第百十三話「長崎暗闘編―数字という名の砲火、語学という名の剣(前編)」【改訂版】
一
文久元年、仲夏。
京の街は、ねっとりとした不快な暑さに底から包み込まれていた。盆地特有の、油じみた熱気が容赦なく肌にまとわりつく中、旭狼衛の道場からは、単調な蝉時雨を幾重にも切り裂くような、凄まじい木刀の打撃音が激しく響き渡っている。
旭狼衛・京都支部の隊長という重責を任されている山南敬助は、冷やりとした風の通らぬ部屋で、文机の上に広げられた一通の書状を前に、静かに長い息を吐き出した。
世間から「色白の優男」と評されるにふさわしい、どこまでも柔和で知性的な目元。しかし、その奥にある瞳は、冷徹なまでに世の冷酷な行く末を見据えている。
その書状は、遥か江戸の地にいる総隊長、近藤勇から直々に届けられたものだった。躍動する達筆な文字を細い指先で静かになぞりながら、山南の唇に、ふっと嬉しそうな笑みがこぼれる。
「江戸の近藤さんをはじめ、みな息災で達者でやっているんだな。本当によかった……」
だが、安堵の直後、山南の視線はある一行でぴたりと止まった。
「……そして……長崎、ですか」
近藤の…というよりは、その背後にいる姫様からの意図は、あまりにも明白だった。時代の奔流はいま、この政治の中心地である京だけでなく、異国の怪しい風が直接吹き込む西の果て、長崎の港でも激しく渦巻いている。そこに旭狼衛の新たなる拠点、すなわち「長崎出張支部」を隠密裏に立ち上げよ、という機密命令であった。
ただし、ただ闇雲に西へ向かって突っ走ればいいというわけではない。書状には、実に具体的な足取りと時局の指定がなされていた。
「出発は晩夏。土佐の岩崎弥太郎殿が、現地での商業活動にようやく目処がついた頃合いを見計らうこと……か。まずは海を渡って土佐へ向かい、岩崎殿と合流。しかる後に、彼を伴って共に長崎へ――」
山南は白皙の顎に手を当て、深く思考の海へと沈んでいく。
彼らに課せられた任務は、複雑怪奇に幾重にも折り重なっていた。姫様から預かった極秘の書状を土佐の岩崎弥太郎へ確実に手渡し、攘夷の嵐に激しく揺れる土佐の地の実情をこの目で検める。そして岩崎の盾として伴いながら長崎へ入り、新たなる城を築く――だが、山南が最も重く危険視したのは、そのさらに先にある闇だった。
長崎で「天朝物産会所」を立ち上げたばかりの近藤長次郎や沢村惣之丞、そして岩崎弥太郎の影となりつつ、裏で暗躍する異国の悪辣な武器商人どもの動きを、声もなく、気配もなく見張る。これは単に剣の腕が立つというだけでは、到底務まらぬ極めて繊細な役どころであった。
しかし、現在の京支部に残された、単独でこの大役を任せられるほどの精鋭は、決して多いとは言えなかった。伊庭、権藤、薄宿の主力三名は、過日長州で起きた一大事の処理のため、土方歳三の下に出払ったまま当分は戻っては来ない。残る限られた手駒の中で、この異国を相手にする最難所を任せられる者――。
山南は、しばし深く瞑目した。
「並大抵の覚悟の者では、異国の未知なる文化と、海千山千の悪徳商人たちに魂を呑まれてしまう。……さて、誰を遣わしたものか」
書状が届いてから、数日。山南は道場で汗を流す京支部の面々の顔を、一人また一人と脳裏に並べては消し、並べては消した。剣の腕。胆力。そして何より、異国の坩堝に放り込まれても決して己を見失わぬ、鋼のような芯の強さ。
幾日にも及ぶ熟考の末、彼の頭の中に鮮明に残ったのは、とりわけ一癖も二癖もある、四つの異質な顔ぶれだった。
山南は決然と筆を執ると、白紙の一番上に、さらさらと一人目の名を滑らかな墨跡で記した。
「――速水護。まずは、君が頼りですよ」
それから数日のうちに、山南の私室へその四人が極秘裏に呼び集められた。旭狼衛の中でも、とりわけ一癖も二癖もある曲者ぞろいの面々である。
薄暗い奥の間で、山南はいつもの穏やかな笑みをたたえながら、事の顛末を静かに語り、長崎行きを打診した。否、それは打診という生ぬるいものではなく、彼らに対する絶大な信頼の吐露であった。
四人は、それぞれの想いを胸の奥に静かに灯しながら、その命の重みを噛み締めた。
今回、長崎行きの隊長に指名された速水護は、静かに愛刀の鍔に指をかけ、深く一つ頷いた。
元は北陸の小藩で「至高の精鋭」と謳われながらも、醜い身内同士の派閥争いに心底嫌気がさして脱藩した過去を持つ男だ。一刀流の免許皆伝という圧倒的な武功を持ちながら、同時に西洋兵学の合理性にも深く明るい。山南がその「常に大局を冷徹に見据える目」に惚れ込み、三顧の礼をもって旭狼衛に迎えた逸材中の逸材であった。
「長崎、ですか。異国の最先端の学問や最新の武器が、濁流のように流れ込む場所……。私のような故郷を捨てた流れ者が、己の視野を広げるにはこれ以上ない最高の舞台です。伊庭たちが長州の地で派手に暴れている間に、こちらはこちらの死線をくぐり、極上の戦をいたしましょう。坂本龍馬という得体の知れない男や、その配下の動きも含め、うまく手綱を握って連携してみせますよ。どうぞ私にお任せください」
