第70話 新たな連携と翳り
日が高くなる頃には、柵の補強と戸口の印付けも一通りの目処がついていた。
昼は簡素な昼食を挟みながら、それぞれの家で「もしもの時」の確認が続いた。誰がどこへ避難するか、どの合図で動くか。村長の家の広間には、年寄りと子どもたちが集めやすいように余計な荷物を片付け、寝台代わりの藁束が運び込まれていく。
ロイドは、それらをひとつずつ見て回りながら、頭の中で何度も最悪のパターンをなぞった。
エレナとフランが着く前に大きな波が来た時、どう動くか。夜半に来るのか、明け方に来るのか。瘴気の濃度と風向きが、少しずつ変わっていくのを、皮膚の裏側で感じ取る。
太陽が傾き始める頃には、村の影も長く伸びていた。
北の柵の方角だけ、光が薄い。そこだけ別の夕暮れが落ちているみたいに、色が鈍い。
(……今日は、来ないでくれるに越したことはないんだがな)
願望だとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。
ルーシャは、村の女たちと一緒に大鍋を囲んでいる。夜番に出る男たちの腹が少しでも温まるように、と、根菜と干し肉を多めに放り込んだシチューを作っていた。鍋から立ちのぼる湯気の匂いが、瘴気のざらついた臭気を一瞬だけ上書きする。
その時だった。
「ロイドさん!」
鍋の脇をすり抜けるようにして、ひとりの青年が血相を変えて走り込んできた。肩で息をしながら、声を裏返らせる。
「北の柵のあたりに、変な影が……!」
広場の空気が張り詰めた。
ロイドは反射的に立ち上がり、青年の肩を掴む。
「何体ぐらいだ?」
「わ、わかりません……でも、動きが早くて……!」
単なる獣なら、ここまで怯えた顔はしない。瘴気の影響を受けた魔物──あの森の気配に似た何か、だろう。
「ルーシャ!」
呼ぶより早く、ルーシャは鍋から離れていた。エプロンの紐を手早く解き、外套を羽織る。
「行きましょう」
短い返事。
それだけで十分だった。ロイドは腰の魔剣〝ルクード〟の柄に手をかけ、青年に向き直る。
「案内を。途中まででいい、見えるところまで走れ」
「は、はい!」
青年の背を追って、三人は北の柵へ駆けた。
村の外れに近付くにつれ、空気の質が変わった。
日が傾っているというのに、北の空は夕焼けの色を吸い込まず、鈍い鉛色を保ったままだ。柵の向こう、森の縁からは薄い霧が染み出していて、さっきまでよりも層が厚い。
柵際に出た時、ロイドはすぐにそれを見つけた。
瘴気の中で、影が蠢いている。
狼に似た四足の獣だが、毛並みはところどころ抜け落ち、露出した皮膚は黒ずんでひび割れていた。眼窩は深く落ち込み、その奥で紫の光が燻っている。別の一体は、猪のように太い胴体をしていたが、牙があり得ない角度にねじ曲がり、そこから常に黒い泡を垂らしていた。
どちらも、生きた獣というより、瘴気が肉を借りて歩いているといった方が近い。
「柵、破られそうです……!」
見張りに立っていた別の若者が、弓を握ったまま声を震わせた。
狼型の魔物が、柵に肩をぶつけていた。木の板がぎしぎしと悲鳴を上げ、釘の辺りから軋む音がする。
「下がっていろ」
ロイドはひと言だけ告げて、柵の前へ出た。
背後に、ルーシャの気配を感じる。
「頼んだ」
振り返らないまま、短くそう言う。
ルーシャの返事はない。だが、微かな頷きと、足下で魔力の流れが変わる気配が、十分な答えだった。
魔剣〝ルクード〟を抜く。
鏡面のような刃に、沈みかけた太陽の光と、柵越しの瘴気の霧が重なって映る。狼の魔物が、柵越しにこちらを認めた。
瘴気を含んだ息を吐き、木板に爪を立てて跳びかかろうとした瞬間──。
