6.茄子紺色のカーディガン
ユッピーと偶然再会し色々と話しをした帰り道に気付かされた事があった、震災での傷が三年以上経って少しずつ消えかかっている、それは同じ経験をした者にならむしろ聞いて欲しいとさえ思える位までに、でも何故佑真にまで同じ様な内容の話をしたのだろうか。
そして気持ちの上では学生生活も一年程度になってやっと普通の大学生の様に暮らせつつある事、ユッピーも家族を二人お母さんと弟を亡くしたけれど自然災害なんだから誰にもかかりようがない、せめておいでも幸せにならなきゃ死んだ家族が浮かばれないと諦めたように呟いていた。淋しいけれど確かにそうだと思う、佑真もそんな風に言っていたのを思い出した、そう決して元には戻れないのだ自分が美味しいものを食べたりすることに罪悪感の様なものを感じながら生きたりするのはもうよそう。
自分も残り一年を切ってしまったけれど二度と戻らない学生生活を大切にして生きていこう私はあの時生かされたのだからと思った、すると頭の中に深刻な話しをする時に少し遠くをぼんやり見つめるような仕草をする彼の横顔が浮かんだ。
結希は財布の中を探って一枚の名刺を見つけるとスマホの地図アプリの案内で銀座の街の中を確かめながら歩き、昭和もしくは大正からずっと生き延びてきたと思われる重要文化財のような外観のビルにたどり着いた。丸窓がお洒落で手摺もドアも年季が入って古いけれどアールヌーボー的な雰囲気を漂わすビルで、中に入れば見たこともないような金属の蛇腹を手動で閉めるエレベーターに乗り三階で降り狭い通路を歩いて行くとアンティークショップ等のセンスの良い明かりが照らしているので暗い感じはない、一番奥の方に通ってゆくとやはり通路などはかなり破れが目立つのだが部屋の前までその人の生体エネルギーが溢れ出ているのか強い磁場のようなものを感じて怖じ気づいた。
入るべきだろうか図々しくないか等と少しの間さまざまに逡巡したあと意を決してインターホンのボタンを押そうとしたその時、不意にドアが開いた。
ワッと驚いて後ずさった結希に未希は笑顔を見せて
「驚かせてしまった?待っていたのよ、どうぞ」
と優しく部屋に招き入れた。
自分が来た事が何故わかったのか、いやきっとカメラか何か有るんだと結希は自問自答しながら無理矢理納得した。部屋に入ると針が様々な時刻を指している古時計が漆喰らしい壁のあちこちに掛けられていて、名前も知らない珍しい花が飾られた少し不思議な感覚を覚える室内だった。
その空間にはカモミールとラベンダーが合わさったような香りも漂っていてドアノブがブロンズの黒猫だったりアフリカの細長い像が漆塗りのように黒光りする床に置かれていたりで占い師らしい妖しさはそこかしこにあった。
未希はロイヤルコペンハーゲンのカップにレディグレイの紅茶を注いで結希に勧めた、結希は緊張し喉が渇いていたからあっという間に飲み干してしまって、少し恥ずかしそうにとても美味しく頂きましたと礼を述べた。
未希は結希の顔を真っ直ぐに瞬きもせずに見つめていたので気圧されたし心の奥底を覗かれているような気がした
「此処に私を訪ねていらしたという事はもうあなたは自分の未来を決定づけるかも知れない人に出逢えたのかしらね」
と突然核心を突いてきた。
「やっぱり彼がその人なのですか」
と結希が身を乗り出すと未希は焦らないでと手で制して
「まだはっきりその方だとは言えないわ私も全容が見えた訳じゃない、本当にフラッシュバックのようにある一場面が一瞬見えた気がしただけだから、あなたのように若い時の一年は歳をとってからのそれとは密度が全く違って、たった数週間で人生が大きく変わる可能性もあるし、おそらく様々な障害だって出ては来るのだろうし、それらを一つ一つその人と乗り超えて行けるようならおそらく望むような未来が手に入るのでしょう」
未希はオーラを纏った目から優しい視線に変わって結希を見つめ
「大変な一年になるんでしょうね、でも負けないでね諦めないで進めれば素晴らしい未来が待っているんだわきっと」
暫く近況を話したりしていたが未希さんも近頃特に健康状態に不安はないとの事などを聞いて安心した、誰かと約束している時間になったらしく時計の一つが音をたてると未希さんが申し訳なさそうに
「遠慮しないで又遊びに来てね今度はもう少し長く話せる様に早めに電話を頂戴とエレベーターのところ迄送ってくれた」
