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【書籍化決定】追放された黒剣士は白聖女と辺境でのんびり暮らしたい。~え? 聖女と一緒に戻ってきてほしいって? もう遅い~  作者: 九条蓮


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第83話 いざ神殿内部へ

 鼓動の音は、扉をくぐった途端、少しだけ遠のいた。

 代わりに、重く沈んだ静寂が押し寄せてくる。

 外の瘴気に満ちた森とは違う種類の、じっとりとした冷たさだった。


(……中は、こんな感じか)


 ロイドは一歩、二歩と足を進めながら、周囲を見渡した。

 神殿の中は、石造りの回廊となっていた。天井はあまり高くなく、ロイドでも手を伸ばせば届きそうなほどだ。肩幅より少し広い程度の通路が、奥へ奥へと伸びている。

 両側の壁には、古いレリーフが刻まれていた。人らしき影や、翼を持つ何か、円環と剣と、祈るように手を組んだ姿──もともとは、神や聖女を讃える意匠だったのだろう。だが今は、そのほとんどが瘴気に覆われて、判別しづらくなっている。

 黒ずんだ靄が、壁の凹凸にまとわりついていた。

 まるで、石に刻まれた祈りそのものが腐り落ちていく途中を、目の前で見せられているような光景だ。

 足元の石畳も、ところどころひび割れていた。割れ目に染み込んだ黒いシミが、点々と連なっている。血の跡なのか瘴気の濃い溜まりなのかは、ロイドにも見分けがつかなかった。踏みしめる度に、靴底越しに嫌なざらつきが伝わってくる。


「暗いねー」


 背後でフランがわざとらしく肩を竦めた。

 振り返らずとも、その顔が少し引き攣っているのが想像できた。


「松明、持ってくりゃよかったな」


 ロイドは低くそう返す。

 入口から差し込む外光は、もうほとんど届いていない。視界はじわじわと闇に呑まれ、足元の輪郭も曖昧になりかけていた。

 その時だった。


「ご安心ください」


 少しだけ得意げな響きを含んだ声が、すぐ後ろから聞こえてきた。


 振り向くと、ルーシャが指先に静かに魔力を練っているところだった。浅葱色の瞳が、闇の中でもくっきりと輝いて見える。


「母なる光よ……迷い子の道を照らし、穢れを遠ざけ給え」


 囁くような祈りと共に、ルーシャの指先に、小さな光の球が生まれた。

 拳ほどの大きさのそれは、薄金色の光を柔らかく放ちながら、ぱっと宙に浮かぶ。彼女が指をひとつ弾くと、その球体はふわりと頭上近くまで上昇し、ロイドたち四人の少し先を漂うように進み始めた。


「……おお」


 思わず唸りが漏れる。

 ただ明るいだけではなかった。光の表面に、ごく薄い紋様が浮かんでいる。祈りの文言を簡略化したような線が、ゆっくりと回転していた。

 ルーシャがその球体に魔力を送ると、その光の球から目に見えない波紋のようなものが広がった。輪が一枚、ぱん、と空気の中に描かれる。その輪が通り抜けた瞬間──ロイドの肺に入る空気が、わずかに軽くなった。


「あれ……?」


 さっきまで喉の奥にまとわりついていた冷たい粘り気が、薄い膜一枚分だけ削ぎ落とされたような感覚がある。

 瘴気特有の鉄錆びた悪臭が、少しだけ遠ざかった。


「あ、息詰まらなくなった!」


 フランが、目をぱちぱちさせながら声を上げる。

 彼女の頬からも、ほんの少し緊張の色が抜けていた。


「この中からあまり外れないほうがいいわね」


 エレナが、光の輪の境界線をじっと眺めながら言った。

 彼女の視線の先には、うっすらと見える線のようなものがある。輪の内側と外側とで、瘴気の密度が違うのが、敏感な魔力感知にははっきりと伝わっているのだろう。


「浄化魔法をかけてるのよね? この光の中だと、瘴気の影響が抑えられてる気がする」

「はい。〈浄灯(ピュリフィケイション)〉を、私たちの周囲だけ広く掛けている感じです。あまり強くしすぎると、逆に中の何かを刺激してしまいそうなので……」


 ルーシャは、少しだけ肩を竦めて続けた。


「でも、この光の輪の中にいる間は、魔物も少しだけ弱まります。瘴気が削がれているので」

「なるほどな」


 ロイドは、改めて深く息を吸い込んだ。

 さっきまでの空気を濃い泥水とするなら、今は薄い粥くらいの感覚だ。飲み込めなくはないし、喉も通る。

 光の輪の外側は、相変わらず黒い靄が濃かった。

 壁にまとわりついた瘴気が、わずかに光を嫌うように、じりじりと引いているのが見える。手を伸ばせば、その境界線を指先でなぞれそうだった。


(完全に浄化してるわけじゃないけど……できるだけ普通の状態に近い空間になってるってことか)


