第76話 最終確認と覚悟
村長の執務室は、広間の隣にある。
ロイドが戸口を軽くノックすると、中からすぐ返事があった。
「おお、ロイド殿か。入りなされ」
戸を開けると、村長が机の向こうで待っていた。
皺だらけの顔は一晩でさらに痩せたように見えるが、その目にはまだ火が残っている。机の横には、昨夜も見張りに立っていた若者たちが数人、壁にもたれたり椅子に腰掛けたりしていた。
「入るぞ」
ロイドは軽く頭を下げ、ルーシャと一緒に部屋へ入った。
途端に、若者のひとりがぴんと背筋を伸ばす。昨日、柵の修繕を手伝っていた青年だ。まだ幼さの残る顔だが、手の甲には何本もの古い傷が走っている。村を守るために何度も武器を握ってきたのだろう。
「もう集まってくれていたか。遅くなってすまない」
ロイドが言うと、村長が「いやいや」と手を振った。
「こちらこそです。本当は、もう少し寝かしてあげたかったのですが。……して、今日はどんな段取りになりますかの?」
待ちかねていた、といった口ぶりだった。
ロイドは机に近付き、地図代わりに広げられている紙に視線を落とす。そこには、簡単な線だけで村の輪郭と森の位置、北側の柵、川の流れなどが記されていた。昨夜、自分がざっと描いたものだ。
「まずは、防衛ラインの確認だ」
ロイドは指先で村の北側を示した。
「北側の柵は昨日直したばかりだから、まずそこに目を。あそこが一番、森の影に近い。見張りは二人一組で、交代を早めに回してくれ。無理はさせたくないが、方向的にここから来る可能性が一番高い」
若者のひとりが、ごくりと喉を鳴らした。
もう一人が、拳を握り締める。その震えが恐怖なのか緊張なのか、ロイドにはよくわかる。どちらにせよ、それを責めるつもりはなかった。
「南側と東側は、昨日より瘴気が薄い。完全に安全とは言えないが、見張りの人数を一人ずつ減らして、その分を北へ回してほしい。西の川沿いは……」
指を移し、川の線を軽くなぞる。
「ここは逃げ道だ。見張りは最低限でいいが、水かさと足場だけは常に確認しておいてくれ。いざという時に足を取られたら、避難どころじゃなくなる」
「いざという時……とは?」
村長が眉をひそめる。
聞きたくない言葉を自分から促してしまった、というような顔だった。
「俺たちが祠を叩いている間に、もし魔物の群れが村へ押し寄せたら、だな」
ロイドは忌憚なくはっきりと答えた。
できるだけ淡々と、しかし誤魔化さないように。
「村の周囲には、俺たちが出る前に簡易の結界を張っていく。ただ、これはあくまで時間稼ぎにしかならないと思っておいてくれ。あの数だ。何れは押し切られる」
若者たちの表情が、目に見えて引き締まった。
誰かが小さく息を呑む。重苦しい沈黙が一瞬、部屋の中を覆いかける。
ロイドは、敢えてその沈黙を切らなかった。
(まあ……楽観視しても、意味がないからな)
危機感だけは、きちんと共有しておいた方がいい。
ルーシャとエレナが協力すればかなりの結界にはなるだろうが、完全ではないとのことだ。聖印か聖具でもあれば違ったのだろうが、今回はそれがない。あくまでも、時間稼ぎのものとして割り切ってもらっておいた方がいいだろう。甘い見通しを語れば、その場は楽になるかもしれないが、それで誰かが死ぬかもしれないなら意味がない。
「だからこそ、合図が重要になる」
机の端に置かれていた、小さな鐘を指さす。
「鳴らすタイミングは」
若者が訊いた。
「揺れや物音で鳴らす必要はないよ。明らかに群れが柵を越えてきた、或いは結界が破られたと判断できた時だけでいい。で、鐘を鳴らしたら、見張りも全員村長宅へ行ってくれ。くれぐれも、戦おうとするなよ。無駄死にだからな」
「全員……」
若者がひとり、思わず呟いた。
畑はどうする、家畜はどうする、という思いがその一言に詰まっているようだった。
「畑も家畜も、大事だけどな」
ロイドはその視線を真正面から受け止める。
「でも、命より大事なものはないだろ。鐘が鳴った時は、畑も荷物もすべて置いて、まずここへ来てくれ」
ことさらに声を強めたりはしなかった。
ただ、事実として告げる。それがロイドのやり方だ。
「それから──」
紙の上で、指先がゆっくりと川の線を下流へなぞっていく。
「女子供から順に、こっちの避難ルートを通してくれ。川沿いに下って隣の村に行くんだ。森の中を突っ切るよりは安全だし、こっちの方角は瘴気の影響も少ない」
村長が、渋い顔で唇を噛んだ。
「……ここを捨てて逃げる、ということか」
「捨てるとは言ってないだろ」
ロイドは首を振る。
「戻るために一度離れるだけ、と考えてくれ。それに、そう判断するのはあくまで最後だ。俺たちが戻るまで踏ん張れそうなら、その必要はない」
村長の皺の間に、苦いものが走った。
誰だって、自分の暮らしてきた土地を簡単に捨てられるわけがない。この家も、この机も、この窓から見える畑も、彼の何十年もの人生の積み重ねだ。
それでも、命あってのものだねであることも、きっと誰よりわかっているのだろう。
「その時は、お言葉に甘えさせてもらうかもしれん」
村長は、絞り出すように言った。
握られた拳が、机の上で小さく震えている。
