第百十四話「長崎暗闘編―数字という名の砲火、語学という名の剣(後編)」【改訂版】
一
翌朝。
長崎・大浦屋町の大浦屋は、深い藍色の闇の底から、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。寝静まった町に、重い大戸を繰る「ガラガラ」という音が、低く響き渡る。開け放たれた表口から、湿り気を含んだ朝の冷気が、ひんやりと土間へ流れ込んできた。
薄暗い店の奥に立ち込めているのは、油樽のどっしりと重い匂い。そこへ朝露を吸ったばかりの茶葉の、瑞々しい香りが、そっと混じり合う。黒光りする板の間は、東の空からわずかに差し始めた光を、鏡のように静かに跳ね返していた。
だが——その奥座敷に満ちる空気だけは、いつもの朝とはまるで違っていた。
結局、一睡もできぬまま夜を明かした惣之丞は、幾度となく庭の方へと首をめぐらせ、そのたびに葉擦れほどの微かな物音にも、びくりと肩を強張らせていた。その隣では、長次郎がすっかり冷めてしまった茶を、身じろぎもせずに見つめている。 龍馬ただ一人が、腕を組んで壁にもたれ、静かに目を閉じていた。
「——おい。誰か来るぜよ」
龍馬の声に惣之丞が、弾かれたように立ち上がった。そのまさに次の瞬間。
襖が音もなく、すうっと開き白らみ始めた朝の光と一緒に一人の男が、ふらりと座敷へ滑り込んできた
着物は泥と機械油にまみれ、袖口は無残に裂けている。頬や額にはゆうべの乱闘の激しさを物語る、生々しい擦り傷が何本も走っていた。
だが——その男、高田陽三郎はいつもとまるで変わらぬ薄い笑みを口元に湛えて、軽く片手を挙げてみせた。
「……ただいま戻りました。どうやらずいぶんと、心配をかけてしまったようで」
「高田殿……っ!」
惣之丞の喉から、悲鳴とも歓声ともつかぬ声が、ほとばしった。気がつけば長次郎が誰よりも早く駆け寄り、高田の泥だらけの肩を、両手でがっしりと掴んでいた。その両目がみるみるうちに真っ赤に潤んでいく。
「な、なにを暢気なことを言うとるんじゃ、高田殿! 五体満足か!? どこぞ撃たれてはおらんのか!?」
「ええ、この通り。少々、手荒い歓迎は受けましたがね。骨の一本も折れちゃおりませんよ」
「ぶじに……ぶじに戻ってきて何よりじゃ……!」
それまで頑として目を閉じていた龍馬が、大きな体を揺すって立ち上がり、つかつかと歩み寄ると、高田の背を痛いほど力任せに、ばしんと叩いた。腹の底から豪快に笑うその瞳もまた、心なしか潤んでいるように見えた。
「いやぁ、おまんが戻らんとせっかくの帳簿の写しも、宝の持ち腐れになるところじゃったきに! おーい、慶さん! 今夜は祝いじゃ、とびきりの酒ば、用意してもらいとうせ!」
「おうよ! 飲もう、浴びるほど飲むぜよ!」
惣之丞が涙を袖で、ぐいと拭いながら叫ぶ。長次郎も、何度も何度も深く頷いた。張り詰めていた座敷の空気が、一気に温かな歓喜の色へと、塗り替えられていく。
ひとしきり騒ぎが落ち着いた頃。高田の傷口に、手際よく膏薬を塗りつけていた惣之丞が、ふと手を止めて顔を上げた。
「ところで高田殿。龍馬からうまいこと奉行所と話をつけたと聞いたが……いったい、どうやってあの場を切り抜けたんじゃ? 相手はあの堅物でならす、長崎奉行所の捕り方じゃろう」
長次郎も興味津々といった様子で、ぐいと身を乗り出す。
高田は膏薬の沁みる痛みに、少しだけ眉を寄せながら、ぽつり、ぽつりとゆうべの顛末を語り始めた。
「……まあ、馬鹿正直に身元を明かしておれば、今ごろは海の底か、牢の中でしたでしょうね。ですから囲まれたその瞬間に、ぐっと肚を括りまして。懐の手形をこれみよがしに見せつけながら、堂々と名乗ってやったのです。——『自分は、出島のグラバー氏より密命を帯びた、特別なエージェントである!』と」
「えーじぇんと? ひょっとして英語かのぅ……」
長次郎が首をひねる。
「そうです。以前、姫様から教えていただきました」
「グラバーの……代理人じゃと!?」
惣之丞が素っ頓狂な声を上げた。
「ほう。そげな言葉を出されたら、いかにもそれらしゅう聞こえるのう」
龍馬が感心して唸る。
「そうでしょう」
高田は楽しげに目を細めた。
「ええ。あっけにとられた捕り方どもを、鼻先で笑ってやりながら、さらに、こう畳みかけました。——『いま、グラバー氏と奉行所のあいだで、九州の茶に関する極秘の取引が進んでおるのは、貴公らも知っておろう? 自分はその交渉の最も重要な使者である。もしこの身体にこれ以上、指一本でも触れてみよ。グラバー氏の不興を買い、すべての利権の取引が白紙に戻るが——その責め、貴公ら末端の役人風情で負えるのか?』と、ね」
「ほう……! それで奉行所はどうした?」
龍馬が、面白くてたまらぬといった様子で、さらに身を乗り出す。
「向こうはもう真っ青ですよ。いま異国と摩擦を起こせば、自分の首が飛びかねん。おまけに上役が裏でこっそり進めておる『お茶の件』という、生々しい言葉まで飛び出したものですから——もう、誰一人、迂闊に手出しができなくなった。結局、身元の確認が取れるまでということで、奉行所の奥で『丁重に軟禁』という、妙な扱いに落ち着きましてね。あとは夜更け、役人どもが確認の使者を走らせて、右往左往している隙に——文字どおり煙に巻いて裏窓から、するりと抜け出してきたというわけです」
一瞬の沈黙ののち、座敷にどっと大きな笑いが弾けた。
「ひぇ〜っ! 高田殿も、ずいぶんと大胆なハッタリを、かますのう! 奉行所の連中、今ごろはまだ、グラバーの屋敷の前で右往左往しちょるぜよ!」
「まっこと、やるのう……! よもや奉行所の『後ろ暗さ』を、そっくりそのまま盾に使うとは。いやはや、頭が上がらんぜよ」
長次郎が腹を抱えて笑い、惣之丞も呆れたような、それでいて誇らしげな顔で相好を崩した。
「わはははは! こりゃあ、痛快じゃ! 役人どもの、間抜けな面が拝みたかったぜよ!」
龍馬の豪快な笑い声が、朝の長崎の空へと、高く昇っていった。
——だが。
その笑いの輪から龍馬だけが、ふっと抜け落ちた。腕を組み急に黙り込む。
「龍馬? どがいした」
長次郎が、笑いを収めて尋ねた。
「……一つ、引っかかっちょることがあるがじゃ」
龍馬は低く切り出した。座敷の空気がすっと引き締まる。
「高田殿。おまんは、あの倉庫でこう言うちょったな。——捕り方が来るのが早すぎると」
「ええ」
高田が笑みを消して頷いた。
