第21話 遠野圭
東京という箱庭を抜け出した先に待っていたのは、すべてを飲み込むような深い白霧だった。
警視庁本庁舎の消失から一週間。桜井葵、氷室蓮、そして遠野圭の三人は、一台のレンタカーに身を潜め、東北の深い山々を貫く国道を北上していた。
「……氷室さん、大丈夫ですか? 顔色が、さっきから」
葵が助手席から、後部座席で目深に帽子を被った氷室を振り返った。
氷室は無言で、厚い包帯を巻いた右腕をさすっていた。篠原から奪い取ったあの「力」の残滓は、彼の血液に浸透し、外部の気圧や境界の濃度変化に敏感に反応し、火に焼かれるような激痛を伴って脈動している。
「……気にするな。……遠野、あの変な薬。もう一発寄こせ」
「へいへい。九条の理論を応用した、お手製のアドレナリンだ。……心臓が止まっても文句言うなよ、相棒」
運転席の遠野が、ダッシュボードから注射器を放り投げた。
皮肉を口にする余裕はある。だが、遠野の視線の先にある「赤い封筒」……そこに記された目的地「夜霧市」に近づくにつれ、車内の空気は目に見えて引き締まって、重苦しいものへと変質していった。
夜霧市。
公式には、半年前の大規模な地盤沈下によって立ち入りが禁止された隔離区域。
だが、検問所を通り過ぎようとした三人が視たのは、警備員も警察もいない、ただ静かに口を開けたトンネルだった。
トンネルを抜けた瞬間、カーナビの画面が激しいノイズと共に真っ黒に反転した。
「……境界の濃度、霞が関の十倍はあるぜ」
遠野が声を潜めた。車の窓ガラスが細かく振動し、霧の粒子がまるで意志を持っているかのように、フロントガラスに不気味な模様を描き出している。
葵は、瞳の疼きに耐えていた。
レンズを通しても抑えきれない紫色の明滅が、脳の奥底に直接、古ぼけたスライドショーのような映像を流し込んでくる。
(……おいで、葵。……みんな,待っているよ)
霧の向こうに、自分によく似た少女の手を引く、白いコートの青年の背中が見えた気がした。
あの日、霞が関の地下で垣間見た「お兄ちゃん」。
彼がこの街にいる。葵の中に眠る、奪われた過去のすべてを持って。
「氷室さん……あそこ」
霧がわずかに晴れ、眼下に広がる街並みが見えた。
山あいに沈む、古い洋館と和風の建築が混ざり合った、歪な美しさを持つ街。
その中央、不自然なほど鮮やかな「赤い屋根の家」が、葵の喉を強烈な渇きで締め上げた。
封筒に入っていた写真と、全く同じ場所。
家のアプローチに置かれた、錆びた郵便ポスト。
その上に、一冊の革装のノートが置かれていた。
葵が震える手でそれを手に取ると、表紙には子供の落書きのような筆跡で、こう記されていた。
『観測記録:さくらい あおい』
それは、彼女が怪異を視始める前、幼い日に肌身離さず持っていたはずの、そして記憶から完全に消失していたはずの「日記」だった。
家の扉が、内側から音もなく開いた。
第二部の舞台、隔離都市「夜霧」。
三人は、逃げることも引き返すことも不可能な、自分たちの「原点」という名の深淵へと、足を踏み入れた。