常に氷のように沈着冷静な速水の声には、どんな過酷な環境に放り込まれても決して揺るがない、生まれながらの指揮官としての絶対的な覚悟が満ち満ちていた。
そのすぐ隣で、指先で宙に何か複雑な数式を数えるようにして顎をさすったのは、副隊長を務める神代弦一郎だ。
大坂の賑やかな蔵屋敷に仕えた下級役人の子として生まれ、膨大な数字の計算と一度見たものは忘れない暗記能力に関しては、旭狼衛の誰もが右に出る物なしと認める秀才である。
「ふむ、天朝物産会所の為替、そして裏で動く巨額の資金ですか……。長崎は、歩けば金がうなると聞く街。国内外の噂や、街に落ちている微かな情報の断片を拾い集めて計算式に放り込めば、幕府や諸藩が次に打つ一手など、私には簡単に弾き出せますよ。速水さんが『動』として前線で刀を振るうなら、私は『静』の参謀として、敵の財布の紐と情報の綱を根底から握らせていただきます」
あまりにも合理的で冷徹。しかし、その丸眼鏡の奥にある細い瞳には、まだ見ぬ未知の巨万の富に対する知的な興奮が、妖しく灯っていた。
二人の会話に一言も発せず、ただ部屋の隅の影のように微動だにせず佇んでいるのは、名波幽水である。
かつて京の深い闇に紛れ、不逞浪士を音もなく屠っていたところを、山南によって間一髪で拾い上げられた男だ。同じ隊士の薄宿が「夜の獰猛な化け物」なら、この名波は昼夜の境界すら超越する「完全なる無音の刃」。自身の気配を完全に断絶することにかけては、京支部でも一、二を争う。
名波は山南の探るような視線を正面から受けると、ただ、短く一度だけ、深く首を縦に振った。そこに言葉などという不確かなものは一切必要なかった。長崎の複雑に入り組んだ石畳の坂道、そして外国人居留地が落とす深い闇。
そこは、気配を消して敵の喉元に潜り込む暗殺者である彼にとって、これ以上ない最高の狩場になる。隊が危機に陥れば、いつでも一片の躊躇もなく刃を振るう――その苛烈な決意が、無感情な眼光の煌めきだけで痛いほど伝わってきた。
「いやぁ、ついに長崎ですか! 腕が鳴るなぁ、待ちきれないや!」
そんな部屋の重苦しい殺気を、一瞬にして爽快に吹き飛ばしたのは、最年少の宮川蜂介だった。
武州の広大な農家出身で、試衛館の近藤や土方らとも古くから顔馴染み。彼らを追うようにして憧れだけで京へ上ってきた、天性の「人たらし」の達人である。
「相手が異国の傲慢な商人だろうが、長崎会所の頑固な役人だろうが、僕が酒でも酌み交わせば、半刻もあれば十年来の親友にしてみせますよ! ――で、この無口すぎる名波さんの分まで、僕が街じゅうで喋り倒す。どうです、最高の二人組でしょ?」
天然の凄まじい剣才を持ち、実戦の泥臭い殴り合いでは名波に次ぐ腕前を持つ宮川が、何一つ物怖じせず屈託なく笑う。名波は鬱陶しそうに少し顔を背けたが、その背中を突き放すような拒絶はしなかった。
四者四様、全く異なる色の刃。だが、この型破りな四人であれば、いかに異国の怪物が蠢く坩堝とて、必ずや鮮やかに渡りきるだろう――山南は満足そうに、深く微笑んだ。
二
季節は音もなく巡り、京の酷暑がいよいよ極まる、息苦しい頃合いを迎えていた。旧暦六月――暦の上ではすでに「晩夏」に分類されるが、盆地を包む熱気は、衰えるどころか日に日に密度と濃さを増している。
六月中旬(新暦では七月の下旬にあたる)。
いよいよ、旭狼衛の選りすぐりの精鋭四名が、まずは中継地である土佐へと過酷な旅路へ発つ日がやってきた。
京都支部の重々しい門前には、山南敬助をはじめとする京の旭狼衛隊士たちの一部が顔を揃え、彼らのこれからの長く険しい門出を見送ろうと、静かに佇んでいた。
山南は、隊長として先頭に立つ速水の前にゆっくりと歩み寄ると、その引き締まった両肩にそっと手を置いた。
「速水隊長。くれぐれも、自身の力を過信して無理はしないように。君のその冷徹なまでの大局眼があれば、長崎のいかなる荒波も必ず乗り越えられると私は信じています。……ですが、独りで背負わず、その頼もしい仲間を頼ることも決して忘れないでくださいね」
どこまでも温厚で、実の兄のように親切な山南らしい、心のこもった言葉だった。だが、その声の芯には、真の武士として命を懸ける「士道」の強烈な念が込められている。己の信念を決して曲げず、生きて再びこの京の地を踏め、という無言の烈しい応援であった。
「はい。山南先生も、油断のならぬこの京の地を、くれぐれもお守りください。それでは、行ってまいります」
速水が深く頭を下げ、それに続くように神代、名波、宮川もそれぞれの流儀で最高の礼を尽くす。
宮川は「長崎の珍しいお土産、期待しててくださいね!」と、角を曲がるまで何度も無邪気に手を振っていたが、いざ本格的な街道に足を踏み入れた瞬間、その顔から笑みが消え、その目つきは獲物を屠る刃のような鋭さへと一変した。
四人は、照りつける太陽の下、徒歩と船を何度も乗り継ぐ、過酷な旅路へと力強く打って出た。
