第75話 決意の朝
鳥の声が、薄い布越しに耳に届いていた。
どこか遠くで鳴く、甲高い声だ。これまでも何度か聞いた、ミンガラムの朝を告げる合図。夢の底に落ちかけていた意識が、その一声を引き金にゆっくりと浮かび上がっていく。
(……朝か)
ロイドは、重たい瞼を押し上げた。
最初に目に入ったのは、粗く削られた木の天井だった。節の浮いた板が隙間なく並び、ところどころに古い染みがある。高級宿の天蓋も、王都の石造りの天井もない。ただの村長宅の一室──けれど、妙に落ち着く風景だった。
寝台の藁は、決して柔らかくはない。身体の節々に、夜通しの見張りと戦闘の疲労がしっかり残っていた。肩も背中も鉛みたいに重い。
それでも、胸の奥だけは不思議と冴えていた。
(今日中に……終わらせる)
そう決めているからだろう。
神殿跡に踏み込み、親玉を倒す。村のためにも、自分のためにも。時間的にも、そろそろ限界だ。倒すのが遅れれば遅れるだけ、魔物が増えてこの村の危険度が増す。いや、ここだけではない。もしかすると、この一帯が瘴気に呑まれてしまうかもしれない。
それだけは食い止めねばならなかった。
上体を起こすと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
窓の隙間から差し込む光はまだ弱い。朝焼けが終わりきる前の、青と朱が混ざり合った時間帯。外からは、鶏の鳴き声に混じって、人の話し声や桶の水が揺れる音が微かに聞こえてくる。村も、ゆっくりと目を覚まし始めているらしい。
簡素な寝台から足を下ろし、靴を探る。
床板の冷たさが、足裏から頭まで一気に覚醒させてくれるようだった。
腰かけたまま伸ばした腕の少し先に、見慣れた黒い鞘がある。〝影の一族〟に伝わる、魔剣〝ルクード〟だ。
「さて……」
ロイドは鞘を手に取り、膝の上で軽く角度を変えてみる。
昨夜の戦いの名残りは、ほとんど残っていない。瘴気を含んだ血は、戦闘後すぐに拭き取っておいた。刃鳴りを確かめるように、半寸ほど引き抜いて覗いてみると、黒鉄の刀身が朝の薄光を鈍く弾いた。
(今日は、もっと働いてもらうぞ)
鞘に戻し、革鎧の紐を締め直す。
肩の留め具、胸のバックル、腰のベルト。いつも通りの手順で一つずつ確認していくと、身体の重さよりも、筋肉が仕事の準備を始めていく感覚の方が勝っていく。
外套を羽織り、マントの留め金を喉元で留めると、ようやく「出る」ための自分の形になった気がした。
(あいつら、もう起きてるかな?)
昨夜、エレナとフランのふたりと合流してから、ロイドたちはまずミンガラムへ引き返した。
村長にふたりを〝なんでも屋〟の助っ人として紹介すると、村人たちは驚いた顔をした後で、一斉に表情を明るくした。外から来た強い魔導師と神官──それだけでも心強いのに、ロイドたちが信頼している仲間だと言えば、なおさらだ。
老いも若きも口々に感謝を述べ、粗末ながらも食事と寝床を用意すると申し出てくれた。
だが、エレナたちもまた限界だった。
不眠不休で瘴気の森を越え、あの混成の群れを相手に魔力を振り絞ったあとだ。顔色は悪くないように見えても、魔力の底はさすがに擦り減っている。すぐに神殿跡へ突撃するのは無謀だと判断し、一旦村長宅で休ませることにした。
軽い食事を取ったあと、ふたりは別室に案内され、そのまま倒れ込むように眠ってしまったのだ。
(あいつらが全力で動ける状態じゃないと、こっちも困るしな)
小さく息を吐き、右手を持ち上げる。
甲の皮膚の下で、赤黒い紋様が静かに渦を巻いていた。
〈呪印〉──生まれつき刻まれていた、忌まわしい印……のはずだった。
瘴気が近付けば、相変わらずそこで蠢く。鈍い疼きと焼けつくような熱も、以前ならそれだけで眉を顰めていた。自分が世界から外れた存在である証のように思えて、見るたびに舌打ちしたくなるような刻印だった。
けれど今は、少し違う。
ルーシャと結ばれてから、この印を『呪い』としてだけ見ることができなくなっていたのだ。
結ばれる前からも、彼女の〈光の抱擁〉さえあれば、この刻印は暴走しなかった。でも、結ばれてからは、それだけではなくなっている。
ただの〈共鳴〉ではない何か。呪いの瘴気と彼女の光が混ざることで、新たな武器になった──そんな実感が、ここ数日の戦いで、嫌でも積み重なっていた。
『私は、あなたの力を〝呪い〟だなんて思ってませんよ?』
『だって……あなたが力を使う時は、必ず誰かを守る時じゃないですか』
ルーシャと出会った日、彼女からこう言われた。
あの時は、彼女の優しさからくる慰めだと受け取っていたように思う。でも、今やそれが事実として、誰かを守るための力となっていた。
『……あなたのために力を使いたいって。どうしてか、そう思うようになったんです』
彼女はこうとも言っていた。もしかすると、あの時から今のような状態になることを予期していたのだろうか。
だとすれば……ルーシャには、本当に頭が上がらない。
ふと視線を横へずらしてみると、隣の寝台は既に空だった。掛け布はきちんと畳まれ、枕も壁際にぴたりと揃えられている。シーツの皺さえ、手で伸ばした跡がある。
(先に起きたか)
ルーシャらしいと思う。
