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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百十一話「長崎暗闘編―月琴と篆刻」【改訂版】

一

 大浦慶の声が座敷の空気を揺らしてから、しばらくの間、油屋の奥座敷には不思議な静けさが満ちていた。


 長崎の初夏は陽光が強い。梅雨の晴れ間とは思えぬほど、窓の外、大浦の坂の石畳に反射する光は、五月にしてはすでに刺すような白さを帯び始めており——部屋の中にまで薄く黄色い熱を運んでいた。


 どこかの厨房から漂う胡麻油の香りと、慶が燻らせる煙管の紫煙が混じり合い、座敷の隅でゆっくりと渦を巻いている。遠く飽の浦(あくのうら)からは、製鉄所の蒸気ハンマーが立てる「ズシン、ゴウン」という地響きのような重低音が、絶え間なく鳴り響いていた。


 大浦慶は、膝の上に置いた書状を、指先で丁寧に折り畳んでいた。その動作は、先ほどまでの激情が嘘のように、静かで、しかし確固としていた。

 乾いた音を立てて折り目が入るたびに、慶の口元に、何とも言えない笑みが浮かんでは、消えた。


 長次郎と惣之丞は、互いに体を寄せ合うようにして座っていた。二人ともまだ、さっきまでの慶の凄まじい気迫から完全には立ち直れていない。

 

 長次郎などは、口を半開きにしたまま、ときおり惣之丞の袖を引っ張って何か耳打ちしようとするのだが、言葉が出てくる前に喉が詰まるらしく、また黙り込んでしまう。

 惣之丞は惣之丞で、懐の煙草入れをいじりながら、視線を宙に漂わせていた。

 そんな二人の様子を横目に見ながら、小野寺順平は静かに帳面を開いた。


 カチリ……と矢立(やたて)の真鍮キャップを外す音が、座敷の静寂を小さく割った。その音で、一同の視線が小野寺に集まった。

 小野寺順平という男は、至って地味である。背は龍馬より頭一つ低く、色白で、眉の薄い書生風の面立ち。剣の修行で体を鍛え上げた高田陽三郎とも、豪放な気配を漂わせる龍馬とも、どこか趣が違う。

 しかし、この男が帳面を広げて矢立(やたて)を走らせ始めると、部屋の空気の質が均一に引き締まる。数字を扱う人間特有の、無駄を削ぎ落とした集中力が、そこから発散されるのだ。


「まず、身形(みなり)から整えましょう」

  小野寺が言った。声は抑えてあるが、明確だった。

「身形?」

  長次郎が眉を寄せた。

「はい。近藤殿、沢村殿。二人の現在の衣は——」


  小野寺は帳面から顔を上げた。その視線は商品の目利きをする商人のそれだ。冷静で一切の感傷がない。

「失礼ながら、油屋の奉公人にしか見えません。いや、それ以下だ」

「こら、何ちゅう言いようじゃ!」

 長次郎が即座に反論した。惣之丞も、むっとした顔で小野寺を見る。


「事実を申しております。二人には本日より、天朝物産会所長崎支部の名代(みょうだい)として動いていただく。名代が奉公人の身なりでは、話の入り口から相手に舐められます。大浦殿に紹介していただく商人や、居留地の外国商人と対峙する時、衣装というのは、言葉に先んじて相手を測る、最初の武器です」


 小野寺は、懐から一通の書付を取り出し、長次郎の前に静かに置いた。

「これが、姫様から二人への給金の目録と、初期費用の手形です。月四両。それに加え、天朝物産の大坂本店から、ここ長崎の松田屋(松田源五郎)へ宛てた、即時引き換え可能な為替手形が三十両分、同封されております。まずこの三十両の一部を、衣の仕立てに使ってください」


 長次郎と惣之丞が、同時に書付を覗き込んだ。

 一拍おいて——二人の顔色が変わった。

 三十両という数字が、二人の目に入った瞬間のことだった。

 長次郎の喉から、かすかな、音にならない声が漏れた。

 惣之丞は膝の上に置いていた煙草入れを、音を立てて畳に落とした。

「……さ、三十両……?」


 惣之丞が、ひっくり返った声で言った。

「あ、あの……これ、わしら二人に、ということじゃろか?」

「初期費用ですので、二人でお使いください。衣装代と、当面の活動資金です」

 小野寺は、帳面に何かを書き付けながら、淡々と答えた。


 龍馬は、その様子を座敷の端からにやにやしながら眺めていた。ちらりと高田を見ると、高田も珍しく、口の端がかすかに上がっていた。

「こ、これは……」


 長次郎は、書付を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。三十両。

 長崎の物価を考えても一介の浪人が半年以上、食うや食わずで稼いでようやく手が届くかどうかという金額だ。それが目の前に紙切れ一枚として、さらりと置かれている。


 その金の重みを、小野寺もまた知っていた。しかしそれを口に出すほど、この男は無粋ではない。

「誤解しないでください」

 小野寺は矢立(やたて)を止め、二人を正面から見た。


「これは施しではありません。恵みでもない。京の巨大資本が、長崎に打つ楔の、その先端部分に立つ者への、投資です。あるいは——お召し物代、とでも呼べばいいかもしれない」

「お召し物……代?」


「はい。あなた方はこれから、坂本殿の補佐として、大浦殿の紹介を携え、長崎の商人や外国商人と直接交渉に当たることになる。

 その際、あなた方の衣は『天朝物産会所』という看板そのものになる。安普請では看板が泣く。だから、最高のものを着ていただく。それだけのことです」

 小野寺の言葉は短く、しかし一音も無駄がなかった。


 長次郎は、じっとその言葉を噛み締めた。隣で惣之丞が落とした煙草入れを拾い上げ、ふうと息を吐いた。

「……わかった。小野寺殿の言う通りじゃ」

 長次郎が静かに言った。その目の奥に、何か火のようなものが点った。

「わしらはボロを脱ぐ。でも——」

 長次郎は、龍馬を見た。

「龍馬。わしらは、いつまでも土佐の者じゃきに」


「分かっちゅうきに」

 龍馬は、にっと笑った。

「土佐の魂は、どんな衣を着ても変わらん。じゃが——その魂を、世の中に示す方法は、何も一つじゃないきに。長次郎、惣之丞。わしらは今日から、長崎の海に網を張る蜘蛛になるぜよ」


 大浦慶がその言葉を聞いて、煙管をぽんと叩いた。

「坂本さん、ええことを言うたね」

 慶は立ち上がると、長次郎と惣之丞を順繰りに眺め、それから奥の廊下に向かって声を張り上げた。

「おーい、お美代! お美代、いるね!?」

「はい、ここにおります」

 廊下の向こうから、女中の声が返った。


「今日中に、仕立屋に連絡ばしてくれんね。上等の絹、しかも京から取り寄せたやつばい。この二人の男衆に、一式ずつ揃えてもらわにゃならんけん、急がせんばつまらんよ。分かった?」