三
時は、少しさかのぼる。
京の旭狼衛がまだ出立の支度に追われていた頃、西の果ての長崎では、すでに龍馬たちが動き始めていた。
桟橋の石畳は、朝の光を受けて白く輝いていた。潮の香りが、強く、しかし爽やかに吹いてくる。港を行き交う人間の顔が、江戸と全く違う。オランダ人、イギリス人、清国商人。その間を、長崎の商人たちが飄々と歩いている。
しかし最近の長崎は、龍馬が以前に訪れたときとは、明らかに様子が違ってきていた。
物価が、まず上がっていた。
桟橋脇の茶屋で売られている握り飯の値段が、去年より確かに上がっている。草鞋を売る路上の商人が、以前より高い声で客を呼んでいる。万延の貨幣改鋳の余波が、この長崎にも、じわりと忍び込んでいた。
「飯の値段が、去年の倍になっちゅうきに」
龍馬が、桟橋を歩きながら言った。
「物価上昇ですね……」
小野寺順平が、帳面を確認しながら答えた。
「万延の改鋳以来、特に開港地は激しい。洋銀と日本の貨幣の交換比率の歪みが——」
「分かった、分かった」
龍馬は苦笑した。
小野寺が話し始めると、止まらない。
「じゃが、それだけに——よう分かるぜよ」
龍馬は、ふと真顔になって続けた。
「姫様がわしらに持たせてくれた給金。あれが、こういう値上がりを、はなから見越した額じゃったということがな。あのお方は、江戸の屋敷におりながら、この長崎の握り飯の値段まで、ちゃんと読んじょったがじゃ」
「まったく、ありがたい話です」
小野寺が、めずらしく帳面から顔を上げ、深く頷いた。
二人の数歩後ろを高田陽三郎が、音もなく歩いていた。歩調こそ穏やかだが、その両の目だけは、桟橋の端から端まで、行き交う人影の一つ一つを、休みなく舐めるように追っている。誰がこちらを見ているか。誰が不自然に視線を逸らすか。高田の目は、いつでもそれを測っていた。
油屋町の大浦屋に着くと、暖簾の奥から大浦慶が出迎えた。続いて長次郎と惣之丞が、奥から転がるように飛び出してくる。再会の挨拶はいつもながら、やかましいほど賑やかだった。
その騒ぎの傍らに、一人の若い女中が湯気の立つ茶を盆に載せて、しずしずと控えていた。お美代である。年の頃は二十そこそこ。きびきびとよく働く娘で、客あしらいの手際もいい。だが、龍馬がふと目をやるとその伏し目がちの横顔に、ほんの一瞬、何か思い詰めたような翳りが、すっとよぎった気がした。
(……気のせいか)
龍馬はすぐにその印象を、頭の隅へと追いやった。
茶を一服したところで、長次郎がふいに膝を進めた。
「龍馬」
「なんじゃ」
「前からずっと聞きたいと思うとったことがあるんじゃ。——天朝物産会所っちゅうのは、いったいどういう会所なんじゃ?」
龍馬は、湯呑みを置いて、にやりと笑った。
「それがな、長次郎。実を言うとわしにも全部は分かっちょらんがじゃ」
惣之丞が思わず噴き出しかけた。だが、龍馬の目は笑っていなかった。
「ただ——これだけは言える。天朝物産会所っちゅうがは、『主上様から賜った、二つとない信頼』を盾に、『皆で力を合わせ、理に適った算盤を弾く』を矛に携えて、この日の本を、異国に呑まれぬよう守り抜くための——日本一でかい『社』ながぜよ」
「そして——この会所が何かをしようとしちゅうことだけは分かる。日本を守るために、銭の戦をしちょる。ただの銭の話じゃないのは確かぜよ」
長次郎は、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに顔を上げた。
「……分かった。わしは忠誠を誓うきに。龍馬」
「長次郎…おんしゃ」
「忠誠という言葉が大げさなら、信頼じゃ。この会所を信じて…わしは動く」
惣之丞も、黙って頷いた。
大浦慶が、その様子を眺めながら、煙管に火をつけた。
「坂本さん、あんたはよか友人ば持ったとね」
「大浦さんこそ、よく面倒を見てくれてるきに」
「何ば言いよっとかい。これからが本番じゃろ」
慶は、煙管を口から離し、ぽんと叩いた。
「ところで坂本さん…」
「話ばあっとたい。実はね——最近の居留地の様子が、少し妙なんよ……」
龍馬の目つきが鋭くなる。
「妙とな……?」
四
大浦屋の奥座敷には、梅雨の晴れ間の日差しが、障子越しに、斜めへと長く差し込んでいた。
縁側のすぐ向こうに、大浦の坂の石畳が見える。坂を見下ろす白壁の洋館が、その屋根瓦に午後の光を跳ね返して、目に痛いほど白く光っていた。景色だけを見れば、絵に描いたような、長崎の昼下がりである。だが、慶の口から語られる話は、聞けば聞くほど、その明るさとは裏腹に重く沈んでいった。
慶が、ぽつりと切り出す。
「グラバーっちゅうイギリス人の商人ば、あんたも名前くらいは知っとるやろ」
「ああ、噂には聞いちょりますきに」
「あの男とね、スネル兄弟っちゅうプロイセンの商人が、いま裏でぴったり、手ば組んどるとよ」
龍馬の眉が、わずかに動いた。
「裏で手を組む……?」