こんな状況でも、乱雑にしたまま部屋を出るという選択肢が彼女にはないのだろう。律儀で、几帳面で、どこか「生活」の匂いがする所作だ。
そのことを思うだけで、胸の奥の緊張が少しだけ和らいだ。
腰の〝ルクード〟に触れてから、戸口へと向かう。
廊下に出ると、冷えた空気と一緒に、別の匂いが鼻をくすぐった。
煮込んだ野菜と肉、それから炒めた玉ねぎのような甘い匂い。台所からだろう。誰かの話し声と、鍋をかき混ぜる音も混ざって聞こえてきた。
広間へと繋がる戸を押し開ける。
そこは、夜とはまるで違う空気だった。
眠っていた子どもたちは、もう半分以上が起き出しているらしい。奥の方では村長夫人が大鍋の前に立ち、誰かと並んで忙しなく手を動かしていた。
その「誰か」が、振り向いた。
「おはようございます、ロイド」
エプロン姿のルーシャが、ぱっと花が咲くように笑った。
腰に紐をきゅっと結び、いつもの修道服の上から借りたらしい布エプロンを着けている。髪は後ろで一つにまとめられ、高い位置のポニーテールになっていた。白銀の髪が揺れるたび、朝の光をさらさらと零す。
「おはよう。あんまり休んでないのか?」
思わずそんなことを訊ねてしまう。
昨夜の疲れ具合を見ていれば、もっと寝ていてもおかしくないはずだ。
「いえ、ちゃんと寝ましたよ? 少し早く起きれたので、お手伝いをさせてもらっています」
返ってきた声は、張りがあった。
目の下に隈もないし、頬の色もよく、何よりその表情が疲れを誤魔化している顔ではない。嘘をついている気配はなかった。
(本当に……よく働くな。この聖女様は)
感心とも、呆れともつかない溜め息が、喉の奥でほどける。
そんなロイドを見ていたルーシャが、「あっ」と小さく声を上げた。
「どうした?」
問い返す間もなく、彼女は近付いてきた。
背伸びをするようにして、ロイドの胸元に手を伸ばす。外套の襟元を摘まみ、きゅきゅっと整えた。
「これで大丈夫です」
言って、ルーシャは満足そうに微笑む。
いつもの穏やかな笑みなのに、距離が近すぎて、やけに心臓に悪い。
「ったく。子供じゃないんだから……」
口をついて出た言葉は、半分照れ隠しだ。
だが、そう言いながらも、内心では否定できない別の感情があった。戦場で背中を預け合う関係でありながら、こうして襟を整えてもらうと──どこか、夫婦のような、家庭の匂いがする。
新婚夫婦、という言葉がふと頭の隅をよぎり、慌てて追い出した。
「エレナたちは?」
話題を切り替えるように、ロイドは周囲を見回しながら訊ねた。
広間には村人たちの姿ばかりで、青髪の魔導師と小柄な緑髪の神官の姿は見当たらない。
「まだ寝てると思います。ふたりともお疲れでしたからね」
「そっか」
生真面目なエレナにしては、随分と珍しい。
彼女は基本短時間睡眠の体質で、一緒にパーティーを組んでいた時は、少しの仮眠でもすぐにケロッとしていた。そんな彼女がまだ布団から出てこないということは、それだけ限界ギリギリまで急いで来てくれたということなのだろう。
そう考えると、改めて胸の奥に感謝の重さが増した。
「村長は? 今後の流れを説明しておきたい」
神殿跡へ向かう前に、村としてどう動いてもらうかをはっきりさせておく必要がある。
避難のタイミング、見張りの配置、鐘の合図。昨夜の時点で大まかな取り決めはしたが、仲間が増えた今、改めて擦り合わせておきたかった。
「執務室にいらっしゃいましたよ」
言って、ルーシャは鍋をかき混ぜていた村長夫人の方を振り向いた。
「それでは、あとはこのハーブを刻んで入れてください。少しだけで大丈夫です」
「こうでしょうか?」
村長夫人が頷き、束ねられたハーブを受け取る。
ルーシャは「はい」とにっこり微笑み返してから、手早くエプロンの紐を解いた。
背中で結んでいた紐がほどけると同時に、髪をまとめていた紐も外す。
白銀のポニーテールがふわりと広がり、さらさらと落ちた。さっきまで「台所の手伝いをする娘」という印象だったのが、一瞬でいつもの〝白聖女〟に戻る。
「もういいのか?」
ロイドは思わず訊ねた。
鍋にはまだ温かな湯気が上がっている。皿もいくつか並べられた途中だ。
「もうほとんどできてますから。しかも、何と……隠し味付きですっ」
ルーシャは少しだけ誇らしげに胸を張る。
その様子があまりにも微笑ましくて、ロイドの胸の内側がふわりと温まった。
誰かのために動くことを、当たり前のようにやってしまう。それが危なっかしくもあり、同時に愛しくもある。そんな矛盾した感情が胸の中で同居していた。
(こういうところが、本当に……可愛いんだよなぁ)
抱きしめたくなる衝動をぐっと抑えて、「楽しみにしてる」とだけ言った。
「よし、行くか」
「はい!」
ルーシャがエプロンを畳んで椅子の背に掛けるのを待ってから、ロイドは踵を返した。
広間を抜け、狭い廊下へ出る。窓の外には、村人たちが柵の点検をしたり、水桶を運んだりする姿が見えた。昨夜の恐怖が完全に消えたわけではないだろうが、それでも彼らの動きにはどこか日常が戻りつつある。
その日常を守るために、これから自分たちは地獄の入口へ向かう。
そう思うと、背筋が自然と伸びた。
隣を歩くルーシャの足音が、一定のリズムで続いている。
ふたりの影を廊下の板に落としながら、ロイドは村長の執務室へと歩を進めた。




