「私に答えさせてください」と言ったのに――王妃様へ私の辞職を勝手に伝えた夫と離縁します
「あなたは、かわいくないです」
結婚して三日目の朝だった。
夫の妹、クレア様は、廊下で私を見上げてそう言った。
まだ五歳だと聞いていた。
少し離れたところには、乳母が控えていた。
「……そうですか」
思ったより、胸に刺さった。
「不躾なことを言うものではありませんよ」
「……はい」
クレア様はうつむいた。
私は昔から、かわいいと言われる方ではない。
笑顔は少ない。
口調も固い。
言いにくいことでも、必要なら言う。
クレア様はまだ私を見ている。
「何か、気になりますか」
夫なら、こういうとき自然に笑うのだろう。
夫は、人当たりのいい人だった。
話し方も柔らかく、子供を相手にするときには必ず目線を合わせた。
私には、そういう器用さはなかった。
「……おなまえ」
「はい?」
「なんて呼べばいいですか」
「好きに呼んでください」
そう答えると、クレア様は困ったように眉を寄せた。
「お姉さまでも、名前でも。あなたが呼びやすいもので構いません」
クレア様はしばらく考えていた。
けれど、結局どちらも選ばなかった。
「わかりました」
「では、私はこれで」
会釈して、クレア様の脇を通り過ぎた。
数歩進んだところで、背後から声がした。
「でも」
振り返った。
クレア様は、さっきと同じ場所に立っていた。
「よかったです」
どういう意味なのかは、分からなかった。
◇
最初は、夫の気遣いだと思っていた。
結婚して二週間ほど経った頃、伯爵夫人から晩餐会の招待が届いた。
その日は王宮の勤めが遅くまで続く予定だった。
断りの返事を書こうとしたところで、夫に言われた。
「それなら、もう断っておいたよ」
「そうなのですか」
「疲れているだろうと思ってね」
夫はいつものように穏やかに笑った。
実際、私も断るつもりだった。
「ありがとうございます」
「これくらい、夫なのだから当然だよ」
気を利かせてくれたのだろう。
夫はよく気がつく人だった。
私の帰りが遅い日は夕食を取り置かせ、朝が早い日は馬車を早めに用意させた。
使用人にも声を荒らげない。
クレア様にも優しかった。
家同士が決めた結婚だったが、この人となら穏やかに暮らしていけると思っていた。
だから、そのときは何も思わなかった。
その後、実家の母から、休日に顔を見せないかと手紙が届いた。
その日は王宮で外せない仕事があった。
返事を書こうと便箋を出したところで、
「もう返しておいたよ」
と夫に言われた。
今度の休日は帰れないと返したらしい。
それも、私が書くつもりだった答えと同じだった。
便箋をしまいながら、初めて少し引っかかった。
返事くらい、自分で書きたかった。
◇
結婚から二か月ほど経った頃には、クレア様は私の帰りを玄関で待つようになっていた。
「おねえさま、おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
「きょうも、だめですっていった?」
最初にそう聞かれたときは、何のことかと思った。
以前、夫が食卓で私の仕事について話したらしい。
私は王妃様付きの侍女として、面会や贈答品の取り次ぎを任されている。
王妃様のもとには、毎日いくつもの申し出が届く。
予定にない面会。
面会の順番を早めてほしいという願い。
受け取れない贈り物。
私はそれらを選り分け、通せないものは断っていた。
「言いましたよ」
「なんかい?」
「今日は三回です」
「さんかい」
クレア様は指を三本立てた。
「おこられませんか?」
「怒る方もいますよ」
「こわくない?」
「怖いから通してしまったら、私がそこにいる意味がありませんから」
クレア様は目を丸くした。
「今日もか」
夫が居間へ入ってきた。
「もう少し柔らかく断れないのか?」
「必要なことを申し上げているだけです」
「そういうところだよ」
夫は笑った。
私はそれ以上、何も言わなかった。
◇
数日後の午後だった。
居間で書類に目を通していると、クレア様の弾んだ声がした。
「あおがいいです」
顔を上げた。
夫が二本のリボンを持っていた。
青と桃色。
クレア様は青い方へ手を伸ばしていた。
「青?」
夫は桃色の方をクレア様の髪へ当てた。
「こっちの方が似合うよ」