ちょうどそのとき、お美代が新しい茶を運んできた。慶の前に湯呑みを置き、軽く頭を下げて下がっていく。その足が襖のところで、ほんのわずか——瞬きほどの間、止まったように見えた。だが、話に気を取られた慶も龍馬も、それを見てはいなかった。ただ、部屋の隅の暗がりだけが、その一瞬を確かに見ていた
「そうたい」
慶は、運ばれてきた茶には目もくれず、煙管を膝の上でとんとんと鳴らした。
「諸藩が攘夷攘夷でカリカリしとるやろ。あの男たちは、その熱に乗じてね——もう型落ちもいいとこの古いゲベール銃ば、本国の相場の何倍っちゅう、法外な値で売りつけよっとよ。薩摩さんば筆頭に、あちこちの藩がまんまと引っかかっとる」
龍馬は腕を組んで、黙って聞いていた。そして、ふと、一つの記憶が頭の隅で疼いた。
「……そういや、初夏の頃じゃ。出島のイギリス商人がやけに熱心に、旧式の銃ば売り込んじょるっちゅう話を、どこぞで耳にしたぜよ。あれか」
「そう、それたい」
慶は、深く頷いた。
「ばってん——困ったことに、それだけじゃなかとよ」
慶の声が一段、低くなった。
「うちが一手に扱うとる、九州の茶——あれをね、グラバーが不当に安う、買い叩こうとしとるんたい。上海の相場の半分どころか、それよりまだ下の値でね。それでこっちが首を縦に振らんかったら……」
「振らんかったら、どうなりますと?」
慶はすっと目を細めた。煙管を握る指にぐっと力がこもる。
「奉行所が出てくるったい」
「奉行所が……?」
「『異国との無用な摩擦を避けるため』——そげん、もっともらしい御託ば並べてね。うちにグラバーの出した条件ば呑めって、上から押さえつけてきよるとよ」
龍馬の体が思わず、前へと傾いた。
「つまり——長崎奉行所が、異国商人と示し合わせて、共犯になっちゅうということですか」
「共犯かどうかまでは、うちにも分からん」
慶はゆっくりとかぶりを振った。
「ばってんね、少なくとも——うちみたいな日本の商人が泣き寝入りするしかなかごと、上から無理やり、押さえつけられとる。それだけは間違いなか事実たい」
その横顔に深い悔しさが滲んでいた。
「このままじゃ、すまさんたい……!」
九州の茶を一手に握り、海千山千の外国商人とも対等に渡り合ってきた、あの大浦慶が——いま、ぎりりと奥歯を噛みしめている。これほど無念そうな彼女の顔を、龍馬はこの日、初めて目にした。
「……分かりましたきに、大浦さん」
龍馬は静かに言った。
「必ず手を打つぜよ。じゃが——ちぃとばかし、時間をくれんか」
「時間はあんまりなかとよ」
慶の声に、焦りが混じる。
「このままいけばうちは来月にも、グラバーの言い値に従わにゃならんごとなる」
「分かっちょる。それまでには必ずじゃ」
龍馬はすっと立ち上がった。その目の奥に何かが、かちりと噛み合った、決意の光が宿っていた。
(姫様の指令、七条——『フランス語の遣い手を、密かに抱え込め』。フランスの生糸のパニック。そしてグラバーの——)
これまでばらばらの断片にしか見えなかった糸子の指令の一つ一つが、龍馬の頭の中でにわかに不穏な意味を帯び始めていた。その正体はまだ闇の中だ。だが…確かに何かが繋がろうとしている。
五
同じ頃、重苦しい空気が漂う長崎奉行所の一室に、三人の男たちが集まっていた。
部屋の帳は降ろされ、薄暗い室内には、窓の外から長崎港の遠い喧騒が、まるで別世界の出来事のように微かに忍び込んでくるのみだった。広大な文机の上には、異国の文字――フランス語でびっしりと綴られた公文書や契約書が、うずたかく積み上げられていた。整然と並ぶ不気味な数字の列、複雑極まる契約の条文――。
三人の男――中山誠一郎、志賀親司、横山源一郎は、その書類を囲むようにして、それぞれの胸中に渦巻く思いを抱えたまま、重い沈黙を守っていた。
中山誠一郎は、三十がらみの、武士らしい体格のしっかりした男だった。代々オランダ通詞を務める高名な家系の生まれだが、開国、そしてフランスとの修好通商条約締結という時代の激変に際し、新たにフランス語の習得を命じられた経歴を持つ。今や長崎、ひいては日本でも一、二を争うフランス語の若き第一人者だ。その知性溢れる瞳は一見穏やかだが、その奥底には、現状に対する強い不満と抑えきれない怒りが宿っていた。
志賀親司は、中山より少し若く、神経質そうな細身の体躯をしていた。だが、その目の動きは常に刃のように鋭い。フランス語のみならず、イギリス語までをも独学で操る、長崎通詞界でも指折りの語学の天才だ。今、その鋭利な眼光が、フランス語の書類の一箇所に、釘付けになったまま静止していた。
横山源一郎は、二人よりもどこか落ち着いた、いかにも実務肌といった風貌の男である。事務処理の能力に長け、特に外交文書の精査や、複雑な数字の計算において群を抜いた才能を発揮していた。
「……なぁ、どう思う、二人とも」
志賀が、書類の冷たい紙面を見つめたまま、声を潜めて切り出した。
「フランスの商人どもが奉行所に持ち込んできた、この『生糸の長期独占買付契約書』。ここに書かれておる取引相場だが――」