「正直に申しまして、あれは尋常ではありませんでした。我々が忍び込んでから、ほんのわずかしか、経っていない。なのに内と外の両方から、まるで初めから手筈を整えていたかのように、ぴたりと包囲された。——あれはたまたま夜回りに行き合った、という類のものでは断じてありません」
「やっぱりか」
龍馬は、苦い顔で頷いた。
「実はな——長崎へ来てからこっち、わしらは行く先々で判で押したように、奉行所の役人と鉢合わせしちょる。一度や二度なら偶然で済む。じゃがこうも続くとなりゃあ——」
「偶然が三度続いたら、それはもう偶然とは言わん……ということですね」
小野寺が帳面から顔を上げ、静かに引き取った。
「そういうことじゃ」
龍馬の目が、すっと、細くなる。
「わしらの動きがどこからか奉行所へ……いや、その奥におる、グラバーへと筒抜けになっちょる。それも——ごく近いところから…な」
座敷がしんと、静まり返った。
その重い沈黙を破ったのは、ずっと部屋の隅で、皆の話を聞いていた、高田のひときわ静かな声だった。
「……実は奉行所の奥で『軟禁』されている間に、小耳に挟んだことがございます」
一同の視線が高田に集まる。
「役人どもの立ち話です。『またグラバー殿から、坂本一味の動きの知らせが入った』——確かにそう言っておりました。グラバーは我々の動きを逐一つかんではそれを奉行所へ流し、役人どもを意のままに動かしている。そして——そのグラバーへ情報を渡しているのは。どうやらこの大浦屋のごく内側にいる者だと」
「なんじゃと……!?」
惣之丞が思わず腰を浮かせた。
「身内に……裏切り者がおる…っちゅうことか」
その時だった。
奥座敷へと続く廊下で、かたんと小さく茶器の触れ合う音がした。
全員の目が、一斉にその方へ向く。
襖の陰に——お美代が立ち尽くしていた。盆を捧げ持ったまま、顔から血の気が引きその手が小刻みに震えている。
誰の目にももう明らかだった。
「……お美代」
最初に口を開いたのは、惣之丞だった。その声は、責めるというより、痛むような響きを帯びていた。
「おまん、まさか……」
お美代は何も答えなかった。ただ、盆を取り落とし、その場にがくりと膝をついた。湯呑みが板の間に転がり、乾いた音を立てる。
「……申し訳……ございませんっ……!」
絞り出すような、その一言がすべてを物語っていた。
ばたばたと足音がして、奥から大浦慶が駆けつけてきた。倒れ込むお美代と凍りついた一同を見て、瞬時にすべてを察したのだろう。その顔からすうっと、表情が抜け落ちた。
「……お美代。あんた、うちを——この大浦屋を、売っとったとね」
慶の声は低く震えていた。怒鳴り声よりもよほど、恐ろしい静けさだった。
「あれだけ、目ぇかけてやって……実の家族のように、接してきたつもりじゃったとに……あんたは、グラバーにうちの内側ば、ぜんぶ流しよったとね!」
「慶さん……」
「お黙りっ!」
慶の叱責が座敷の空気を、びりびりと震わせた。
「いったいどういうつもりね。銭ね? それとも脅されたとね。——なしてこげなことを……っ!」
お美代は、板の間に額をこすりつけたまま、ただ、嗚咽するばかりだった。その細い肩が波のように、激しく上下している。
「——お待ちください、慶さん」
立ち上がったのは惣之丞だった。お美代の前に、庇うように、すっと身を割り込ませる。
「惣之丞殿……あんた、こん娘の、肩ば持つとね」
「肩を持つわけじゃ、なか。じゃが——理由を聞いてやってください」
惣之丞の声は、静かだが揺るがなかった。
「わしはこの大浦屋に厄介になってから、ずっと見ちょりました。お美代殿はよう働く優しい娘じゃ。それが——ここしばらく、何ぞ思い詰めたような顔を、ふとした拍子に見せよった。給金が出るたび、それを後生大事に握りしめて、どこぞへ、走っていきよった。——お美代殿。おまん、何か抜き差しならん事情を、抱えちょったがじゃろう。違うか」
お美代の嗚咽が、一瞬止まった。
そして——堰を切ったように、震える声でその口から、すべてが溢れ出した。
「……弟がおるとです」
お美代は顔を上げぬまま、途切れ途切れに語り始めた。
「たった一人の弟が……。幾月からひどい胸の病で、床に臥せってしもうて……。蘭方の出島のお医者さまに診てもろうたら、治る見込みはある…と。ばってん、その薬代と治療代が……うちの給金じゃ、とてもとても足りんで……気がついたら、町の金貸しから、首の回らんほどの借金をこさえてしもうとりました……」
座敷の誰もが、息を呑んで聞き入っていた。
「そこへ——グラバー様が現れたとです」
お美代の声が、いっそう震える。
「あの方はもとから、うちの店から茶葉を買うておられた。だけん、うちの台所事情も弟のことも、どこからかぜんぶ調べ上げとられた。そして……『借金をすべて肩代わりしてやるかわり、大浦屋で見聞きしたことを、逐一わたしに教えてくれ』と——」
「それでおまんは……」
「弟の命と慶さんへの義理を、天秤にかけて……うちは弟を選んでしもうたとです……。卑怯な、薄汚い真似じゃと、分かっとりました。毎晩、毎晩、布団の中で、自分を呪うとりました。ばってん——弟が死んでしまうかもしれんと思うたら、どうしても……どうしても、よう断れんかったとです……っ!」
お美代は再び板の間に突っ伏し、声を上げて泣いた。
長い沈黙が流れた。
その沈黙を破ったのは——大浦慶の深い深い、溜息だった。先ほどまでの怒気は、もう、その顔から消えていた。代わりに浮かんでいたのは、やりきれぬ哀しみと——そして一抹の自責の念だった。
「……お美代」
慶はお美代のそばに、静かに膝をついた。
「なして、うちに言わんかったとね」
「慶さん……」
「弟が病で臥せっとる。借金で首が回らん。——そげな大事なこと、なして女主人のうちに、ひと言相談してくれんかったとね……! うちはそんなに、頼りなか主人じゃったとね。あんた一人にそげな重たかもんを、ぜんぶ背負わせて……うちはすぐ近くにおりながら、何ひとつ気づいてやれんかった……」
慶の目尻に、光るものが滲んだ。
「うちのほうこそ……すまんかった」
「慶さん……っ、慶さん……!」
お美代は、慶の膝にすがりついて、子供のように泣きじゃくった。慶はその震える背中を、何も言わずに、ただ、ゆっくりと撫で続けた。
惣之丞がその様子に、そっと目元を拭う。長次郎も、ぐすりと洟をすすった。
「……弟さんのことは心配いらん」
慶がお美代の髪を撫でながら、きっぱりと言った。