占いの予約が入っていたそうで相変わらず繁盛しているようだ、外に出て暫く考え事をしながら歩いていると本当は有楽町駅に歩いた方が近いのにライオンを目指して歩いてしまったようだ銀座光和の時計の上に広がる空は雲が低くて夕陽を浴びて優しい赤紫色に輝いていた。
数日後に神楽坂通りではなく裏通りで軽くランチを食べて通りがかったセレクトショップに派手でも地味でもなく絶妙なバランスを纏う茄子紺の薄いニットのカーディガンが飾ってあった、以前からこんな所にお店があっただろうかここに入ったばかりなのかな?このカーディガンなら下は紺でもグレーでも合うんだろうなと想像しながら値札を確かめたら家賃に近い価格だ、昔実家の事業が上手くいっていた時には子供のくせに好みがうるさく滅多に気に入る服が無かった私が興味を示すと喜んですぐに父が買ってくれたりした、母はそんな姿をみて出来の悪い娘になるわよと呆れていたものだった、そんな事を思い出し少し切ない気持ちになった。
どうせ買えないんだからと怖じ気づいて試着もせず仕事場へと向かった。次の日にバイトにゆくと自分のロッカー前にレンガ色の紙袋が置いてあってネコの足跡がプリントされた大きな包みと封もしない封筒が入っていた、焼き鳥位じゃ到底俺の気が済まないからねと書いてあった。佑真だ!彼とはちょうど入れ違いになるシフトだからまだその辺にいるかもしれないと表に出て駅の方をみると、アーミーグリーンのリュックを左肩に掛け足早に飯田橋の駅に向かって坂を下って行く彼の後ろ姿が小さく見えた、携帯を掛けると彼は後ろを振り返ったけれど坂を下ってゆくのは止めなかった。
あれはいったいどうしたのと結希が尋ねると気に入ったんだろ?と佑真に言われた。えっ何がと思っていると今夜時間は有るかと訊いてきた、うん別に用事はないけどと答えるとちょっと夜遊びに付き合わないか?と言ってきた、楽しい時間を過ごせるのだろうかとりあえずイエスと言っておいた、彼は雑踏の中で少し微笑んで振り返ったように見えた。
ほんの僅かな時間だったがそこだけが明るく浮かび上がるように見えた、その中で彼は確かに笑顔で手を振ったようだったがすぐに人波に呑まれ次の瞬間にはその姿は跡形もなく消えていた。この後すぐに彼と逢うのに何の予感なのか何故だろう少しさみしい印象が残った。職場に戻って紙袋の中を確かめると自分が見て諦めたあのカーディガンが入っていた、彼はあの時の自分を見ていたのだ。
店に出ると店長と同僚の松原君が
「香川さんて何だか仕事はそつなくこなすんだけど何となく取っつき難い雰囲気ですよね、マニュアル通りに作ってても何故か料理も美味しそうに見えないし」
「マニュアル通り作ってくれているなら料理の事は仕方ないよ、ファミリーレストランなんだからもう少し柔らかい接客をしてもらえたら有り難いとは思うけど」
店長が庇うように言ったところに
「お二人共お客様がいらっしゃいましたよ」
と言いながら結希が促すと彼らは急いで持ち場に戻った。
結希は佑真が皆と上手く溶け込めるように願っていた、生活に困りはしないから彼は何時でもバイトなんて辞めてしまうだろうし無理にでも周りと合わせようという気も無いだろう、でも私はもう少し彼と一緒に働いていたいなるべく長く勤めて欲しい。
夕方銀座で待ち合わせて会った時に恥ずかしさもあって
「カーディガンありがとうでも見ていたんなら何で声を掛けてくれなかったの?」
と佑真に尋ねた。
「俺は元々良いと思ったら速攻で手に入れるタイプなんだ、買っての後悔より買わなかった後悔の方がでかいからね、確かに君に似合いそうだったしせっかくいいお返しが出来そうだと思った、俺が買ってあげるよと横から口を出したら遠慮して要らないって言うだろ、そんな事になるのが分かりきってるのに何でせっかく君が気にいった物をお返し出来るチャンスをみすみすぶち壊さなきゃいけないんだ」
わからないかなとでもいうように首を傾げた。返す言葉も無かったそういう風に瞬時に深謀遠慮出来る人なんだと結希は思った。
「でもあんな高価な物を」
「それよりもっと高価なものに俺は染みを付けてしまったんだから気にしないでくれ、生ものは大丈夫?寿司は食べれるかい」佑真がさらりと訊いた。
結希も地元石巻や塩釜を思い浮かべながら