「不当などという、生やさしい言葉で片付けられる話じゃなかばい」
横山が、怒りを押し殺した静かな声で言葉を奪った。
「現在の上海における正当な本相場と照らし合わせても、これはあまりにも酷か。下手をすりゃ、本相場の三分の一、四分の一たい。フランス側が、知識を持たん日本の商人に提示しとる価格は、意図的に、がいに買い叩かれとる。明らかな詐欺たい」
「分かっとる。そんなことは、読めば一発で理解できる」
中山が、きつく腕を組みながら苦渋の表情を浮かべた。
「ばってん、奉行所の上の人間たちは、余計な色をつけるな、ただ正確に訳せとしか言わん」
「俺たちがこの不平等に異議を唱えたら、どがんなると思うね」
「『通詞ふぜいが政治に口を挟むな、黙って文字を置き換えておればよか』――そう冷酷に一蹴されて終わりたい。今までもずっとそうじゃったろう」
三人の間に、再び鉛のように重い沈黙がわだかまった。
やがて志賀が、忌々しそうに書類から目を離し、薄暗い窓の外の港を見つめた。
「……なぁ、おかし気だと思わんね?」
「何がたい」
「フランスの商人どもの態度が、どう考えても不自然たい。異様なほどに焦っとる。これは普通の、心の余裕を持った商売の交渉じゃなかばい――何か決定的な事態に追い詰められ、命がけで契約を急いどる……そがん気がしてならんとたい」
中山が、志賀の鋭い横顔をハッと見つめた。
「フランスの本国で、俺たちの知らん重大な何かが起きとる、ということか」
「そうとしか考えられん。ばってん奉行所の偉い方々は、そがん異国の内部事情ば自ら調べようともせんばい。ただ、この不平等な書類ば右から左へ訳せと、命令を下すだけたい」
横山が、悔しさに耐えるようにして、書類の端を人差し指でトントンと激しく叩いた。
「……俺たちは、いつまでこんな操り人形のような真似ばしとるとやろか」
その問いに答えられる者は、誰もいなかった。
語学という武器を持つがゆえに、異国の悪辣な手の内が、奉行所の誰よりも鮮明に見えてしまっている。その略奪の手が、今まさに無防備なこの国へと伸びようとしている恐怖も、誰より理解している。 なのに――己たち下級通詞にできるのは、その国を滅ぼす毒入りの文面を、淡々と美しい日本語に置き換える作業だけ。声を上げるべき誇り高き口を、奉行所という巨大な組織によって、完全に縫い止められたままで。
三人の若い通詞たちの胸の奥底には、行き場を完全に失った激しい焦燥と無力感が、どす黒い澱のように、ただひたすらに溜まり続けていた。
六
夜の大浦居留地は、昼間の喧騒が嘘のように、まるで別の顔をのぞかせていた。
日のあるうちは、ふんぞり返った外国商人が石畳を闊歩し、肌を粟立たせた荷役の男たちが野太い声で怒鳴り合う。港じゅうの喧騒が、潮の匂いとともに居留地の隅々までを埋め尽くしているのだ。
だが、ひとたび陽が落ちると、その賑わいは引き潮のように綺麗さっぱり消え失せる。重々しい倉庫街からは人の気配が途絶え、代わりに湿った夜風のざわめきと、沖合に佇む異国船から漏れ聞こえる物悲しい調べだけが、暗がりの隙間を縫うようにひそやかに漂っていた。
その濃密な闇の中を、五つの影が足音ひとつ立てずに滑り込んでいく。
先頭を行く坂本龍馬、それに続く近藤長次郎、沢村惣之丞、小野寺順平――そしてしんがりで周囲を鋭く睥睨するのが、高田陽三郎だ。
巨大な倉庫の落とす影に身を潜め、五人は額を集めた。
「わしは表で見張りを引き受ける。周りの様子を睨んちょくき」
龍馬が地を這うような声で囁く。
「長次郎、惣之丞、小野寺殿、高田殿――おまんらは中に忍び込んで、何が何でも帳簿を押さえてくれ」
「合点がいった。龍馬、おまんも絶対に無理はしなさんなや」
「おう、惣之丞もな。ぬかりなさんなや」
四人は龍馬と視線で合図を交わすと二手に分かれ、さらに深い闇の奥へと足を速めた。
「この先だ、小野寺殿」
長次郎が声を出さず、唇の動きだけで示す。
「この目の前の倉庫が、グラバーの荷が一番出入りしちょる場所じゃ」
「確認しました。間違いありません」
小野寺も生唾を飲み込みながら、声を潜めて応じた。手にした帳面を握りしめる手のひらには、じっとりと冷たい汗が滲んでいる。
「高田殿、見張りの様子はどうだ」
「外に一人。退屈そうに突っ立っています」
高田は闇の微かな揺らぎを見据えたまま、事もなげに短く答えた。
「巡回は四半刻ごと。あの男が角を曲がり、完全にこちらから死角に入る瞬間がある――その隙を突いて小窓から滑り込めば、四半刻のさらに半分ほどは、誰にも邪魔されずに時間を稼げます」
「四半刻の半分……それっぽっちの時間で、あの膨大な帳簿を写しきれるか?」
長次郎が思わず顔を顰め、喉の奥で呻いた。だが、その瞳にはすぐに覚悟の光が灯る。
「いや――できるかできんかじゃない。やるんじゃ、写しきるがじゃ!」
高田がすっと片手を挙げた。見張りの男が大きく欠伸をしながら、街灯の薄明かりを背にして角の向こうへと消えていく。その刹那、四人は弾かれたように同時に動いた。