「かしこまりました」

「あ、それと——」

 慶が付け加えた。


「小野寺さん、衣の種類は、何を指定しなさると?」

 小野寺は帳面から顔を上げ、一言で答えた。

「京風の最高級絹で、お願いします。長崎の商人とは、一目で質が違うと分かるものを」

 女中の「はい」という声が遠ざかっていく。


 長次郎と惣之丞は、再び顔を見合わせた。今度は、震えではなく——何とも言えない、複雑な表情だった。困惑と屈辱と、しかしその奥底にじわりと燃え上がりつつある、何か熱いものの混じった顔。


 龍馬は、その顔を見て、胸の中でそっと呟いた。

(よし。火がついたがよ)


二

 翌日の午前。


 長崎の空は、前日にも増して白く晴れ渡っていた。海からの風が石畳の坂道を上ってくるたびに、潮の香りと、どこかの樹木の青葉の匂いが混じり合って通り抜けていく。

 その風は、五月特有の爽快さを含みながらも、時折、南国に近い西国ならではの、じりりとした強い熱気を孕んでいた。


 龍馬、高田、小野寺、そして昨日とは打って変わった姿の長次郎・惣之丞の五人は、南山手の丘の方角へ向かって、坂道を登っていた。


 長次郎と惣之丞の衣が、朝の光の中でひと際目を引いた。深い紺色と鼠色の、上質な絹の着物。帯の締め方から袖の折り具合まで、大浦慶の女中たちが丁寧に整えたそれは、昨日までの薄汚れた浪人の身なりとは別人のようだった。


 二人とも、どこか落ち着かなさそうに、ときおり袖を引っ張ったり、帯の位置を確かめたりしている。

「なんか、くすぐったい感じがするぜよ……」

 長次郎が、小声でぼやいた。

「慣れい」

 龍馬が、あっさりと返した。

「でも龍馬、お前はそのままじゃき」


「わしはこれでいい。わしの仕事は、おまんらとは違うきに」

 龍馬の衣は、昨日と大差なかった。浪人風ではあるが、どこか飄々としたその身なりが、彼の場合は却って人を引きつける。

「場に溶け込まない」ことが、龍馬という人間の最大の武器だった。


 高田陽三郎は、一行のやや後方を、静かに歩いていた。一見、足取りは穏やかだが、その目だけが、路地の向こう、屋根の上、行き交う人の顔——あらゆる場所を、絶え間なく、しかし目立たないように確認している。


 小野寺は龍馬の隣に並び、懐の帳面を時折確認しながら歩いていた。

「小曽根邸は、この先ですね」

「そうじゃ。南山手の丘、天主堂の裾野あたりじゃ」

 西洋の意匠をそのまま持ち込んだ、大浦天主堂の白い尖塔が、坂の上に異様な姿で見え始めた頃、龍馬の鼻腔に、かすかな香りが届いた。


 小曽根邸は、遠目から見ても、他の商家とは趣が違っていた。

 長崎の豪商の邸宅というのは、概して、唐風の影響を受けた重厚な造りをしていることが多い。しかし小曽根邸は、その重厚さの中に、どこか文人の繊細さが滲んでいた。門構えは立派だが、過度な飾りがない。

 門扉の脇の柱には、小ぶりの篆刻が施された表札がかかっていた。「小曽根」の三文字が、力強く、しかし品を失わず彫り込まれている。


 龍馬は、その表札を眺めながら、ふうと息を吐いた。

(小曽根乾堂。勝先生が惚れ込んだ男じゃと言うとった。じゃが——)

 門の外から見ても、邸内の空気は、容易に人を寄せ付けない何かを帯びていた。

 その時、高田が龍馬の袖を、ごく軽く引いた。合図だった。

 龍馬は高田の目線を追った。


 邸の周囲——塀の角に立つ人影。路地に面した茶屋の軒先に座る男。向かいの商家の暖簾の陰に、何気なく寄りかかる人物。

 どれも、普通の町人のように見える。しかし、高田の目には、それが分かる。

(奉行所の目付じゃ……)

 龍馬は内心で舌打ちした。三方向から、少なくとも四人。

 

 こんな密度で邸を囲んでいるということは——乾堂は相当、奉行所に目をつけられている。


 龍馬は、何事もないように、門扉に近づいた。

 番人が、すぐに立ちはだかった。三十がらみの、がっしりとした体格の男だ。

「何の御用で」

「勝海舟先生の御紹介で参った者じゃ。坂本龍馬と申す。小曽根乾堂殿にお取り次ぎを願いたい」


 番人の顔色は、微塵も変わらなかった。

「旦那様は、本日、お客を取りません。難聴のご不調も続いておられ、異客との面会は一切お断り申しております」

「じゃが、勝先生のご紹介じゃきに——」

「いかなるご紹介も、同様でございます。お引き取りください」

 番人は、深々と一礼した。丁寧ではあるが、一切の揺らぎがなかった。これは、一度や二度ではない、繰り返し練習された対応だと、龍馬は直感した。


 五人は、門の前で立ち往生した。

 長次郎が、小声で龍馬の耳に口を寄せた。

「どうする? 強引に?」

「あかん」

 龍馬は即座に首を振った。

「今、わしらの周りに目付が四人おる。ここで強引なことをしたら、捕縛される前に、乾堂殿の面会どころか、長崎に居られんようになるきに」


「ほんとか……」

 惣之丞が、さりげなく周囲に目を走らせた。確かに——言われてみれば、妙に人の動きが少ない。通り過ぎる人間が、皆、自然すぎるほど自然に歩いている。

「どうするんですか、坂本殿」

 小野寺が帳面を持ったまま、静かに聞いた。

 龍馬は腕を組んで、しばらく考えた。

 その時だった。


 門の奥から——かすかな音が、聞こえてきた。

 弦の音だった。高く、しかし硬く、芯のある澄んだ音。何本もの弦が重なって、独特の旋律を奏でている。

 だが、その鳴り方は奇妙だった。流麗に曲を奏でているのではない。ジャラン、と強く二度、弦が掻き鳴らされた後、不自然に長い沈黙が置かれ、また同じ二拍が繰り返される。まるで、こちらの出方を伺うような、奇妙に断続的なリズムだった。


 高田が、油断なく門の奥を見据えながら静かに言った。

「明清楽(みんしんがく)です。長崎の文人が嗜む月琴の音ですが……妙ですな。曲になっていない。同じ『引き込みの音(客を誘う音)』だけを繰り返している」

「明清楽、月琴か……」

 龍馬の脳裏に、船上で勝海舟から悪戯っぽく笑いながら聞かされた言葉が、パズルのピースのように噛み合った。


『——龍馬、長崎の小曽根乾堂って男はな、耳をやられていて普通の話し声は聞き取りにくい。だがな、あいつは自邸の防壁を「音の振動」で組み上げてやがる。門前に見慣れぬ客が現れた時、番人が奥の呼び鈴を引く。すると乾堂は、中から月琴の特定の重音(和音)を床に響かせるんだ』


