第82話 黒と白で、結界を。
透明に近いが、角度を変えると、油膜のように黒紫の光がちらつく。触れれば、ぬめりのある嫌な感触が返ってきそうな、そんな見た目だ。
「結界ね。それも、張られて間もないわ。中の奴が、慌てて結界魔法を使ったんでしょうね」
エレナが、見ただけで構造を読み取ったらしい口調で言った。
杖の先で結界に触れると、ぴり、と小さな火花のようなものが散る。
(さっきの乱戦を見てたってことか)
ロイドたちが破竹の勢いで部下を蹴散らしていく様を、奥にいる親玉は見ていたのだろう。そして、慌てて入口を塞いだ。
頭が切れることは間違いないようだが、同時にそれは、ロイドたちを脅威と見なしたということでもある。手に負えない化け物というわけではなさそうだ。
「解けるか?」
ロイドが問うと、エレナは肩を竦める。
「できなくはないけど……私のやり方だと、ちょっと段取りが面倒で時間かかるのよね。神聖魔法の観点からはどうなの?」
気怠そうに言いながら、横目でルーシャを見やる。
エレナもルーシャも結界魔法を扱えるが、その性質はまるで違う。エレナのそれは『魔術的な封印』であり、ルーシャのそれは『聖なる守り』だ。
「えっと……もしかすると、できるかもしれません」
ルーシャは扉に歩み寄り、崩れかけた石枠に視線を走らせる。
そこには、割れ、煤け、かすれながらも、まだ光の紋章が残っていた。
かつての聖女が残したのだろう、聖印の名残だ。
ルーシャが手を翳し、指先に集めた光をそっと紋章へ触れさせる。
その瞬間、微かな温もりが返ってきた気がした。
遥か昔に刻まれたはずの光の意思が、まだかすかに眠っているような──そんな手応え。
(……生きてる、のか?)
ロイドには感じ取れない感覚だが、ルーシャの表情が僅かに変わる。目を閉じ、古い紋を指でなぞりながら、小さく祈りを捧げた。
「……どうか、少しだけ力を貸してください」
誰かへ語り掛けるような祈りだった。
石の中に眠る古い記憶に、そっと手を伸ばすような声音。
すると、光が紋章の線に沿ってじわじわと広がり始めた。ひび割れた石の溝に、光が水みたいに流れ込んでいく。しかし……。
「──ッ!?」
ルーシャの肩が、びくりと震えた。
瘴気の層が厚すぎる。光が進もうとするたびに、黒い膜のようなものがそれを弾き返しているのが、見ているロイドにもわかった。
(……こいつか)
ロイドの右手の〈呪印〉が、低く唸るように疼いた。
結界の外側にまとわりついた瘴気が、光とぶつかるたびにざわつき、そのざわめきに呼応するように刻印が熱を帯びる。
喉の奥に、鉄錆びのような味が広がった。
「ロイド?」
振り向いたルーシャの声を背中で受けながら、ロイドは紋章の脇に、そっと右手を添えた。
石のひび割れに指を掛けるようにして、〈呪印〉を結界の近くへ晒す。
「……続けてくれ。余計なものは、俺が喰ってやる」
「え?」
困惑するルーシャの声が聞こえた。
だが、それよりも早く、〈呪印〉が反応した。
結界の表面に貼り付いていた瘴気が、じわり、と右手に吸い寄せられてくる。黒い霧が、糸を引くようにして〈呪印〉へ流れ込み、そのままどこか底の見えない穴へと落ちていく感覚。
(……なるほどな)
瘴気の層を、噛み砕くような感覚だった。
今までは、身体の内側を侵そうとしてきた瘴気を、防ぐために光で押さえ込んでいた。それを今は、こちらから齧り取って、力として取り込んでいる。
「これなら……!」
ルーシャの声色が、明るくなった。
瘴気の抵抗が弱まったのを感じ取ったのだろう。彼女は再び、紋章へ光を送り込んだ。
呪いの瘴気と神聖魔法の光が、扉の表面でぐるぐると混ざり合う。黒が、余計な毒を噛み砕き、白が本来の線をなぞり直していった。ひび割れだらけだった紋章が、一瞬だけ、元の形を取り戻したかのように鮮明に浮かび上がる。
「嘘でしょ!?」
背後で、エレナが素っ頓狂な声を上げた。
「なんか知らないけど、やっちゃって!」
フランは周囲を警戒しながらも、目と耳を森へ向けたまま叫んでいた。外から新手が来ないか、気配をひたすら探っている。
(黒と白が……)
ロイド自身も、その光景にぞくりとする。
これまで忌み嫌われてきた〈呪印〉の瘴気と、聖なる光が打ち消し合うことなく、ひとつの模様を形作っている。そう……それはまるで、ルーシャと共鳴したあの瞬間のように。
「このまま、ぶち破るぞ」
ロイドが言うと、ルーシャは一度だけ深く息を吸い込んで──。
「はい……!」
真っ直ぐな返事と共に、光をさらに強めた。
祠全体が、低く唸るような音を立てる。
古びた石が震え、内部からひやりとした風が漏れ出した。結界の膜が、重く軋みながらひび割れていく。
「やったー!」
フランが、子どものように両手を上げて喜ぶ。
同時に、エレナは信じられないものを見る目で、ロイドとルーシャを交互に見た。
「どういうことなの? こんなの、見たこともないんだけど」
純粋な興味と、わずかな恐れが混じった声だった。
その疑問に答える余裕は、今はまだない。そもそも、ロイド自身が一番わかっていなかった。
結界の膜に走った亀裂が、ぱきぱき、と音を立てて広がっていく。
最後のひと押しをするように、〈呪印〉がひときわ熱を帯びた。どろりとした瘴気の塊が、右手に吸い込まれていく感覚。
次の瞬間、目の前の透明な壁が、ガラス片のように砕け散った。
扉の向こうから、濃密な瘴気と冷気が一気に流れ出す。
肺の奥まで冷やされるような、嫌な雰囲気。
「うわぁ……空気悪そう」
フランが、思わず肩を竦めた。
鼻をつまみたくなるような顔だが、その手は鉄槌から離れていない。
(よし……こっからが本番だな)
これまでの戦いは、まだ「準備」に過ぎなかったのだろう。
この扉を一歩くぐれば、もう簡単には引き返せない。
それでも、と隣にいる三人の気配を、ロイドは改めて確かめた。
鉄槌を軽く振って肩の力を抜きながら、それでも目だけは鋭く森を見据えているフラン。
疲労の色を隠そうともしないが、杖を構え直した瞬間に気持ちを切り替えるエレナ。
聖なる光を指先に宿し、祈るような仕草で胸の前に手を重ねたルーシャ。
(……不思議と、何も怖くないな)
ひとりだったら、きっとこの扉の前で足が止まっていた。
ユリウスの護衛として命じられていた頃でも、こんな場所を前にして笑う余裕はなかったはずだ。
だが、今は違う。
ロイドは剣を抜き直し、刃先を暗い回廊へ向けた。
エレナも杖を構え、ルーシャは光を、フランは鉄槌を肩に担ぎ直す。
「行くぞ」
短く告げて、一歩を踏み出した。
暗い回廊の入口へ、四人の足音が重なる。
背後の光が、少しずつ遠ざかっていく。代わりに──。
瘴気の奥から、かすかな鼓動のような音が聞こえ始めた。
どくん。
石壁のどこかが鳴っているのか、それとも大地の底から響いてきているのか判別できない。
ただ、確かに何かが「生きている」気配だけが、薄暗い通路の奥から、じわじわとこちらへ滲み出していた。