倉庫の裏手へと音もなく回り込み、錆びついた小窓を軋ませぬよう慎重に開け、滑り込む。内部は墨を流したような完全な暗黒だった。石炭と機械油の、鼻を突くようなむっとする匂いが立ち込めている。うずたかく積み上げられた荷箱の谷間に、大人一人がようやく通れるほどの狭い通路が、まるで迷宮のように奥へと伸びていた。
その最奥に、目指す帳場はあった。
小野寺が震える指先で、机上にあった重々しい帳簿を開く。覆いを何重にもかぶせたランタンの、針の穴ほどの極小の光が、白紙に躍る墨の数字を仄かに浮かび上がらせた。
その瞬間、小野寺のペンを持つ手が、ぴたりと凍りついた。
「……これは、一体……」
小野寺の声が、驚愕のあまり掠れ、小刻みに震えている。
「どうした、小野寺殿。何があったがな」
「見てください。この数字の羅列を」
長次郎が小野寺の肩越しに、這い寄るようにして帳面を覗き込んだ。そこには整然と、しかし不気味な規則性を持って数字が並んでいた。
「洋銀の流入量……買い付けた生糸の総重量……そして、この右側の欄は――」
「上海の『本相場』です」
小野寺が、絞り出すような声で言葉を繋いだ。
「グラバーの奴、上海の本当の市場価格を日本側に徹底的に隠したまま、なんとその五分の一の捨て値で、こちらの生糸を買い叩いています。この帳簿が……何よりの、動かぬ証拠です!」
長次郎の目が、二つの数字の列を激しく行き来した。
上海相場の数字。そして、グラバーが日本の商人たちに突きつけている詐欺まがいの数字。グラバーの買値は、上海の本相場の実に五分の一。裏を返せば、五倍の儲けが奴の懐に転がり込む計算だった。
(五倍、じゃと……!)
一瞬、長次郎の頭の中が真っ白に弾け飛んだ。次の瞬間、背筋を凍るような冷たい戦慄が駆け上がる。
(龍馬からは、ゲベール銃の売りつけの裏をかくか、でなけりゃ『差額の数字』を探れと言われちょった。……そうか。この生糸のえげつない差額のことも、あの男の頭には入っとったんじゃ。『裏帳簿を割れ』――その言葉の本当の恐ろしさが、いま、ようやく身に沁みて分かったきに)
「写します。一文字も漏らさずに」
小野寺が狂ったように鉛筆を滑らせ始めた。
「長次郎殿は、そっちの棚の帳簿をお願いします。手分けしましょう!」
「分かった、任せちょけ!」
長次郎も別の一綴りを引き寄せ、血走った目で紙面を追う。墨をなぞるその手が、微かに、しかし確かに震えていた。
だが、それは恐怖による震えではなかった。数字という無機質なものが秘めた、国さえ揺るがす恐るべき破壊の力――それを今、己の肌で魂で思い知ったことによる武者震いだった。
四人が死に物狂いで手分けしたおかげで、帳簿の写しは見る間に出来上がっていく。あと少し…あとほんの数行で、すべてを白日の下に晒せる――。
七
――その瞬間、静寂は無残に引き裂かれた。
倉庫の重厚な大扉が、けたたましい音を立てて外側へと叩き開けられたのだ。
夜の闇を容赦なく切り裂いて、龕灯の白い光線がどっと堂内に雪崩れ込んでくる。
「Who goes there!?」
(そこにいるのは誰だ!?)
ひび割れた英語の、鋭く荒々しい誰何の声。続いて、複数の激しい足音が石畳を叩く。手に手に棍棒や刃物を握りしめた荒くれの水夫が三人、唯一の出入り口を塞ぐようにして立ちはだかった。
「いかん、見つかったぜよ!」
長次郎が小野寺の腕を強引に引っ張った。
「帳簿の写しは!? できたんか!?」
「ここに――これだけは死守しました!」
「走れっ! 振り返らずに走れえええっ!!」
高田の冷徹な眼光が、倉庫の奥の構造を素早く捉えた。裏手には、もう一つ小さな搬出口がある。だが――その向こうからも、土を激しく蹴る足音が、確実にこちらへ迫っていた。奉行所の捕り方だ。それも、一人や二人ではない、組織的な動きだ。
(…いや…いくら何でも、早すぎる)
高田の背筋を、嫌な汗が伝い落ちた。自分たちがこの倉庫に忍び込んでから、まだいくらも時間は経っていない。それなのに内側のグラバーの私兵と、外側の奉行所の役人、その両方からまるで初めから精緻に示し合わせていたかのように、ぴたりと網が張られている。これは――たまたま夜回りに出くわしたというような、不運の類では断じてない。誰かが自分たちの動きを、寸分の狂いもなく奉行所へと密告していた。そうとしか考えられなかった。
だが、いまはその裏切り者を勘繰っている場合ではない。
「沢村殿、先に行ってください!」
高田が、惣之丞に向かって弾かれたように言い放った。
惣之丞の懐には、今しがた命がけで写し取った帳簿の一部がある。それこそが、この闇を照らす唯一の証拠の一片なのだ。
「高田殿、おまん一人を置いていけるか!」
「行くんだ! それを持ち帰ることが、何よりも最優先です!」
言い終わるより早く、高田の身体は既に地を蹴っていた。