『もし奉行所の密偵や何も知らぬ俗物なら、その音の意図に気づかず門前で喚くだけだ。だが、儂の同志なら、その和音の“拍子の隙間”に、正確に口笛を叩き込む。乾堂はな、骨に響く特定の高音の唸りだけは、驚くほど正確に感じ取るんだよ』


(なるほどな。番人が奥へ合図を送った瞬間から、小曽根の旦那の“値踏み”が始まっとるわけだ)

 龍馬は不敵に唇を歪め、懐から勝の紹介状の感触を確かめた。


三

 龍馬は、二歩だけ、門の前に進み出た。

 番人が「お引き取りを」と言いかけた。龍馬はそれを軽く手で制した。

「何も無理を言わんきに。旦那の月琴の“問い”が、そこまで聞こえちょる」

 番人がハッとした顔で口を噤んだ。乾堂から「この音が鳴っている間は客の反応を見よ」と厳命されているのだ。


 門の奥から、再び、ジャラン——と、拍子を乱した月琴の重音が響く。

 その直後。一拍の遅れもなく、龍馬は唇を鋭く尖らせた。


 ピィーーーッ、と、鼓膜を刺すような、しかし微かに震える高音の口笛が長崎の空気を切り裂いた。


 それは単にメロディを真似たものではなかった。乾堂が意図的に外した月琴の「変則的な拍子の裏(シンコペーション)」を、ピンポイントで射抜くような、鋭く計算された対旋律(カウンター)だった。勝海舟の私塾で、有事の際の暗号通信として叩き込まれた「音の鍵」である。


 長次郎が、あっけにとられた顔で龍馬を見た。

「……龍馬、それは何じゃ」

「姫様風に言えば、セキュリティの…開錠の符牒、っちゅうやつじゃ」

 龍馬は、口笛を吹き終わり、短く答えた。


 直後、門の奥の空気が完全に一変した。

 それまで執拗に拍子を刻んでいた月琴の音が、ピタリと止まった。


 ——十秒。


 製鉄所の重い音が遠くで響く中、張り詰めた沈黙が流れた。邸内では今、床と骨を通じて口笛の「振動のズレ」を感知した乾堂が、それが勝の教えた本物の符牒であることを確信しているはずだった。


 やがて、門扉が内側から勢いよく開いた。現れたのは六十がらみの…背筋の伸びた細身の男——


 小曽根乾堂だった。


 薄墨色の着物の袖には墨の染みがあり、その指は、先ほどまで月琴の弦を強く押さえていたため、微かに赤くなっている。

 乾堂の目は静かで、しかし恐ろしく鋭かった。難聴という世界との繋がりを欠いた分だけ、この男の目は、人の細部を見抜く能力を研ぎ澄ませてきた。その視線が、龍馬を、上から下まで、一瞬で舐め回した。


「……勝安房守の弟子か」

 乾堂の声は低く、かつ平板だった。自分の声の抑揚を耳で調整できない難聴者独特の……しかし有無を言わせぬ威厳に満ちた声だった。


「わしは坂本龍馬と申す。勝先生の紹介状と、もう一通、特別な書状を持参しちょります」

 龍馬は懐から勝の書状、そしてその後ろに隠した「近衛牡丹の紋」が捺された糸子からの特製封筒を、乾堂の目の高さへと掲げた。


 乾堂の目が、細くなった。口笛の符牒を完璧に解いた男が、勝の紹介状だけでなく、京の五摂家筆頭たる近衛家の印章を突きつけている。文人であり、同時に長崎の裏を知り尽くした大商人である乾堂の脳内で、凄まじい速度の計算が走った。


 乾堂の視線が、龍馬の背後にいる高田たちの完璧な佇まいへと移る。

「……私を奉行所の生贄にしに来たのか、それとも長崎を焼き尽くす別の火種か」

 それは問いというより、こちらの覚悟を試す告発だった。


「いんや。全く逆じゃ。小曽根の旦那を、この国を救う『巨大な蜘蛛の巣の主』に仕立て上げに参りました」

 龍馬は、まっすぐに乾堂の目を見返した。

「詳しい数字と、銭の流れの話は、中で。表でしていい話じゃないきに」


 乾堂は、しばらく龍馬の「眼光」の奥を見つめていたが、やがてフッと口元を緩め、無言で門の内側に引き返した。

 困惑する番人に、振り返ることもなく、低く一言だけ残して。

「通せ。勝先生も顔負けの……途方もない大博打打ちが来たようだ」


四

 通された部屋は、邸の奥まった場所にある書斎だった。

 一歩入った瞬間、空気の密度が変わる気がした。それは、無数の書と物が積み重なった部屋特有の、圧縮された沈黙だった。


 棚には書が所狭しと並んでいた。中国の古典、蘭語の書物、日本の地図、そして、無数の印影が捺された半紙の束。

 机の上には、篆刻に使う石材が幾つか置かれ、傍らに朱肉の入った小さな皿。部屋の隅には月琴が立てかけてあり、弦の一本がまだかすかに振動しているように見えた。


 部屋の中央に、奉行所の役人が一人、すでに座っていた。

 龍馬は、その男を見た瞬間、内心で「まずい」と思った。

 男は三十代の後半、肉付きのよい、眠たそうな顔をしていた。だが、眼光だけは油断ならない。着物の家紋から、奉行所の目付(めつけ)——つまり、監察の役人だと分かった。

「商談の検分として、同席させていただきます」

 男が、愛想よく言った。


 龍馬の横で、高田の気配が微妙に変わった。長次郎と惣之丞は、顔を強張らせた。

 乾堂は、その場に座って、煙草盆を手元に引き寄せながら、静かに言った。

「この者たちは、私への来客だ。何の商談かは、追って報告する」

「はあ、しかし——」

「追って、と言った」

 乾堂の口調は穏やかだったが、相手は黙った。


 龍馬は、まず、懐から一通の書状を取り出した。勝海舟からの書状である。

 乾堂は、受け取って、目を走らせた。その目が、わずかに和らいだ。

「先生は、お変わりなく?」

「江戸でお元気でした。先生も、大浦殿と並んで、乾堂殿を頼れと言うちょりましたきに」

「ほう」

 乾堂は、書状を丁寧に置いた。その仕草に、勝への深い親しみがにじんでいた。


 龍馬は続いて、二通目を取り出した。

 乾堂の視線が、封書の上で止まった。封書の表書きに、「堀田備中守正睦」の名がある。

 目付の役人が、ぴくりと反応した。それを龍馬は見逃さなかった。

 乾堂が、封書を受け取り開いた。


 読み進めるにつれ、乾堂の表情に変化が生じた。最初の静かな顔が——何か、内側で計算が走っているような、複雑な緊張へと変わっていった。

 読み終えた時、乾堂は書状を机に置き、目を閉じた。

 一拍。

 そして目を開けた。


「堀田様からの書状か」

 その声に、さっきまでとは異なる重みがあった。老中首座。開国日本の最高峰の幕閣として、国際情勢に通じた乾堂が、最も格式を認める名の一つが、そこにあった。

 しかし——次の瞬間、乾堂の眉が、微かに寄った。


「坂本殿」

「は」

「幕府の権威で、この長崎の商人を従えようというのか」

 乾堂の声が、低くなった。

「堀田様は、いかに老中首座の身であれ、江戸の役人。長崎会所の利権を貪る幕府の勝手な都合に過ぎぬ。そのような方の書状は——奉行所への言い訳には、確かになろう。しかし、私の心を動かす地金には、なるまい」


