第 102 章 成功の重荷
机に座り込んだリリーのスマホは絶え間なくバイブを繰り返していた。周囲には報告書や書類の山が積み上がっている。アジア太平洋地域への事業拡大は予想を上回る好調さを見せ、第1四半期の業績データが次々と届いていた。だが喜びに浸るどころか、リリーはこれまでにない疲労感に襲われていた。
成功を収めているはずなのに、心のどこかに何か欠けたものがあった。
会議は連日過酷を極め、絶え間ない決断、夜更けの業務、企業の成長とプライベートの均衡を保つストレスが、彼女の心身を蝕んでいた。ネイサンとは深夜の短いメッセージを除き、ほぼ一週間も言葉を交わしていない。チームの統率、海外市場への対応、殺到するメールや電話に追われ、かつて大切に思っていたすべてのものから、自分が遠ざかっていくように感じていた。
彼女はスマホを手に取り、ネイサンの番号をダイヤルした。コール音がしばらく続いた後、彼が電話に出た。
「もしもし、リリー」
耳慣れた温かい声だが、その奥には微かな緊張感が滲んでいた。
「どうしたの?」
「会いたい……」
思わず口をついて出た言葉だった。弱さを露わにするような台詞だったが、それが本心だった。そばにいてくれない寂しさ、心から繋がる時間が持てない苦しみが、次第に彼女を重く押しつぶし始めていた。
ネイサンは一瞬黙った後、柔らかく応えた。
「僕も会いたいよ、リリー。二人の距離が開いていく気がして、ずっと気になってた。君が忙しいのは分かってるけど、僕たちのこと、ちゃんと話し合わなきゃいけない」
リリーは唇を噛み、罪悪感に胸を刺された。カーター企業のことばかりに気を取られ、ネイサンに向けるべき思いやりを疎かにしてしまっていた。二人の間の亀裂は広がりつつあり、もう無視するわけにはいかなかった。
「分かってる……」
後悔を滲ませた声で囁いた。
「仕事のことに頭がいっぱいになってた。ネイサン、あなたとの関係を失いたくない。ただ、すべてを両立させる方法が分からなくなっちゃったの」
「大丈夫、二人はこれまでも色んな困難を乗り越えてきただろ」
ネイサンの声は穏やかに彼女を励ました。
「だけど、もう一度心を繋げる方法を探そう。会社は君の大切な一部だけど、君はカーター企業だけの存在じゃない。一人の女性、リリーとしての時間も必要なんだ。僕はずっと、君のそばにいたい」
リリーは思わず涙を一粒こぼし、すぐに指で拭った。いつも強がってきた彼女だったが、今はこれまで以上にネイサンの存在が必要だった。
「私もそうしたい……」
小さく囁いた。
「本当に大切なものを見失いたくないの」
ネイサンの声は一層柔らかくなった。
「なら、一緒に考えよう。二人で」
その週末、リリーは決意を固めた。数ヶ月間取ったことのない仕事の休暇を取り、ネイサンと二人だけで数日間の小旅行に出ることにした。仕事の電話も、メールも一切断ち切り、ただ二人の時間を取り戻すために。
リリーは仕事のことをすべて置き去りに、丁寧に荷物をまとめた。ネイサンのアパートに着くと、彼は待ちわびていたかのように笑顔で出迎えてくれた。
「休暇の準備はできた?」
瞳を輝かせ、嬉しそうに問いかける。
「もう十分頑張ったから、休む権利くらいあるわ」
疲れは残るものの、心からの笑顔で答えた。
「しばらく、すべてから離れて過ごしましょう」
二人は短いフライトでハンプトンズへ向かい、海辺の小さなコテージを借りた。潮風が爽やかに頬をなで、長い間感じることのなかった安らぎが、リリーの心を包み込んだ。
到着した最初の夜、二人は砂浜を散歩した。岩に打ち寄せる波の音が、リリーの騒ぐ心を落ち着かせてくれる。ネイサンはそっと彼女の手を取り、周囲の景色を遠くに感じさせるように、静かに歩き続けた。
「リリー、君はこの会社で本当に素晴らしい功績を残してきた」
しばらくして、ネイサンが穏やかに語り出した。
「だけど、仕事以外の人生の楽しみも忘れちゃいけない。ずっと自分を追い込んで頑張ってきたけど、こうして穏やかに過ごす時間だって、君には十分与えられているんだ。ただ生きることを、忘れないで」
リリーは足を止め、胸に込み上げる思いに浸った。
「何かを築くことばかりに夢中になって、生きる喜びを忘れてしまってた。でもあなたと一緒にいると、本当に大切なものが何なのか、思い出せるの」
ネイサンは立ち止まり、彼女の正面に向き直ると、両手でリリーの手を包み込んだ。
「なら、もう二度と忘れないようにしよう」
潮風がリリーの髪をそよがせ、二人はその場に佇んだ。数ヶ月ぶりに、リリーは自分がいるべき場所にいると心から感じた。会社の立場でも、ニューヨークの街でもなく、ただ今この瞬間、ネイサンと共にいるこの場所に。




