第 106 章 リーダーの代償
カーター企業はいよいよヨーロッパ市場進出の瀬戸際に立っていた。これはリリーが当初から描き続けてきた、まさに節目となる大きな一歩だ。会社の成長は驚くほど順調を極めたが、その代償も日に日に鮮明になりつつあった。事業が拡大するほど困難も増し、とりわけ投資家たちからの早期成果を求める圧力は強まる一方だった。
リリーはこれまでになく、経営者としての重圧を全身で感じていた。彼女の下す一つひとつの決断は、連鎖的な影響を及ぼし、必ずしも良い方向へ向かうとは限らない。成功を収めるためには、厳しい選択を避けて通れないことは分かっていた。だがその選択には、避けがたい犠牲が伴っていた。
企業の成長とプライベートの均衡を保つ日々の綱渡りは、思いのほか心身を消耗させていた。ここ数週間は毎晩深夜まで仕事に追われ、頭の中は拡大戦略とヨーロッパ進出の準備でいっぱいだった。ネイサンはずっと辛抱強く接してくれていたが、二人の間に生まれる心の距離を、リリーははっきりと感じ取っていた。
ある夜、オフィスでヨーロッパチームから届いた最新の報告書に目を通していたリリーは、スマホを眺めたまま、ネイサンに電話をかけようか迷っていた。会いたい気持ちでいっぱいだった。いつもの夕食デートも週末の小旅行もなくなった日々が、じわりと彼女の心を蝕んでいた。
そんな思いに耽っていると、スマホがバイブして思考を遮った。ネイサンからのメッセージだった。
「忙しいのは分かってるけど、すごく会いたい。ちゃんと話をしよう」
リリーは一瞬ためらった後、すぐに返信を打った。
「私も会いたい。明日の夜、時間を作るから会おう」
返事はすぐに届いた。
「了解。二人だけで夕食を。仕事の話は一切なしに」
メッセージを見て微笑む一方、胸には嫌な予感が漂った。話し合わなければならないことがあるのは分かっていた。二人の関係はすでに歪み始めており、このまますべてを両立させようと無理を続ければ、いつか崩れ落ちるのは目に見えていた。だが心の奥底では、プライベートの問題を放置したまま、今のペースを続けるわけにはいかないと悟っていた。
翌晩、リリーは先にレストランに到着した。二人が付き合い始めた頃からよく通っている、落ち着いた雰囲気の小さなイタリア料理店だ。暖かく穏やかな空気は、ここ数ヶ月ストレスに塗れた彼女の日常とはあまりに対照的だった。
間もなくネイサンが姿を現し、リリーを見ると表情が柔らかく和らいだ。そっと頬に長く口づけをすると、向かいの席に腰を下ろした。
「やあ」
声は穏やかだが、心配の色が滲んでいる。
「本当の気持ち、聞かせてくれる?」
リリーは言葉を躊躇った。長い間、感情を仕事の殻の中に閉じ込めてきた。だが今、ネイサンの前に座り、正直な気持ちを打ち明ける時が来たと感じた。
「もう限界なの、ネイサン」
小さな声で素直に打ち明ける。
「ずっと自分を追い込みすぎて、ただ一人の自分として生きる感覚を忘れちゃった。私はただカーター企業のCEOじゃない。一人の女性で、あなたの恋人でもあるのに、いつの間にかその大切な立場を見失ってしまったの」
ネイサンはテーブル越しに手を伸ばし、彼女の手を優しく包み込んだ。
「リリー、この会社が君にとってどれほど大切か、僕はちゃんと分かってる。だけど忘れないで、君は一人じゃない。ずっと僕がそばにいる。だけどこんな無理な生活を続けちゃいけない。自分自身も大切にしなきゃ」
リリーは胸が詰まる思いに駆られた。罪悪感に押しつぶされそうになりながらも、心の荷が下りたような安堵感も覚えた。責任ばかりに囚われ、自分の心身の平穏を疎かにしてきたことを痛感した。
「もう、どうやって均衡を保てばいいのか分からないの」
弱々しく囁いた。
「会社に全力を注ぎたいけど、そのせいであなたを失うのは絶対に嫌なの」
ネイサンは安心させるように優しく微笑んだ。
「選ぶ必要なんてないよ、リリー。二人で一緒に、乗り越える道を探せばいい。時には自分を一番に考えることも覚えなさい。いつも誰かのために完璧でい続けるなんて、誰にもできないんだ」
リリーは頷き、胸に溢れる思いを噛み締めた。ネイサンの言う通りだ。長い間、成功するにはすべてを犠牲にするしかないと思い込んできた。だが今はっきり分かった——本当の成功とは、会社の業績だけではなく、人生のあらゆる面で均衡を見出すことなのだ。
「私たちの今を失いたくないわ」
細い声で呟いた。
「失わせない」
ネイサンは揺るぎない確信を込めて答えた。
「二人で、ちゃんと解決しよう。一緒に」