 龍馬は、その言葉を、正面から受け止めた。

 乾堂は間違っていない。堀田正睦様の名は、確かに長崎奉行に対しては圧力になる。

 しかし、この男の心は——政治的な安全保障だけでは、動かない。

 乾堂は、文人だ。


 そしてこの場には、もう一つ切り札がある。

 龍馬は深く息を吸った。


五

 龍馬が懐に手を入れた時、乾堂の目が、わずかに動いた。

 取り出したのは——予想外のものだった。

 書状でも、書付でも、証明書でもない。


 それは、小さな布袋だった。白い絹の袋の口を解くと、中から現れたのは、親指ほどの大きさの、白玉(はくぎょく)と見紛う純白の印石(いんせき)だった。磨かれた石肌の柔らかく光る白さ。印材——篆刻に使う石の素材だった。


 そして、それに添えられた一枚の薄紙。

 乾堂の目が、白玉に吸い寄せられた。

 篆刻家にとって、良質の白玉印材は、それ自体が美術品だ。乾堂の長い指が、思わず、白玉に向かって伸びかけた。そして止まった。

「……これは?」

「我が主、近衛家の姫君様より、乾堂殿へのご贈物じゃ。もう一つ、薄紙もある。そちらを先に見てつかぁさい」


 乾堂は、白玉から目を離さないまま、しかし薄紙を手に取った。

 広げた。

 そこに書かれていたのは——二種類のものだった。


 一方は、音楽の符号だった。明清楽の特殊な記譜法である「工尺譜(こうしゃくふ)」で書かれた、龍馬には全く読めない記号の羅列。しかし乾堂は、それを見た瞬間に、目を見開いた。

 もう一方は——数字だった。几帳面な、細かい文字で書き込まれた数字の列。収入と支出が、二列に並んでいる。


 乾堂の顔が、血の気を失っていくのが、龍馬の目にも見えた。

 目付の役人が、首を伸ばした。

「何が書いてありますか」

 乾堂は、その問いに答えなかった。


 その数字の列は——小曽根家が、表の帳面には決して載せぬ取引の、推し量られた姿だった。清国との密貿易。幕府の長崎会所を通さぬ唐物の流れ。


 奉行所が長年かけて掴もうとして、未だ掴みきれずにいる「裏の帳簿」——その輪郭が、無気味なほど近い精度で、そこに描き起こされていた。


 乾堂は一目で悟った。これは盗まれた写しではない。並んだ額のいくつかは、現に自分が付けている数字と、わずかにずれている。だが——ずれているからこそ、底冷えがした。


 長崎会所を正規に通った唐物の量。居留地の市に出回る品の多さ。上海から長崎へ荷が届くまでの、わずかな日数の食い違い。誰の目にも触れるそれら「表の数字」だけを丹念に突き合わせ、その隙間から、見えぬはずの裏の流れを、逆しまに描き出している。


 しかも——複式簿記の形式で。


 江戸の……一橋上屋敷にいるという公家の姫君は、小曽根の蔵を一度も覗かぬまま、長崎の海の向こうの数字を、机の上だけで組み上げてみせたのだ。

「……」

 乾堂は、しばらく、薄紙を見つめたまま動かなかった。

 目付の役人が、再び口を開こうとした。

 その時、乾堂が動いた。


 月琴を手に取った。

 素早く、しかし自然に。まるで、それが当然の次の動作であるかのように。


六

 乾堂が月琴を構えた瞬間、目付の役人が眉を上げた。

「あの——その紙は——」

「ただの楽譜だ」

 乾堂が遮った。

「新しい曲の譜面だ。見て分かるだろう」


 目付の役人は、確かに楽譜らしき記号が書き連ねられているのを見て、少し迷った顔をした。

「しかし、もう一方の数字は——」

「楽理(がくり)の符号だ。私の流儀での記法だから、分かる者には分かる」

 乾堂はそれだけ言って、月琴を爪弾き始めた。


 最初の一音が、書斎に満ちた瞬間、龍馬は感じた。空気の密度が変わった…と。

 乾堂が奏でているのは、薄紙に記されていた工尺譜の音楽だった。

 一つ一つの音が積み重なるにつれ、不思議なことが起きた。弦の音の重なりが、書斎の柱や壁、庭の石組みで反響し、奇妙な唸りを伴う「雑音」を生み出していく。

 それは室内に聴いている者の耳には、美しい旋律として届く。しかし——


 高田がごく小さく、龍馬の耳に囁いた。

「外で聴いている者には、これは——ただの雑音にしか届きませぬ。庭の石組みの返す響きを見越して、漏れ出る話し声をこの唸りで覆い隠すよう、音の高さと強さが選び抜かれている。これは——」

 高田は言葉を止めた。


 龍馬は分かった。

 糸子が指定したこの楽譜は、単なる音楽ではなかった。小曽根邸の庭の構造を事前に把握した上で、その響きの返り方まで読み切った上で、月琴を奏でれば「外で聞き耳を立てる者の耳には、ただの雑音としか届かぬ」よう仕組まれていた。


 つまり——今、この書斎での会話は、外にいる目付の仲間たちには、全く聞こえていない。

 目付の役人自身は邸内にいるが、乾堂の月琴の音に集中しているせいで、会話に意識が向いていない。

 乾堂の指が、弦の上を走った。

 その目が——月琴から離れ、龍馬を見た。


 鳥肌が立っていた。

 乾堂の腕に袖の下から見える鳥肌が、龍馬にも分かった。この六十がらみの文人が、今、初めて震えていた。

 それは恐怖だった。


 自分が奉行所の目から隠し通してきた密貿易の有り様を、長崎の土を一度も踏まぬまま、表に出回る数字だけで言い当ててみせた「何者か」への底知れぬ恐怖。——蔵を覗かれたのではない。覗く必要すらなかったのだ。そして——同時に。


