第十三話「田辺屋、再来」
梅雨の走りのような雨が、朝から御所の瓦を叩いていた。
六月の京の雨は陰鬱だ。じめじめとした湿気が着物の袖に纏わりつき、廊下を歩く女官たちの足取りを重くする。
近衛家の奥座敷では、糸子が帳面を広げていた。
机の上には三冊の帳面が並んでいる。一冊目は御用達を賜った後に立ち上げることとなった天朝物産会所の売り上げと仕入れの記録。二冊目は御所への物資供給の記録。三冊目は——これだけ他の二冊と紙質が違う——村岡が持ち込んだ情報の記録だ。
三冊目の帳面は、表向きは「御所台所方への献立案」として作られている。もし誰かに見られても、ただの食材の書き付けにしか見えない。しかし糸子と村岡だけが読める別の記法で、御所内部の動きが細かく記されていた。
「……動いている」
糸子は呟いた。
三冊目の最新の頁には、村岡の几帳面な文字で一行だけ書いてあった。
「装束方、別の取引先を打診中。さと様、了承。ただし外部に漏れた可能性あり」
漏れた、か。
糸子は筆を置いて、雨の庭を見た。
さとが動き始めてから五日が経つ。御所の装束担当商家に、近衛家が別の取引先を紹介する——それだけの話だ。表向きは「より質の良い布地を御所に供給したい」という近衛家の申し出に過ぎない。
しかし田辺屋の目は鋭かった。
御所への物資供給に関わる商家の動向を、田辺屋は常に把握していた。情報漏洩の経路は装束担当商家を通じた御所内の女官長——その経路がさとを通じて遮断されようとしていることに、田辺屋はすでに気づいていたらしい。
糸子は三冊目の帳面を閉じた。閉じながら、頭の中で状況を整理した。
田辺屋が気づいた。田辺屋は御用商人組合を動かせる。御用商人組合の背後には老中がいる。
そして今朝、来客の知らせがあった。
田辺屋儀兵衛。
前回と同じ名前だ。しかし前回は探りを入れに来た田辺屋が、今回は——
「姫君様」
障子の外から声がした。お梅の声だ。
「田辺屋儀兵衛様がお見えにございます」
糸子は三冊の帳面をまとめて脇に寄せた。その上に「春の献立案」と表書きした別の書き付けを重ねた。
「お通しして」
田辺屋儀兵衛は、前回と同じ鼠色の着物を着ていた。
しかし前回と決定的に違うことがあった。
前回、儀兵衛の顔には「計算」があった。どこまで探れるか、相手がどこまで知っているか、どこで切り上げるか——すべてを計算しながら笑う、商人の顔だ。
今日の儀兵衛の顔には、その計算が見当たらなかった。
代わりにあるのは、何か別のものだ。
糸子はそれが何かを、向かいに座った瞬間に理解した。
圧力だ。
儀兵衛は計算を外れた顔をしている。計算を超えた力が背後にある時、人はこういう顔をする。自分の裁量の外にある何かを代弁する時、人は自分の表情を失う。
茶が運ばれた。
雨の音が廊下を流れていた。
「本日はわざわざお越しくださって」
糸子は穏やかな声で言った。「お足元の悪い中を。雨はまだ続きそうですね」
「はい」
儀兵衛は茶に手を伸ばさなかった。前回は必ず茶に手を伸ばした。今日は伸ばさない。
これは短い会話で終わる気だ、と糸子は判断した。
「近衛様」
儀兵衛が口を開いた。「少々はっきりと申し上げてもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「御所の内部のことに近衛様が関わることは、幕府として看過できません」
糸子は儀兵衛の目を見た。
儀兵衛の目が、初めて計算を外れていた。
この言葉は、田辺屋個人の言葉ではない。
老中の言葉だ。
糸子の中で、何かがすとんと落ちた。
いつもは静かな水面のように保っている内側が、一枚の薄い膜を破って別の何かに変わる感覚。
スイッチが、入った。
「幕府として、とおっしゃいましたか?」
糸子の声は穏やかなままだった。しかし声のトーンが、一段だけ落ちていた。
「はい」
「その言葉、もう一度おっしゃっていただけますか。今度は正確に聞き取りますので」
儀兵衛が、わずかに眉を動かした。
「御所の内部のことに近衛様が関わることは、幕府として看過できません」
「かたじけのうございます」
糸子は言った。声は静かだった。静かすぎるほど静かだった。「では確認させてくださいまし。田辺屋殿は今、近衛家に対して『幕府として』という言葉を使って圧力をおかけになっていまする。そういう理解でよろしいですか」
「……圧力などというものでは——」
「圧力ではない、とおっしゃいますか」
