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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計150万PV/30万UU突破!100万文字の幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百九話「啓蒙のペンと国家の土蔵」

 一橋上屋敷の廊下は、冷えていた。

 座敷の火鉢の熱から離れると、それが分かった。板張りの廊下に足を踏み出した瞬間、冬の空気が首元に当たった。福沢諭吉は、思わず着流しの衿を片手で押さえた。

 外はまだ、夕闇に沈みきってはいなかった。


 障子の向こうの空が、茜色から深い紫へと移り変わっていく。昼と夜の境界、逢魔が時の、最も物寂しい時刻だ。それでも——西の端には、ほんのわずかだけ、昼間の名残のような朱が滲んでいた。

 足音が二つ、廊下を歩いていた。


 福沢と小栗。その後ろを、近藤勇が一定の距離を保ちながら歩いていた。見送りという名目だが、本質的には監視だ。しかし今の二人には、その視線が気にならなかった。それどころか、後ろに誰がいるかも、半ば忘れていた。

「……」

「……」

 二人とも、黙っていた。

 歩きながら、それぞれの頭の中が動いていた。


 福沢の脳裏には、帳面に書かれた文字が浮かんでいた。天朝語学所。カタカナ発音辞書。出版資金は全て持つ、と言った声が、まだ耳の奥に残っていた。近衛家の姫君が、白檀の香りの漂う座敷で、御所言葉で——しかし極めて正確に、明日から動くべきことを言い切った。


(あの姫君は……何を知っているというのだ?)

 いや、何を知っているか、という問いは正しくない。知識の量の問題ではない。知識と現実と未来を、一続きの地図として持っている——その地図の精度が、圧倒的なのだ。


 小栗は、懐のネジを指先でなぞっていた。歩きながら、触れ続けていた。螺旋の刻みが、指先に当たる。均等な、機械の刻みだ。

 規格を統一せよ、と言われた。

 その言葉が、今も小栗の頭の中で展開し続けていた。薩摩のネジも、長州のネジも、幕府のネジも——全て同じ規格で噛み合うように。


 一見、単純な命令だ。しかしその命令の意味するところを、小栗は歩きながら計算し続けていた。規格が統一されれば、部品の互換が生まれる。互換が生まれれば、修理の問題が根本から変わる。修理の問題が変われば、軍艦の維持コストが変わる。維持コストが変われば——


(これは、工業規格の話だけではない)

 小栗は気づいていた。

 この国の軍事産業と近代的な基盤が、一つの「基準」の網の中に組み込まれる。その基準を設計するのが誰か、ということが——実は最も重要なことだ。


「……福沢殿」

 小栗が、歩きながら言った。

「何でしょう、小栗様」

「あの姫君は——」

 小栗は少し言葉を探した。

「何かを、隠しているとお思いか?」


 福沢は答えなかった。すぐには答えられなかった。

 廊下の端で、風が入り込んできた。障子の隙間から来る、初春の冷たい空気だ。白檀の香りが、遠くなった。

「……隠している、というより」

 福沢はやがて言った。

「見えているものが、我々とは違うのでしょう」


「同じことです」

「いいえ」と福沢は首を振った。

「隠しているのは、意図があるからです。あの姫君が見えているものを全て話さないのは——話すべき順序を、ちゃんと知っているからだと考えます」

 小栗は黙った。


「……それが、また恐ろしい」

「全く」と福沢は言った。

「全くその通りです」

 廊下の端に、玄関が見えてきた。草履が並んでいる。

 外はまだ、夕闇に沈みきってはいない。


 近藤勇が、少し前に出た。

 二人の草履を揃えながら、何も言わなかった。


 その夜、福沢諭吉は眠らなかった。

 築地の鉄砲洲にある仮の住まいに戻り、行灯に火を入れて——そのまま夜が明けるまで、机の前を離れなかった。

 行灯の炎が、ゆらゆらと揺れていた。和紙を通した、柔らかい黄色い光だ。その光の中で、福沢の手が動いていた。書いて消して、また書く。


 目の前には、二冊の本が開かれていた。

 一冊は、大金を出して買ったウェブスターの辞書だ。分厚い背表紙は擦り切れている。アメリカで、毎日のように繰った。帰国の船の中でも繰った。ページの端が、無数に折られている。

 もう一冊は、上海経由で手に入れた英中対訳本、『華英通語』だ。


 これに——日本語を加える。

 カタカナで発音を入れる。

 あの姫君がそう言った。生きた英語の音を、日本中に広めるための辞書を作れ、と言った。

(どれほどの人間が、これで救われるか)