 その「何者か」が、この音楽の楽譜を通して、自分の安全を守る術まで、先回りして用意してくれていることへの。


 圧倒的な、戦慄を伴った感動。


七

 月琴の音が、書斎を満たし続けている。

 乾堂は弦を爪弾きながら、もう一方の手で——机の上の硯に、さらりと筆を浸した。

 そして、白紙に、漢字を走らせた。

 乾堂は龍馬に、それを差し出した。


 『近衛の姫は何を望む。私を幕府に売るか。それとも操り人形にするか』

 龍馬は、その文字を見た。


 乾堂は、恐れていた。それは当然のことだった。自分の裏帳簿を握られた人間が、次に考えるのは脅迫だ。そして、脅迫の先にあるのは、従属か、あるいは破滅か。


 長次郎と惣之丞は、息を詰めて二人を見守っている。小野寺は帳面を膝の上に置いたまま、矢立(やたて)を止めて待っていた。高田は、目付の役人の動きを視野の隅で監視しながら、じっとしていた。

 龍馬は、筆を取らなかった。


 代わりに——乾堂の目を、まっすぐに見た。


月琴の音が、書斎に満ちる中。龍馬はあえて声を捨て、顎を引いて、口の形を一文字ずつ大ぶりに動かした。難聴の乾堂が、こちらの唇の動きを凝視しているのを分かってのことだ。

『売るがじゃない』


 唇が動く。

 『おまんのその、抜け荷を』

 一語一語、はっきりと。

 『天下御免の天朝物産という、光に変えに来たがじゃ』

 乾堂の月琴を弾く指が、一瞬止まった。


 すぐに再開した。しかし、その目は——変わっていた。

 乾堂は、ふたたび筆を取った。

 今度の文字は、先ほどより、少し震えていた。

 『証拠の持ち出しを要求するか』

 龍馬は首を振った。


 唇だけで答える。

 『要らん。姫様は、もうすでに知っちゅうきに。隠す必要がなくなれば——その帳簿は、おまんの武器になる』

 乾堂の目が、揺れた。

 隠す必要がなくなれば。


 その一言の意味を、乾堂は即座に理解した。密貿易を「合法的な天朝物産会所の取引」に組み込んでしまえば、奉行所が押さえようとしている証拠は、もはや証拠でなくなる。

 それどころか、朝廷の御用商務として、正面から幕府に突き付けられるものになる。

 乾堂は、しばらく、月琴を弾き続けた。

 そして——筆を置いた。


 代わりに、白玉の印材を、ゆっくりと手に取った。指先で、その滑らかさを確かめるように。

 乾堂が、目付の役人に向かって、何でもない顔で言った。

「少し、疲れた。今日はここで失礼しよう」

「しかし——」

「帰れ」


 声に、剃刀のような鋭さがあった。目付の役人は、ぱちりと目を開けて、乾堂を見た。しかしその目には、有無を言わさない何かが宿っていた。

 役人は、立ち上がった。頭を下げて、部屋を出た。

 廊下で足音が遠ざかり——やがて、玄関の引き戸が開閉する音がした。


 完全な沈黙が来た。

 乾堂は、月琴を置いた。

 そして龍馬を見た。今度は、計算もなく、探りもなく。

「……面白いな」

 低い声だった。


「私は長崎でずっと、男たちを相手にしてきた。幕府の役人、外国の商人、藩の武士。誰もが私の財布か、私の人脈か、私の安全かを何らかの形で求めてくる。そのたびに私は、何を差し出し何を隠すかを計算してきた。それが商売というものだ」


 乾堂は、白玉を机の上に置いた。

「しかし、近衛家の姫君は——私の財布の底を覗いておきながら、私に差し出してきたのは脅迫ではなく、楽譜と印材だ」

 乾堂は小さく笑った。笑い方が、乾いていた。


「文人への侮辱として、私はそれを怒るべきだろうか。それとも——」

 その目が、龍馬を見た。

「坂本殿。あなたの主人は、どんなお人だ」

 龍馬は、少し考えた。

「……正直に言うがぜよ」

「ええ」


「わしも、最初は怖かったきに。あの方が見通す先が、あまりにも遠すぎて。じゃが——あの姫様は、この日本が好きなんじゃ。それだけは分かる。損得じゃなく、本当に、この国と、この国に生きる者たちが好きなんじゃ。