糸子は続けた。「では何でしょう。助言ですか。忠告ですか。あるいは友誼からの懸念でしょうか」
儀兵衛が口を閉じた。
糸子は畳の上に両手を揃えたまま、動かなかった。
「田辺屋殿」
糸子の声は、雨音より静かだった。「わたくしはいくつか確認したいことがございます。よろしいですか」
「……どうぞ」
「まず一つ目です。御所の装束方が取引先を変えることは、どのような法度に触れますか」
儀兵衛が答える前に、糸子は続けた。
「御所の内部の物資調達は、御門様のご意向のもとで行われます。どの商家から何を購入するかは、御所の裁量に属する事柄です。この点については、広橋実光様がすでに法度の確認を行ってくださっています。近衛家が別の商家を紹介することは、いかなる法度にも抵触致しませぬ」
儀兵衛の顔が、わずかに固まった。
「二つ目です」
糸子は言った。「田辺屋殿が今日お持ちになった言葉——『幕府として看過できない』——この言葉は、どなたからのものでしょうか」
「それは——」
「田辺屋殿ご自身のお言葉でしょうか」
「……」
「もし田辺屋殿ご自身の言葉でないとすれば、田辺屋殿は今日、誰かの言葉を近衛家にお伝えになるためにいらっしゃった、ということになります。その場合、その方が正式に近衛家に対して何かを求めるのであれば、しかるべき手続きを踏んでいただく必要があります」
糸子は一呼吸置いた。
「近衛家は五摂家の筆頭です。幕府がわたくしどもに何かを求めるのであれば、摂関家に対する正式な文書をもって行うべき筋合いのものです。商人を使って口頭で伝えるというのは、いささか手続きが違うのではないのでしょうか」
雨の音が、しばらくの間だけ座敷を満たした。
儀兵衛は動かなかった。
糸子も動かなかった。
どちらが先に沈黙を破るかを、糸子は待っていた。自分から破る必要はない。
儀兵衛が、ゆっくりと息を吐いた。
「……近衛様は、お若いのに」
「はい」
「ご賢察でいらっしゃいます」
「おそれ入ります」
糸子は答えた。「田辺屋殿も、ご聡明でいらっしゃいます。だからこそ、一つ申し上げてよろしゅうございますか」
儀兵衛が目を上げた。
「田辺屋殿はお計算がお得意な方とお見受けしています。今日の件で、少し計算をしていただけますか」
「……」
「近衛家が御所の取引先の紹介に関わることを、幕府が公式に問題にする。その場合、幕府は五摂家の筆頭に対して、御所の内部事情への干渉を正当化しなければなりません。その正当化の根拠として、幕府は何をお挙げになりますでしょうか」
糸子は続けた。
「御所御用達の称号を持つ近衛家が、御門様のご意向に添う形で御所の物資調達を改善しようとしている。これを幕府が妨げるとなれば、幕府は御門様のご意向に反していることになります。その構図を、幕府はお望みでしょうか」
儀兵衛の表情が、微細に変化した。
「田辺屋殿」
糸子は声をさらに静かにした。「わたくしは田辺屋殿と戦いたいわけではございません。商売は戦ではなく、互いの利益を見つけることです。しかし今日田辺屋殿がお持ちになった言葉は、戦を求めているように聞こえまする」
「……そのような意図では——」
「では意図がないとすれば、今日の訪問は何のためでしょうか」
沈黙。
糸子は待った。
「近衛様」
儀兵衛がようやく口を開いた。今度の声には、先ほどまでの圧力が消えていた。代わりに、何か別のものがあった。
疲れ、とも言えた。あるいは計算が狂った人間の、静かな当惑とも言えた。
「わたくしは……田辺屋の先行きを考えておりました」
「はい」
「長年、御所の取引に関わってまいりました。それを急に変えると言われれば、田辺屋としては商いの根幹が揺らぎます」
「それはお辛いことございますね」
糸子は言った。声に温度が戻っていた。「田辺屋殿がご心配なのは、御所との取引が失われることですね」
「はい」
「全部失われるとは、わたくしは申しておりません」
儀兵衛が顔を上げた。
「装束方の取引先を別の商家に変えることは、御所の台所方の食材供給を近衛家が担うこととは、別の問題です。田辺屋殿はこれまで、御所の食材供給においては問題のあるお仕事をなさっていたとはわたくしは存じ上げませぬ」
これは半分本当で、半分計算だ、と糸子は自分で思っていた。
田辺屋が御所台所方との関係を失った経緯は、さとから聞いている。品質の問題と対応の遅さだ。しかしそれを今ここで持ち出すことは、糸子の目的ではない。
今の目的は、田辺屋に「全てを失うわけではない」と思わせることだ。
「田辺屋殿」