 福沢は、ペンを持ったまま少し目を閉じた。

 アメリカで、自分は何度も言葉に詰まった。読み書きはできる。しかし、話すと通じない。相手が話すと、聞き取れない。言葉を知っていても、音を知らない——その壁が、どれほど厚かったかを知っている。


 今の日本の蘭学者たちは、オランダ語の読み書きはできる。しかし英語の発音で詰まる。フランス語の音が分からない。

 その壁を——この一冊が崩せる。

「……行くぞ」

 福沢は、小声で言った。

 誰にでもなく、自分に言った。


 ペンが動き始めた。

 Earthという単語の横に、カタカナで「アース」と書く。しかしすぐに消した。「ア」の発音が、日本語の「ア」とは違う。どう書けば、この音が伝わるか。耳の奥で、アメリカで聞いた音を再生した。

 書き直した。また消した。また書いた。


「Earth……アース、ではない。地を這うような、舌の奥を噛む音だ。既存のイロハでは、メリケンの喉の震えが写せない」

 福沢は墨をたっぷりと含んだ筆を握り直し、半紙に『ア』と書いた後、その横に小さく『舌を浮かせて発す』と注釈を書き添えた。Vの音には、ウの頭に濁点をつけて『ヴ』としてはどうか。

「これだ……これなら、奴らの生の呼吸が、日本の文字に宿る!」


 誰も試みたことのない、新しい文字の創出。それは知の狂気であった。行灯の油の匂いが立ち込める中、彼の指先は墨で真っ黒に汚れ、机の上は没になった半紙の海と化していた。福沢の額からは汗が滴り、その目は獲物を追う獣のように爛々と輝いていた。


 夜が、じわりと明けていく。行灯の光と、障子越しの空の光が、少しずつ混ざり合っていった。

 福沢は、気づかなかった。

 気づいたのは、弟子の一人が「先生、朝ですよ」と声をかけてきたときだった。

「……もう朝か」

「昨夜からずっと起きておられたのですか」

「起きているというより——眠り忘れた」


 福沢は、机の上を見た。紙が積み重なっていた。書いては消し、消しては書いた跡が、何十枚も重なっていた。

「どのくらいになりましたか」

「百語は超えた。まだ全体の一割もない」

 弟子は少し黙った。

「……先生。これは、どういうものを作っておられるのですか」

「日本中の人間が、英語を話せるようにするための本だ」

「日本中が……?」


「一部の通詞だけが知っていればいい、という時代は終わった。商人も、職人も、農民だって——これからは、異国の言葉が必要になる時代が来る。その時に、この本が一冊あれば、誰でも独学で音から学べる。そういうものを作る」

 弟子は、机の上の紙の山を見た。

「資金は……」

「ある」

 福沢は、短く言い切った。


「天朝物産会所が全額出してくれるそうだ。大坂・京都・江戸の本屋に一斉に流通させる段取りも、向こうで進めてくれている。俺たちは——良いものを作ることだけに、集中すればいい」

 弟子は、また少し黙った。

「……天朝物産会所というのは?」

「近衛家が動かしている経済の網だ」


「えっ——公家のお方が…ですか?」

「そうだ。おかしいことを言っているのは分かっている。しかし——事実だ」

 福沢は立ち上がり、背筋を伸ばした。一晩座り続けた体が、軋む音を立てた。それを無視して、彼は窓の障子を少し開けた。


 朝の光が入ってきた。冷たい、澄んだ光だ。

「一ヶ月で初稿を出す。そのあとで村田蔵六殿と合わせて、語学所のカリキュラム…教育課程も作る。——手伝えるか」

 弟子は、少し間を置いて頷いた。

「はい、是非やらせてください」

「ならば今日から始める。まず朝飯を食え。俺も食う。食ったら続きだ」


 天朝物産会所が動いたのは、それから三日後だった。

 本屋の株仲間に、前渡金が届いた。大坂の本屋に、京都の版元に、江戸の主要な書肆に——ほぼ同時に、為替手形が届いた。


 その額を見て、本屋たちは揃って目を瞠った。

 当時の木版印刷は、原版の彫り代だけでも相当の費用がかかる。上質な和紙の調達も、刷り師への報酬も——全て合わせれば、普通の版元が出せる資金で作れるのは、せいぜい数十部だ。