「様々な新鮮な魚を使った寿司屋が近くにも一杯有ったし好きだった、特に塩竈はお寿司屋さんの激戦区だからいっぱいお店があって、いろんな店によく食べに連れていかられた」
そう言えば東京に来てからは余り寿司など食べる機会はなかった、佑真がちょっと嬉しそうに
「バイトの金を貰ったから気持ち良く使おうと思って誘ったんだ」
なるほど彼は労働の対価を初めてもらったのか何とお坊っちゃまなと結希は思いながら。
「でもそんな記念すべきお金を私なんかに使って良いの」
と疑問を率直に述べた。
「良いんだよバイトは家族にはナイショなんだしそうしたいんだ」
連れて行かれた先は銀座でも有名な皆が聞いた事のあるような寿司の名店だった、ネタもシャリも最高だったし握る所作もまるでマジシャンのように鮮やかな手つきでカウンターに鮨を出す時にも水に浮かんだきゅうりを包丁で切るが如く優雅な動きが独特の職人さんだったが、食べる速度が普通であっても一通り他のお客様に握ってから又自分の番が来るのでゆっくり味わえるが魚臭さは微塵も感じられなくまるで旨味の固まりだ、見た目も切り口など角が立っていてみずみずしく光って緊張感があって美しい。
とろけるような中とろや穴子にコハダ等ほんの一時間にも満たない内に至福の時間は終わってしまった。「ここは本当に良い店ね」
「何で?」
「あんまり高いお酒を勧めたりしないから、解るのよテナント料だって高いんだしそうしないと経営が苦しくなるっていうのも、でもね寿司にワインとかはあんまり合わないと思うんだ美味しすぎる酒は寿司を邪魔するというか、例えば新潟のお酒とかすっきり系の日本酒なら合うんだろうけど」
佑真は的確な指摘に思わず
「お酒のことにも結構詳しいんだな」
と漏らした。
「毛ガニとかマグロを食べながら年越しにはお神酒を必ずおちょこに一杯位は飲んでいたの、そんな時料理も美味しくなるって感じたから」
「そうかそういう温かい年末の過ごし方を家族みんなでしてたんだね」
佑真は結希を思ってなのか少し淋しそうに頷いた。
次はお茶にでもしようかとアンティークな雰囲気のお店に連れて行かれ、少し薄暗く保たれた地下で此所はクレープシュゼットが有名だけど栗かチーズのデザートなんかもあるどちらが好みか訊かれたので、チーズと答えた。
店員さんがテーブルの傍らで調理するデザートの方は仕上げにリキュールをかけて焔があがるデザートでほの暗い空間を青紫色に染め上げた、もう一方のチーズのデザートは仕上げに別添えの液を垂らして仕上げする必要があるものだった、二つとも値段は相応にするがとても美味しいと頷けるものだった。
佑真はデザートを食べながら
「酒も良く飲むけど本来俺甘党なのかなと思う時もある、酒の時は結局最初の一口が一番旨いなあと感じるんだ、でもデザートなら食べ終える迄ずっと楽しめたりするから」
結希も「私のお父さんはお酒が好きだったけどやっぱりほろ酔い加減の状態が好きだったんじゃないかしら勿論日本酒何かだと好きな銘柄ははっきりあったみたいだけど、ウィスキー何かは安い酒は悪酔いするというだけで銘柄のこだわりは余りなかったみたい」
「お父さんはお酒飲んで暴れるような人じゃなかったんだね」
「うん普段は無口な人なのに明るくなってカラオケ何かも歌ったりしてお母さんも一緒に楽しんでいた」「そういう夫婦って良いな」
と佑真がポツリと言った。
「おつまみとか毎日当たり前のように作っていて大変そうだと思っていたけど案外母も一緒に楽しんでたんだなって後になって分かった、私こんなに色々食べたら明日からちょっと気をつけなくちゃね太っちゃう」
「砂糖も油もアルコールみたいに中毒だということは巷間言われているけど日本人が栄養過多に気を付けなければならなくなったの何て実際はせいぜいここ六十年位のものだろ、だから身体に栄養をためれる内に溜めておこうみたいな飢饉に強い遺伝子も持っているのかも知れない、女の子は特に子育てに大事なおっぱい何か出すために皮下脂肪の形で蓄えやすいように出来ている、男と違って内臓脂肪には成りにくいが皮下脂肪って落ちにくいからついダイエットなんてすると筋肉だけ細って痩せにくい身体になってリバウンドも起きやすくなるから君なんか全然必要ないんだから注意なんてしなくていいと思うよ」