糸子は続けた。「わたくしが申し上げたいのは、商いの形は変わり得るということです。変化を全て脅威と受け取るのではなく、変化の中に新しい商いの形を見つけることもできるのではないでしょうか」
儀兵衛は、しばらく黙っていた。
その沈黙の中で、糸子は儀兵衛の背後を考えていた。
老中。名前はまだ確認できていない。実光から「老中の影」という情報は来ているが、具体的にどの老中かは不明だ。
今日の儀兵衛の言葉は、老中からの直接の指示を受けてきたことを示している。つまり老中は、近衛家の動きをかなり正確に把握している。
御所内の情報漏洩経路は、村岡がある程度特定した。装束担当商家を通じた経路だ。しかしそれ以外にも経路があるかもしれない。
田辺屋を引き下がらせても、老中が別の手を打つ可能性がある。
今日の交渉で田辺屋を完全に潰すことは、得策ではない。
「田辺屋殿」
糸子は言った。「一つ、提案があります」
「……お聞かせ願いますでしょうか」
「田辺屋殿は今日、幕府として、という言葉をお使いになりました。もしその言葉の背後にいらっしゃる方が、近衛家に何かを正式にお求めになるのであれば、わたくしは正式な手続きを通じてお受けする準備がございます」
儀兵衛が静かに聞いていた。
「しかしその言葉が、田辺屋殿個人のご心配から来たものであれば——御所との取引の変化に対する商人としての不安から来たものであれば——わたくしは田辺屋殿と、商いの話をする用意がございます」
「商いの話を?」
「はい。どのような形で互いの利益を守るか、という話です。天朝物産会所が扱えないもの、田辺屋殿にしかできないことは必ずございます。それを一緒に考えることはできます」
雨の音が、少し強くなった。
儀兵衛は茶碗を両手で持った。ようやく茶に手を伸ばした。
それを見ながら糸子は、今日の交渉の着地点を静かに確認した。
儀兵衛は引き下がる。ただし完全に引き下がるのではなく、「商いの話の余地を残して」引き下がる。そうすれば次の会談の口実が生まれる。
老中への報告は「近衛家と交渉した。完全には押し切れなかったが、対話の余地はある」という内容になる。
それで十分だ。
老中が次の手を打つまでの時間が、少し稼げる。
田辺屋儀兵衛が帰った後、糸子は縁側に出た。
雨は小降りになっていた。庭の梅の木が、濡れた枝を重そうに垂らしていた。
お梅が茶を持ってきた。
「姫君様、田辺屋はいかがでした」
「予想通りでした」
糸子は茶を受け取った。「老中の言葉を持ってきた。ただし田辺屋自身は、その言葉を持ってくることを快く思っていない様子でした」
「快く思っていない?」
「商人は商いのことを考えます。政治の道具に使われることは、商人にとって本意ではない。田辺屋儀兵衛という人は、計算が得意な人です。計算を超えた力に動かされることを、嫌っているはずです」
糸子は茶をひとくち飲んだ。
「今日の田辺屋は、老中の言葉を代弁することで、自分の商売上の立場を守ろうとした。なれど老中の言葉をそのまま使うことで、商売人としての交渉の余地を失った。それが今日の田辺屋の弱さでした」
「では田辺屋は、これで引き下がりますか」
「田辺屋本人は引き下がりたいと思っているはずです。しかし田辺屋を動かした老中が、田辺屋だけに任せるかどうか」
糸子は庭を見た。
「お梅、村岡はまだ御所ですか」
「はい。今日は御所のさと様と午後も会う予定と申しておりました」
「伝えてくださいまし。装束方の件は引き続き進めてよいと。ただし動きを急がずに。急ぐと目立ちます」
「かしこまりました」
「それから——」
糸子は少し考えた。
「実光様に文を送ってください。今日の田辺屋の訪問についてご報告したい、と。できれば今日中にお越しいただけると助かります」
広橋実光が来たのは夕刻だった。
雨はすっかり上がっていた。夕日の橙色が、濡れた庭石を照らしていた。
実光は糸子の報告を静かに聞いた。
「幕府として、か」
実光が繰り返した。「田辺屋は、その言葉をそのまま使ったのでございますか」
「はい。一度ではなく、わたくしが確認を求めたので、二度」
「……それは」
実光は少しの間、黙った。「それは田辺屋の判断の甘さとも言えますが、裏返せば老中がそれだけ焦っているということでもあります」
「そう思いましてございます」
「近衛家に対して商人を使って口頭で圧力をかける。正式な文書ではなく、口頭で。これは『正式な対立にはしたくない』という意思の表れです」
「正式な対立にできない理由がある」