「明日にでもうちが、いちばん腕のよか蘭方医のところへ連れていってやる。借金もうちが片ぁつける。あんたは——もう一人で抱え込まんで、よか。よかね」
「……はいっ……はいっ……」
一部始終を腕を組んで見守っていた龍馬の目に——その時、いつものあの光がすっと灯った。
お美代の裏切りという最悪の札が、龍馬の頭の中で、音もなく引っくり返り、最強の切り札へと姿を変えていく。
「……なあ大浦さん。お美代殿」
龍馬がおもむろに口を開いた。その口元には豪快な笑みが浮かんでいる。
「この一件——むしろ、わしらにとっちゃあ、願ってもない『天の助け』かもしれんぜよ」
「どういう意味ね、坂本さん」
慶が訝しげに顔を上げる。
「考えてもみてくれ。グラバーは今、お美代殿を通して、わしらの動きを覗いちょると思い込んじょる。じゃったら——その『目』をこっちが逆に、使うてやればええ」
「……まさか!」
長次郎が、ごくりと唾を呑んだ。
「そのまさかじゃ」
龍馬はにやりと笑った。
「お美代さんにはこれからもグラバーへ知らせを送ってもらう。——ただしこっちが、わざと掴ませた『偽の知らせ』を、な。グラバーはそれを本物と信じ込んで、まんまと動く。気づいた時にゃあ、奴は自分で掘った落とし穴の底じゃ」
「……二重の間者っちゅうことか?」
惣之丞が目を見開いた。
「そうじゃ。お美代殿——おまんさえ、肚を括ってくれるならじゃがな」
龍馬はまっすぐにお美代を見た。
「言うておくが、これは危ない橋じゃ。万一、グラバーに気づかれりゃ、ただでは済まん。じゃが——もし、おまんがこの『罪滅ぼし』を自分の手で、やり遂げたいと思うなら……わしは、おまんの力を借りたいきに」
お美代は涙に濡れた顔を、ゆっくりと上げた。その潤んだ瞳の奥に——脅えではなく贖罪を誓う、強い光が宿っていた。
「……やらせてください」
お美代は、はっきりと、言った。
「うちの裏切りで皆さんを、こげな危ない目に遭わせてしもうた。その償いができるとなら……うちは、どんな危ない橋でも、渡ってみせます。グラバーを——あの男をうちの手で欺いてみせます」
龍馬は満足げに深く頷いた。
「よし。——なら決まりじゃ!」
その視線がぐるりと、一同を見渡す。
「茶は大浦さんと弥太郎が。生糸は通詞の三人が、締め上げる。そんで——グラバーの『目と耳』は、お美代殿が、こっちのものにする。三方から別々の縄で、あの男の首を絞めにかかるぜよ。——縄は決して混ぜるなよ」
夜が明けたばかりの大浦屋に、新たな企みの火が静かに、しかし確かに灯っていた。
二
翌日の夕刻。
小曽根乾堂の邸宅の奥座敷に、男たちが集まっていた。
ここは、外からは全く見通せない。庭の深い石組みに囲まれ、昼の光さえ届きにくい一室だった。今は、油燈の明かりだけが、六人の顔を、橙色に浮かび上がらせている。
龍馬と近藤長次郎と、小野寺。
そして——中山誠一郎、志賀親司、横山源一郎の三人が招かれていた。
この席を整えたのは、楢林栄左衛門だった。「若い者たちが、世界の話を聞きたがっている」——ただその一言で、三人の通詞を奉行所の目の届かぬこの邸へと運んだ。盗み聞きの心配を楢林は、自らの手で潰してあった。
奥の部屋からは、乾堂の爪弾く月琴の音が、かすかに漏れてくる。この調べが、外への声をやわらかく覆い隠していることを、龍馬はすでに知っていた。
三人が腰を下ろすなり、中山が低く口を開いた。
「坂本どんで、ござりますな」
「いかにも。わしが坂本じゃ」
「楢林どんの紹介と、小曽根どんのご配慮のなかったら——」
中山の手は、油断なく刀の柄にかかっていた。
「こがん場所に、のこのこ来やせんかったばい。……なして、うちたちを呼んだとね」
龍馬は三人を順に見た。
穏やかに構えた中山。刃のように鋭い志賀。算盤を置いたような静けさの横山。三者三様だが、龍馬には一目で分かった。飼い殺されることに倦んだ才が、出口を探して内側で疼いている——そういう顔だ。
龍馬は、懐から一通の書状を取り出した。糸子のしたためた書状だった。
それを、音を立てて、机の上に滑らせる。
「読んでくれ」
中山が、書状を手に取った。志賀が、隣から覗き込む。横山には別の一綴り——帳簿の写しが回された。
龍馬は急かさず待った。
読み進むうちに、三人の顔に、苦渋の色が差していく。彼らは、徳川の禄を食む身だ。お上に背けば、一歩間違えば謀叛人として、お家断絶の淵に立たされる。
「坂本どん……おいたちは、徳川の禄ば食む身ばい。いくら奉行所のやり方に腹ん立つと言うても、はい左様でございますか、と寝返るわけにはいかんとよ」
中山が、声を絞り出すように言った。
龍馬は、ゆっくりと立ち上がった。
「おまんらのその立派な頭は——」
土佐弁の声は低かったが、油燈に照らされたその顔は、真剣そのものだった。
「異国の奴らに『はい、ここに署名を』と取り次ぐためだけにあるんかえ!?」
中山が顔を上げた。
「違うろう!」
龍馬の声が、一段、跳ね上がった。
「世界の奴らと対等に渡り合うて、この国を守るための頭ろうが! おまんらはもう気づいちゅうはずじゃ——今フランスで何が起きちゅうか。リヨンの絹が、根こそぎ枯れかかっちゅうことを。異国はそれを日本に隠して、生糸を捨て値で買い叩こうとしちゅうことを!」
志賀の目が、すっと細くなった。
「……やっぱり、そがんやったか」
志賀が低く言った。
「フランス商人ん焦りようの、わけが分かったばい。あの男たちが、なしてあそこまで気の急いとっとか——本国のお蚕さまの死にかかっとるけんか」
「そうじゃ」
龍馬は続けた。
「幕府の御用聞きで、一生、人の言葉ば運ぶだけで終わるか。それとも——この会所の頭脳となって、おまんらの語学で、世界そのものを相手に戦うか。選べ」
中山が書状をしっかりと持ち直した。その手が、わずかに震えている。
「……お公家様じゃと?」
「そうじゃ。そのお公家様が、この絵図の全部を描いちゅう」
「お公家の——信じられんか」
「じゃが、その書状を見てみぃ。リヨンの蚕の病、グラバーの裏帳簿の読み、銭の出入りを陰と陽で合わせる西洋の算法——みな、そのお公家様が、江戸から組み立てちゅうがじゃ」
横山源一郎は帳簿の写しと書状を、交互に検めていた。元勘定方の小野寺と、低声で数字を突き合わせている。
「……この数字は間違いなか。寸分も狂うとらん」
横山が静かに言った。
「上海の相場と、グラバーどんの出しとる値の差——これが動かぬ証拠になるばい。これを完璧なフランス語の報告書に仕立てれば、交渉の卓にそのまま叩きつけられるとよ」
「横山殿」