「でも、わたし――」
「ほら。こっちの方がかわいい」
クレア様の手が止まった。
やがて、
「……はい」
と答えた。
夫は満足そうに笑い、桃色のリボンを乳母へ渡した。
私は再び書類へ目を戻した。
そのときは、それ以上気に留めなかった。
◇
三か月目に入った頃、夫の同僚が屋敷を訪ねてきた。
「奥方も来月の狩りにいらっしゃいませんか。ご夫人方も何人か参加されますよ」
その時期は王宮が忙しかった。
断ろうと口を開いた。
「私は――」
「妻は参りません」
夫の声が重なった。
「その月は王宮が忙しいのでね」
「なるほど。では、またの機会に」
同僚は夫に会釈し、そのまま別の話を始めた。
こちらには目を向けなかった。
断るつもりだったから、結果は同じだった。
けれど、まだ断るとは言っていなかった。
その夜、夫に言った。
「次からは、私に答えさせてください」
上着を脱いでいた夫がこちらを見た。
「何の話だ?」
「狩りのお話です。私が答える前に、あなたが答えました」
「ああ」
「分かったよ」
「今回も答えは同じだったんだから、いいだろう」
◇
それから数日後の朝だった。
王宮へ出る前に居間を通ると、クレア様が夫の隣に座っていた。
テーブルには、手紙の控えや書類が広げられている。
「ここが、くれあ?」
「そう。そこに書いてあるのが、クレアの名前だよ」
夫が指で示すと、クレア様は文字を指でなぞった。
「おにいさま。つぎは?」
「次?」
「ほかのじも、おしえてください」
夫は笑った。
「今日はもう十分だよ」
「でも、まだ――」
「五歳なんだから、急がなくていい」
言い方は優しかった。
クレア様は紙を見てから、
「……はい」
と答えた。
「何を読みたいのですか」
クレア様がこちらを向いた。
「おねえさまのおなまえ」
「私の?」
「はい」
「では、それだけ覚えますか」
私は空いていた紙を一枚取り、自分の名前を書いた。
クレア様はすぐに身を乗り出した。
「これが、おねえさま?」
「私の名前です」
クレア様は、一文字ずつ指でなぞった。
「ゆ、り、あ」
「そうです」
「ゆりあさま」
初めて名前で呼ばれた。
「おぼえたいです」
「では、覚えてください」
今度は私も笑った。
そのとき、使用人が夫を呼びに来た。
「旦那様、お客様がお見えです」
「分かった」
夫は手元の書類をまとめた。
「君も遅れるなよ」
「ええ」
夫はクレア様の頭を軽く撫で、居間を出ていった。
「その紙は差し上げます」
「いいの?」
「ええ」
クレア様は、私の名前を書いた紙を両手で持った。
それから、テーブルに残った紙へ目を向けた。
「これも、おねえさま」
夫がまとめたはずの控えが、一枚だけ残っていた。
私はそれを引き寄せた。
「これ、おねえさまのおなまえですよね」
「よく分かりましたね」
「おなじです」
クレア様が嬉しそうに笑った。
私は、紙へ目を落とした。
王妃様へ宛てた手紙の控えだった。
――妻は今季をもって、王妃付きの役目を辞する意向でおります。
一度、紙から目を離した。
もう一度読んだ。
――本人からも追ってご挨拶申し上げますが、まずは夫である私からお伝えいたします。
辞めたいと話した覚えは、一度もなかった。
先日、夫に言ったばかりだった。
次からは、私に答えさせてください、と。
「おねえさま?」
「はい」
「これ、なんてかいてあるんですか」
私はすぐには答えられなかった。
そこには私の名前があり、私が言ってもいないことが、私の意思として書かれていた。
◇
「あとで、お話しします」
「あとで?」
「ええ。今は乳母のところへ行っていてください」
「……はい」
クレア様は、私の名前を書いた紙を持って居間を出ていった。
王宮には、少し遅れると使いを出した。
夫が戻ってきたのは、それから半刻ほど後だった。
「まだいたのか」
私は手紙をテーブルへ置いた。
「これは、あなたが書いたものですか」
夫が紙へ目を落とした。
「ああ、それか」
驚きもしなかった。
「この手紙は、もう王妃様へ?」
「ああ。今朝ね」
「取り消してください」
「なぜだ」
「これは、私の意思ではありません」
夫は眉を寄せた。
「最近、疲れているだろう」
「疲れているかどうかを聞いているのではありません」