「はい」
実光は言った。「五摂家に対して、幕府が正式な文書で御所の内部事情への干渉を求めるとなれば、それ自体が問題になります。朝廷の自律性を侵すことになる。老中もそれは分かっている。だから田辺屋という商人を使って、非公式に圧力をかけた」
「非公式の圧力は、非公式にしか対応できません」
糸子は言った。「わたくしが今日田辺屋にしたことは、それを正式な問題として取り上げるかどうかを田辺屋に突きつけることでした。田辺屋が正式化を望まないなら、この話は商いの話として処理される」
「うまい」
実光は素直に言った。「しかしそれは老中の次の手を防いだわけではございません」
「はい」
糸子は静かに答えた。「実光様、老中の名前はまだ分かりませんか」
実光の顔が、わずかに曇った。
「父からの情報では、老中の中でも特定の一人が近衛家の動きを強く警戒しているということです。名前までは……父も特定できていないようです」
「特定できていないのか、言わないのか」
実光が糸子を見た。
「……それは」
「失礼なことを申しました」
糸子は頭を下げた。「広橋権中納言様のことを疑っているわけではありません。ただ状況を正確に把握したいのです」
「父は……」
実光は少しの間を置いた。「父は名前を知っていると思います。しかし近衛家にそれを伝えることの重さを、計っているのだと思います」
「重さ」
「老中の名前を特定して近衛家に伝えるということは、父がその老中と正面から対立することになります。父はまだ、その覚悟を固めていないのだと思います」
糸子は頷いた。
広橋権中納言は先日、老中の圧力に関する情報を近衛家にもたらした。しかしそれは「老中の動きがある」という事実の伝達であって、「老中と戦う」という意思表示ではなかった。
実光は父の意向に反して、独自の判断で近衛家への協力を続けている。
その実光でも、父が持っているかもしれない情報を強引に引き出すことはできない。それは息子としての礼節の問題だ。
「実光様」
糸子は言った。「お父上に何かをお願いするつもりはありません。お父上の判断を尊重します」
「しかし」
「しかし、もし老中の名前が分かれば、わたくしにできることが増えます。特に、御門様への報告において」
実光が目を細めた。
「御門様への報告において?」
「御門様はすでに近衛家が独自に動くことをお許しくださっています。そのお言葉を踏まえれば、老中が近衛家の動きを妨げようとしていることは、御門様のご意向に反する動きとも言えます」
「……それは」
実光の声が、少し緊張した。「それは非常に大きな問題になります。老中が御門様のご意向に反していると解釈されれば——」
「わたくしは老中を糾弾しようとしているわけではございません」
糸子は言った。「ただ、御門様が状況を正確にお知りになることが、御所を守ることにつながると思っております。御門様が何も知らないまま、老中が御所の内部に影響力を持ち続けることの方が、長い目で見れば御所の安全を脅かします」
実光は畳の上の一点を見ていた。
糸子は待った。
急かすことは逆効果だ。実光は今、複数のことを同時に考えている。父への義理、近衛家への協力、御所の安全、自分の判断の重さ——それらをゆっくりと整理している。
「……父に、もう一度話してみます」
実光がようやく言った。「強制することはできません。しかし、今日の田辺屋の件を伝えれば、父も状況の深刻さをより明確に認識するかもしれません」
「誠にありがたく存じます」
糸子は頭を下げた。「実光様のご判断を信じます」
その夜、糸子は一人で三冊目の帳面を開いた。
新しい頁に、今日の出来事を記した。田辺屋の訪問、交わした言葉、実光との会話。
書きながら、糸子は頭の中で状況を整理した。
今わかっていること。
一つ、田辺屋は老中から直接か間接かは不明だが指示を受けて近衛家に来た。二つ、老中は近衛家の御所内への関与を強く警戒している。三つ、老中は正式な対立を望んでいない。だから非公式の圧力を使った。四つ、情報漏洩の経路は村岡が特定したが、まだ他の経路がある可能性が否定できない。
今わかっていないこと。
一つ、老中の名前。二つ、老中が警戒している本当の理由。単に御所の取引への影響力を守りたいだけなのか、それとも近衛家が持ちつつある情報力と影響力そのものを恐れているのか。三つ、田辺屋が老中の指示をどこまで忠実に実行しようとしているか。
糸子は筆を置いた。
窓の外は、星が出ていた。雨上がりの夜空に、いくつかの星が鮮明に見えた。
