その2
三月八日
ここが変だよ日本人、という番組は俺の中では久々のヒット作。
今日のお題は、日韓問題について。
番組では相変わらずの激論が飛び交っていた。俺の意見はシンプルである。確かに日本は、韓国及びアジアの人々に迷惑をかけた。それは誠心誠意あやまらなければならない。しかしその責任を、我々戦後生まれの人間に追及されてもつらい物がある。
これは戦前の、洗脳された人々が犯した罪である。しかも大多数の日本人は、戦争でつらい思いしかしていない。責めるべきは、当時の政府首脳部である。
韓国の人々にもこれは理解して欲しい。お互いに理解しようとする気持ちがない限り、いつまでたっても状況は変わらない。その国の民をすべて憎悪するのは間違えている。
これはイラク、北朝鮮にも同じ事がいえる。戦争において国民はすべて犠牲者なのだ。
最後尾の安全な所にいる権力者こそが、憎むべき対象であり、悪の根源である。
この単純な仕組みに気付けば、不要な憎悪も敵対心もなくなると思うのだが、そう簡単にもいかないようだ。
三月九日
いよいよ明日はK電器のオープン日。チラシ広告を見たが、噂されていたほどの目玉商品はない。それでも、明日は長蛇の列ができるだろうと言われている。
もしかしたら徹夜組もいるのでは、との事。
こういう時に喜んで並びたがる人がいるが、俺にはまったく理解できない。彼らは盛り上がっている渦中に飛び込むのが楽しいのだろうか。
その労力と時間を考慮すると、決して安い買い物とは言えないと思うのだが。
三月十一日
知人の甥っ子がK電器のオープンに並んできたそうだ。
「いや~、凄かったよ」と、嬉しそうに語る。
「いくら持っていったんだ?」
「八百七十五円」
「何を買ったんだよ?」
「ティッシュ。洗剤も貰ってきたよ」
満面の笑みである。
いったい彼は何時間並んだのだろう。レシートを見ると清算時間が十時七分。
まったく何を考えているんだか。
三月十三日
最近、世の中の動きから隔離されている。テレビもあまり見ないし(週に二時間ぐらい)新聞も雑誌も読まない。
どうせいかれたニュースしかないだろうし。俺の頭の中で色々と考えてみても、それとは無関係に社会は動いているわけだ。
笑いに飢えた時にでもニュースを見るとするか。
三月十四日
会社が富士通のノート型パソコンBIBLOを購入したのでセットアップしているのだが、元から余計なソフトが入りすぎているので面倒が多い。特にプロバイダー関係。すでに地元のプロバイダーに加入している者にとっては邪魔なだけだ。
xxxの会員加入プログラムがあったので思い出したのだが、xxxになる前身のxxzの頃に、そこの社長とサシで話した事がある。
眼光鋭く、迫力のある人だった。あのレベルになると、みんな人間としての迫力がでてくる。若造にはない厚み。
でも俺は望まない。望んだ所で身につく物でもないし。人を威圧しようと思わないし、かといって慕われたいとも思わない。
歳をとった時、俺はどういう人間になっているのだろう。
若かりし頃、内なる葛藤に苛まれていた時に一番会いたかったのは年老いた自分自身だった。色んな事を聞きたかったし、話したかった。
そして、年老いた者から見える風景を見てみたかった。それはすべてが静かに落ち着いて見えるのだろうかと。
三月十五日
残念ながら、いじめが世の中からなくなる事はないだろう。ゲスな奴が絶滅するとは思えないし。
いじめられている人間に、やられたらやり返せ、と言うのは簡単である。
でもそれが出来ないのが、いじめられる人間である。それは肉体的な問題ではなく、精神的な問題なのだ。
基本的に俺は下手にでる人間なので、いろんな奴にふっかけられてきた。ブタは下手にでるとつけ上がるからね。
俺はその都度そいつらをねじ伏せてきた。
べつにそれは腕力にものをいわせてきたという訳ではない。
そんな事をしても面倒が増えるだけだ。
と言いつつも、やってしまった事もあるが。
要は方法論である。相手の急所をつく事が大切で、頭の使い方ひとつで自分を優位にもっていく事ができる。
これまで結構な人数を相手にしてきたが、一度たりとも負けたことがない。
負けないコツは、勝てない喧嘩は初めからしないという事。
大体ふっかけてくる奴らは、筋の通らない事を言ってきていたわけだから、勝つべくして勝っているのだが。
筋の通らない事と、なめた口を叩かれるのが死ぬほど嫌いだった俺は、その都度ボロクソに言い返していた。
筋の通らない事に頭を下げて生きるぐらいなら死んだほうがマシだと思っていたし、行動を伴わない思想はクソだと思っていたからだ。
でもこれはもう昔の話である。今はそんなエネルギーもないし、相手をするのも面倒なので黙殺するようにしている。バカを相手すると、それこそ、バカをみる、になる。
おそらく、いじめられる人は、こういった精神エネルギーがないのだろう。
ではどうすればいいのか?
俺にも分からない。せいぜい環境を変える事ぐらいしか思い浮かばない。
残念ながら世の中は理不尽に満ち溢れているのだ。
人間が精神的な生物だという事実を踏まえると、精神的エネルギーが弱小だというのは、絶望に近いのだろう。
『思う』のページで、キルケゴールが死以上の恐怖と言っていたのは、この絶望である。
「絶望」の定義は難しいので、興味のある人はキルケゴール著「死に至る病」を読んで下さい。
三月十六日
なんて矛盾だらけなんだと、今更ながら自分に呆れる。
でも、いいや。
いい加減に生きているんだし、自責の念に駆られるほど、理想の人間像を持ち合わせていない。
死ぬまでいい加減に生きてやる。
昔から矛盾していると何度も言われた事がある。でも多面人格だからどっちも本当にそう思っているんだよ。これがまた。
何事にも表と裏の見方がある。
俺は一つの見方に拘りたくはない。価値観なんて時代で変わるものだし、そんなものに振り回されたくはない。
何事にも囚われずに生きていきたい。そう言いながらすでに、囚われたくないという想いに囚われている。
まあ社会生活をする上で、囚われずに生きていこうと考える事自体、大間違いなのだが。実際、がんじがらめに囚われているしね。
ただ、一つの見方に拘っていると人間の幅が狭くなるとは思う。
それともう一つ、自己防衛のためにも表と裏の見方をしている。自分に都合のいい見方を選んでいるわけだ。
へっぽこな俺が生きていく上で、これはとても大切な事なのだ。そうじゃなきゃ押し潰されるよ。
今の日本は、自殺者数が交通事故死者のおよそ三倍にあたる三万余り。十年分を換算すると戦争より酷いじゃないか。こんないかれた社会で生きていくには、このぐらいいい加減じゃないとやっていけない。
でもな、俺の根底に流れているものはいつも同じで、変わる事はないよ。
意味不明の日記でした。