「王宮から帰ってまで書類を見ている。朝も早い。あの仕事を続ける必要はないだろう」
「一度でも、辞めたいと話しましたか」
「言えないだろう」
「……何をですか」
「自分から辞めたいとは。責任感が強いからね」
夫は上着を椅子の背にかけた。
「三か月見ていて分かったよ。君は無理をしている」
「私は辞めたいとは思っておりません」
「だからだよ」
「何がですか」
「君は自分からは辞められない。だから代わりに伝えたんだ」
「私が辞めると?」
「君のためにだよ」
夫の声は、いつもと同じように穏やかだった。
「次からは私に答えさせてくださいと、申し上げました」
「……あれは狩りの話だろう」
そこで、ようやく分かった。
私たちは、まったく違う話をしていた。
「君がまだ分かっていないだけだ」
「私は辞めません」
「聞いても、そう答えると思ったよ」
「だから聞かなかったのですか」
「君のためだ」
「王宮で毎日、面会を断って、贈り物を返して、嫌われて。そんなことを続けていたら――」
夫はそこで言葉を切った。
「何ですか」
「君は、どんどんかわいくなくなる」
三か月前の朝を思い出した。
『でも、よかったです』
そして、青いリボンへ伸びたクレア様の手。
『ほら。こっちの方がかわいい』
夫は私を見ていた。
その顔に、後ろめたさはなかった。
「王妃様には、私からご説明に上がります」
私は控えを畳んだ。
「それから」
夫を見た。
「離縁してください」
◇
午後、王妃様の私室へ呼ばれた。
「妙な手紙が届いたわ」
窓辺の卓に、見覚えのある筆跡の手紙が置かれていた。
「あなたの夫から。あなたが役目を辞する意向だと」
「存じております」
「本人から一言もないので受理していません。辞める意思はあるの?」
「ございません」
「そう」
王妃様は侍従を呼んだ。
「ご主人を呼んでちょうだい」
夫が通されたのは、それから一刻ほど後だった。
「本人に確認しましたか」
王妃様が尋ねた。
「必要はないと思いました」
「なぜ」
「三か月、共に暮らしております。妻が何を望んでいるかは、本人より私の方が分かっております」
王妃様はしばらく夫を見つめた。
「分かりました」
王妃様は手紙を畳んだ。
「この申し出は受理しません。今後、奥方の進退については、ご本人からの申し出しか受けません」
「ですが、妻は――」
「下がってよろしい」
夫は口を閉じた。
夫が退室すると、王妃様は手紙を侍従へ渡した。
「ご主人は、嘘をついたつもりがないのね」
「はい」
「厄介ね」
王妃様は私を見た。
「あなたはどうするの」
「離縁いたします。もう申し出ました」
「そう」
王妃様はそれ以上、夫について何も言わなかった。
代わりに、卓の端にあった書類の束を一つ、こちらへ寄せた。
「明日の面会願い。もう来ているわ」
「はい」
「いつもどおり、あなたの判断で」
私は束を受け取った。
「かしこまりました」
私は膝を折った。
◇
翌朝、離縁の手続きに必要な書類を卓の上へ置いた。
夫はしばらく、それを見ていた。
「本気なのか」
「昨日も申し上げました」
「王妃様にまで話すとは思わなかった」
「私の仕事についての手紙でしたから」
「そういう意味ではない」
夫は息を吐いた。
「たった一通の手紙で、離縁まで持ち出すのか」
「手紙一通ではありません」
書類の末尾に、ユリアと署名した。
「私は今日、この屋敷を出ます」
「どこへ行く」
「しばらく実家へ戻ります」
「相談もせずに決めたのか」
夫を見た。
「はい。私のことですから」
夫は口をつぐんだ。
◇
荷物は多くなかった。
三か月前に持ってきたもののうち、私物だけをまとめた。
使用人たちへの挨拶を終え、玄関へ向かう。
クレア様が待っていた。
「おねえさま」
昨日渡した紙を、今日も持っていた。
「おでかけですか」
「ええ」
「おうひさまのところ?」
「いいえ。今日は実家へ戻ります」
クレア様は、私の荷物と顔を交互に見た。
「かえってきますか」
すぐには答えられなかった。
「昨日の紙のこと、まだお話ししていませんでしたね」
「はい」
「あの紙には、私がお仕事を辞めたいと書いてありました」
「おねえさま、やめるんですか」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「書いたのは、私ではありません」