 しかし届いた前渡金は、その規模ではなかった。

 数千部規模の同時印刷を可能にする——そういう金だった。

 版元の一人が、手形を手にしたまま、しばらく動けなかった。

「……誰が出しているのだ」

 番頭が小声で言った。


「天朝物産会所とある」

「どこのお方が」

「朝廷のご関係と……」

 版元は、手形を持ったまま、座敷の奥に引っ込んだ。しばらくして戻ってきた時には、顔の色が変わっていた。

「……今すぐ彫り師に声をかけろ。一番腕のいい者を全員呼べ。急ぎの仕事だ」

 こうして——『増訂華英通語』の出版準備が、江戸と大坂で同時に動き始めた。


 福沢が原稿を書き、弟子たちが清書し、版元が彫り師に渡す。その繰り返しが、数週間続いた。

 夜中の作業が続いた。

 行灯の炎が揺れる中、福沢の手が動いた。


 Capital——資本。Credit——信用。この概念を、どう日本語に落とし込むか。単に意味を訳せばいいのではない。この言葉の「重さ」を伝えなければ、読んだ人間に何も残らない。

「資本とは——金そのものではなく、金を動かす力のことだ」

 福沢は、注釈に書いた。

「信用とは——金を持っているかどうかではなく、その人間が言ったことを信頼できるかどうかだ」

 これを書きながら、あの姫君のことを思った。


 あの近衛家の姫君が動かしている「天朝物産会所」は、まさにこの概念で動いている。金を持っているから信用があるのではなく、信用があるから金が集まってくる。朝廷という後ろ盾と、近衛家の名前が積み重ねてきた実績が——商人たちの資本を引き寄せている。


(この国に、まだ異国のような「信用」と呼べる概念はない……)

 福沢はそう思った。

 正確には、信用という慣行はある。しかし、それを「制度」として設計した者がいない。あの姫は——それを、形作ろうとしている。


 ペンが、速くなった。

 書くべきことが、また増えた気がした。


 完成した。

『増訂華英通語』の初版が刷り上がったのは、福沢が一橋上屋敷を訪れてから、約束通り…ちょうど三月後だった。

 刷り上がったのは、まずは外交と交易に必要な語彙を厳選した『増訂華英通語・乾の巻(上巻)』であった。

 約二千二百語に及ぶ辞書をすべて木版で彫り上げ、数千部という当時の常識を遥かに超える部数の和紙と版木を短期間で揃えるなど、物理的な不可能に近かった。


 しかし、天朝物産会所は大坂・京都の株仲間から力ずくでそれを調達してみせたのだ。

「まずは乾の巻、実用に足る数百語のみを先行して市場に叩き込む!」という……糸子の現代での『最小限の製品(MVP)による市場テスト』の思想が、幕末の物流の限界を狂気的なスピードで突破させたのである。

 この初刷の上巻が志士や横浜の豪商の間で爆発的に売れたことで、続く中巻・下巻の製造ライン(サプライチェーン)へと完璧な形で繋がっていくこととなる。


 本は薄い。手のひらに収まる大きさだ。しかし中身は——それまでの日本に存在しなかったものだった。


 英語の単語の横に、カタカナで発音が書いてある。意味だけでなく、音が書いてある。

 これを読んだ人間は——声に出して、英語の音を練習できる。


 初刷りは、大坂・京都・江戸に同時に配本された。天朝物産会所が設計した流通の網が、一斉に動いた。

 最初に売り切れたのは、大坂だった。

 続いて京都。翌日には江戸でも、在庫が消えた。

「増刷を」という声が、版元に殺到した。版元は即座に動いた。天朝物産会所の前渡金には、増刷分の余裕も含まれていたからだ。


 福沢は、その報告を聞いて——しばらく黙っていた。

 弟子が「先生、やりましたね!」と言った。

「……やった、というより」

 福沢は少し考えて、言った。

「始まった、という感じがする」

「始まりですか…」

「あぁ、これまで異国を『ただの化け物』として恐れていた若者が、この一冊で——『論理で解剖できる対象』として見始める。それが始まった…という感じだ」


 弟子は、その意味をしばらく考えた。

「……先生は、メリケンで——そうお感じになられたのですか?」

「そうだ。言葉が分かった瞬間に、あの国の人間が急に『人間』に見えた。言葉が通じない間は、どこか別の生き物のように見えていたのに」

「……この本が、それをするということですか」

「全国で、同じことが起きる。一人でも多くの人間が、この本を手にして——異国を恐れるのをやめる。論理で考え始める。それで十分だ」


 弟子は、また少し黙った。

「……先生は、お会いした姫に——感謝しておりますか?」

「感謝と言うよりは……」


 福沢は窓の外を見た。春の光が、少し強くなっていた。

「借りができた。果たして返しきれるか、わからないほどの借りが……」


 一方、小栗忠順は——江戸城の勘定所に乗り込んでいた。


 勘定所の会議室は、古い畳が敷かれた、重苦しい部屋だ。梁が低く、窓が小さい。昼間でも薄暗い。そこに、老中の一人を含む保守派の官僚たちが、顔を揃えていた。

 小栗は、一人で乗り込んだ。


「横須賀に製鉄所を建てる件」と、小栗は最初から単刀直入に言った。

「……また、その話か」

 老中の横にいた官僚が、露骨に顔を顰めた。五十がらみの、体の大きな男だ。譜代の家柄で、先代から勘定所を仕切っている。


「今の幕府財政で、外国から機械を買い、技師を雇う余裕などない。先年の金の流出を防ぐための貨幣改鋳(万延の改鋳)以来、貨幣の価値は地に落ち、諸物価は倍以上に跳ね上がっておる。

