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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第十二話「御門様との密談、そして決断」

 さとからの文は、前回とは全く異なる形で来た。

 使いではなく、村岡が直接持ってきた。

 文の内容も短く、形式的な礼儀を省いた、実務的なものだった。

「近きほど、禁裏へお運びあるべく候。内々にて。さと」

 糸子はその文を二度読んだ。

 非公式。

 公式の参内であれば、近衛家当主への正式な連絡が来る。しかし今回は違う。さとが個人として、糸子を呼んでいる。

「村岡、これをさとから直接受け取りましたか」

「はい。今朝、御所の通用口のそばで。さとが待っていて、わたくしに手渡しました」

「さとの様子はどうでしたか」

「……急いでいるように見えました。周囲を確認してから渡していただきました」

 糸子は少し考えた。

 さとが急いでいる。周囲を確認して文を渡した。

 これは状況が動いているということだ。

「村岡、今日御所に行けますか」

「はい、午後であれば」

「一緒に行って頂戴。父上には、御所台所方の確認に行くとお伝えしておきます」

「分かりました」

 糸子は立ち上がった。

「お梅を呼んで頂戴。出かける準備を致します」


 御所に着いて、さとに案内されたのは、台所方の部屋ではなかった。

 御所の奥の、普段は公家でも簡単には入れない場所だった。

 糸子は少し驚いたが、表情に出さなかった。

 村岡は通用口で待つことになった。糸子一人がさとに連れられて歩いた。

 廊下を二度折れ、庭に面した小さな部屋の前で、さとが立ち止まった。

「姫君様、こちらでお待ちください」

「さと、これは」

「御門様がお呼びです」

 糸子は少しの間、さとを見た。

 さとの顔に、複雑なものがあった。心配と、しかし何か決意したものが混ざっている。

「分かりました」

 糸子は部屋に入った。


 部屋は小さかった。

 庭に面した窓から、冬の枯れた木々が見える。調度品は少なく、しかし品がある。

 御門様が、すでに座っておられた。

 前回の御前の時とは違う。あの時は正式な場だった。しかし今は、非公式な場だ。

 御門様の装いも、前回より簡素だった。しかし目の光は変わらない。

 糸子は礼をした。

「参りました」

「面を上げよ。今日は堅苦しい礼儀は要らぬ」

 御門様の声は穏やかだった。しかし前回より直接的だ。

 糸子は顔を上げた。

「糸子、そなたに直接聞きたいことがある」

「はい」

「田辺屋という商家のことを、そなたは知っているか」

 糸子は少し間を置いた。

 御門様がすでに田辺屋のことをご存じだった。

 それはつまり、御門様自身が何かを察知しておられるということだ。

「知っております」

「どのようなことを知っている」

「近衛家の商売に対して、懸念を表明してきた商家でございます。それ以上のことも、少し」

「少し、とは」

「御門様、実はお伝えしなければならないことがございます」

 御門様がじっと糸子を見た。

「申せ」

 糸子は一度、頭の中で言葉を整えた。

 何を話し、何を話さないか。

 さとの名前は出さない。村岡が調べたという事実は最小限にする。しかし御所内部の情報漏洩については、正確に伝える。

「田辺屋は、幕府の御用商人組合を通じて、近衛家の商売への懸念を正式に表明してまいりました。その文書には複数の商家が連名しておりました」

「それは聞いている」

「御門様はすでにご存じで」

「さとから少し聞いた。続けよ」

 さとが御門様に話していた。

 糸子はその事実を頭に入れながら続けた。

「田辺屋の背後に、幕府の老中の一人が関わっている可能性があると、近衛家に近い公家の方からお伝えいただきました」

「老中が、か」

「はい。それ以上の確認はとれておりません。しかし可能性として、御門様にお伝えする必要があると判断しました」

「他には」

 糸子は少し間を置いた。

「御所の内部に、外部との情報のやり取りがある可能性がございます」

 部屋の空気が、微かに変わった。

「詳しく申せ」

「近衛家の商売の動きや、御所御用達の称号に関する動きが、田辺屋に事前に伝わっていた形跡がございます。それは御所の外からの推測だけでは説明できない精度でございました。御所の内側に、何らかの経路がある可能性があります」

「経路とは、人間か」

「可能性として、そのように考えております。ただし確証はございません」

 御門様がしばらく黙られた。

 長い沈黙だった。

 糸子は動かずに待った。

「……朕も、薄々感じておった」

 御門様が静かに言われた。

「朕の周りで話したことが、知らぬうちに外に出ることがあった。長年のことじゃ。しかし証拠がなく、誰に相談すべきかも分からず……放置しておった」

「御門様」

「そなたがここまで調べてきたことは……朕への奉仕として、礼を言う」

「恐れ入ります。しかし近衛家の商売を守るために動いた結果、この問題に行き着きました。完全には御門様への奉仕の心からではございません」

 御門様が少し表情を動かされた。

「正直じゃな、やはり」

「嘘をつく理由がございません」

「ふむ」御門様がもう一度糸子を見た。「糸子、この問題をそなたはどうすべきと考えておる」

 これは問われていい質問だ。

 しかし糸子は慎重に答えた。

「御所の内部のことは、御門様のご判断に委ねるべきことでございます。近衛家が御所の内部に直接介入することは、越権になります。ただし、近衛家としてお手伝いできることがあれば、申し上げたいと思います」