 その上で——手を抜かない。頭を抜かない。全力で、先を見て、準備して、わしらに仕事をよこす」

 龍馬の声に、ふだんの軽妙さがなかった。


「おまんを脅すためではない。おまんの力を、この国のために使いたいから、ここまで調べた。そういうことじゃと、わしは思うきに」

 乾堂は、長い沈黙の後。

 筆を取った。

 白紙に、一行書いた。

 龍馬に見せた。


 そこには、こう書かれていた。

 『勝先生のお眼鏡通りだ。坂本龍馬、あなたを信じよう』


八

 合意が——形成されつつあった。

 乾堂が白玉を手に取り、彫刻刀を引き出した瞬間だった。

 廊下から、複数の足音がした。

 重い。

 規則正しい。

 武士の足音だった。


「乾堂殿!」

 番人の声が、廊下越しに聞こえた。

「奉行所の御役人様方が、複数お越しになりまして——」

 引き戸が、勢いよく開かれた。


 長崎奉行所の役人が三人入ってきた。その後ろにさらに二人。手には十手ではなく——刀の柄に手をかけていた。

 先頭の役人が、鋭い目で龍馬たちを見た。

「そこの者ども! 京の上等の衣(きぬ)をまとった不審の浪人が小曽根邸に入ったとの通報を受け、検分に参った! 身分を——」

「不審者?」

 その声は、龍馬のものではなかった。


 小野寺順平が、静かに立ち上がり、役人の正面に立った。小柄で線の細い男が、帳面を一冊手に持ったまま、動じない顔で言った。

「失礼ながら、通報の内容は誤りです。私どもは京の意匠師(いしょうし)。天朝物産会所の衣の意匠を扱う職人衆です」

「なんと!?」

「この衣をご覧ください」


 小野寺は、長次郎と惣之丞を前に出した。二人が着ている、深紺と鼠色の最高級絹が、部屋の光の中で艶やかに光った。

「京から特注で仕立てた、天朝物産会所長崎支部への正式納品物。私は経理担当として同行しており、小曽根乾堂様への納品のご挨拶と、衣の確認のため参上いたした次第です」


 役人が、眉を寄せた。

「そのような話、事前に何の届けも——」

「届けを要しますか? 商人が商人に挨拶に行くのに、奉行所への届けが必要とは、存じませんでした」

 小野寺の口調は、飽くまで丁寧だった。しかし、その言葉の選び方の一つ一つが、役人の論理の穴を突いていた。


 役人が、乾堂に視線を移した。

 乾堂は——その瞬間に動いた。

 難聴ゆえの、彼独自の戦術だった。

「あんだってーーーー!?」

「何をおっしゃっているのかー、さっぱり聞こえませぬーーー!」


 大声だった。意図的な、凄まじい大声だった。


九

 乾堂の怒声が、書斎の空気を震わせた。

 役人たちが、思わず体を引いた。

「え——乾堂殿、私どもは——」

「さっぱり聞こえーん! 私は耳が悪ーい! そのことは奉行所もご承知のはずだーー!」

 乾堂は、耳に手を当て、また大声で言った。


「この方々はー! 私が京の近衛家からお招きしーたーー! 最高級の織物を扱うー正当な意匠師ーですぞーー!!」

 役人が、当惑した顔で仲間と顔を見合わせた。

「乾堂殿、しかし——」

「なんとー!? 奉行所はー! 私の耳が悪いことを良いことにー! 近衛家をもってお招きした客人をー! 不審者呼ばわりするつもりなのでーすーかーー!!」


 乾堂は、机から立ち上がって、さらに一歩、役人の方へ進んだ。難聴の老文人が、これほどの声量で怒鳴り込んでくるとは、役人も想定していなかったに違いない。体格差などものともしない気迫が、乾堂の全身から放たれていた。


「貴殿らはー! 近衛家を愚弄されるおつもりかー!? それともー、難聴の老人をーあざけり笑いーー!正当な商取引を妨害する罪を犯すおつもりなのかーー!!」

「い、いえ、そのような——」

「ならばー! 帰ーれーー!!」

 シン、と静まり返った。


 長崎奉行所の役人とて、朝廷の最高位たる近衛家の家名が出た以上、もはや無下にはできない。乾堂がわざと難聴を誇張し、全てを聞こえていないふりをして大声を出し続けている以上、「不審者」という言いがかりは通用しなかった。。

 先頭の役人が、深く一礼した。


「……失礼いたしました。誤認でございました」

 一行は、静かに引き上げた。

 引き戸が閉まる音がした。

 足音が、廊下を遠ざかっていった。

 玄関の引き戸が開き、そして閉じた。


 沈黙。

 長次郎が、長い息を、やっと吐き出した。

「……助かったきに……」

 惣之丞は、膝の力が抜けて、その場に座り込みそうになった。

 乾堂は、大声を出し続けた反動からか、少し、肩を上下させていた。しかしその口元には、老いた文人の不敵な笑いがあった。


 龍馬は、乾堂を見て、笑った。

「さすがじゃのう、乾堂殿」

「ふん」

 乾堂は、座り直しながら言った。

「あの時、小野寺殿が先に動いてくれなければ、私の台詞も半分は効かなかった。よくできた若者だ」

 小野寺が、表情を変えずに、軽く頭を下げた。


「第一幕に、布石を打っておきました。長次郎殿と惣之丞殿の衣を、わざわざ京風の最高級絹に指定したのは——こういった時のためです。乾堂殿に言い訳をご用意するために」

 長次郎と惣之丞が、同時に、自分の着物を見下ろした。

「……この衣が、そういう役目やったかい……」

 長次郎が、ぽつりと言った。


「じゃあ——わしら最初から、その『伏線』として着せられていたということじゃろか」

「正確には、そうなります」

 小野寺は、あっさりと答えた。

「姫様の書状に、そう書いてありましたので」

 龍馬と高田が顔を見合わせた。


 乾堂が、その様子を見て、再び、乾いた笑いをした。

「坂本殿、貴殿の主人は——随分と…型破りな御方のようだな」


十

 役人たちが去った後の書斎は、不思議な静けさに包まれていた。


 乾堂は、机に戻ると、白玉の印材を手に取った。

 しばらく、その重さを確かめるように、手の中で転がした。

 白玉は、滑らかで、冷たかった。まだ何も刻まれていない、真っ白な石。


「未完成の白玉を送ってくれたのは——つまり私に彫れ、ということだな」

「そうじゃと思います。姫様の考えでは、この石を彫るのは、乾堂殿でなければならないということじゃろ」

 乾堂は白玉を机に置いた。


 それから篆刻用の彫刻刀を、引き出しから一本取り出した。

 この刀の柄は使い込まれていた。乾堂の指に合わせて微妙に変形しているようにさえ見えるほど、何千、何万と握られてきた痕跡が、そこにあった。

「小曽根乾堂の印を彫ったのは……私だ」


 乾堂は、白玉を固定しながら、独り言のように言った。

「長崎の商人たちに流通している契約書に捺されている印の、その殆どは、私が彫った。長崎奉行所の公印の一つにも、私の手が入っている」

「篆刻とは、信用の形だ。人の約束を、石と朱肉で保証する技だ」

 その横顔を見ているうちに、龍馬の中で、ずっと引っかかっていたものが、すとんと腑に落ちた。


 なぜ姫様は、彫り上がった印ではなく、まっさらな白玉を送ってきたのか。なぜわざわざ「彫るのは乾堂殿でなければならぬ」と書いてよこしたのか。


 長崎の商人は、契約書に捺された印を見れば、その彫り口だけで、乾堂の手によるものかどうかを一目で見分ける。乾堂の彫った印が捺されている——それだけで「相手は確かだ」という証になるのだ。


 ならば、その乾堂の手から「天朝物産会所」の印が生まれた時。長崎中の商人は、まだ顔も見ぬその新しい暖簾を、初めから信用に足るものとして迎え入れる。生まれたばかりの看板が、生まれながらにして、長崎の信用の網の中に組み込まれる。


(姫様は、印が欲しかったがじゃない)

 龍馬は、胸の内で呟いた。


(乾堂殿が、自分の手でこの暖簾を「本物」にする——その一手こそが、欲しかったがじゃ)

 彫刻刀が、白玉の表面に当てられた。

 カン、と小さな音が鳴った。

 乾堂の手が動く。彫刻刀が、白玉の表面を、一筋…削る。


 長次郎と惣之丞は、その手元を、食い入るように見つめていた。書斎の中で、誰も話さなかった。


 製鉄所の音が、窓の外から聞こえる。潮風が、窓の隙間から薄く入り込んで、書斎の空気を冷ます。朱肉の皿が、机の端で静かに待っている。

 乾堂の指が動くたびに、白玉に文字が生まれた。

「天朝物産会所」

「長崎支部」


 文字が石の中に刻まれていく。それは、単なる文字ではなかった。乾堂の、六十年の人生が積み重ねてきた技術と、この国への思いが、一画一画に込められていた。


 どれほどの時間が経っただろうか。

 乾堂の手が止まった。

 白玉を持ち上げ、窓の光に透かした。

 印面を確かめた。


 そして、朱肉の皿に、印面を静かに当てた。

 白紙の上に、押した。

 持ち上げた。

 白紙の上に、鮮やかな朱色の印影が——現れた。


「天朝物産会所・長崎支部」の文字が美しい篆書体でそこにあった。


 龍馬は、その印影を見て、言葉が出なかった。

 高田が、一歩前に出て、印影を見た。その高田が、「美しい」と、小さく呟いた。

 高田がそういう感想を口にするのは、珍しいことだった。

 小野寺が、すでに懐から一枚の為替手形を取り出していた。


「乾堂殿、最初の為替手形に、捺印をお願いできますか」

「……ふん」

 乾堂は、その為替手形を受け取った。

 印を朱肉に浸した。

 為替手形の所定の位置に押した。


 それは——小曽根家が、天朝物産会所の長崎支部の後ろ盾となった瞬間だった。


 乾堂は、印を置いた。

 白玉の印材を、しばらく見つめた。

「この印は——」

 独り言のように、しかし、全員が聞こえる声で、乾堂は言った。

「いつか、日本の国璽(こくじ)をも超える重みを持つだろうな」

 部屋に、沈黙が落ちた。


 龍馬は、その言葉の意味を、即座には理解できなかった。

 しかし、何か——途方もない先の時代を見通した言葉として、その一言は、胸の奥に刻まれた。

(この人は——本物じゃ)