武装した水夫たちの前へ、その細身の影がふわりと立ちはだかる。次の刹那――闇の中で、信じられぬほどの速さで肉体が翻った。一人目の水夫の手首を容赦なく掴み、そのまま己の懐へと引き込んで体勢を完璧に崩す。二人目が激昂して前へ踏み込もうとしたその一瞬の隙を突き、高田の鋭い肘が、相手のみぞおちへ音もなく沈み込んだ。
「がはっ……!」という濁った悲鳴。
その隙に、惣之丞は写しを必死に抱え、裏手の小窓へと駆けた。長次郎がそれを追い、小野寺も必死に続く。
だが――惣之丞の足が、出口の寸前でぴたりと止まった。
「待て……! やっぱり高田殿を置いて、わしらだけ逃げるなんてできん!」
惣之丞の手が、腰の刀の柄へと向けられる。
その殺気を感じ取ったのか、乱戦の最中、高田がちらりと振り返った。返り血のような脂汗を額に浮かべながらも、その瞳だけは、一歩も退かぬ冷徹な武人のものだった。
「沢村殿。あなたの命は、私の命よりずっと重い。逃げるんだ……信じろ!」
「くそっ……!」
長次郎が、今度は惣之丞の腕を力任せに引っ張った。
「惣之丞、来い! 無駄死にすな!」
「来いっ! いまは高田殿の覚悟を信じるしかないがじゃ……!」
惣之丞はぎりっと奥歯を噛み締め、口内に血の味が広がるのを感じた。そして――血の涙を呑む思いで身を翻し、走り出した。長次郎の背中を、ただひたすらに追って。
近藤長次郎、沢村惣之丞、小野寺順平の三人は、夜霧の立ち込める長崎の路地を、肺が破れんばかりに駆け抜けた。
背後からは、奉行所の捕り方たちの怒号と犬の鳴き声が、何重にも交錯して響いてくる。港の方角を見れば、松明の灯りが、見る間にその数を増していくのが分かった。長崎港の全体が、いままさに巨大な檻のように封じられようとしていた。
惣之丞は走りながら、懐の奥深くへと写しを押し込んだ。これだけは――これだけは、たとえこの身が引き裂かれようとも失うわけにはいかない。「数字という名の武器」、その根幹をなす、最大の弾薬なのだから。
(高田殿……生きてくれよ……)
仲間を一人、あの地獄のような場所に置いてきてしまった。その事実の重みが、胸の底にずしりと重くのしかかり、息を詰まらせる。
それでも三人は走るのをやめなかった。目指す「油屋」へと続く最短の路地を、影のようにただひたすらに。
八
油屋の裏口の戸を、長次郎、惣之丞、小野寺の三人が、息を切らしながら、押し開けた。
奥の間には、すでに大浦慶が、行灯の灯を細くして、待っていた。
「来ると思うとったよ」
慶は、三人を奥座敷へと素早く引き入れながら、低く言った。
「路地の様子が、どうにも剣呑じゃったけんね。表の番頭に、ずっと外ば見張らせとったとよ。——で、高田さんと、坂本さんは?」
「高田殿が……水夫を、一人で引き受けてくれたがじゃ」
惣之丞が、言葉を詰まらせた。
「龍馬は、龍馬は……」
「坂本殿は、いま、こちらへ向かっているはずです」
小野寺が、努めて冷静に補った。
「奉行所の御用改めが、もし踏み込んできたら、どがんするとね」
「表向きは——わしらをただの旅の商人として、通してもらえますか」
「分かった。そこは全部、うちが引き受くるけん」
慶はそう言って奥座敷の引戸に、内から錠を下ろした。
それから半刻ほどして、龍馬が裏口から転がり込んできた。頬に一筋、擦り傷が走っていたが、大きな手傷は負っていない。
「高田殿は!?」
惣之丞が、飛びつくように、尋ねた。
「……奉行所じゃ」
龍馬は肩で息をしながら答えた。惣之丞の顔から、さあっと血の気が引く。
「待て、早合点すな。捕まったわけじゃないがじゃ」
龍馬は慌てて手を振った。
「あの高田殿のことぜよ。うまいこと身元を隠したうえで、奉行所の連中と何やら話をつけちょった。明朝には、こっちへ合流できる——そういう手筈になっちょるらしい」
惣之丞はその言葉を聞いて、長い長い息を、ふうっと吐き出した。
「……よかったぁ」
へなへなと、その場に座り込みそうになる。
「もし、このまま高田殿が戻らんかったら、わしは……わしは……」
「惣之丞。高田殿やったら、絶対に大丈夫じゃ」
長次郎が、その肩をぽんと叩いた。
「信じて待とうや。のう、惣之丞」
「……分かったよ。龍馬、長次郎」
ひと息ついたところで、龍馬の目が、すっと、惣之丞の懐へと向いた。
「ほいで、惣之丞——その写しじゃ」
「ん?」
「それが、あの帳簿の写しか」
「一部じゃがそうじゃ」
惣之丞は懐から、皺だらけになった写しを取り出した。
「死ぬかと思いながら写したきに。龍馬、頼むぜよ。役に立ててくれ」
「わしからも、こいつを頼む」
長次郎も、別の一綴りを差し出す。
二人から写しを受け取った龍馬の目が——変わっていた。土佐の一浪人のそれではない。もっと奥深く肚を据えた者の目だった。
「役に立てる。必ずな」
龍馬は文机の上に写しを広げた。その傍らに姫様——糸子から託された、九箇条の書状を、並べる。
その、七番目の指令。
『フランス語の遣い手を、極秘裏に勧誘せよ』。
そしてその理由として、糸子の細い筆でこう添えられていた。