 横浜から生糸がいくら流出しようとも、関税は雀の涙、儲かるのは不埒な商人のみで幕府の金蔵は空っぽだ。おまけに国内の品不足まで重なり、このインフレで民の不満は爆発寸前。今さら異国へ払う洋銀など、どこを叩いても出てこんわ! 故に国庫は——」


「国庫からは、一文たりとも出させませぬ」


 小栗の静かな一言が、冷え切った勘定所の空気を一文字に切り裂いた。

 並み居る幕閣たちが、一斉に不快そうに眉をひそめる。


「……何だと?」

「言葉の通りにござる。幕府の金蔵からは、銭も洋銀も、一銭たりとも使わせない。その代わり——」


 小栗は懐に手を入れた。その奥で、鉄のネジを一本、指がちぎれんばかりに固く握りしめている。噴き出しそうになる熱い感情をそのネジに込めて抑え込みながら、もう片方の手で、懐から一通の厚い書面を取り出した。

 それを、会議の卓の上に、静かに滑らせる。

 上座の老中が忌々しそうにそれを拾い上げ、視線を落とした。読み進めるうちに、老中の老いた顔から、みるみる血の気が引いていく。


「小栗……貴様、これは何だ。天朝物産会所……? 五摂家筆頭、近衛の家名があるではないか。しかも、この写しは……」

「主上様より直接賜った、綸旨の写しでございます。ただの……商人の寄り合いではございませぬ」


 その言葉が落とされた瞬間、部屋の空気が凍りついた。

 老中の持つ書面が、わずかに震えている。卓を囲む幕閣たちの頭の中で、最悪の思考がぐるぐると渦を巻き始めた。

 いまや江戸も京都も、万延の改鋳がもたらした物価高騰で地獄の様相だ。市場からは物資が消え、横浜からは生糸が際限なく流出して、国富が削り取られている。その大混乱の最中に、朝廷の頂点たる近衛家が動き、大坂や江戸の豪商たちの巨万の富を束ねて、新たな巨大組織を立ち上げたというのだ。


「馬鹿な……朝廷が、商人の銭を直接動かしているというのか!? 小栗、このような暴挙、幕府を蔑ろにするにも程がある! 生糸の利権は国家の血だ。それを朝廷が独占するなど、断じて許せるか!」

「では、お止めになりますか?」


 小栗は冷徹極まる眼光で、声を荒らげた老中を真っ向から射すくめた。


「これは主上様より直接お認められた会所にございます。今ここで幕府がこの事業を邪魔立てすれば、それは『朝廷の御意志に背く』ということ。

 ……すなわち、幕府が朝廷に対して敵対行為を働いたと、天下に喧伝されることになります。我らは一瞬にして、逆賊の汚名を着せられる。それでも、お止めになられますか?」

「う、ぐ……っ」


 老中は言葉を詰まらせ、拳を震わせた。誰も反論できない。朝廷と正面から反目することの恐ろしさを、この場の誰もが本能的に理解していた。


「……小栗」

 それまで黙っていた老中が、苦渋に満ちた声で割り込んだ。

「幕府に逆賊になれと言うのか。それとも、朝廷の軍門に降れと、そう言うのか」

「逆です。むしろ、幕府が蒔いた失敗の種を、朝廷の権威で刈り取る好機にございます」


 小栗は、少しも怯まずに言葉を繋いだ。


「一昨年、幕府が出した『五品江戸廻送令』は、横浜の外国商人と地方の生産者の反発を買い、今や完全に骨抜きにされております。幕府の権威だけでは、もはや生糸の密貿易を力ずくで抑え込むことは叶わぬ。

 なれば、この綸旨の威光を借りるのです。不従順な地方の商人や生産者どもを、朝廷の御意志という絶対の鎖で縛り上げる。会所が生糸を一手買い付けし、価格を統制すれば、横浜での買い叩きは止まり、国内の物価高騰も沈静化いたします」