小野寺が言った。
「私と組んでいただけませんか。帳簿の精査と報告書の作成を」
「……構わんとよ」
中山が志賀を見た。志賀も中山を見返す。二人の視線がしばし交わった。
奥の月琴が、ひときわ澄んだ一音をこぼした。
「坂本殿」
中山が、龍馬に向き直る。
「小曽根乾堂どんが、おいたちの身分と家族の安否ば保証してくださると、楢林どんから聞きましたばい。朝廷の後ろ盾がある——それはまことですか」
「まことぜよ。乾堂殿はすでに会所の長崎支部の印を、その手で刻んでくれちゅう。万一、奉行所が動いても、朝廷の盾は現に使えるきに」
中山は、しばらく目を閉じた。
そして開いた。
「……分かりました。心得ましたばい」
糸子の書状を、丁寧に折り畳む。
「うちは——天朝物産会所の顧問として、このフランス言葉ば使いますばい。異国に媚びるためじゃなか。日本ば守るために」
志賀が不敵に笑った。
「おいも最初っからそのつもりやったばい。フランス言葉もイギリス言葉も、こがん窮屈な場所で腐らせるために、学んだ訳じゃなか」
横山が、小野寺を見やる。
「帳簿の精査から始めましょうたい。数字に嘘はつけんけんね」
龍馬は三人を見渡し、最後に一つ釘を刺した。
「言うておくぜよ。岩崎と大浦さんは、別口でグラバーの“茶”を締め上げちゅう。荷為替の期日と船の出港でな。おまんらが握るのは“生糸”の裏切りの方じゃ。茶と生糸、二つの首を別々の縄で絞める。互いの縄は決して混ぜるな。混ぜれば両方ほどける」
中山が深く頷いた。
「……承知。生糸はおいたちの戦ばい」
三
それから数日が過ぎた。
小曽根邸の離れに、通詞の三人と小野寺、長次郎が額を寄せる夜が続いた。
表向き三人は奉行所の通詞として、フランス商人とグラバーの間を取り次ぐ業務を、淡々とこなしていた。だが、その目と耳はもはや奉行所のものではなかった。商談の合間に書き写した文面、控えとして残された写し——それらが夜更け、人目を忍んで、小曽根の屋敷へと運び込まれてくる。
それを志賀親司が、一枚また一枚と読み解いていく。フランス語に英語に…商人どうしの符牒が入り混じる、込み入った取引文書の束だった。
ある夜のことだった。
志賀の手が、ふと止まった。
「……見つけたばい」
長次郎が顔を上げる。
「何をな」
「グラバーどんとフランス商人の間の、密約文書ばい。ここば見てくれんね」
志賀が、一節を指で押さえた。
「グラバーはよ——フランスに、日本の生糸ば流すち、約束しとる。ばってん、その裏でおんなじ生糸ば、イギリス本国に優先して回すちゅう約束ば、別口の商会に出しとるごたっばい」
「……つまり、どがんことかと言うと」
横山が、紙面を覗き込む。
「グラバーはフランスにも、イギリス本国にも同じ生糸ば、二重に売り約束しとる…ということか」
「そうながよ」
長次郎が、ゆっくりと言った。
「フランスとイギリスが、日本の生糸ば巡って、裏で食い合いよる——その火種ばグラバーが両手で握っちゅうということじゃ」
「まさにそがんたい」
志賀の目に、鋭い光が宿った。
「グラバーはよ、フランスの生糸パニックば、イギリス本国にだけは隠し通して、自分一人で日本の生糸ば横取りしようと企んどる。そいば、フランスは知らん……いや、薄々は感づいとるはずたい。やっけん、あがん血相変えて急いどるっさ」
部屋の中が静まり返った。
それから——長次郎が、声を立てずに笑った。
声を上げて笑うわけにはいかない。だが、その目が、はっきりと笑っていた。
「志賀殿。こりゃあ、つまり——グラバーとフランスの間に、深か亀裂が走っちゅうということながぜ」
「そがんたい」
「その亀裂に、わしらが楔ば打ち込めるということじゃ」
「フランスに、グラバーの二重売りの証拠ば突きつけりゃ——フランスはグラバーば見限って、会所の条件で取引ばし直すはずたい」
「……姫様の読み通りじゃな」
長次郎は、小声で呟いた。
だが、その後に続けた言葉は、少し違っていた。
「いや——ここまでは、お公家様も細かには見えておらんかったかもしれんに」
志賀が、怪訝な顔を向ける。
「どういう意味な」
「あのお方は、いつも大きな絵だけを描く。『敵を欺くな。勝っちゅうと思わせて、底から枯らせ』——それだけ言うて、わしらを現場に放り込む。そこから先の、どの一手でどこに楔ば打つか……それは現場におるわしらが、自分の目で見つけて絵を埋めにゃならん」
長次郎は指先で密約文書の一節を軽く叩いた。
「この亀裂は、わしらが見つけた。お公家様の絵の上にわしらが描き足した一筆ぜよ。——そう思えば、悪い気はせんろう」
志賀が、ふっと笑った。
「……ちがいなか。糸ば引くのがあのお方なら。糸の先で何ば縫うかは、こっちの腕次第っちゅうことか」
「そういうことじゃ」
小野寺が帳面に、一部始終を書き付けながら静かに言った。
「いずれにせよ——この報告書が仕上がれば、こちらの支度は整います」
油燈の芯がぱちりと爆ぜた。
奥の座敷の月琴は、いつの間にか止んでいた。
四
それから、数日が過ぎた。
その日の朝、長崎奉行所の広間には、ぴりぴりと張り詰めた、異様な緊張が、漂っていた。
上座の正面にトーマス・グラバーが、ゆったりと腰を据えている。
まだ二十代の半ばにも届かぬ若さでありながら、いまや長崎で随一の影響力を誇る、イギリスの商人である。小柄だが筋骨はたくましく赤みを帯びた髪と顎鬚をたくわえ、その青い双眸は刃のように鋭い。自信と傲慢とが、その端整な顔の上で奇妙に同居していた。
その隣には、フランス人の商人が二人。向かいには奉行所の役人が、ずらりと居並んでいる。
今日の議題は長崎における、生糸の長期独占買付契約——その締結だった。フランス商人が提示してきた相場は、上海相場の、実に五分の一以下。奉行所の役人たちは、すでにすっかり、腰が引けていた。さっさと署名してしまえば、面倒から解放される——そんな投げやりな気分が、その顔ぶれに、ありありと、滲み出している。
——そして、グラバーの胸の内も、また、勝利を確信していた。
数日来、お美代を通じて流れ込んでくる「大浦屋の内情」は、いずれも、彼にとって、都合のよいものばかりだった。坂本一味は、ゆうべの倉庫の一件以来、すっかり浮足立ち、頼みの帳簿の写しも奉行所に押さえられて、なすすべもない——お美代の知らせは、そう告げていた。グラバーは、それを微塵も、疑っていなかった。だからこそ彼は今日、こうして悠然と、この広間に座っているのである。