「ルーシャ」
小さく名前を呼ぶだけで、背中越しに魔力が寄ってくる。
「光よ……穢れを削ぎ給え」
ルーシャの短い詠唱が耳の後ろを掠めた。
次の瞬間、柵の外側、魔物の足元で淡い光が弾ける。爆発的な輝きではない。むしろ、静かに、薄皮を剥ぐような光だ。
瘴気の霧が、その部分だけざらりと揺らいだ。
狼の毛並みにまとわりついていた黒い靄が、そこから先だけ薄く削がれていく。露出した皮膚の色が、ほんの一瞬だけ、生き物の色を取り戻しかけた。
(……ここか)
右手の甲の下で〈呪印〉が応える。
ルーシャの光が瘴気を削ぐ、その瞬間。その隙に合わせるようにして、〈呪印〉がじりじりと熱を帯びた。光と闇の境目、ちょうど刃が通るべき線を示されているような感覚。
ロイドは、その感覚に合わせて踏み込んだ。
柵の内側から、斜め上へ。
魔剣〝ルクード〟の刃が、薄くなった瘴気の層を滑るように抜けていく。刃先に、ルーシャの光の残滓がかすかに絡み、そのまま狼の首元へと収束した。
手応えは、驚くほど軽かった。
あれだけ硬そうに見えた肉と骨が、抵抗らしい抵抗もなく一刀両断される。斬撃の軌跡に沿って、紫に濁った血飛沫と黒い霧が同時に吹き上がり、それがすぐさま地面に落ちた。
「さあ、次はどいつだ?」
ロイドの声に反応するように、猪型の魔物が咆哮し、突進してくる。
「お前か。後悔するなよ?」
ロイドはにやりと笑って、刃を返した。
言葉より先に〈呪印〉が反応する。ルーシャもそれを察したのだろう。今度は言葉さえ挟まず、猪の足元へ光を滑り込ませた。
瘴気の〝皮〟が削がれる感覚。そこへ、ロイドの刃が滑り込む。
共鳴スキルとは少し違う、連携技。だが、光と呪印と剣筋が、一本の線で繋がるような瞬間が確かにあった。昨日までにはなかった「噛み合い方」だ。
猪の前脚が、膝から先ごと吹き飛ぶ。
巨体がぐらりと傾き、悲鳴じみた唸りを上げながら地面に倒れ込んだ。その喉元へ、追い打ちの一閃を落とす。
静寂。
瘴気の霧だけが、遅れてざわざわと揺れた。
倒れた魔物の身体は、しばらく痙攣していたが、やがて動かなくなる。代わりに、裂け目から溢れた黒い液体が、土の中へじわじわと染み込んでいく。
ロイドは柵の外を一通り見回した。
今のところ、追加の影はない。森の縁も、さっきよりは静かだ。
「お、おお……!」
背後で、誰かが息を呑んだ。
振り返れば、さっきの青年を含む村の若者たちが、震える膝を押さえながら柵の方へじりじりと近付いてきている。手には、予備の板と繩、釘と槌。
「柵、すぐ直します!」
と、青年が声を張った。
転がった狼の骸をぎょっとした目で見ながらも、破損した板の方へ駆け出していく。猪がぶつかった箇所の杭がひとつ折れていたが、致命的な穴にはなっていない。
ロイドは魔剣〝ルクード〟の血を柵の外側の草で軽く拭い、鞘に納めた。
足下に目をやると、倒れた魔物の周囲の土が、じわじわと黒ずんでいる。血が染み込んだ色とは違う。土そのものが瘴気に侵されていく色だ。そこから、またうっすらと霧が立ち上り始めていた。
「……やっぱり、根っこを断たないとダメか」
思わず、口の中で零れる。
ルーシャが隣に並び、同じように地面を見下ろした。
「ですね……さっきよりも瘴気が濃くなってます」
彼女の指先が、土の上すれすれをなぞった。触れなくてもわかるのだろう。瘴気の濃度が、森の中で感じたそれに、少しずつ近付いていた。
「魔力、使い過ぎてないか?」
「はい。さっきの、実は全然魔力を使ってないんですよ。ロイドのお陰です」
ルーシャがにっこりと笑った。