「だが、それではやはり、旨みはすべて朝廷のものに……」

「書面をよくお読みくだされ。横須賀に造る製鉄所の所有権、そしてそこで育成する職人たちの管理権――その根幹は、会所から幕府へと譲渡、すなわち完全に幕府の主導下に置く契約になっております。

 さらに、会所が直販で得る外貨のうち、一定割合は『冥加金』として毎月、勘定所の金蔵へ直接納められる。フランスへの支払いや面倒な外交交渉は、すべて会所が朝廷の名代として、その外貨で行う。

 しかし、出来上がる最先端の工業力、鉄を操る技術、そして強力な軍備の独占権は、すべてこの幕府の手に転がり込んでくるのでございます」


 小栗は一呼吸置き、居並ぶ幕閣を冷ややかに見渡した。


「朝廷には『尊皇』の名分と生糸の管理権を。しかし、そこから生じる実利と軍事力のすべては、この幕府が掠め取る。幕府の懐は痛まず、逆賊の汚名も避けられ、その上で最先端の軍港が手に入る。この期に及んで、何を躊躇う理由がございますか」


 部屋を支配したのは、あまりにも重い沈黙だった。

 小栗の口から溢れ出たのは、単なる予算の言い訳ではない。朝廷の絶対的な権威という諸刃の剣を逆手に取り、激しいインフレの中で外貨を力ずくで国内へ囲い込み、なおかつ幕府の延命を図るという、冷徹極まる経済ロジックだった。


「……フランス側は、これで納得するのか。奴らとて、裏で何を企んでいるか分かったものではないぞ」


「彼らが喉から手が出るほど欲しているのは、イギリスに出遅れた生糸の安定した供給経路にございます。今回は、政情不安な幕府ではなく、国内の最高権威である帝の公認たる天朝物産会所が正式な『商業契約』の当事者となる。フランス側にとっても、これほど確実な保証はございませぬ。

 万が一、フランス政府がこれ以上の政治的、あるいは軍事的な介入を試みようとすれば、それは商取引の破棄、ひいては朝廷への敵対とみなして、一切を突っぱねる大義名分が立ちます。全員が、己の利のために動く。誰かが損をしたり、誰かが独占する歪な構造では、この激動の時代は長続きいたしませぬ。これは慈善事業ではなく、国家の命運を賭けた『事業』でございます」


 老中は、書面から目を上げてじっと小栗を見た。

 朝廷という巨大な怪物への凄まじい警戒心。そして、予算が底を突き、インフレに喘ぐ幕府にとって、一文も出さずに手に入る「最先端の製鉄所」という、毒の混じった極上の誘惑。そのすべての糸を引いている、背後にいる何者かの影。


 誰も口を開かない。ただ、部屋の隅で、置時計の秒針だけがやけに大きく響いていた。

 やがて、老中が深く、重い吐息を漏らした。


 書面から目を上げて小栗を見た。

 長い沈黙があった。


 梁の低い部屋の薄暗さの中で、老中の顔が読めなかった。怒っているのか、考えているのか——判断がつかなかった。

「……具体的に、いつ動く」

 老中が言った。

 小栗の肩が、わずかに動いた。

 怒りでも、困惑でもなかった。

 承認だ。


「準備が整い次第……幕府主導の元、天朝物産会所と共にフランス公使館と交渉を始めます。正式な許可を、今すぐいただけますか」

「……いただけますかではなく、取れ。書いてやる」


 苦渋に顔を歪め、激しい葛藤の末に、彼は震える手で許可の筆を取った。一文字ずつ、己の敗北を刻み込むように筆を走らせるほかなかった。


 保守派の官僚たちは、二の句が継げずに黙っていた。


 役宅に戻った小栗は、書面を机の上に広げた。

 許可が下りた。

 その事実が、まだ少し、実感と距離があった。


 長く——本当に長く、この壁を叩き続けてきた。帰国してから何度も上申して、何度も「妄言」と跳ね返されてきた。その壁が、今日——崩れた。

 崩れたのは、自分の言葉が変わったからではない。

 後ろに、資金がついたからだ。


 資金は力だ。理念は尊い。しかし、理念だけでは人は動かない。動かすには、現実の資源が要る。その現実の資源を——あの姫君が、用意していた。

(私は、一人で壁を叩いていた)

 小栗は思った。

(しかしあの姫君は——私が壁を叩く前から、その壁を壊す道具を準備していたのだ)