(——もっとも、その知らせがことごとく逆さまであったとは、この男、まだ夢にも、思っていない)
役人の一人が契約書へと、おもむろに手を伸ばした。
「——お待ちくんさい」
その手を鋭い声が制した。会議の記録役を務めていた、横山源一郎である。役人が不審そうに眉をひそめた。
「どがんしたとや、横山。今はまさにフランス側との契約の大詰めぞ」
「ハッ。実は——今回の生糸買付の当の当事者であらっしゃる大浦慶殿より、グラバー商会の『二重帳簿』について、重大な異議の申し立てが届いておりますばい。通詞の責めにおいて、その事実を確かむるため——大浦殿ご一行の入室をお許し願います」
「な、なんち……!?」
その時。
広間の襖がすらりと開いた。
大浦慶が、しずしずと姿を現した。
慶のような商人が、奉行所のこうした公式の場に顔を出すことは、まずない。だが、今日の慶は、いつもの商家の身なりではなかった。きりりと格式のある紋付きを身にまとい、その背筋は一本の竹のように、まっすぐに伸びている。
その後ろに、坂本龍馬。そして——中山誠一郎、志賀親司の二人が静かに続いた。横山だけは記録役として、奉行所側の席に座したままだった。内側から扉を開けたのは、ほかならぬこの男である。
「……なんね、これは」
奉行所の役人が、眉を、寄せる。
「失礼つかまつります。大浦にございます。……お騒がせをいたしております」
慶は堂々と言い放った。長崎弁の柔らかな響きの底に、鋼のような芯がぴんと通っていた。
「この契約につきまして、天朝物産会所として——一点、申し上げたきことがございます」
「天朝物産……?」
「 Let's make short work of it.」
(さっさと終わらせよう)
グラバーが英語で、ぴしゃりと言った。
その言葉を志賀が、すかさず日本語に置き換えてみせる。それを聞いたグラバーの眉がわずかに動いた。この場に英語を解する者がいる——それだけのことが、彼にとっては最初の小さな驚きだった。
「Pardonnez-moi, mais à partir d'ici, je parlerai en français.」
(申し訳ありませんが、ここからはフランス語で参ります)
志賀が今度は、流れるようなフランス語で言った。
フランス人の商人の一人が、はっと目を見開いた。よもや、この長崎の地で完璧なフランス語が返ってこようとは、夢にも、思っていなかったのだ。
その隙を逃さず中山誠一郎が一歩、前へ進み出た。
「Messieurs, je m'appelle Seiichirō Nakayama, interprète de français. Aujourd'hui, j'aimerais vérifier quelques chiffres avec vous.」
(紳士の皆様、私は中山誠一郎。フランス語通詞でございます。本日は、いくつか確認いたしたい数字がございます)
中山が懐から書類を取り出した。横山と小野寺が、幾夜もかけて仕上げた、一分の隙もないフランス語の報告書である。
「Voici une copie des registres que nous avons vérifiés dans l'entrepôt de la Maison Glover. Et voici les cours du marché de Shanghai. Cet écart...」
(こちらがグラバー商会の倉庫にて確認いたしました帳簿の写し。そしてこちらが、上海の市場相場。この差額は——)
中山はその数字を、一つずつ明瞭に読み上げていった。
「Le quintuple. Monsieur Glover dissimule les cours de Shanghai pour racheter la soie japonaise à un cinquième de sa valeur.」
(五倍。グラバー殿は上海相場を隠したうえで、日本の生糸をその五分の一の値で買い叩いておられます)
フランス人商人の顔色が、さっと変わった。
「En outre...」
(さらに——)
志賀がすっと前へ出る。
「Et de plus, je vous prie d'examiner ce document. Il s'agit d'une correspondance interne prouvant que Monsieur Glover a promis la soie du Japon à la fois à la France et à l'Angleterre.」
(加えてこちらの文書を、とくとご覧ください。これはグラバー殿が日本の生糸を——フランス向けとイギリス向けに、二重に約束しておられる証——その内部の通信文にございます)
グラバーの顔が凍りついた。その青い目がぎろりと志賀を射る。
志賀はその視線を平然と受け流しながら、文書の中身を、フランス語で淡々とフランス商人に向けて読み上げていった。
部屋の中が水を打ったように、しんと静まり返る。
「Are you saying... that Lord Glover has betrayed us?」
(……グラバー殿が、我々を裏切っていたというのか)
フランス人商人の一人が、英語で呻くように言った。その声ははっきりと震えていた。
——その様子を龍馬は、広間の隅から静かに見つめていた。
(グラバーよ。おまんは自分の『目と耳』を、すっかり信じ込んじょったろう。じゃがその目と耳は、とうにこっちのもんになっちょったがじゃ)
龍馬の口元に、かすかな笑みがよぎった。
五
その静寂を破って龍馬が、ずいと前へ歩み出た。
「天朝物産会所として——一つ、提案があるき聞いてくれんか」
朗々とした土佐弁が、広間の隅々まで、よく通った。
「この場におる、皆さん全員に選ぶ道を、二つお示しするぜよ。——まず一つ目。今のこの不当な相場のままで、このまま取引を続ける。じゃがその時はな——天朝物産会所は、九州一円の生糸と茶を、ことごとく一斉に『売り止め』にするきに」
その傍らで大浦慶が、にやりと不敵に笑った。
「売っ……止めじゃと?」
奉行所の役人が、困惑も露わに聞き返す。
「そうじゃ。九州じゅうの生糸の出荷を、ぴたりと止める。期限はな——わしらの条件が呑まれるまで、無期限じゃ!」
「C'est... c'est impossible ! Ce serait un désastre !」
(そんな……まさか! それは困る!)
