第七十七話:これで済むといいのですが
「数値の不一致を一つ一つ確認するだけなら、我々だけでも可能です。ですが、その数字がなぜ生まれたのか、その背景を突き止めるには、殿下のようなお方のお力が必要なのです」
僕には別に、帳簿を見るだけで不正がわかる特殊能力があるわけではない。ただ、浪費と横領を正さないと処刑台に上がることになるから、仕方なく調べているだけだ。買いかぶりすぎだ。それに、他国の帳簿を見ている余裕などない。
「そう言って評価いただけるのは非常に光栄です。ですが、今僕たちは帝国内の案件だけで手一杯です。昨日も新たな問題が見つかったばかりで、正直、しばらく帝都を離れるのは難しい状況です」
「殿下が大変お忙しいことは、存じております。ですが、帝国と連邦の取引記録が一致しないということは、双方の国益に大きな影響を与える大問題だと認識しております。一度、殿下に現地で帳簿をご覧いただければ、解決の糸口が見つかるのではないかと、私共は願っております」
ルシルギルは左右のチョウとカイをちらりと見た後、深々と頭を下げた。
押し問答とはまさにこのことだ。僕は壁際に立つエスメラルダに救いの視線を投げる。助けて欲しい。そう願って彼女を見つめる。
「一つ、確認したいのですが」
エスメラルダが軽く手を挙げる。
「殿下が現地、カルカウディア商業連邦まで向かわれる場合、どのような日程になりますか?」
「そうですね。原本は出張所までは持って来れますので、往復で十日みていただければ、十分かと」
「十日……」
僕は思わず声を漏らした。十日もここを離れるのか。前世の出張で言えば海外出張ばりだ。実作業は二、三日で、ほとんど移動に費やされる。
この仕事が嫌になる時は、正直ままある。だが、それ以上に家に帰れないのは嫌だ。以前、前世で出張続きの僕に「いいなあ、タダで旅行にいけて」と言った同僚がいたのを思い出した。いいわけないだろう。出張は断じて旅行ではない。出張は移動を伴う業務の一環でしかないのだ。
「護衛や移動経路については、どのようにお考えですか?」
エスメラルダが言った。
「移動経路は安全を優先した小麦の道を考えております。要所要所で関所もありますし、帝国と連邦を結ぶ街道沿いでの事件事故に関しては、ここ数年大きなものは発生しておりません。ですが、一国の皇子の移動になりますので、それ相応の警備体制は敷くつもりでございます」
「なるほど。ですが、殿下がこのお話をお受けになるかどうかは、また別の話です」
「ごもっともです。殿下にはぜひ、前向きにご検討いただければと思います」
ルシルギルは僕に向き合うと、また深々と頭を下げた。僕はまたエスメラルダを見つめる。エスメラルダは小さく首を横に振ったあと、頷いた。
目に見える危険はなさそうだ。だが。
「ルシルギルさん、顔を上げてください。申し訳ございませんが、今回はお断りさせてください」
顔を上げたルシルギルが、残念そうな表情で僕を見た。何度か口をパクパクとさせたあと、「左様でございますか」と、蚊の鳴くような声で言った。
「お恥ずかしい話ですが、今、この国は何かがおかしい。それを正す監査局を、長く空けられる状況ではありません。連邦側の帳簿に関しては、まず帝国側の担当者との照合を進めながら、不一致の傾向を把握することが先決だと思います。必要であれば僕から会計室に打診して職員を派遣することも可能だと思います。ですので、今回のお話は」
そう言って僕も、頭を下げた。
「いや、殿下。お顔を上げてください。承知いたしました」
ルシルギルは慌てて、立ち上がる。
「本日は突然のお願いにもかかわらず、お話を聞いていただき誠にありがとうございました」
「お役に立てず、すみません」
「とんでもございません。では、失礼いたします」
ルシルギルと二人の部下はそのまま、監査局をあとにした。その背中は少し、いやかなり寂しそうなものだった。
僕は申し訳ない気持ちでいっぱいながらも、安堵のため息を吐いた。
「てっきり、お受けになるものだと思って聞いておりましたが」
監査局の扉を閉めたあと、エスメラルダが言った。
「自分で言うのもなんですが、珍しくちゃんと断れました」
「これで済むといいのですが」
「え?」
「え?」
僕が声を上げると、エスメラルダも同様に声を上げた。なんなんだ、もう。
「ちょっと……不吉なこと、言わないでくださいよ」
「殿下は困っている人を見たら、助けずにはいられない人だと思っていましたので」
「そんなお人好しに見えますか?」
「はい」
エスメラルダはまっすぐな瞳で僕を見つめた。
「馬鹿にしてます?」
「いえ、褒めています」
「あまり嬉しくないですね」
僕は、机で作業中のエルヴィスを確認した後、エスメラルダと距離を詰める。
「流石に今回は、処刑台とは関係なさそうだったので」
「なるほど。そういう観点ですか。それなら正しい判断だと思います」
「これは流石に、僕の横領と結びつけるのは無理でしょう」
「二国間の取引ですからね。逆に、首を突っ込むことであらぬ疑いを掛けられる可能性もありますしね」
その発想はなかった。だが、十分にありえる。
何にせよ、僕は急な出張を回避できた。
その時はまだ、そう思っていた。