——老中は、なぜここまで動くのか。
糸子はその問いに戻った。
近衛家は商売をしているだけだ。御所の物資調達を改善しようとしているだけだ。それが幕府の「看過できない」ことになるのはなぜか。
二つの可能性がある。
一つは、田辺屋の利益を守ることが老中の目的だ。田辺屋が御用商人として幕府の財政を支えている——あるいは老中個人の財政を支えている——ため、その利益が損なわれることを防ごうとしている。
もう一つは、御所が独自の経済基盤を持つことそのものを恐れている。御所が商売を通じて財政的に自立し、情報を持ち、影響力を持つことが、幕府の支配構造を揺るがすと判断している。
前者なら、田辺屋の利益を守る別の形を提示すれば解決できる可能性がある。
後者なら——
後者なら、近衛家の活動そのものが老中の標的になる。
どちらが本当か。おそらく両方だ。しかし比重がどちらにあるかで、対策が変わる。
糸子は帳面に一行書いた。
「老中の意図を確認する必要がある。方法は御門様を通じた非公式の探索か、あるいは田辺屋との商売の話の中での観察か」
そしてその下に、もう一行書いた。
「急がない。同時に止まらない」
これが今の糸子の方針だった。
田辺屋に対して今日したことは、圧力を跳ね返すことでも、受け入れることでもなかった。圧力を「商売の問題」として再定義することで、政治的な対立から切り離したのだ。
それは一時的な処置に過ぎない。
老中が次の手を打てば、また対応しなければならない。
しかし今できることは、今できる最善だ。
糸子は帳面を閉じた。
雨上がりの夜の、静かな京だった。
翌朝、村岡が来た。
村岡の顔には疲れがあった。昨日から今朝にかけて、相当に動き回ったことが分かった。
「姫君様」
村岡は座るなり言った。「さと様から急ぎの伝言がございます」
「なんでしょう」
「装束方の取引先変更の件、昨日夕刻に御所内で急ぎ対応があったとのことでございます。女官長が装束担当商家に直接接触し、『しばらく様子を見るよう』と伝えたとのことです」
糸子は目を細めた。
「女官長が、自分から動いた」
「はい。さと様も驚いておられました。これまで女官長は受け身でした。情報を漏らしていたとは言え、積極的に何かを動かすことはなかった。それが昨日突然——」
「昨日の朝に田辺屋が来た」
糸子は言った。「そして昨日の夕刻に女官長が動いた。この連動は偶然ではない」
「田辺屋と女官長が直接つながっている?」
「あるいは老中から女官長への別の経路がある。田辺屋の訪問が失敗した場合の備えとして、御所内部から同時に動かした」
村岡が顔色を変えた。「では御所内の情報漏洩は、装束担当商家を通じた経路だけではない可能性が——」
「高い」
糸子は言った。静かだったが、声には何か確かなものが入っていた。「村岡、さとに伝えてください。女官長の動きを注視してほしいと。ただし直接対峙することは今はしないように。まず動きを把握することが先です」
「かしこまりました」
「それから——善次郎から江戸の情報が来ていますか」
「昨日の朝の飛脚で。まだ姫君様に報告できていませんでした」
村岡は懐から折りたたんだ紙を取り出した。
糸子はそれを受け取った。
善次郎の文字で、江戸の商業情報が書いてあった。米の価格、輸出品の動向、大名家奥向きの情報需要——その中の一節に、糸子は目を止めた。
「老中水野様が最近、御用商人組合への関与を強めているとの噂がございます。詳細不明ながら、組合の会合に幕府の目付が出席していると聞きました」
水野。
糸子は頭の中でこの名前を確認した。
水野忠精…
幕府の保守派。御用商人との関係が深い。近衛家の動きを快く思わないのは、十分に考えられる。
しかしこれだけでは確定できない。水野が近衛家を標的にしていると確認するには、もう少し情報が必要だ。
「村岡」
糸子は言った。「実光様に伝えてください。善次郎の文に水野様のお名前がございました。お父上への報告の参考になれば、と」
「はい」
「急ぎで伝えるのではなく、今日の午後にでも。実光殿が判断される時間をとってから」
村岡が頷いた。
糸子は折りたたまれた紙を、三冊目の帳面の間に挟んだ。
梅の木が、朝の光の中で水滴を落としていた。一粒一粒が、小さく輝いていた。
まだ分からないことが多い。
しかし少しずつ、形が見えてきている。
近衛糸子は、静かに次の一手を考え始めた。
第十三話 了
一部加筆修正致しました。