十一

 それから数日が経った。

 小曽根邸の離れが静かに、その機能を変え始めた。

 外から見れば、何も変わっていない。乾堂の書斎は相変わらず書と印材で溢れ、庭では時折月琴の音が流れる。番人は門の前に立ち、邸内の造りは昨日と変わらない。


 しかし——その内側で。

 情報が、流れ込み始めていた。


 大浦慶の油屋から、九州各地の茶農家との交渉記録。

 居留地の外国商人が、薩摩や諸藩に売り込んでいるゲベール銃や新式ミニエール銃の最新価格。

 長崎奉行所の目付の交代情報と、新任目付の出身藩。

 オランダ大通詞を通じた、上海の市場相場の速報。

 これらが、小野寺順平の帳面へと、一つ一つ記録されていく。


 小野寺は、離れの一室を書き物の場所として使い始めていた。朝から日暮れまで、窓の外の長崎の街を眺めながら、帳面と向き合っている。その姿は、傍から見れば、ただの書生のようだった。

 しかし、その帳面の中身は——長崎港を出入りする船の数から、居留地の商人の与信情報まで、膨大な情報が整理されつつあった。


 長次郎と惣之丞が、変わった。

 正確には——変わっていく途中にあった。

 最高級の絹の衣を身につけ、小曽根家の「正当な代弁者」として居留地を歩き始めた二人は、最初の数日、まるで異国を旅するような顔をしていた。

 外国人商人と言葉を交わすたびに、長次郎は緊張から土佐弁が出すぎて相手を困惑させ、惣之丞は逆に黙り込みすぎて愛想なしと思われた。


 しかし一週間後、二人の歩き方が、変わっていた。居留地の石畳を歩く足取りが、浪人のそれではなくなっていた。

 背筋が伸びた。視線が周囲の情報を自然に拾うようになった。外国商人に声をかけられても、すぐには答えず、一拍置いて相手の出方を見るようになった。


 長次郎がある日、居留地の商館から戻ってきて、興奮を抑えた声で言った。

「龍馬、聞いてくれ。グラバーの商館で聞いた話じゃが——薩摩が、近々大量の銃の発注をするつもりらしいきに。ゲベール銃ではなく、イギリス製の新式ミニエール銃を。しかも、長崎奉行所を通さない経路で」


 龍馬は、その言葉を聞いて、煙草を口から離した。

「どこから?」

「そこまでは分からん。じゃが、商館の番頭らしい男が、同僚に漏らしているのを、わしが偶然、聞いたきに。確かにそう言っちょったぜよ」

 龍馬は、長次郎を見た。


 三週間前、この男は、油屋の奉公人だった。

 今は——居留地の外国商館の内部情報を拾ってくる。

「よくやったきに、長次郎」

「いや——わしが凄いのではなく、この衣のおかげで奥の商談室近くまで通されたんじゃ。彼奴ら、わしをただの京の富商と侮って、壁越しに声を潜めるのを忘れておった。この格好でなかったら、そもそも商館の奥に入ることも叶わんかったじゃろうし……」


「それがわかっちゅうなら、十分じゃ」

 龍馬は、長次郎の肩を叩いた。


 その情報は、すぐに小野寺の帳面に記録された。そして——乾堂の書斎で、龍馬が慶宛の速報を書いた。慶から松田屋(松田源五郎)へ。松田屋から大坂の中継点へ。そして京の糸子の元へ。


 蜘蛛の巣は、一本、また一本と…長崎の空に張られていった。


十二

 一橋上屋敷の一室。

 糸子は、窓の外の江戸の空を、しばらく眺めていた。


 初夏の江戸は、長崎より蒸し暑い。部屋の中に入り込む風は、どこか湿気を帯びて、重かった。


 机の上に、一通の書状が置かれていた。

 長崎から届いた、龍馬の報告書だった。

 糸子は、その書状の封を丁寧に切り開いた。

 中身を、広げた。


 最初に目に入ったのは——朱色の印影だった。

「天朝物産会所・長崎支部」


 見事な篆書体が、白紙の上で燃えるように輝いていた。

 糸子の目が、その印影の上で止まった。

 長い、沈黙。

 糸子の口元に、ゆっくりと——微笑みが浮かんだ。

 それは、少女の笑いではなかった。もっと深く、もっと遠いところを見ている者の、静かな笑いだった。

「流石…小曽根乾堂。やはり後世に名を残す方は違うわね……」


 糸子は印影を指先で、そっと触れた。

「仕掛けた歪な楽譜の意図を……完璧に読み解いてくれたわね」

  糸子は満足げに呟いた。果たして分かってもらえるか、正直なところ不安でもあったのだ。計算され尽くした音の反響特性など、常人に理解できるものではない。


 そして、白玉。


 糸子が彫り上がった印を送りつけなかったのには、理由があった。出来合いの印を渡せば、乾堂はただ捺すだけの——道具になってしまう。だが、まっさらな石を渡せば、乾堂は自らの手で「天朝物産会所」を彫り起こす創り手になる。


 長崎中の信用を一身に背負うあの篆刻の名手が、自分の名と技をこの暖簾に刻み込む。その一手によって、小曽根乾堂は脅された側ではなくなる。会所という生き物の骨の一本を自ら彫った者になるのだ。


 脅迫を出資に変える。隠していた抜け荷を隠す必要のない武器に変える。

 ——それが、白い石に託した、糸子の本当の企てだった。


 傍らに葵が控えていたが、糸子の独り言を聞いて、何も言わずにただ頭を垂れていた。糸子がこういった表情をする時は、近くにいる人物は静かにしているのが最善だと、彼女は学んでいた。