「小栗様」

 番頭が、部屋の入口で声をかけた。

「設計図の写しが届いております。フランス式の製鉄所の基本設計——技術者のレオン・ヴェルニー氏が携えてくるものと同じ型のものだそうです」

「……誰から?」

「天朝物産会所より。先にご覧になっておけとのことで」

 小栗は少し間を置いた。


 それから「持ってきてくれ」と言った。

 設計図が広げられた。

 精巧な図だった。フランス式の溶鉱炉の構造。蒸気機関の配置。水路の設計。建屋の配置図。

 そして——その端に、小さな文字で書き添えられていた。

 あの姫の筆跡だと、小栗にはすぐ分かった。

「学校の設置場所は、工場の南東側が望ましい。職人が昼の仕事の後、夕刻から学べる距離に」

 そして、もう一行。

「ネジの規格統一については、別紙参照のこと」


 小栗は、別紙を取り出した。

 そこに——数字と図が、整然と並んでいた。ネジの断面図。螺旋の角度。溝の間隔ピッチの推奨値。そして、各地の鍛冶師に配布するための基準書の草稿。

「……これは」

 小栗は、一人ごちた。

「よし、今すぐ、始める!」


 翌週から、小栗は動き始めた。


 まず、幕府の権限を使い——職人たちの元へ、触れを出した。

「今後、幕府の管轄において製造される金属部品については、別途定める統一規格に従うこと」

 最初、職人たちの反応は様々だった。

 困惑する者。反発する者。「先代からの寸法がある、それを変えろというのか」と怒る者。


 小栗は、そういう声に一つ一つ対応した。説明した。なぜ規格が必要か。なぜ統一することで、逆に職人の仕事が広がるか。

「今のあなたが作ったネジは、あなたの工房でしか使えない。しかし統一規格のネジになれば——薩摩の船にも、長州の機械にも、幕府の軍艦にも使える。あなたの仕事の範囲が、全国に広がる」

 その説明で、理解する職人が増えた。


 まず江戸の鍛冶師から始まり、大坂の金物師へ。そして横須賀の近くの職人たちへ。

 小栗は、基準書を持って回った。一ヶ所一ヶ所。自分の脚で。

 役人を使えばもっと早かった。しかし小栗は、自分で行くことにした。


 職人の手が、何を作れるかを——自分の目で確認したかったからだ。

 そして確認するたびに——驚いた。

 この国の職人の手が、どれほど精緻かを。長年かけて培われた、加工の技術の深さを。

(問題は、技術ではなかった)

 小栗は確信を深めた。


(この国に足りなかったのは——技術ではなく、それを繋ぐ『仕組み』だった)

 あの姫君が言った通りだ。

「歴史も、論理も、日本が劣っている点など…なに一つなかったのだ……」

 小栗は改めて実感した。


 足りなかったのは——規格という仕組みと、それを動かす富の集め方だったのだ。


 夜。

 小栗の役宅の灯火が、遅くまで消えなかった。

 机の上に、横須賀製鉄所の設計図と、ネジの規格統一の基準書と——そして糸子からの帳面の写しが、並んでいた。

 三つを見比べながら、小栗は計算し続けた。


 製鉄所の建設が始まれば、部品の需要が生まれる。需要が生まれれば、規格統一された部品を作れる職人に仕事が集まる。仕事が集まれば、職人の技術が向上する。技術が向上すれば——やがて日本人だけで、製鉄所を動かせるようになる。

 この連鎖を、最初に設計した者がいる。


 帳面の写しを、もう一度開いた。

 糸子の筆跡が、そこにあった。美しく、しかし実務的な文字だ。情緒がない。装飾がない。必要なことだけが、必要な場所に書いてある。

(この姫君は——官吏だ)

 小栗は思った。

 感情で動かない。理念だけでも動かない。資源と仕組みと連鎖を計算して、最も効率的な道を選ぶ。


(しかし——なぜそこまで、この国のことを考えられるのだ?)

 その問いが、小栗の中にあった。

 公家の姫君が、なぜここまで……。

 何が——彼女をそこまで動かしているのか?。

 答えは、まだ見えなかった。


 しかし——答えが見えないまま、小栗はまた計算を始めた。

 答えを探すより、今は動くべきことがある。


「近藤殿」

 糸子の声が、奥御殿に届いた。

「なんでしょう、姫様」

「二人は——睦まじう、執り行うておいでにございますか」

 近藤は少し間を置いた。


「……それぞれに、忙しそうにしているようです」

「何か、届きおきたる報せは、ございましょうや」

「福沢殿の辞書が、大坂で売り切れたと。増刷を進めているとのことです」

「そうですか」

 糸子の声は、穏やかだった。


 しかし御簾の向こうで、糸子は少しだけ息をついた。

(売り切れた。良かったー)

 内心で思っていた。商品が売り切れることの、そのカタルシスを知っている。前世で何度も企画を通し、売り場を企画し——数字を確認したときの、あの感覚だ。


「小栗殿の方は」

「江戸の鍛冶師たちに、直接規格書を届けに回っているとのことです」

「自分で?」

「はい。役人に任せず、自分の脚で回っているようです」


 糸子は少し黙った。

(そうか。現場を見たいのね)

