
まだ分からない。
しかし一つだけ分かることがある。
止まることはできない。
屋根を直すことから始まったこの道は、今は見えないところまで続いている。
その先に何があるかは分からないが、今できることを今やることしかない。
近衛糸子は帳面を閉じた。
京の夜は、深く静かだった。
第十四話 了




