第79話 強さの理由
森の中は、村のすぐ外とは思えないほど静かだった。
木々の枝が頭上で絡み合い、昼の光を灰色に濁らせている。さっきまで耳の端をかすめていた鳥のさえずりも、いつの間にかほとんど聞こえなくなっていた。
(……前に来た時より酷いな)
ロイドは、無意識に息を浅くしていた。
肺に入った空気が、重い。温度はそう変わらないはずなのに、胸の奥に冷えた鉛を押し込まれたような感覚があった。
足下の落ち葉は、ところどころ黒ずんでいる。腐葉土の柔らかい弾力のはずが、靴底の下でぐしゃりと潰れた瞬間に、嫌な粘り気が伝わってきた。幹にまとわりつく苔も、緑ではなく灰緑のまだらに変色している。
道の端、草の隙間に、小さな骨が転がっていた。鳥か小動物かわからないが、白いはずのそれは、瘴気を吸ったせいか薄く煤けたような色をしている。
(空気だけじゃない。森そのものが、ゆっくり死にかけてる)
右手の甲の下で、〈呪印〉がかすかにざわついた。
じり、と皮膚の裏を虫が這うような感覚。瘴気の濃さに比例して、刻印は敏感に反応する。鼓動も、さっきよりわずかに速くなっている気がした。
「だいぶ、濃くなってきましたね……」
背後で、ルーシャが小さく呟く。
彼女もまた、手を僅かに握りしめながら、森の奥を見つめていた。
「まだ我慢できる範囲よ。結界を張るほどじゃないわね」
エレナが周囲を見渡しながら言う。
口調は相変わらず淡々としているが、その指先は杖を軽く叩き、いつでも詠唱に移れるように力を溜めていた。
「うへぇ……空気まで臭いよぉ……」
フランが鼻をしかめる。
肩に担いだ鉄槌が、彼女の歩幅に合わせてぎしぎしと揺れた。
その時だった。
ざり──と、前方の藪で何かが動いた。
「来るぞ」
ロイドは即座に足を止める。
腰の魔剣〝ルクード〟に手を添え、視線だけで前方の影を射抜いた。
枯れかけた茂みを掻き分けるようにして、灰色の毛並みが現れる。
瘴気に焼かれたようにまだらな狼型の魔物が、低く唸り声を上げていた。目は血のように濁った赤で、涎と一緒に黒い泡を垂らしている。その後ろから、土を蹴ってひょこひょこと現れたのは、半分土に埋もれたスケルトンだ。腰から下は泥に絡め取られたままなのに、上半身だけでずるずると近付いてくる。
「昨日の残り物って感じね」
エレナが鼻で笑う。
ロイドは短く頷き、足を一歩前へ出した。
「フラン、右。スケルトンは任せる。エレナは狼の足を止めてくれ」
「了解!」
「わかったわ」
短い指示。反応も短い。
それで十分だった。
ロイドは、狼との距離を一気に詰める。
地面に撒き散らされた黒い落ち葉を踏み割りながら、低く身を沈めた。その瞬間、エレナの詠唱が背中を掠める。
「貫け……〈氷槍〉!」
無駄のない詠唱と共に、狼の足下から氷の杭が突き上がる。
前足が一瞬だけ凍り付いたように止まり、狼の体勢が崩れた。その隙を逃すロイドではない。
黒い刃が、弧を描いた。
頚椎に沿って斜めに叩き込んだ一撃は、瘴気を吸った肉ごと骨を断ち切った。黒い血が噴き上がる──が、ルーシャの結界がすぐさまその飛沫を弾く。透明な薄膜の上で、血はぱちぱちと音を立てて弾け、そのまま地面へ落ちた。
「うりゃああッ!」
一方その頃、フランはスケルトンと向かい合っていた。
迫ってくる骨の腕を、小ぶりな光の盾で受け止める。骨がぶつかるような乾いた音が響き、その勢いを殺した瞬間、フランの鉄槌が横合いから振り抜かれた。
鈍い音と共に、頭蓋骨が弾け飛ぶ。
霧のような瘴気がぱっと散り、骨を繋いでいた魔力の糸が切れたのか、残った骨はその場に崩れ落ちた。
「ふぅ……こんなもんかな?」
鉄槌を肩に戻しながら、フランが肩で息をつく。
ロイドは周囲をぐるりと見渡した。藪の影、木の幹の陰──潜んでいそうな場所をひと通り探ったが、今のところ他の気配はない。
「終わりだな。被害なし、っと」
〝ルクード〟の刃についた血を軽く振り払い、鞘に戻す。
右手の甲の疼きも、さっきよりは落ち着いていた。瘴気の濃さに当てられて高ぶっていたのが、戦闘でいくらか発散されたのだろう。
その様子を見ていたフランが、ぽりぽりと頬を掻いた。
「ねぇ、ロイド。今朝も思ったけど、前よりなんか強くなってない?」
「え?」
思わず聞き返してしまう。
フランは首を傾げたまま、改めてロイドの全身を眺め回していた。
「いやなんかさ、前は〈呪印〉で〈共鳴スキル〉がない分をカバーしてたって感じだったけどさ。普通に生身だけでその時くらい強くなってない?」
「あ、私もそれは思ってた」
エレナが、さらりと同意する。
杖の先で地面を軽く突きながら、じっとロイドを観察するような目を向けてきた。
背中に、むず痒いような感覚が広がった。