 予想通りだった…と思った。小栗忠順という人間は、自分の目で確認しないと気が済まない。だからこそ、あれだけの設計ができる。


「近藤殿」

「はい」

「あなたは——どうお思いですか」

「何を…でございますか?」

「二人のことで、ござりまする」

 近藤は、しばらく考えた。


「……真剣です」

「それだけですか」

「真剣さの種類が、全く違います。福沢殿は——燃えている。小栗殿は——削っている」

「削っている?」と糸子は繰り返した。

「石を削るように。時間をかけて、正確に形を出す——そういう動き方をしていると、報せから感じました」

 糸子は、そこで少し間を置いた。


「……上手い表現でございますね」

「そうでしょうか」

「燃えることと、削ること。どちらが必要か、という問いに答えはないのですが——どちらも必要なのは確かで、それが今、別々の人間によって同時に起きているというのは……少し、出来過ぎているような気がします」

 近藤は答えなかった。


 糸子の言葉が、どういう意味を持つのかを、考えていた。

 出来過ぎている——という言葉の奥に、何かがある気がした。

「……姫様」

「なんでありましょう」

「出来過ぎているとしたら——それは、姫様が関わったからでしょう」

 沈黙があった。

 長い沈黙だった。


「……近藤殿」

「はい」

「あなたは——時々、少し怖いことを言いますね」

「申し訳ありません」

「いいえ」と糸子は言った。

「怖いというのは——正確だということです。怖くなければ、考えていないということですから」

 近藤は、その言葉を黙って受け取った。


十一

「思うておりましたよりも、良うございました」

 御簾の向こうで、糸子はそう言った。

 声は穏やかだった。のんびりとしていた。先ほどまでの静かな緊張が、少し解けたような——そういう声だった。


 近藤は、その声を聞いた。

 聞きながら、少しだけ——口元が動いた。

 笑みといえば笑みだった。哀れみの色が混じっていた。しかしそれは、この姫への哀れみではない。二人の男への——先達としての、静かな哀れみだ。


(俺もあの時はそうだった)

 近藤は思った。

 初めてこの姫君に話を聞いたとき——自分も、似たようなものだった。頭を叩き割られた、という表現が最も正確だったかもしれない。当時、農家の出の自分らに、あの姫様は直接頭を下げられたのだ……

 それから今まで、どれほどの時間が経ったか。


 今の近藤には、あの衝撃を感じられなくなっていた。ただ——お役目として姫様の味方として、傍にいる。この姫君が向いている方向を守る。そしてお守りするだけだ。


 近藤は、二人の男を見て思う。

 あの二人も、やがて——今の自分と同じ場所に立つのかもしれない。


「近藤殿」

「はい」

「次の帳面を——」

「分かりました」

 近藤は立ち上がり、棚に向かった。青い表紙の帳面を取り出す前に、一度だけ窓の外を見た。


 夜が、また来ていた。

 しかし東の空は——少しだけ、昨日より明るかった。

 春が、確かに来ていた。


十二

 廊下を歩きながら、福沢と小栗は——初めて、二人だけで話した。

 一橋上屋敷を出た後の話ではない。それから数週間が経ち、偶然に——いや、近藤の手配によって——江戸の外れの料亭で、顔を合わせる機会があった。


 初夏の夜だった。

 料亭の縁側から、池が見えた。池の水が、月の光を受けて銀色に光っていた。蛙が鳴き始める季節には、少し早かった。静かな水面に、枝垂れ桜が反射していた。

 二人は、盃を持っていた。

 しかし、ほとんど飲まなかった。


「……あの姫君は」

 福沢が言った。

「まだ何か、隠していると思います」

「そうだな」と小栗は答えた。

「しかし——隠していても、今のところは構わないと思っている」

「なぜですか?」

「方略が正確だからです。隠し事がある人間の方略でも——正確ならば、使える」

 福沢は少し笑った。

「あなたは実務家ですな」

「そう言われる」

「私は——少し違う理由で、構わないと思っています」

「どういう理由で?」

 福沢は池の水面を見た。

 月の光が揺れている。

「あの姫君が、何かを隠しているとしても——その隠しているものが、この国に悪いものだとは思えない。そう信じている、というより——そう感じるのです」


 小栗は、盃を置いた。

「感じる…というのは——根拠があるのか?」

「あの姫の焦り方です」

「焦り?」

「論破するときの声ではなく——最後に近藤殿に話していた声を、廊下で少し聞こえてしまいました。『南北の衝突は、すぐに始まる』と聞こえたのです。あの声は——焦っていた。計算した焦りではなく、本当に時間が惜しいと思っている人間の声だったのです」