——『現在、西洋では蚕を襲う、原因も分からぬ疫病により、絹織物の産業が全滅の危機にある。ゆえにフランスは、日本の生糸を喉から手が出るほどに渇望している』。
龍馬は、その一節を何度も何度も…読み返した。
グラバーの帳簿に並んでいた、生糸の数字。フランスの商人が、なぜ?あれほど焦っているのか。そして——リヨンの生糸産業の壊滅。
ばらばらだった点が龍馬の頭の中で、一本の線へとつながっていく。
「……全部、繋がっちゅうきに」
龍馬は低く呟いた。
その様子を見ていた慶が、片眉を上げた。
「坂本さん。何が繋がったとね」
「大浦さん、聞いとうせ。いまから全部話すき」
九
龍馬は糸子の書状の文言と帳簿の数字とを、一つずつ照らし合わせながら慶に語って聞かせた。
フランスの商人が日本の生糸を、何としても手に入れねばならぬ理由を。
しかし——グラバーは、その「フランスの焦り」を、まるごと逆手に取っていた。フランスへ高く横流しするために、まず日本側から不当な安値で生糸を買い叩こうとしていたのだ。しかも、この抜け駆けを、本来手を組むはずのイギリス本国の商会にすら隠したまま、たった一人で甘い汁を吸おうとしている。
「ええか、大浦さん。生糸が枯れかかっちょるフランスは、日本の生糸がなけりゃ、本国の産業そのものが立ち行かん。——つまり、これは」
龍馬はひと呼吸おいて言い切った。
「『生殺与奪の権を、日本の側が握っちょる』っちゅうことぜよ」
「……なんね」
話を全て聞き終えた慶が最初に漏らしたのは、その一言だった。
「なんね、って——分かりましたか、大浦さん」
「分かった。分かりすぎるくらい、分かったたい」
慶は、すっくと立ち上がった。
「つまり——うちが九州の生糸を『売り止め』にすりゃ、フランスの奴らは真っ青になるっちゅうことやろ?」
「そうじゃ。大浦さんが、九州じゅうの生糸をぴたりと止めれば——」
「グラバーは、それでおしまいやなかね!」
慶の声が、奥座敷に弾けた。こらえきれぬ笑い声が低い天井へと、じわりと染み込んでいく。
ひとしきり笑い終えると長次郎と惣之丞は、互いの肩についた泥を払い合うようにして、ようやく小
さく息をついた。死線をくぐり抜けてきた男たちの顔に、生きた心地が少しずつ戻ってくる。
「……にしても冷や汗が出たぜよ」
惣之丞がまだ震えの残る手で、どんと自分の胸を叩いた。
「見つかったときにゃ、心の臓が口から飛び出るかと思うた。のう、長次郎」
「ああ。じゃが——これで報われた。わしらのやったことは、無駄じゃなかったがじゃ」
長次郎の言葉に龍馬は深く、深く頷いた。文机に広げられた写しと姫様の書状。それが今は日本という巨大な扉を、こじ開けるための一本の鍵に見えていた。
——だが。
その龍馬の胸の奥に、ひとつだけ晴れぬ翳りが残っていた。
あの倉庫の捕り方は早すぎた。高田が言い残した、その一言が耳から離れない。
(偶然が、二度、三度と続いたら……それはもう、確実に偶然とは呼ばんきに)
龍馬はふと、これまでのことを思い返していた。長崎へ来てからというもの行く先々で、判で押したように奉行所の役人と出くわした。一度や二度なら笑って済ませられた。だが——今宵の倉庫は明らかに違う。自分たちの動きが、どこからか、筒抜けになっている。それもごく近いところから。
龍馬はそのことを、まだ誰にも言わなかった。確かな証もないままに口にすれば、いらぬ疑心を仲間うちに撒くことになる。
(……だが、必ず突き止めにゃならん)
胸の奥で龍馬は、そう静かに誓った。
いっぽうの慶は、開け放たれた裏口の向こう、まだ薄暗い長崎の夜空を、じっと見つめていた。海から吹き込む夜風が、その着物の裾をわずかに揺らす。
「坂本さん」
「なんじゃ、大浦さん」
「うちはね、あんたたちに出会わんやったら……ただの、銭勘定が達者なだけの商人で、終わっとったかもしれんね」
慶は振り返り悪戯っぽい、それでいてどこか慈愛に満ちた目で龍馬たちを見渡した。
「面白うなってきたばい。グラバーの鼻をあかしてやろうやなかね。——そんであの江戸の化け物お公家様を、ぎゃふんと驚かせてやらんば」
高田は、まだ奉行所にいる。胸の奥には晴れぬ翳りも残っている。それでも——夜が明ければ、新しい戦が始まる。一同の胸に灯った火は、さっきまでとは比べものにならぬほど、強く熱く燃え上がっていた。
「よし、やろう。わしらの夜明けは、ここ長崎からじゃ」
遠くで一番鶏が、高らかに時を告げた。
油屋の奥座敷に、夜明け前の静かな決意が、満ちていく。夜が明ければ——長崎の…いや、この国の行く末に確かな変革をもたらす、その一助となるだろう。
ただ一人、小野寺だけがなおも帳面に鉛筆を走らせながら、その口の端をかすかに、嬉しそうに吊り上げていた。
第百十三話 了
今回のお話は、修正の嵐で……すごい大変だった……ウワァァ━━。゜(゜´Д`゜)゜。━━ン!!
ときたまこうして、ドツボにハマるときがあるのよね_l ̄l●lll