「ああ」
ロイドは、迷わず頷いた。
「その判断をするのも、あんたの役目だ。もちろん、俺たちもそうならないように、戦うけどな」
それから、集まっている全員の顔を順に見渡した。
若者たちの表情は硬い。恐怖がないわけではない。だが、その奥にあるものも見えた。
(……任せた、ってことか)
誰かに自分の命を預ける、というのは簡単なことではない。
ましてや、つい昨日まで半ば他人だった男に対して、だ。瘴気と魔物から村を守ってくれた、という実績があって初めて、今この信頼がある。その気持ちには、応えたかった。
「ここで踏ん張れば避難せずに済む。俺たちが先に根を断ってくるまで、頑張ってくれ」
締めくくるようにそう言うと、若者たちの肩が一斉にびくりと揺れた。
それから、ゆっくりと背筋が伸びる。怖さは消えていないはずだが、その上から「やるしかない」という決意が薄く膜を張ったように見えた。
「お、おう……!」
「俺らも、やれるだけはやってみます」
「昨日みたいに、変な骨がわらわら来たら泣きそうですけど……それでも、逃げる前に一発ぐらいは殴ってやりますよ」
ぎこちない冗談に、広間に小さな笑いが生まれた。
肩に溜まっていた緊張が、ほんの少しだけ抜け落ちる。
そのタイミングを見計らったように、ルーシャが一歩前へ出た。
白銀の髪がさらりと揺れる。ロイドの横をすり抜けるその背は、修道服の布越しでもわかるほど、細く華奢だ。それなのに、どこか力強さを感じてしまうのは、〝白聖女〟としての風格だろう。
「皆さん」
柔らかい声が、広間の空気に染み込んでいく。
さっきまで荒かった息遣いが、自然と静まっていくのがわかる。
「私たちが、絶対に皆さんの生活を守ってみせます。だから、どうか……諦めないでください」
言葉は、穏やかだった。
だが、その中に込められた決意は、ロイドから見ても並大抵のものではなかった。『生活』という言い方も、ルーシャらしいと思う。
命だけではなく、畑の土の匂いも、朝の鶏の声も、子どもたちの笑い声も含めて守りたいのだ、とその一言で全て伝え切っていた。
村長が、驚いたように目を瞬いた。
「生活……か」
自分の手のひらを見下ろしてから、ゆっくりと顔を上げる。
「そうですね。わしらは、ここで生きております。畑を耕し、子を育て、飯を食い、酒を飲んで笑う。それを守るためなら……」
言葉を切り、ルーシャをまっすぐ見つめた。
「諦めるわけにはいきませんな」
若者たちも、それぞれ顔を上げていた。
さっきまでの強張りが、少しだけほぐれている。恐怖の上に、かすかな誇りのようなものが乗った表情だった。
「修道女さんにそこまで言われちゃ、逃げるに逃げられねぇな」
「お、おい。あんまり余計なことを言うなよ。本当に起こったらどうするんだ」
「そん時ぁ逃げればいい!」
若者たちの軽口に、また小さな笑いが起きる。
笑い声と一緒に、部屋の隅に溜まっていた暗い霧が薄まっていくようだった。
(……やっぱり、すごいな)
ロイドは隣に立つルーシャを横目で見る。
彼女は、特別な演説をしたわけではない。ただ、心から思っていることをそのまま口にしただけだ。それでこの場の空気を変えてしまえるのだから、聖女は大したものだと思う。
ルーシャがふと、ロイドの方を振り返った。
目が合うと、彼女は少しだけ照れたように微笑んだ。
「ふふっ、ちょっと偉そうでしたか?」
「そんなことはないさ。よく言ってくれた」
「別に、慰めで言ったつもりもないんですよ? だって……ロイドならちゃんと守ってくれるって、私が一番よく知っていますから」
小声で付け加えられたその一言に、今度はロイドの方が言葉を失う番だった。
(全く……こいつは、本当に)
胸のど真ん中を、真っ直ぐに射貫かれたような感覚が走る。
期待と信頼と、それから……愛情も混ざった瞳。あの青年たちの「任せた」という視線とも違う、より深い意味を持った眼差しだ。
うっかり視線を逸らせば、その意味から逃げることになる気がして、ロイドはあえて真正面から受け止めた。
「ああ。ルーシャも村も……全部、守ってみせるよ」
短く、それだけを返す。
それ以上余計なことを言えば、何だか甘い空気を出してしまいそうだ。
村長が咳払いをして、皆の注意を引き戻した。
「段取りはわかりました。わしらは村を守ります。ロイド殿たちは、神殿の方を頼みました」
「任せてくれ」
ロイドは、腰の魔剣〝ルクード〟に手を添えた。
村長宅の広間に満ちる空気は、まだ不安と恐怖を多分に含んでいる。けれど、その奥底に小さな芯のようなものが生まれていた。
それは、夜明け前の空に現れる一筋の光に似ている。
黒い雲はまだ空を覆っているが、その向こう側に太陽があることだけは確かに示してくれる光。
(あとは、俺たちの仕事だな)
そう心の中で呟き、ロイドは広間を見渡した。
村人たちが、自分たちの生活を守るために立とうとしている。その背中に、自分もまた背中を預けているのだと意識すると、自然と口元が引き締まった。
皆の日常を守るために。
そのためなら、たとえ地獄の底だろうと、踏み込む価値がある。
ロイドは、静かに拳を握りしめた。