「気のせいだろ。場数を踏んだだけだ」
ロイドは誤魔化すように言った。
本当は、自分でも薄々気付いている。身体が軽くなって、俊敏性が大分上がった。それだけではない。魔剣を振るうたびに、身体の芯から力が湧き上がってくるような感覚もある。
あれが単なる経験則の積み重ねだけではないことは、わかっていた。
(ルーシャと……結ばれてから、だよな)
ふたりで気持ちを伝えあって、結ばれたあの夜。きっと、変わった切っ掛けはあそこだ。
以前は、ルーシャの〈光の抱擁〉が〈呪印〉の瘴気を抑え込み、暴走を防いでくれていた。それが今は──瘴気と光が混ざり合い、ひとつの流れとして身体を巡っている。
理屈はわからない。
ただ、ロイドだけでなく、ルーシャ自身も「魔力が増えた」と言っていた。互いの魔力がどこかで繋がり合い、底上げされているのは間違いない。
(まあ……そんなことは、口が裂けても言えないな)
勇者パーティーの元仲間ふたりを前に、「実は聖女とのラブラブ効果でパワーアップしました」などと言えるはずもない。死んでも嫌だ。
そんなロイドの内心を知ってか知らずか、ルーシャがくすっと笑った。
「ふふっ」
首を傾げるようにしながらも、その瞳にはどこか意味ありげな光がある。
「何だよ」
「いえ……ロイドは、最初から強かったですよ? ただ、その力の使い方が少し変わっただけなんじゃないかなって、私は思いますけど」
「使い方?」
「前は、自分の存在のために力を使って誰かを助けていたように見えましたけど……今は、その対象がしっかりと見えている、という感じです」
言葉を選びながら、ルーシャはゆっくりと言葉を紡ぐ。
ロイドは一瞬だけ視線を逸らし、すぐに森の奥へと戻した。
(自分の存在のため、か……)
言われてみれば、そうだったのかもしれない。
この〈呪印〉のせいで、誰とも絆を結べなかった。でも、誰かのために力になりたいという漠然とした思いだけはあって、それがユリウスたちのパーティーであったり、ルーシャを助けた時だったりした。
(いや、ルーシャの時は少し違うか)
ルーシャの時は、本能に近いものだった。使命感とでもいうべきだろうか。彼女を守らないといけない、と思わされたのだ。
ただ、ユリウスと一緒にいた頃、ロイドの役割ははっきりしていた。
勇者の突撃のために道を掃除し、敵の攻撃が集中しないようヘイトを散らし、致命傷だけは食らわせないように立ち回る。要するに、勇者という駒を最大限に活かすための、補佐の駒。
その延長線上で、エレナもフランもいた。
回復と補助を担う神官に、広範囲魔法と制御を担う魔導師。誰もが、勇者という一点に向けて役割を分担されていた。
だが、今は違う。
勇者はいないけれど、その代わりに、四人で前に進む。誰かひとりのためではなく、全員が全員のために動いていた。
「まあ、あの時のロイドは、勇者の御守だったものね」
エレナが苦笑混じりに言った。
「あたしらも随分とお世話になったしねー」
フランも肩をすくめる。
その声音には、僅かな自嘲と、それ以上に「今は違う」という小さな誇りが混じっていた。
(守ってやらないといけないと思ってた連中に、今は普通に助けられてるんだからな)
本当に、不思議なものだ。
ロイドがそんなことを考えていると、ルーシャがふっと表情を変えた。
「……集まってきたみたいですね」
その声色が、さっきまでとは違う。
ロイドは即座に身構えた。
「魔物か」
問い返すと、ルーシャは神妙な顔で頷いた。
「はい。瘴気の流れが少し変わりました。今の戦いの気配に引き寄せられたんだと思います。それと……」
彼女は森の奥、神殿跡があるはずの方向を見据える。
「向こうからも、何かがこちらに意識を向けている感じがします」
ぞり、と背骨の内側を氷の指でなぞられたような感覚が走った。
ロイドは、無意識に剣の柄を握りしめる。
(……やっぱり、見ているか)
前に来た時に感じた「見られている」あの感覚が、まだ続いているのだとしたら──あの神殿の中で、何かがこちらを待ち構えているのは間違いない。
それに引き寄せられるように、周囲の魔物も集まってきている。ここからが本番だ。
「お喋りはここまでだ。行くぞ」
ロイドの一言で、空気がきりりと張り詰めた。
フランが鉄槌の柄を握り直し、エレナは杖を胸の前で構え、瞳を細める。
ルーシャは手のひらに魔力を込め、いつでも結界と回復を展開できるよう、静かに呼吸を整えた。
四人それぞれの武器が、瘴気の森の薄暗い光を鈍く弾く。
神殿跡までは、もうそう遠くない。
そこに辿り着くまでの道は、おそらく──今までよりずっと血なまぐさいものになるだろう。
それでも、足は止まらない。
ロイドたちは前を向いたまま、静かに一歩を踏み出した。