フランス商人が、悲鳴のような声を上げた。
「それでもなお、不服があると言うがなら——」
龍馬は、容赦なく畳みかけた。
「フランス本国とでも、イギリス本国とでも、直に法廷の場で争おうではないか。なにしろこちらには、寸分の狂いもない翻訳の手練れと、複式簿記による動かぬ証拠が、揃うちょるきにな」
"Nous pouvons plaider notre cause devant les tribunaux, tant en France qu'en Grande-Bretagne. Car nous possédons des interprètes d'une fidélité absolue et des preuves irrécusables basées sur la comptabilité en partie double."
その土佐弁を中山がすかさず、よどみなきフランス語へと移し替えた。フランス商人たちの顔から、みるみる血の気が失せていく。
中山が毅然として龍馬の傍らに立った。志賀がその横に並ぶ。横山が証拠の書類を捧げ持って、後ろに控える。その四人の姿はもはや、一個の堅固な砦のようだった。
「そして——二つ目の、選ぶ道はこれぜよ」
龍馬はゆっくりと、フランス人商人の方へと向き直った。
「天朝物産会所が示す、まっとうな値——すなわち、上海相場の八割で、わしらと直に取引をする。グラバー殿を間に挟まず、この会所とじかに交渉してもらうがじゃ」
フランス人商人が、すがるような目でグラバーを見た。
だが——グラバーは、しばらく石像のように、動かなかった。
その青い目がゆっくりと、一同を順に見渡していく。
龍馬を見た。
中山を見た。
志賀を見た。
横山を見た。
そして最後に——大浦慶をじっと見据えた。
一瞬、その端整な顔が、凍りついたまま止まる。
(——大浦屋の内側は、すべてわたしの掌中にあったはずだ。坂本一味は追い詰められなすすべも、なかったはずだ。なのになぜ、こうも見事に裏をかかれている……?)
そこまで考えてグラバーの脳裏に、一つの苦い答えが浮かんだ。
(……まさか。あの娘の知らせが——ことごとく、偽りであったとでもいうのか。わたしの放った間者が、いつのまにか、敵に飼われていた…と)
しかし——次の瞬間。
凍りついていたグラバーの口元が、わずかにほどけた。
それは敗者の苦渋ではなく——むしろ、好敵手を得た者の酷薄な笑みだった。
「... So it is.」
(……なるほど、そういうことか)
グラバーが英語で、ぽつりと言った。志賀がすかさず訳す。
「So, the Mikado holds sway over everything, from Shanghai to Lyon.」
(ミカドは上海から、はるかリヨンに至るまで——そのすべてを握っているというわけか)
「Or is it the Konoe Princess?」
(いや——それとも、コノエ・プリンセスの仕業か?)
「!!」
その一言に龍馬たちの間に緊張が走った。
「I speak of the one behind you. To be confronted with such a powerful hand—how intriguing.」
(あなた方の…その背後に控えるお方の話だ。よもやこれほどの手札を、一度に突きつけられようとは——いや面白い。実に面白い)
グラバーはそこでふっと一つ、間を置いた。
「Very well.」
(よかろう)
「I am not so foolish a merchant as to cling to a losing cartel when presented with such flawless backing and a clear way out. I shall agree to trade at a fair price.」
(これほど完璧な後ろ盾と、明らかな抜け道とを突きつけられて、なお分の悪い徒党に固執するほど——わたしは愚かな商人ではない。適正な値での取引に応じよう)
広間の空気が、がらりと変わった。
「On one condition—」
(ただし——一つ、条件がある)
グラバーは、言った。
「I ask that Glover & Co. be granted the First Distribution Rights for the finest teas of Hizen and Higo, handled by the Tencho Bussan Kaisho. That is my condition.」
(天朝物産会所が扱う、肥前・肥後の最上級の茶——その第一販売権を、我がグラバー商会に認めていただきたい。それがわたしの条件だ)
その英語を、志賀が即座にフランス語と日本語の双方へ移し替える。広間の全員が、その条件の意味を同時に理解した。
龍馬はちらと、大浦慶を見やった。
慶はしばし考え込んだ。
「……構わんたい」
やがて慶はきっぱりと言った。
「うちはね、グラバーさんが、腕の立つ商人じゃっちゅうことは、とうから知っとります。対等の商売として付き合えるとなら——一番販売権ぐらい、別に惜しゅうはなかとですよ」
龍馬は、グラバーに向き直った。
「対等の商売として——っちゅうことで、よかかえ」
「Certainly.」
(無論だ)
グラバーは言った。
「Do not misunderstand—I was not brought to my knees by force. I have simply recognized you as business partners. That is all.」
(誤解めさるな。わたしは力ずくでひれ伏したのではない。ただ——あなた方を対等の『商売仲間』として認めた。ただ、それだけのことだ)
その言葉に奉行所の役人たちは、ただ呆気にとられた顔で、龍馬たちを見つめるばかりだった。