クレア様は黙った。
やがて、小さな声で言った。
「おねえさまも、おにいさまがきめたの?」
「ええ」
青いリボンへ伸びた手を思い出した。
「クレア様は、青がよかったのですか」
「はい」
私はクレア様の前にしゃがんだ。
「私は、この家を出ます」
「なんで」
「お兄様とは、もう一緒に暮らせないと思ったからです」
クレア様は、手の中の紙を握った。
「……おてがみ、かいたら、とどきますか」
「届きますよ」
「おねえさまのおなまえ、おぼえました」
クレア様は紙をこちらへ見せた。
「かえってこなくても、かけます」
「ええ。待っています」
「おねえさまも?」
「私も書きます」
「やくそく?」
「約束です」
私はクレア様に別れを告げ、屋敷を出た。
◇
離縁が正式に成立してから、半月ほど経った。
王宮の門を出ると、元夫が待っていた。
「少し、話せないか」
「ここでよろしければ」
「……そうか」
彼は帽子を取った。
少し痩せたように見えた。
「あの手紙のことは、悪かったと思っている」
「はい」
「王妃様にも改めて詫びた」
「そうですか」
元夫は言葉を選んだ。
「仕事は続けていい」
私は黙っていた。
「実家で暮らすのも止めない。今度は、君のしたいようにすればいい」
「まだ、分からないのですね」
「何がだ」
「仕事を続けていい、とおっしゃいました」
「ああ。君が望むなら」
「私が仕事を続けるのに、あなたの許可が必要なのですか」
元夫が黙った。
「許可なんて言っていないだろう」
「では、なぜあなたが続けていいとおっしゃるのです」
「言葉の問題じゃないか」
「そうでしょうか」
「私は譲っているんだよ」
「戻りません」
「なぜだ」
彼が一歩出た。
「君に何もしていない」
「はい」
「なら、なぜだ」
「何もなさっていません」
「私の代わりに、全部なさいました」
元夫は動かなかった。
「あなたは、かわいくないです」
彼が目を瞬いた。
「……何?」
私は答えなかった。
会釈して、門を離れた。
背後から声がした。
「君のためだったんだ」
振り返らなかった。
◇
それから、ひと月ほど経った頃だった。
王宮から戻ると、実家に一通の手紙が届いていた。
差出人は、クレア様の母方の叔母上だった。
手紙には、クレア様を来春から女学院の幼年部へ入れる話が出ていると書かれていた。
元夫は、「クレアは望んでいないだろう」と言ったらしい。
けれど叔母上が本人に尋ねると、クレア様は「行きたい」と答えたという。
もっと字を覚えたい。
もっと自分で書けるようになりたい、と。
私は手紙を畳んだ。
すると、間から小さな紙が落ちた。
子供の字だった。
一文字ずつ、ゆっくり書かれていた。
――じぶんで かきました。
その下に、もう一行。
――おねえさまに あいたいです。
私は、その二行をしばらく見ていた。
◇
クレア様が実家を訪ねてきたのは、それから十日ほど後だった。
連れてきたのは叔母上だった。
「この子が、どうしても会いたいと言いまして」
叔母上の隣で緊張していたクレア様は、私を見るなり駆け寄ってきた。
「おねえさま」
「お久しぶりです」
「おてがみ、きました?」
「届きましたよ」
「わたしが、かきました」
「読みました」
「ぜんぶ?」
「全部です」
「まちがってなかった?」
「読めましたから、大丈夫です」
クレア様が笑った。
叔母上は私の母とともに奥へ向かい、私たちは二人になった。
「おねえさま。わたし、がくいんにいきます」
「そうですか」
「ちょっと、こわいです」
「そうですか」
「でも、いきたいです」
「分かりました」
「今日は何をしたいですか」
「おねえさま、ごほん、いっしょによんで」
「いいですよ」
私はクレア様を本棚の前へ連れていった。
「好きなものを選んでください」
クレア様が私を見た。
「わたしが?」
「ええ」
クレア様は、本棚を端から端まで眺めた。
しばらく迷ってから、一冊を抜き出した。
青い表紙の本だった。
「これがいいです」
「では、それにしましょう」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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