第四十三話:かいぐいしていいの?
エリーゼが馬車の窓硝子に額をくっつけている。僕の向かいにはエスメラルダとカリナが座り、僕の隣にはエリーゼが座っている。
「お兄さま」
「どうかしましたか?」
「あとどれくらい?」
「さっきも言いましたけど、あと少しで着きますよ」
カラカラと馬車の車輪が鳴る音が聞こえる。宮廷から市街に向かう道は完璧に整備されていて、車体もほぼ揺れない。
「お兄さま」
エリーゼが窓硝子に額をつけたまま言った。
「どうかしましたか?」
「あとどれくらい?」
「さっきも言いましたけど、あと少しで着きますよ」
このやりとりを、すでに五回以上している。
ことの発端は今朝のエリーゼの一言だ。
「お兄さま。まちって、ちいさいのね」
朝の光を受けた帝都は、監査局の窓からだと、油絵の風景画のように見える。白石が敷かれた大通り、尖塔が立ち並ぶ役所街、中央広場で微かに光って見える噴水。馬車も人も豆粒のように小さく、窓硝子越しに見るとどこか造りものめいて見えた。
「遠くから見てるからですよ」
「エリーゼ、近くで見たい」
その言葉には、強い意思のようなものを感じた。まずい。
今日はもう監査局を閉じ、一日引き籠る予定だった。書類の整理をしたいし、箱庭に厩舎を追加し、昼食後は帳簿を見るふりをしながら歴史書を読むつもりだった。
「街は危ないですよ。皇族がフラフラと行っていい場所ではありません」
「エスメラルダがいるからだいじょうぶだよ」
武器棚から取り出した斧を磨いていたエスメラルダは急に名を呼ばれ顔を上げる。
「人が多いんですよ。エスメラルダ一人じゃ、何かあった時が心配です」
「カリナもいるから。ね」
お茶の準備をしていたカリナは、ただ微笑んでいた。
「第一、僕が疲れてしまいます」
正直に言うことにした。そう。僕はとても疲れている。
「じゃあ、ゆっくりあるくから。おねがい、お兄さま」
いつの間にか逃げ道が無くなっていた。幼いのに交渉上手だ。その成長が喜ばしい反面、将来が少し怖い。
エスメラルダは斧を武器棚に戻した。カリナの手にはエリーゼの外套が用意されていた。お忍び用なのか、少し古いものを敢えて持ってきているのが憎い。
「カリナ。ちょっと準備がよすぎませんか」
「昨日から、エリーゼ様が帝都の地図を眺めておられましたので」
「だったらその時点で、街は危ないと注意してあげてください」
「注意してお止めしました。ですが、その上でどうしても行きたいとおっしゃる場合の準備をしていたまででございます」
有能だ。常に不測の事態に備えている。だがその有能さ故に、僕の退路がすぐに無くなってしまう。
「完全なお忍びは不可能ですが、できる限りの変装はしていきましょう。ただ、第三皇子と第六皇女が外出される以上、最低限の護衛は必須です」
エスメラルダが言った。彼女は掛けていた濃い灰色の外套を羽織り、その腰に目立たぬ黒色の剣を差した。ぱっと見、護衛には見えないがその佇まいは強者のそれだ。
「最低限の護衛と言うのは?」
「私です」
「最低限が、あなた一人ですか?」
「はい。不足でしょうか?」
返事が早い。不足とは言えないだろう。そんじょそこらのごろつきが束になってかかってきても、彼女なら僕らを守ってくれる。そんな根拠のない自信が、僕にもあった。
僕は少しだけ考えた。確かに、僕は帝都の街に下りたことが数回しかない。ほぼ帝都を知らないまま、帝都の支出を見ているのも確かに変だ。前世でも、現場を見ずに数字だけ見る監査はだいたい嫌われていた。いや、現場を見ても嫌われていたかもしれないが。
「しょうがないですね。午前だけですよ」
「やったー!」
僕が渋々頷くと、エリーゼが両手を上げて喜んだ。
「ただし、注意事項をきちんと守ること」
「ちゅういじこう?」
「勝手に走らないこと。知らない人から物を受け取らないこと。露店で買い食いする場合は、必ずカリナに聞くこと」
「かいぐいしていいの?」
エリーゼの言葉に、しまったと思ったが、一度口にした言葉は撤回できない。
「カリナが許可すれば」
僕が返すと、
「私が厳しく審査します」
と、カリナが大きく頷いた。
「かいぐいはしひ?」
「私費です」
「わかった。お兄さまは、けちな人だからね」
「倹約家といいなさい」
カリナが机の引き出しから小さな革袋を取り出し、持ち上げる。
「本日の外出費でございます。すべて、私費扱いにいたします」
私費といっているが、それは僕のお金だ。
「僕の財布がまた薄くなるね」
「殿下の心身の保養費と考えれば、むしろ安すぎるかと」
僕の愚痴に、カリナが返した。確かにそれは、一理ある。
「それでは行きましょう」
エスメラルダが監査局の扉を開けた。今日も僕は、引き籠れなかった。