 小栗は少し間を置いた。

「……やはりそういう内容だったのだな」

「えっ…?」

「…正直、聞き間違いだと思っていた」

「では」

「あぁ……」

「あれほど時間を惜しんでいる人間が——この国を悪い方向に動かそうとしているとは、私にも思えん」

 二人は、しばらく黙っていた。


 池の水面で、風が一度、水を揺らした。

 月の光が、砕けて広がった。それがまた静まり返るのを、二人で見ていた。

「……次に呼ばれたときに」

 小栗が言った。

「何を聞くか…」


「南北の衝突のこと。それから——姫様がぼそりと呟かれた『メリケンの戦が始まれば、向こうの政府は緑色の紙切れを刷りまくる。それが我が国の金を吸い上げる』という言葉。あれは何のことか分かりますか、小栗殿」

「緑の紙切れ……? 想像もつかん。だが、あの姫君の言葉だ。ただの紙切れを黄金に変えるような、恐ろしい金融の罠が海の向こうで動いているのだろう。我々がネジや辞書に追われている間にも、姫君の視線はすでにその先を見ておられるのだ」

 小栗は不気味な予言に背筋を凍らせながらも、その圧倒的な先見性に、奇妙な興奮を隠せなかった。


「……あの姫君のペースに、完全に乗せられていますね、私たちは」

「そうですね」と福沢は、全く躊躇わずに言った。

「しかし——乗せられた先が、自分のやりたかったことと一致しているので」

「ええ」

「文句を言う気にならない」

「……全く同じ気持ちです」


 二人は、ほぼ同時に、盃に手を伸ばした。

 今度は飲んだ。


十三

 奥御殿に、夜が来ていた。

 糸子は、青い帳面を開いていた。

 新しいページだ。

 そこに——文字を書き始めた。


「アメリカ南北戦争。史実通りならば、すでに開戦しているはず。グリーンバック——南北戦争の戦費調達のために発行される紙幣。金の裏付けを持たない緑の紙幣が、南北戦争の戦費調達のためにアメリカ国内で乱発されれば、必ず激しい価値下落インフレが起きる。その余波は、横浜にいる外国商人たちを通じて、日本の金銀比率をさらに歪ませるはずだ。


(ハリスの後任としていつか赴任してくる新公使が、本国の内戦による混乱を隠し、大国ぶって我が国を買い叩こうとする前に――逆にその不換紙幣の価値暴落を逆手に取って、こちらからメリケンの富を毟り取ってやる。そのままそっくり熨斗をつけて返してくれる)


 まだ誰も知らない海の向こうの致命的な弱み。それを突くための絵図が、糸子の指先によって、静かに、そして完璧に編み上げられていった。


 炭が火鉢の中で崩れた。赤く熾った炭が、少し形を変えた。

 糸子は、そのまましばらく考えた。

(前世の知識では、ここまでだ。あとは——この時代の人間として、考えなければならない)

 そう思った。


 前世の歴史書は、大きな流れを教えてくれる。

 しかし、その大きな流れの中で、具体的にどう動くかは——この時代に生きている人たちが考えなければならない。

 だから、小栗が必要だ。

 だから、福沢が必要だ。


 彼らの知識と、自分の見通しが——組み合わさって初めて、具体的な動きになる。

「近藤殿」

「はい」

「あの二人が、次に来たとき——少し違う部屋でお会い致しましょう」

「違う部屋、とは…?」

「障子が、もう少し大きい部屋を。初夏になったので——光の射し入る方が、よろしゅうございます」


 近藤は少し考えた。

「……書院の間でよろしいですか。庭が見えます」

「それで結構でござります」

 糸子は、また帳面に目を落とした。

 ペンが動き始めた。

 書くべきことは、まだたくさんある。


 しかし今は——少し急かなかった。

 二人が動き出した。

 辞書が売れている。

 規格の統一が始まっている。


 この国の、近代という名の季節が——ゆっくりと、しかし確実に、動き始めていた。

 窓の外、初夏の江戸の空に——夜明けが、また一日、近づいていた。


 第百九話 了

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― 新着の感想 ―
>「あの姫君が、何かを隠しているとしても——その隠しているものが、この国に悪いものだとは思えない。そう信じている、というより——そう感じる」 この部分、順に読んでくると小栗の言に見えるのですが(文体…
この話の前半ではプロジェクト✕のBGMとナレーションが空耳されてましたww
姫様は福沢諭吉に著作料払ってあげたのかな? (´・ω・`)
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