「そうは言っても例えば安くても可愛いデザインの服とかっていうのはやっぱり小さいサイズのものしかないのよ、こちらに来てから運動不足になりやすいし洗濯物をコインランドリーで乾かしてる間にランニングとかはしているんだけどね」
と結希は言った。
「何処まで」
「自宅のアパートから新宿御苑までそれくらいで丁度良いの」
「そうか健康的でそれは良い事だ、筋肉量を落とさないのは体型維持にも効果的だし」
「ねぇちょっと相談なんだけど、友達が左手がしびれて困っていると言うのよ何が原因かな」
「首を痛めた事はないか、歯の噛み合わせなんかはどうか、肩こりや頭痛はないかなどまずは知りたい、脳に問題あればもうとっくに病院送りになっている筈だから違うだろうが、一応診てもらった方が安心だろう」
彼と様々なことを話して店を出ようとする時に結希がせめてデザート位は私に出させてと言うと
「駄目だ君の一万円と僕の一万では重みが全く違う十時間の労働の対価だ、この歳になってもまだ親からもらっている金だってあるんだお願いだから気にしないでくれ、申し訳なくて気軽に誘えなくなるだろう」と断られた。
結希に対して何か罪悪感を持っているような言い方だった。佑真は何時までも現状を在るが儘に受け入れ偉そうなお坊っちゃまなんて嫌なんだと感じた、先程のデザートの店でも水を注いでくれているスタッフにも軽く会釈をしていたし普通の感覚を身につけつつあった、それを望んでいたからこそアルバイトなんてしてみたりしたんだろう。
佑真は様々な私が疑問に思う事にも大抵即座に答えてくれる位博識だったので話しが途切れる事もなく楽しかった、でも何で緊張しないのだろう東京に来て夜に男性と二人きりでデートや話をしたなんて記憶はないのに、いくらバイト先で一緒に働いているからとはいえ二人きりではないから状況は全く違うのに。この後いったい何が待っているのだろうと想像しながら階段を上がって店を出たら、ちょっと此処で待っていてくれないかと彼が消えて十分もしない内に白い国産の四駆に乗って現れた。
食一つとっても明らかに高そうな車からも確かに彼の家はある程度裕福な家庭なんだろうとは良くわかった。
「これあなたの車なの?」
「いや親父の車だよ、ほとんど俺が勝手に使っているけど」
嘘ではない名義は父親になっているのだから、結希が相手でなければ出来るだけ長く周りにはフリーターを装い続けるつもりだった、でも佑真は過去に散財していた事を省みるとその時の何倍でも彼女に使うなら惜しくはないしむしろ使いたい、でも彼女はあまりそんな事望まないだろうしそういう女性だからこそ別に何時までも金目を隠し続ける必要も感じないのだ。
銀座からすぐ首都高に入って京葉道路、館山道路と湾岸に繋がった道路を走ってゆくと始めは賑やかだった夜景がどんどん寂しくなってゆく、暫く走ると海上に滑走路の様なライトの光りの帯が浮かび上がって来た。
結希はこちらの大学に来てから初めての夜のドライブだった車の中には控えめな音量なのに何故か厚みのあるピアノトリオの音楽が流れていた。繊細で美しくしかし骨太な音楽だった。
「これは誰の曲どこかで何回か聞いてはいる気がするけど」
「ビルエバンスのワルツフォーデビーという有名なアルバムだ、もう何百回聴いたかわからない」
「そうなんだ、でもなんだか周りの雑音も遠慮なく入っているのに凄く張り詰めた音ね厚みもあるし、バーかレストランみたいな所で周りの人達は何の緊張感も遠慮も無く音を立てているのに、当人達は全くそれに気づかないかのように渾然一体となった演奏に没頭していてそれはちょっとその会場にはそぐわないと感じる程に」
佑真は少し驚いて
「ちょっと聴いただけでそんな事迄わかるのか、このベースを弾いているアーティストはこのライブの10日後位に突然事故で亡くなるんだ」
結希はえっ!と言って絶句した。暫くして
「何歳で亡くなったのかは知らないけれど、このベーシストは一音も余計な音を弾かないピアニストに対して饒舌に真剣勝負を挑んでいるかのような、そしてそれがまるで一期一会であるかのように皆が予感しながら演奏しているように聴こえたから」
まさしくその通りだったかもしれないバイオリンをやってたっていうのもあるからなのか音に秘められたニュアンスや厚み背景までも敏感に嗅ぎ分ける能力があるんだなと佑真は感心した。