 糸子は、報告書を読み続けた。

 大浦慶の了解。小曽根邸の確保。奉行所の目付の退去。長次郎と惣之丞の居留地での情報収集の開始。小野寺の帳面への情報集約。

 一つ一つを読むたびに、糸子の目の奥で、何かが計算されていった。


 龍馬の報告書は、饒舌ではなかった。むしろ、簡潔すぎるほど簡潔だった。しかし、その行間に、龍馬という人間の、肌で感じたものが、滲んでいた。

 乾堂の鑑定眼を「本物じゃ」と書いた一行。

 長次郎の居留地での変化を「火がついた」と書いた一節。

 高田の観察力が奉行所の監視を正確に把握したことへの、短い賞賛。

(坂本は、本当によく人を見ている。見る目があるわ)


 糸子は、報告書を折りたたんだ。

 そして——新しい書状の用紙を取り出した。

 筆を浸した。

 次の指令を、書き始める。


 「薩摩・諸藩への武器経路の入口を掴んだ」——それが、次の段階だった。


 長次郎が居留地から拾ってきた情報は、予想より早く、核心に近いものだった。その経路を掌握することができれば、諸藩の武器調達が、天朝物産会所を通る形に変わる。いや変えなければならない。

 それは、単なる商売ではない。


 武器がどの藩に、どの価格で、誰を通じて流れるかを知ることは——内戦の火種を、事前に把握することだ。

 糸子は、書き終えた書状を、乾かしながら窓の外を見た。


 江戸の空が、夕焼けで染まり始めていた。

 橙色の光が、糸子の部屋の中に差し込んで、机の上の朱色の印影を、さらに赤く染めた。


 糸子はその印影を、もう一度目に収めた。

 長崎という遠い街で、今この瞬間も坂本たちが動いている。蜘蛛の巣の糸を、一本一本、確実に張り続けている。


 それは——誰かの命令に黙って従っているのではなく。

 それぞれが、自分の目で見て、自分の足で歩いて、自分の頭で判断して、動いているのだ。


 企ては、現実に当たれば必ずどこかで歪む。机上でどれほど精緻に組み上げても、長崎の風や潮の匂いの中では、思わぬほつれが生まれる。その歪みに即座に応じられるのは、現場に立つ者の判断力だけだ。


 龍馬にはそれがある。糸子は確信していた。


(坂本——あなたは私の企てを実行しているのではなく、私の企てを超えていくのです。そうでなければいけないと思うの…)

 その確信が糸子の胸の奥で静かに、しかし確かに燃えていた。


十三

 長崎の夜が来ていた。


 港の方から吹いてくる風は、昼間の熱を残しながらも、少しだけ涼しさを帯びていた。石畳の坂道から見下ろすと、長崎の港の灯りが、揺れながら水面に映っていた。蒸気船の黒い船体が、暗がりの中でも存在感を放っている。


 龍馬は小曽根邸の裏庭に、一人で出ていた。

 庭の石の上に腰を下ろし、長崎の夜空をぼんやりと眺めていた。

 この数日で足場ができた。


 大浦慶という九州の茶を仕切る女傑。

 小曽根乾堂という、長崎最高の情報拠点を持つ文人。

 長次郎と惣之丞という、居留地を歩き回れる若い力。

 小野寺の帳面に、情報が集まり始めている。

 糸はたしかに張られ始めていた。


 龍馬は膝の上に手を置いて、夜空を見上げた。

 星が多かった。江戸では煤煙と人いきれで見えにくい星も、長崎ではこんなにはっきりと見える。

(……姫様は——今頃、次の指令を書いちょるだろうか)

 龍馬は微かに笑った。


 姫様がどういう人物かは……龍馬はまだ完全には理解できていない。あの小柄な体のどこに、あれほどの先を見通す力が宿っているのか。

 なぜ、ここまで日本のことを——まるで自分の子のように、心から案じているのか……


 「わしには、よう分からんがじゃ」


 しかし——分からなくていい、と龍馬は思った。

 なぜなら、龍馬には自身の目がある。


 糸子の張った糸の中で、龍馬は、それをただ辿るだけの存在ではない。その糸の先で、糸子の頭の中にすらなかった何かを、自分の手で掴み取る——それこそが龍馬という人間の使命だと、肌で感じていた。


 裏庭の門の向こうから、月琴の音が、かすかに聞こえた。

 乾堂が夜も弦を爪弾いているらしかった。

 その音が、長崎の夜の空気に溶けていく。

 龍馬は目を閉じた。

 耳に月琴の音。鼻腔に、潮の香りと夜露の草の匂い。肌に長崎の夜の湿った風の感触。


「これからは刀の時代じゃない、帳簿と信用が天下を動かすがじゃ」

 龍馬が、独り言のように呟いた。

「この長崎の無音の社交の場から、新たな日本が始まるぜよ」

 月琴の音が、続いていた。


 港の蒸気船が、一つ、汽笛を鳴らした。

 それは遠く、しかし確かに……長崎の夜を切り裂いた。


 第百十一話 了

■日本屈指の篆刻(てんこく)家・文人画家、小曽根乾堂を少し解説ヽ(´∇` )ノ


小曽根乾堂(こぞね けんどう)は、幕末から明治時代にかけて長崎で活躍した豪商です。幕末の志士である坂本龍馬の最大の理解者・パトロンとして知られ、明治維新後は新政府の勅命により「御璽(ぎょじ)」と「国璽(こくじ)」を刻した人物として歴史にその名を残しています。


1. 坂本龍馬と「亀山社中」への巨額の支援乾堂は幕臣の勝海舟と親交があり、海舟の紹介で坂本龍馬と出会いました。

活動拠点の提供: 龍馬が結成した日本初の商社「亀山社中(のちの海援隊)」の事務所は、小曽根家の別邸に置かれました。海援隊の本部も小曽根邸に置かれ、財政面を全面的に支援しました。


お龍の保護: 龍馬の妻・お龍が長崎に滞在した際、小曽根家が身の回りの世話を引き受けました。乾堂の長女・キクはお龍に「月琴(げっきん)」という楽器を教えたと伝わっています。


2. 明治政府の「国家の印(御璽・国璽)」を制作明治4年(1871年)、明治政府の勅命により、天皇の印である「御璽」と、国家の印である「国璽」を制作しました。

これらは日本の最重要機密文書や詔書(法律・条約など)に今も捺印されている国宝級の印であり、乾堂の篆刻技術が日本最高峰であった証拠です。


3. 万能の文化人・実業家

経済の才に長けていただけでなく、書画、音楽、教育など多岐にわたる分野に足跡を残しました。


近代長崎への貢献: 私立小曽根小学校(のちの浪の平小学校)を設立したほか、清国との貿易に必要な埠頭(桟橋)を建設し、長崎の近代化に大きく貢献しました。


明清楽の確立: 中国伝来の音楽である明清楽(みんしんがく)の「小曽根流」を確立し、明治天皇の御前で演奏した経験も持ちます。

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〉おまんのその、濁った密貿易を ここは抜け荷と呼んだほうがよくないかな? (´・ω・`) 評価を五つ星で投票しました。 (。ŏ﹏ŏ)
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