 明かりだけでなく加護までつけてくれるとは、ありがたい限りだ。

 ロイドは頭上の光の球を一度だけ見上げてから、前へ向き直った。


「俺が前を行く。フランはしんがりを頼めるか?」

「了解!」


 鉄槌を肩に担ぎ直しながら、フランが元気よく答える。

 順番は、ロイド、ルーシャ、エレナ、フランとなった。

 ルーシャは神聖魔法で前後のサポートに徹してもらい、エレナには後ろから魔法で敵を攻撃させようという魂胆だ。近接戦闘もできるフランには、しんがりで後ろを守ってもらう。


「後ろからドーンって来たやつは、まとめてぶっ飛ばすね」


 説明を受けたフランが、鉄槌の先端を手のひらでぽんぽんと叩いた。


「前に出過ぎないでよ? あなた、ちょっと調子に乗るとすぐに突っ込んでいくんだから」

「わかってるってばー」


 いつものような軽口ではあるが、その実、フランは輪のギリギリ内側に位置を取っていた。

 頭上の光の球は、ロイドたちの進む速度に合わせて、ゆっくりと前進する。四人をすっぽりと覆う輪が、その後を静かに追いかけてきた。

 ロイドは一歩、また一歩と、暗い回廊の奥へ足を進めていく。

 石畳の上に、足音が低く響く。

 四人分の呼吸音が、いつもよりはっきりと耳に届いた。外の森よりも、音がよく通る。天井が低く、音が逃げ場を見つけられないのだ。

 ときおり、どこか遠くで水滴の落ちる音がした。

 ぽちゃん、と。何度かに一度、その音に紛れて、さっき外で聞いたのと似た「どくん」という鼓動が混ざる。


(……まだ、奥だな)


 ロイドは、無意識に右手の甲へ視線を落とした。

呪印(マリス・グリフ)〉の刻まれた場所が、じわりと熱を帯びている。

 さっき結界を喰い破った時のような、はっきりとした痛みではない。もっと、曖昧だ。湿った舌が、空気の匂いをぺろりと舐め取るような──そんな『味見』の感覚だ。


(これは……舐めてやがる、のか?)


 この回廊に満ちた瘴気を、〈呪印(マリス・グリフ)〉が、ゆっくりと舌触りで確かめている──甘いか、苦いか、濃いか、薄いか。そんな情報が、言葉にならない形でロイドの神経に流れ込んできた。

 足を止める。光の輪がその場でふわりと留まり、四人の影を壁に柔らかく映し出した。


「ロイド?」


 すぐ背後から、ルーシャの小さな呼び掛けが届く。


「いや……少し、確かめたいことがあってな」


 ロイドは短く答え、意識を右手に集中させた。

 瘴気の流れは、どこから来て、どこへ向かっているのか。

 鼻から吸い込む空気ではわからないものが、〈呪印(マリス・グリフ)〉には『味』として伝わってくる。

 右側の壁の方へ、意識を傾ける。そこからは、濁った水を薄めたような、ぼやけた感覚が返ってきた。嫌な味ではあるが、さっき外で浴びた濃度に比べれば、まだましだ。

 今度は左側──回廊の奥の方へ意識を向ける。

 途端に、舌の奥に、濃い苦味が広がった。

 淀んだ沼底をそのまま絞り出して飲まされたような、どろりとした味。喉がひとりでに閉まりそうになる。


(……こっちが、本命ってわけか)


 言葉にするほど明確ではない。

 それでも、〈呪印(マリス・グリフ)〉が教えてくる濃度の差は、ロイドの中でゆっくりと形になっていった。危険の濃い方向が、ぼんやりとわかる。

 それは、目で見る地図とは違っていた。

 けれど、身体のどこかに、じわじわと染み込んでいく印のような感覚だった。

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