「実はレコードって圧縮と復元がRIAAカーブという曲線で制御されているんだ、主に低音をそのまま溝に刻もうとすると振幅が大きくなり過ぎ針が飛ぶし収録時間も短くなり針にダメージが加わることから低音を圧縮し高音を増強、再生時は逆のイコライジングをすればノイズを減らしつつ低音もまともに再生出来るという処置なんだが時代が進むと様々な技術が向上しそれが段々と浅くなって行った、そのカーブをレコードの発売時に合わせ制御できるようシステム構築し再生したものをデータに直し保存しているため生音に近い再生が出来る」
結希にはその仕組みは良く分からなかったが結果として聴ける音は凄く生々しい音だった。次の曲は曲調が全く変わって少しアップテンポの曲調は、小さくモニターに映し出されていた女の子の横顔のシルエットがくすんだ紫色のバックに浮かび上がっている印象的なジャケットに音がピッタリとはまっていると結希は感じた。
佑真は独り言のように
「この人達はある程度その世界では成功してたけどデビュー前のビートルズをオーディションで落とした人やミスチルのデモテープを放ったらかしにした人のその後ってどういう人生だったんだろう、その二つのグループはその後の彼らの音楽を支える素晴らしいプロデューサーにその後出会っているから、運命が飛び立つ前の精神の熟成と猶予期間を設けただけだったとも言えるけど。会社では特異な才能を見い出す人間より大金を稼ぐ者を見つける者の方が重宝されるに決まっている、人件費を含め固定費は嵩むし立派な才能でも一般大衆に受け入れられなく売れ残るだけでは意味がないし負債も出来る経営者側は金払いに悩まずに済む方が絶対嬉しいはずだ、だが選考するときには何故かポプュラリティは軽視されがちだ、同僚や上司に有りがちな音楽だなとか自分のセンスを馬鹿にされるのが嫌だからなんだろうが、自分の属している組織が例え無駄になっても芸術家を支援するところなのか稼ぎたい会社なのか良く分かってない勤め人が多い」
結希も何となく日本の芸術音楽関連には色というか癖がある気はしていた、佑真の語る事は真実に近いと感じた。海ほたるに向かうと白い光りが盛大に海の中に浮かんできた、そのなかに車が溶けてゆくようだ、滑るように車はパーキングエリアまで走りそこで一旦休憩しようと佑真は建物の中に入っていった。「海ほたるってこんなに巨大な施設なのね」
と結希は驚いたように呟いた。パーキングエリアのように土産物売り場や飲食スペース迄しっかりあって海の中に浮かぶ施設とはとても思えない。四階までエレベーターで登り外に出ると湾岸の夜景はとてもキレイだが海上だから遮る物もなく多少身体にあたる風は強いのだが初夏なので余り苦にはならなかった、「これは幸せの鐘というんだけど鳴らしたなら君の家族に想いは届いてくれるだろうか」
と控えめに佑真に言われた、彼はその目的で此処に連れてきたかったんだと初めて彼の思惑を理解した。結希は夏休みにはきっと帰ります、みんな安らかに眠っていて下さいと鎮魂の想いを込めて二人で鐘を鳴らし黙祷して暫く海を眺めていると陸の方には巨大な炎を吹き上げているコンビナートの姿があってあの日の夜をおもわせた。
佑真はあの日起こった事を追体験させてしまうんじゃないかと気を遣ったようだ、確かに思い出しはしたけど彼の気遣いは嬉しかった、その後まだ時間はあるだろと言うと横浜まで行って中華街で軽く飲茶をし様々な点心から何品か食べデザートのマンゴープリンとジャスミン茶で仕上げをしたら、帰りはもう深夜になっていたので四谷のアパート近く迄送ってくれた。
結希はじゃあまたと言って帰途につく佑真を見送って部屋に入るとちょうど午前0時になっていた、まるで本当にシンデレラみたいな夜だった、けれど考えてみると今日は一滴たりとも酒を勧められなかった、この前のことで懲りたのかなと急に恥ずかしくなってきて身体が熱くなった。
部屋は六畳一間だけど、縦の天井方向にも空間を最大限利用出来るようにベッドを浮かせ下を収納にしたりで案外広いスペースのある自分の部屋に戻って風呂に入ってから床に就いた。
こういう時間を何度も経験して慣れてしまったなら当たり前になっていってしまうのだろうか?そんなことはない、この夜の事はきっと一生忘れないだろうと思った、初めてだから輝く時間に感じるんだよと自分にいいきかせるようにして眠りについた。




