第69話 伝え方と覚悟
そこから先は、地味な作業の連続だった。
ロイドとルーシャは、北と西の柵沿いを歩きながら、壊れかけた杭を交換し、緩んだ縄を締め直していく。薪に回す予定だった古い板をいくつか分けてもらい、隙間の大きいところに打ち付けた。釘が足りない場所は、太めの蔓を固く編んで代用し、補填していく。
「こっちは下が腐ってるな。半分埋め直した方がいい」
「わかりました。土、どかしますね」
ルーシャが裾を気にしながら膝をつき、素手で土を掘り返す。白い指先が土に汚れるのを見て、ロイドは少しだけ申し訳なさを覚えたが、本人はむしろ楽しそうに笑っていた。
柵の仕事と並行して、ルーシャは重要な家の戸口に小さな光の紋を刻んでいく。指先をそっと扉の上に滑らせると、淡い光が線を描き、簡易的な魔除けの印が浮かび上がった。対魔物用の〝お守り〟みたいなものだが、ないよりはマシらしい。
光はしばらくすると目に見えなくなるが、魔力の匂いはしっかりと残る。扉の向こうから覗いていた子どもが、それを見て目を丸くした。
「すげえ……!」
「これは、お家を守ってくれる印です。怖くなったら、この印にお祈りしてくださいね」
ルーシャがそう言って微笑むと、子どもは真剣な顔でこくこくと頷いた。
その様子を横目で見ながら、ロイドは縄を引き締める。
「……聖女様の結界があれば、この家も安泰だな」
何気なく漏らした言葉に、ルーシャがくるりと振り向く。
「元ですから。いまは〝なんでも屋〟のルーシャですよ」
胸元のぺたんと叩いてみせる仕草が、妙に可笑しかった。
ロイドはふっと笑い、釣られるようにルーシャも笑う。緊張で乾いていた空気の中に、ほんの少しだけ温度が差し込んだ。
「本当は、村全体に結界を張ってあげられたらいいんですけどね」
歩き出しながら、ルーシャがぽつりと呟いた。
その言葉には、責任感と悔しさと、少しの諦めが混じっている。
ロイドは足を止め、少し先の柵を眺めながら答えた。
「聖印がないんだよな」
「……はい」
短い返事と一緒に、ルーシャの肩がしゅんと落ちる。
大規模な結界を張るには、それなりの〝依り代〟が要る。ルーシャはかつて教会から授かった小さな聖印を、その代わりに使っていた。
ザクソン村跡地全体を包む魔除けの結界も、その聖印を中心に広げたものだ。本来なら、この村にも同じようなものを張ってやれるだけの技量はある。だが、今の彼女は教会に出入りができず、予備の聖印を用意できなかった。
ロイドたちの住まいを守っている結界を、外すわけにはいかない。あそこはあそこで、魔物の巣窟になり兼ねない場所だ。廃墟群は魔物の棲み処として狙われやすいし、ふたりの居場所を守るためにも、あそこの結界を解くわけにもいかない。聖印なしでは、村を覆える規模の結界を張るのは無理なのだ。
「本当は、あっちの結界をこっちに移せたら……なんて考えちゃうんですけどね。ロイドも皆さんも、行ったり来たりで大変になりますし」
冗談めかして笑ったつもりなのだろう。だが、その笑顔は少しだけ引きつっていた。
「いや……本当は、俺ひとりで片付けられればいい話だ」
ふと、口が勝手に動いた。
心のどこかでずっと考えていた本音が、縄を締めながらつるりと滑り出る。
ルーシャの足が止まる音がした。
「それは……私を信じていない、ということですか?」
静かな問いかけだった。
振り向くと、ルーシャの瞳がまっすぐこちらを見ている。責めているわけではない。けれど、いつぞやのすれ違いの時と同じ、寂しそうな影がそこにはあった。
(……やっちまった)
ロイドは内心で舌打ちした。
言い方を間違えた。言いたかったのは『守りたい』であって、『信用していない』ではない。それは、自分にとっては自明の差だが、受け取る側には伝わらないことがある。
「ち、違うからッ」
思わず声が大きくなる。
「でも、やっぱ本音としてはルーシャを危ないことには巻き込みたくないからさ。俺が何とかできれば、それが一番なのになって」
慌てて言葉を継ぐと、ルーシャは瞬きを一度だけして、視線を少しだけ伏せた。
「……もしロイドがいなくなったら、私はどうすればいいんですか?」
零れた言葉は、さっきまでの問いよりもずっと小さかった。けれど、その重さは〈呪印〉の疼きよりよくわかる。
ロイドは息を呑んだ。
森の中で、何度も頭の中でシミュレーションしてきた『最悪の場合』は、常に自分が『囮として』消えるかどうか、だけだった。残される側のことを、ここまで直に突きつけられたのは初めてかもしれない。
「私は、ロイドの傍にいたくて、ここまで来ました。来るのも、帰るのも……一緒じゃないと、嫌です」
ルーシャは柵の支柱にそっと手を添えたまま、顔だけをロイドの方へ向ける。
その瞳に浮かんでいるのは、戦いへの恐怖でも、聖女としての義務感でもない。ひとりの女として、ひとりの人間としての、ごくシンプルな感情だった。
『一緒に帰りたい』
その一言に集約される願いが、ロイドの胸をぎゅっと掴む。
かつての自分にはなかった未来のイメージだ。
誰かと一緒に出掛けて、一緒に帰ってくる……当たり前のようでいて、それは決して当たり前ではない。
「悪い。そういう意味じゃないよ」
ロイドは、ゆっくりと距離を詰めた。
柵と柵の間の狭い通路で、ルーシャの前に立つ。彼女の肩が、わずかに震えた。
「俺も、同じ気持ちだからさ」
言葉と同時に、そっと腕を回す。
ルーシャの細い身体を、胸の中へ抱き寄せた。硬くなっていた肩が、自分の胸板に触れた瞬間、少しだけ力を抜く。
ルーシャはロイドの胸に額を当て、しばらくじっとしていた。
やがて、くすっと小さく笑う。
「はい。わかってます」
その笑いには、さっきの寂しさはもうない。
胸元に伝わる息遣いが、森の瘴気とは正反対の、確かな温もりとしてそこにあった。
「ずっと、一緒に決まってるだろ」
ロイドは、彼女の背に回した手に少しだけ力を込めた。
どんな段取りを組もうと、どれだけ綿密に策を練ろうと、最後に守りたいのはこの感触だ。
瘴気に沈む森と、ささやかな村と、腕の中のひとり。
全部を連れて、ちゃんと帰る。それを今回の仕事の条件にするのは、きっとわがままではない。
頭上で、弱い風が柵の上を撫でていった。
遠く森の方から、かすかなざわめきが届く。嵐の前の静けさは変わらない。けれど、胸の中の重心は、さっきまでとは少しだけ違う場所に置かれていた。




