第72話 仲間の気配
夜は、少しずつ薄くなっていた。
どれくらいの時間が経ったのか、正確なところはわからない。
焚き火の炎は一度薪を足され、また小さくなっている。冷えは増し、吐く息は白くこそならないものの、胸の中の熱をじわじわと削っていく。頭上の星はゆっくりと位置を変え、村の屋根の縁から覗く東の空に、墨に白を一滴垂らしたような気配がうっすらとにじみ始めていた。
北の空だけは、相変わらずだ。
星の数が少なく、瘴気の薄膜が張り付いているみたいに、闇の色が濃い。森の方から吹いてくる風は少なく、代わりにじっとりとした重さが肌にまとわりついていた。
柵の上に視線を走らせる。
遠目に見える見張りの影が、肩を竦めているのがわかった。交代制とはいえ、この緊張の中で夜通し立ち続けるのは骨が折れる。ロイドはときおり様子を見に行っては、短く言葉を交わし、足の運びや視線の配り方をその場で直してやった。
ルーシャは、その横で静かに彼らを見守っていた。
彼女の存在自体が、村人たちにとってひとつの灯だ。闇の中でふと視界の端に白い影を見つけるだけで、彼らの肩の力がほんの少し抜けるのが、ロイドにも伝わってきた。
〝白聖女〟とは、きっと精神的支柱なのだ。教会での彼女の立ち位置がどれほどのものだったのかがよくわかる。
(まあ、そんな精神的支柱を、偽者扱いしたのは教会なんだけどな)
幸い、今はまだ何もそれらしき空気がない。ただ、このままずっと何も起こらないとは思えなかった。
そんなことをぼんやりと考えながら巡回を繰り返し、再び北側の柵に戻ってきた時だった。
「……今、何か聞こえなかったか?」
自分でも驚くほど、ぽろりと声が零れた。
耳の奥で、微かな震えを感じた気がしたのだ。獣の遠吠えでも、木の軋む音でもない。もっと……空そのものが、かすかに軋んだような。
「え? 私には何も──」
隣のルーシャが首を傾げかけた、その次の瞬間だった。
遠くの森の向こう側で、夜空を裂くような光が一瞬だけ閃いた。
雷が落ちたのかと錯覚するほどの明滅。
だが、あれは雷ではない。闇の布の向こう側から、幾重にも重なった魔法陣の輪郭が、紅蓮色の線となって透けて見えた。幾何学模様と古い文字が、巨大な円環を描いて空に走る。瞬きするほどの一瞬ののち、轟音が遅れて届いた。腹の底を揺さぶるような低い響きだ。
紅い火柱が、森の端の向こう側で立ち昇る。
炎というより、魔力そのものが形を持って噴き上がったような光景だった。闇を押し返し、瘴気の膜を強引に剝がし取るような苛烈さ。
「あれは……!」
ルーシャが息を呑む。
ロイドの胸の奥が、きゅっと掴まれた。
「エレナだ!」
名を呼んだ瞬間、右手の甲の下で〈呪印〉が細く鳴いた。
見間違えるはずがない。あの、無茶をする時ほど派手な、広域殲滅魔法の光り方。パーティーを組んでいた時によく見た、彼女独特の魔法陣の組み方。その全てが、今の光景と重なる。
あそこまで大規模にやったということは、森の中で既に一戦交えたのだろう。。
胸の内に、色々な感情が一度に押し寄せた。
安堵と、呆れと、少しの心配。間に合ったか、なんて問いは、あの光を見た時点で無意味になっている。彼女はちゃんと、ロイドたちの加勢に来てくれたのだ。
ロイドが黙り込んでいると、隣のルーシャがにっこりと笑った。
「……だから、言ったじゃないですか」
「え?」
思わず間の抜けた声が出る。
ルーシャは夜目にもわかるくらい、穏やかな顔で続けた。
「ふたりなら、来てくれるって」
「ああ……そうだな」
さっきまで、言葉だけで信じると決めたことが、形になって現れたような感覚だった。
頭では「きっと来てくれる」とどこかで思っていた。あいつらならそうするだろう、と勝手に信用していただけだ。だが、こうして実際に光が見え、空気が震えた瞬間、胸の奥が予想以上に軽くなる。
「ロイド」
ルーシャの声に、ロイドは短く息を吐いた。
光の立ち昇った方角を確かめてから、柵の内側を振り返る。村はまだ眠りの中だ。焚き火番の男が、今の光景をどう捉えたのか、呆然とした顔で空を見上げている。
「ああ……行ってやらないとな」
自然と、そんな言葉が口から出ていた。
あの光が上がった場所は、おそらく神殿跡の近くだ。エレナたちがあそこで戦っているなら、瘴気の源に直接触れている可能性が高い。