先ほどの瘴気を剥がすのは、神聖魔法でさえなく、あくまでも祈りで瘴気を剥がしているだけだそうだ。そこをロイドが剣で屠っているので、彼女は魔力そのものを使わずに済んでいる。この後の戦いを見据えれば、いい連携だ。
ロイドたちがそうして話している間にも、村の若者たちは震える手で柵を直していた。
板を押さえる役、釘を打つ役、縄を締める役。誰もがぎこちないが、逃げ出す者はいない。むしろ、足が震えながらも自分たちの村を守ろうとしている。
「釘はそこじゃない。もう少し上だ。……そう。板は重ねて打ったほうがいい。一枚だとすぐ割れるからな」
ロイドは短く指示を飛ばす。
言葉の端々に、戦場で散々やってきた陣地構築の癖が出る。若者たちは「はいっ」と返事をし、額に汗をにじませながら動きを速めた。
「焦らなくて大丈夫です。私たちがいるので、安心してくださいね」
ルーシャが落ち着いた声で、柵の内側にいる全員へ言った。
それだけの言葉なのに、不思議と肩の力が抜けたような顔があちこちに見えた。誰かがぎゅっと握っていた拳を緩め、小さく息を吐く。
まるで存在そのものが癒しみたいだ。
ひとしきりパニックを抑え、柵の応急修理に目処が立ったところで、ようやくふたりは少し離れた場所へ下がった。森と村の境界線から数歩引いたところで、ルーシャがそっとロイドのそばに寄る。
「正直なところ……あと何日くらい持つと思いますか?」
周囲に聞こえないよう、小さな声で訊いてきた。
「よくて一~二日ってところかな」
森の上に垂れ込めた霧の層と地面から立ちのぼる細い瘴気の筋を見比べ、ロイドは答えた。
ルーシャは「ですよね」と短く答え、唇を噛むようにして視線を落とす。
ロイドとルーシャ、ふたりが生き残るだけなら、この程度の魔物ならば造作もない。今の戦いだって、新しい連携のおかげで危なげなく捌けた。瘴気の中で戦うのは消耗するが、それでも自分たちはまだ余裕はある。
だが、村人全員を守りながらとなると、話は別だ。
戦えない老人と子ども。鍬や木の棒しか持たない若者たち。逃げ惑う人間の列が一本増えるだけで、戦場の様相は一気に変わる。ひとりも死傷者を出さずにこの村を守り切ることとなると、難易度は跳ね上がるだろう。
エレナたちが間に合いそうにないなら、最悪こっちから打って出るつもりだ。
ふたりだけで神殿跡へ乗り込み、親玉を叩いて瘴気の根を絶つ。それができそうになければ、この村を捨てる決断をしてもらうしかない。口にするには重すぎる選択肢だ。
「とりあえず、今晩来るかもしれない。今のうちに、ルーシャも少し仮眠を取っておいてくれ」
ロイドも小さな声で言った。
しかし、ルーシャはすぐに反論する。
「それはロイドもです。だって、ほとんど寝てないじゃないですか」
「……バレたか。夕食の後に、少し寝ておくよ」
苦笑混じりに白状すると、ルーシャはじっと彼の顔を見た後、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ロイドが寝るまで、見張っておきます」
「それだと、逆に寝れなくなるだろ」
思わずツッコむと、ルーシャは口元に手を当てて笑った。
さっきまでの数分が、血の匂いと瘴気の匂いに満ちた時間だったとは思えないほど、穏やかな笑いだった。
そんな軽口を交わして、不安の輪郭を少しだけぼかす。
それでも、背中に貼り付いた緊張は剝がれない。柵の向こうの森は、相変わらずじっとこちらを見ている気配を纏っていた。
(エレナ、フラン。なるべく早く来てくれよ)
心の中だけで、仲間の名を呼ぶ。
瘴気の濃度は上がっている。今夜が山になるかもしれない。あるいは、明日の夜か。
今は、彼女たちが少しでも早くこの村へ辿り着いてくれることを祈るばかりだった。