「申せ」

「御所の情報が外に漏れている経路を特定することについて、近衛家が間接的に協力することはできます。御所の外から動くことで、御所の内部には手が届かないことでも、分かることがあります」

「例えば」

「田辺屋がいつ、どのような情報を得ているかを観察することで、御所のどの時点で情報が漏れているかが分かります。そこから逆算すれば、経路がより具体的に見えてきます」

「それをそなたがやると申すか」

「既にある程度は動いております。御門様のお許しをいただければ、より具体的に動けまする」

 御門様がしばらく考えられた。

「……許す。ただし」

「はい」

「朕の名前は使うな。近衛家独自の動きとして進めよ。朕が動いたと分かれば、幕府がより大きく動く可能性がある」

「心得ておわします」

「それから」

「はい」

「さとを守れ」

 その一言が、静かに落ちた。

 糸子は顔を上げて御門様を見た。

「御門様はさとのことをご存じでいらしゃいましたか」

「長年仕えておる。さとが苦しんでおることも、朕は知っておった。しかし朕から動くことができなかった。そなたに言える立場かどうかは分からぬが……さとを、守ってくれ」

「はい」

 糸子は深く頭を下げた。

「必ずや…」


 御所から帰る道、糸子は村岡と並んで歩いた。

 お梅は少し後ろを歩いている。

「村岡、御門様がさとを守れとおっしゃいました」

 村岡が少し間を置いた。

「御門様が……さとのことを」

「長年仕えているさとのことを、御門様はご存じだったようです。さとが苦しんでいることも」

「そうでございましたか」

 村岡の声に、何か柔らかいものが入った。

「村岡、さとは今どのような状態ですか」

「……一人で抱えてきたことが、重かったのだと思います。わたくしに話してから、少し楽になったと仰っていました。しかしまだ、あの女官長のことを思うと……辛いと」

「さとにとって、あの女官長は仲間ですから」

「はい。長年一緒に御所に仕えてきた方を、告発することは……できなかったと」

 糸子は少し考えた。

「村岡、さとにお伝えして頂戴。告発しなくて構いません。近衛家が別の形で解決します」

「別の形、とは」

「田辺屋との経路を断つことです。その女官長を罰することが目的ではなく、情報が外に出なくなることが目的です。そのためには、田辺屋と装束担当商家の繋がりを断てばいい」

「その商家が御所への出入りをできなくなれば、経路が断たれる」

「そうです。しかしそのためには、その商家が御所との取引をする理由がなくなることが必要です」

「どうやって」

「代わりの商家を用意します。近衛家の取引先の中に、装束を扱える商家がないか、確認します。あれば、御所の装束担当の部署に別の仕入れ先を提案できます」

 村岡が少し考えた。

「それは……御所の側が自発的に取引先を変えるということでございますか」

「はい。近衛家が直接介入するのではなく、御所が自分の判断で変える形にします。さとを通じて、その部署に別の商家を紹介するだけです」

「さとがそれを動かせるかどうか」

「さとに無理はさせません。台所方でできることとして、食材の仕入れと同様の形で、装束担当部署に協力の打診をする。それだけです。さとが断られれば、別の方法を考えます」

 村岡が頷いた。

「……分かりました。さとに伝えます」


 近衛家に戻ると、実光が来ていた。

 予定していない訪問だった。

「急に来てしまいました」

「どうしましたか」

「少し気になることがありまして」実光が少し緊張した顔をしていた。「父が、今朝から少し様子が変なのです」

「様子が変、とは」

「誰かから文が来て……それを読んでから、考え込んでいました。わたしに何も話してくれません。しかし何か大きなことが起きたような顔をしていました」

 糸子は少し考えた。

「実光様のお父上に、誰から文が来たか分かりますか」

「分かりません。ただ……封じの形が、幕府関係の文書に使われる形に似ていたような気がします」

 幕府から広橋権中納言への文書。

 田辺屋の背後にいる老中が動いたとすれば、その老中が広橋権中納言に接触することはあり得る。前回、権中納言は老中の関与を示唆する情報を近衛家に持ってきた。その権中納言に、老中から直接連絡が来たとすれば。