一太刀も斬り結んでいない。刀の一本すら、抜かれてはいない。だというのに——長崎の商いの潮目が根こそぎ変わった。その歴史の転換点を、彼らは今、まのあたりにしていた。
そして龍馬は引き上げていくグラバーの背を見送りながら、誰にも聞こえぬほどの声で、ぼそりと呟いた。
「……今まで、さんざん暴利を貪っちょったがじゃ。これですべて終わったと——そう思うなよ、グラバー」
龍馬は、遠ざかる背に、胸の内で言葉を続けた。
(姫様は——そげに甘いお人じゃないきにな。じゃが……)
ふっと、龍馬の口元が不敵に緩んだ。
(それを言うなら、わしらも、たいがいじゃき)
六
その夜、大浦屋の奥座敷に長崎の同志が、一人残らず顔を揃えた。
行灯の灯を囲んで大浦慶、松田勝五郎、小曽根乾堂の三人が、どっしりと座を占めている。その後ろには、中山誠一郎、志賀親司、横山源一郎の三人の通詞。そして、楢林栄左衛門がその老獪な目で、一同の顔をゆっくりと見渡していた。
龍馬と高田と小野寺。長次郎と惣之丞。
膳の隅には、お美代がしずかに茶の支度をして、控えている。その横顔からあの思い詰めた翳りは、もうすっかり消えていた。弟は慶の手配した蘭方医のもとで、快方へと向かい始めている。その安堵が彼女の所作の一つひとつを、見違えるように軽やかにしていた。
乾堂が彫り上げた「天朝物産会所・長崎支部」の朱の印が、為替手形の上に、くっきりと捺されている。松田屋が整えた、鴻池への直通の送金経路が滞りなく動き始めた。楢林が奉行所の内側の動きを、こちらへ流してくる。三人の通詞が、世界の情報の、最前線に堂々と立っている。そして——かつてグラバーの『目と耳』であったお美代までもが、今や、こちらの側へと寝返った。
すべてが——一本に繋がった。
「……よかったばい」
慶が、煙管を手に取りながら、しみじみと言った。
「これからも、どうぞよろしゅう頼んます。皆さん」
長次郎が、惣之丞を見た。惣之丞も長次郎を見返す。二人はどちらからともなく、にっと笑った。声には出さなかったが、その笑顔がすべてを語っていた。
中山誠一郎が、志賀と横山と固い握手を交わす。
「これから頼むばい」
「こちらこそな」
「おいどんたちの語学が——やっと、本当の仕事ばするごたっね」
三人の声には長年、奉行所の片隅で飼い殺されてきた者の晴れ晴れとした喜びが満ちていた。
——数日後の朝。
江戸、一橋上屋敷。
糸子の部屋に仕立飛脚が、一通の文を届けた。中には龍馬からの返書と、長崎からの報告書の束が、ぎっしりと収められている。
糸子は静かに封を切った。
まず龍馬の短い手紙に目を通す。それから——小野寺の帳面からの抄録。長次郎の簡にして要を得た報告。中山の一分の隙もないフランス語報告書の写し。
グラバーとの交渉成立の報。適正な値での生糸取引の始まり。そして——内なる裏切りを逆しまに『味方』へと転じてみせた、その鮮やかな顛末まで。
すべてを読み終えると、糸子はしばらくの間、そっと目を閉じた。
「……みな、頑張ってくれましたね。本当に、よくやってくれました」
誰に向けてでもなく、糸子はぽつりと呟いた。
そこへ葵が茶を運んできた。
「姫君様。なんだか、お顔の色がよろしゅうございますね」
「ええ。とても気分がよろしいのでございます」
糸子は茶を一口含んだ。
そして——ふと思いついたように、文机の引き出しへと手を伸ばす。
「やはりもう一度、本腰を入れて……チームの名を考え直そうかしら……」
「姫君様」
「なに、葵」
「四年を一滴も残さず、すべて使い切るのでは——なかったのですか?」
「ゔっ………」
引き出しから出しかけた紙を、糸子はそろりと引っ込めた。
「葵は……わたくしの…浪漫というものを……まるで、分かってくださらないのね。ぐすん……」
「天朝物産会所という、ご立派なお名前が、すでにございますでしょう」
「そうなのだけれど……あれは、その……『店名』であって……」
「それで、十分でございます」
「でも——」
「十分でございます、姫君様」
……沈黙。
糸子は観念したように、文机の引き出しをことりと閉じた。
「……いつか。いつかきっと…とびきり格好のよい名を、考えてみせまする」
「はい。お暇になりましたら、その時はわたくしも、ご一緒に考えましょう」
「……そうしまする」
どうしても諦めきれぬ、涙目の糸子がそこにいた。
やがて糸子は窓の外へと目を移した。澄んだ夏空が、どこまでも高く青く…広がっている。
長崎では——今、この瞬間にも皆が動いている。数字と情報と語学とを武器にして。血の一滴も流さぬまま、日本の経済の夜明けを、少しずつたぐり寄せながら。
「……長崎の皆へ、次の指令を書かねばなりませんね」
糸子は、すっと筆を執った。その目にはいつもの遠い先を見通す、あの光が宿っている。
次の標的は——薩摩を中心とした、諸藩への武器密輸経路の解明だ。長崎の闇で鍛え上げられた、天朝物産会所の仲間たちなら、必ずやそれを成し遂げてくれる。
糸子は白い紙の上に、筆を走らせ始めた。
日本の夜明けは、まだ——遠い。
しかし確かに。長崎の深い闇の底に、一つまた一つと、消えぬ光が灯り始めていた。
七
文久元年、晩夏。
伏見の淀川沿いに立ち込める川霧を割りながら、三十石船は静かに滑り出していた。京の街を文字通り焼き尽くさんばかりだったあのねっとりとした酷暑も、川面を渡る夜風に洗われ、ようやく引き際を見せ始めている。狭い船内で膝を突き合わせ、互いの肩を寄せ合っている四人の男たちの顔が、船室のささやかな灯火に仄白く浮かび上がっていた。
「いやぁ、あの京の蒸し風呂から解放されると思うだけで、なんだか寿命が数年は伸びた心地がしますね」
最年少の宮川蜂介が、荷物を枕代わりにしながら、のんびりとした声を漏らした。それに対して、 暗がりの隅で愛刀の鞘を熱心に拭っていた名波幽水は何も答えないが、心なしかその尖った肩の力が抜けているように見える。
「ふん、京の暑さも見納めだなどと、悠長に構えている場合ではありませんよ、宮川さん」
丸眼鏡の橋を指先で押し上げながら、副隊長の神代弦一郎が、船の小さな窓から夜空を見上げて鼻で笑った。
