1話
朝靄のような白い光が、ゆっくりと視界を満たしていた。
何も見えない。
上も下も分からない。
ただ、全身が水の中に沈んでいるような感覚だけがあった。
――死んだのか。
そんな考えが浮かぶ。
最後に覚えているのは、夜道だった。
仕事帰り、コンビニに寄って帰る途中。
道の向こう側。
空気が歪んで見えた。
まるで熱気のように、景色が揺れていた。
その中心に、小さな子供が立っていた。
信号を無視して飛び出した子供。
そして、突っ込んでくるトラック。
気づけば体が動いていた。
子供を突き飛ばし、その瞬間、目の前の空間が割れた。
耳鳴り。
浮遊感。
世界がねじれる感覚。
そこから先は覚えていない。
「……っ」
遊真は薄く目を開けた。
最初に見えたのは、青空だった。
木々の隙間から、眩しい陽光が差し込んでいる。
鳥の鳴き声。
風の音。
湿った土の匂い。
「……森か」
ゆっくりと上半身を起こす。
その瞬間、違和感に気づく。
体が軽い。
信じられないほど軽い。
腰も痛くない。
肩も重くない。
「……楽だな」
思わず漏れた。
指を握る。
関節が滑らかに動く。
立ち上がる。
膝が痛まない。
「……若い、のか?」
服を見る。
見覚えのないシャツとズボン。
靴も知らないものだった。
近くの水たまりを覗き込む。
映った顔を見て、少しだけ目を細めた。
二十歳前後。
見慣れた自分ではない。
だが――
「……悪くないな、なかなかイケメンだ」
驚きよりも、納得が先に来た。
夢にしては、風も匂いも鮮明すぎる。
なら、現実として受け入れるしかない。
「あとで考えればいいか」
そう呟いて、周囲を見る。
深い森。
見たことのない景色。
空気は澄んでいるが、どこか重い。
その時、背後で音がした。
振り返る。
大きな岩。
試しに手を置く。
力を込める。
ばきっ。
「……おいおい」
思わず苦笑した。
指がめり込んでいる。
軽く拳を当てるだけで、木が揺れる。
少し跳べば、軽く二メートル近く浮く。
「これは……やりすぎだろ」
その時――
「グルルル……」
低い唸り声。
遊真は顔を上げた。
茂みの奥。
大きな影。
現れたのは、巨大な狼だった。
普通じゃない。
明らかに異常。
「……さて」
不思議と恐怖心はなかった。
一歩だけ前に出る。
無理に構えない。
ただ、観察する。
すると見えた。
体の中を流れる、青い光。
筋肉の動きと一緒に、流れている。
胸の奥に集まる、小さな石。
「……そこが要か」
狼が飛びかかる。
速い。
だが――見える。
踏み込み。
重心。
全部分かる。
「焦るなよ」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
半歩ずれる。
牙が頬をかすめる。
風だけが通る。
近くの枝を掴む。
振る。
ごんっ!
鈍い音。
狼が吹き飛ぶ。
「……いけそうだな」
手応えを確認する。
もう一度来る。
今度は真正面。
「いいぞ」
小さく呟く。
踏み込む。
青い流れの中心へ。
叩き込む。
光が揺れる。
弱くなる。
「そこだな」
もう一撃。
光が止まる。
狼の体が崩れる。
動きが止まった。
遊真はゆっくり息を吐いた。
「……大丈夫そうだな」
自分に言うように呟く。
その時――
「うわああああっ!!」
子供の悲鳴。
遊真はすぐに顔を上げた。
走る少年。
追う魔物。
二匹。
「――間に合うか」
次の瞬間、もう走っていた。
景色が流れる。
一歩で距離が消える。
割り込む。
拳を振るう。
どんっ!
一匹を吹き飛ばす。
もう一匹。
蹴り。
宙に浮く。
「大丈夫だ、下がってろ!」
少年に声をかける。
安心させるように。
青い流れを見る。
弱い方から。
枝を叩き込む。
一匹、沈黙。
もう一匹。
避ける。
崩す。
叩きつける。
終わり。
静寂。
少年がぽかんと見ていた。
「……怪我は?」
しゃがんで目線を合わせる。
少年は慌てて首を振る。
「だ、大丈夫……!」
「そうか。よかった」
小さく頷く。
少年の顔に、少しだけ色が戻る。
「兄ちゃん、すげえな……!」
「たまたまだよ」
軽く笑う。
「それより、ここ危ないな」
周囲を見る。
「安全なところはあるのか?」
少年は大きく頷いた。
「村がある!すぐ近く!」
「じゃあ案内してくれるか」
「うん!」
少年が立ち上がる。
「オレ、トンボ!」
「ユーマだ」
短く名乗る。
「よろしくな」
トンボが嬉しそうに笑う。
遊真は森を見た。
知らない世界。
知らない力。
だが――
「まあ、なんとかなるか」
少しだけ肩の力を抜く。
「一人じゃないしな」
トンボの方を見て、そう言った。
新しい人生が、静かに動き始めていた。