ロイドはなおも柵を見回した。
北側の守りは、一応形になっている。ここからすぐに襲撃が来る気配は、今のところない。問題は、村をどうするかだ。
「ルーシャ、村の方は──」
頼む、と言いかけたところで、言葉が喉に引っかかった。
さっき、彼女と交わした約束が脳裏をよぎる。一緒に来て、一緒に帰る。自分だけ先に走る、という選択肢を口にしかけていることに気付き、視線がわずかに泳いだ。
そんな迷いを、ルーシャは見逃さない。
「私も行きますからね?」
少し悪戯っぽく笑って、先に釘を刺された。
(だから……いちいち人の心を読むなって)
観念したように、ロイドは息を吐く。
何を考えていたのかは、お見通しらしい。彼女の目は、からかっているようでいて、芯のところでは一歩も引いていない。
(まあ、ちゃんと準備しておいたしな)
ロイドの視線が、柵と、広場の方角を順に辿る。
避難場所、合図、見張りの交代。昼間に仕込んだ段取りが、頭の中でひとつずつ浮かび上がった。あれらは元々、最悪の場合に自分が村を離れざるを得ない場合の備えでもある。
「……ああ。一緒に行こう」
少しだけ口を噤んでから、ロイドは頷いた。
たとえ現場がどれだけ危険だろうと、彼女を村に置いていく気にはもはやなれない。一緒に来て、一緒に帰る。それを、今度こそ優先順位の一番上に据えるだけだ。
「じゃあ、村長さんにひと言だけ」
「ああ」
ふたりは柵から離れ、焚き火の方を経由して村長宅へと駆け足で戻った。
焚き火番の男が慌てたように立ち上がる。
「い、今の光は……?」
「俺たちの仲間だ。もし何かあったら、さっき言った通り鐘を鳴らせ」
それだけ告げて、足を止めない。
村長宅の戸を、控えめだがはっきりとした強さで叩いた。
「村長、起きろ」
しばらくしてから、戸の向こうでごそごそと動く音がした。
木の閂が外され、半分だけ開いた隙間から、眠気と心配を同時に乗せた顔が覗く。
「……どうしましたか? 何かあったのでしょうか」
「俺の仲間がきた。今からそっちへ助っ人に行く」
言いながら、ロイドは簡潔に続けた。
「さっき決めた通り、夜明けまでの見張りと避難の段取りはそのまま継続してくれ。何か異変を感じたら、迷わず鐘を鳴らす。柵のところには絶対に、子どもや年寄りを近付けるなよ」
「そ、それはもちろんですが……君たちは、大丈夫なのですか?」
村長の視線が、ロイドからルーシャへと移る。
ルーシャは一歩前に出て、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫です。仲間も来てくれましたし、これできっと状況はよくなりますから」
その言葉に、村長の肩が少しだけ落ちた。
不安が完全に消えたわけではないだろう。だが、彼女がそう言うのなら、と信じたい気持ちが表情に滲んでいる。不思議だが、ルーシャにはそういった力があった。
「じゃあ、行ってくる」
ロイドが短く頭を下げると、村長も慌ててそれに倣った。
「ええ……どうか、無事で」
戸が閉まる音を背に、ふたりは再び夜気の中へ出た。
東の空はさっきよりもわずかに白くなっている。夜明けまで、そう長くはかからないだろう。それまでに、森の向こうで何が起きているのかを確かめ、大きな流れをこちらに引き寄せる必要があった。
「行くそ、ルーシャ」
「はい」
村の出口へ向かって走った。
土を蹴る足音が二つ、冷えた空気の中に吸い込まれていく。振り返れば、柵の内側で見張りの影がこちらを見送っているのがわかった。彼らの視線に背中を押されるように、ロイドは歩幅を広げる。
森の縁に近付くにつれ、空気の匂いが変わった。
瘴気のざらつきに、焦げた魔力の匂いが混じっている。遠くで上がった火柱の名残だろう。普通の炎ではない、魔法の燃えかすの匂いだ。鼻の奥が微かに痺れた。
木々の影が、まだ夜の色を保っている。だが、その向こう側から、ほんのりと紅い明滅が繰り返し滲んでいた。先ほどほどの大きさはない。おそらくは、余波か、別の術式の光だ。
ようやく、背中を預けられる奴らが、追いついてきた。
ロイドは、腰の魔剣〝ルクード〟の柄を握り直した。
右手の甲の下で、〈呪印〉が静かに熱を帯びる。闇の向こうに近付いてきつつある光を、確かに感じながら。