「実光様、お父上の様子がどう変わったかを、もう少し具体的に教えてもらえますか」

「文を読む前は、いつも通りでした。読んだ後から、わたしへの言葉数が減りました。それから……近衛家のことは当分関わるなと、それだけ言いました」

「近衛家のことは当分関わるな」

「はい。理由は話してくれません」

 糸子は少しの間、黙った。

 権中納言が近衛家から距離を置くよう実光に言った。それは権中納言が老中から何らかの圧力を受けたことを示している可能性が高い。

 権中納言は動けなくなった。

 しかし実光は来た。

「実光様、今日ここに来たことは、お父上はご存じですか」

「……知りません」

「お父上が近衛家から距離を置くよう言ったにもかかわらず、来てくださった」

「はい。父の言葉は聞きましたが……理由が分からないまま従うことは、わたしにはできません。もし近衛家に何か問題が起きているなら、それを知った上で判断したいと思うております」

 糸子は実光を見た。

「実光様、今日御門様にお会いしてきました」

 実光の顔が変わった。

「御門様に?」

「非公式な形で。いくつかのことをお伝えし、御門様からもお言葉をいただきました」

「どのような」

「近衛家が独自に動くことへのお許しをいただきました。御門様の名前は使わずに」

 実光がしばらく考えた。

「つまり……御門様は近衛家の動きを支持しておられるということでございますか」

「正確には、状況を把握された上で、近衛家が動くことを認めてくださいました」

「それは……」実光が少し深く息を吸った。「父が老中から圧力を受けているとすれば、御門様が近衛家を支持しておられることは、父への返答になります」

「なりますね」

「しかし父に御門様のことは話せません。非公式のことを外に出すことは」

「そうです。だから実光様もここで聞いたことは、外には出さないでくださいまし」

「分かりました」

 実光が少しの間、黙った。

「姫君様、わたしはどうすればいいですか」

 糸子は実光を見た。

「実光様が決めることです。お父上の言葉に従うか、ご自身の判断で動くか。どちらが正しいかは、わたくしには言えません」

「姫君様のお考えを聞かせてもらえますか」

「実光様がここに来てくださることで、近衛家は有職故実の知識と、広橋家という清華家の視点を持てます。それは今後の対応に必要なものです。しかしそれは、実光様に無理をしてほしいということではありません」

「無理ではありません」実光が静かに言った。「父が動けない理由が何であれ、わたしには関係がない。わたしはわたしの判断で動きます」

「……誠に感謝申し上げます」

 実光が頷いた。

「有職故実の法的解釈の文書、進めます。それから……父に老中から文が来たという事実は、近衛家にとって重要な情報だと思います。老中が具体的に動き始めているということございますから」

「はい。それは非常に重要な情報でございます」

「父が何を言われたかは分かりません。しかし父の様子から判断して、老中は近衛家と広橋家の関係を切ることを求めた可能性がございます」

「その可能性が高いと思います」

「つまり老中は、近衛家への包囲を進めている。広橋家を切り離すことで、近衛家の公家社会での支持基盤を削ろうとしている」

「その通りです」

「では逆に言えば、老中にとって広橋家と近衛家の繋がりが脅威だということです。それはつまり……今の状況が、老中にとって都合が悪いということを示しております」

 糸子は頷いた。

「相手が焦っている」

「はい。焦っているから、広橋家に直接圧力をかけた。焦っていなければ、もっと時間をかけて間接的に動くはずでございましょう」


 実光が帰った後、糸子は帳面を開いた。

 今日一日で、多くのことが動いた。

 御門様との非公式な会談。さとを守るというお言葉。御所の情報漏洩の対処として、装束担当商家の取引先変更という方針。

 広橋権中納言への老中からの圧力。実光が独自の判断で動き続けることを決めた。

 老中が焦っている可能性。

 糸子は一つ一つを書き留めながら、全体の絵を描こうとした。

 田辺屋と老中が組んで、近衛家への包囲を進めている。御所内部の情報漏洩を使って近衛家の動きを把握し、広橋家に圧力をかけて近衛家の公家社会での支持を削ろうとしている。

 しかしその包囲が完成する前に、御門様のお許しが得られた。実光は動き続けることを決めた。村岡がさとと繋がっている。善次郎が江戸で動いている。

 包囲の形になっているのは、向こうだけではない。

 こちらも、形になってきている。

 糸子は筆を置いた。

 次にやることは三つだ。

 一つ。村岡を通じてさとに装束担当商家の変更を動かしてもらう。

 二つ。実光に法的解釈の文書を急いでもらう。

 三つ。善次郎に江戸で老中の動きに関する情報を集めてもらう。

 そして全部が揃った時に、次の手を打つ。

 何の手かは、まだ分からない。

 しかし揃ってから考えても遅くはない。今は集める時だ。

 糸子は行灯の灯を見た。

 今日、御門様が「さとを守れ」とおっしゃった。

 その言葉が、糸子の胸の中に残っていた。

 御門様は長年、周りの人間が苦しんでいることを知りながら、動けずにいた。その御前の重さが、糸子には少し分かった気がした。

 知っているのに動けない。それがどれほど苦しいことか。

 糸子は動ける。動ける立場にいる。

 ならば動く。

 それだけだ。


第十二話 了

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