「大坂から紀伊水道へ出れば、そこからは自然という名の最も理不尽な怪物との、命がけの知恵比べです。私の計算によれば、ここからの海路、天候の乱れに遭遇する確率は極めて高い。……おおい、速水さん、あの雲を見てください。一気に風向きが変わりますぞ」
神代の指さす天空の端、月明かりを覆い隠すようにして、赤黒い情念を孕んだような不気味な重い雲が、じわじわと鎌首をもたげ始めていた。海が荒れる――その不吉な兆しは、驚くべき速さで現実のものとなった。
大坂の雑多な港で乗り換えた堅牢な廻船は、紀伊水道へと躍り出た瞬間から、牙を剥いた荒ぶる大海原に翻弄されることとなった。船体は木の葉のように揺れ、容赦なく甲板を叩く冷たい夜波が、男たちの全身に手痛い潮を浴びせる。船底を激しく突き上げる衝撃のたびに、宮川は「うぷっ」と口を押さえて顔を青くしたが、それでも「長崎に着く前に、海の藻屑になるのは御免こうむりたいですね!」と、必死に冗談を叩きつけて船内の重苦しい空気を紛らわせようとしていた。
船は阿波の切り立った沖合を命がけで回り込み、いよいよ室戸の岬へと差し掛かる。古来より『土佐日記』の昔から、幾多の熟練の船乗りたちを絶望させ、何日も足止めを強いてきた「風待ち」の悪名高き難所である。荒天の中で下手に動けば座礁は免れない。しかし、時代の秒針が目まぐるしく進むいま、一行にはのんびりと港で空を見上げて日和を待つような猶予など、一刻たりとも残されてはいなかった。
「進むぞ。この程度の時化に怯んでいては、長崎の闇は払えん」
隊長である速水護の、低く、しかし五臓六腑に染み渡るような硬質な声が、船室に響く。その一言が、荒波への恐怖でバラバラになりかけていた四人の心を、再び一本の強固な鎖へと繋ぎ止めた。
激しい時化に身体を痛めつけられ、頭から潮を浴び、互いの極限の疲労を軽口と鋭い視線で誤魔化し続ける過酷な船旅は、実に十日余りにも及んだ。
そしてついに、長かった苦闘の果てに、土佐の険しくも雄大な山並みが夕闇の深い階調の向こうから、威風堂々とその姿を現した。その瞬間、死線を共にした四人の影は、一つに重なり合った。
船が港の波止に接岸する。石段の雁木を降りた瞬間、彼らの肌を包み込んだのは、濃密な潮の香りと、南国特有の…どこか異国の情熱を孕んだような、ねっとりとした熱気だった。
京とも江戸とも違う、独自の激動を予感させる国――土佐の地に、彼らはついにその足跡を刻んだのだ。
桟橋の先、事前に取り決めていた待ち合わせの場所に、一人の男がぽつりと立っていた。
日に灼けて浅黒い、泥にまみれた肌。お世辞にも上品とは言えない粗末な木綿の着物を着崩し、足袋も履かずに雪駄を突っ掛けている。だが、その泥臭い佇まいとは裏腹に、男の双眸は暗闇の中でらんらんと飢えた狼のように鋭く光り輝いていた。
ただ突っ立っているだけだというのに、その全身からは、周囲の空気を歪めるほどの抑えきれない強烈な野心と、銭の匂いが立ち上っている。
この男こそが、土佐の生んだ風雲児、岩崎弥太郎であった。
弥太郎は、懐に手を突っ込んだまま、品定めするような無遠慮な視線で四人を頭から爪先まで凝視すると、ニヤリと不敵で、どこか人を食ったような笑みを浮かべて口を開いた。
「……おんしらが、旭狼衛の方々かえ?」
その土佐弁の響きには、お上に対する敬意など微塵もなく、むしろ「お前たちの実力を見せてもらおうか」という無言の挑発が含まれていた。
速水は少しも動じることなく一歩前へ踏み出すと、そのぎらついた視線を真っ向から受け止めた。
「いかにも。お初にお目にかかる。われらがその旭狼衛だ」
二人の視線が火花を散らすように交錯した後、弥太郎が突き出してきた手を、速水は迷わず力強く握り返した。その弥太郎の手のひらは、およそ小綺麗な商人のそれとは程遠い、畑を耕し、泥水をすすってきた男にしかあり得ないほど、節くれだって鉄のように硬かった。
この一筋縄ではいかない男と共に、まずは攘夷の嵐が吹き荒れるこの土佐の地を網の目のように検め、しかる後に、さらなる西の果て――欲望が蠢く街、長崎へと赴くのだ。
速水は夕闇の底へと深く沈みゆく土佐の黒い山並みを静かに、しかし決然とした目で見据えた。
これから始まる、国を賭けた長く壮絶な闘いの歴史において、これはほんの静かなる入り口に過ぎないことを、彼は本能で悟っていた。
第百十四話 了
■トーマス・グラバーを解説ヽ(´▽`)ノワーイ♪
Thomas Blake Glover(1838年〜1911年)は、幕末から明治時代にかけて日本の近代化に最も貢献したスコットランド、アバディーンシャー出身の貿易商人。1859年(安政6年)に来日。長崎を拠点に活動し、武器の輸入による維新のサポートや、日本初の近代技術の導入など、多大な功績を残しました。
3つの主な功績
・幕末の志士たちへの武器支援
坂本龍馬らを介し、薩摩藩や長州藩に大量の銃や軍艦を販売しました。
この武器が明治維新(倒幕)を成し遂げる大きな原動力となりました。
伊藤博文や井上馨などの若き志士の海外留学(長州ファイブ)も極秘に支援しました。
・日本の近代産業への貢献
日本初となる蒸気機関を用いた造船所(近代的な修船施設)を建設しました。
佐賀藩と共同で、日本初の洋式炭坑である「高島炭坑」を開発しました。
これらは後の三菱グループへと引き継がれ、日本の重工業の発展につながりました。
・キリンビールの育ての親
明治時代以降は、現在のキリンホールディングスの前身となる「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」の設立に関わりました。
商品の販売促進や経営に深く携わり、日本のビール文化の基礎を築きました。
有名な観光スポット
・グラバー園(長崎市)
彼が暮らした「旧グラバー住宅」は、現存する日本最古の木造洋風建築です。
日本の近代化を支えた価値が認められ、世界文化遺産(明治日本の産業革命遺産)に登録されています。




