23:語らいの距離
怪我、と言っても大事ではなかったのか、長期休暇明けにモーリスは普通に学園へ顔を出していた。
見学会に参加した学生も悪戯に彼が怪我をした事を噂する様子もなく、ただ何事も無かったように後期の学園生活を滑り出していく。
ただ、耳の早い学生からは成績優秀者のみが受講できた見学会についてあれこれと聞かれる事はあったが、比較的穏やかにヒルデガルドも語る事は出来たくらいに、皆当たり障りのない内容のみを口にしていた。
こうした自然な情報統制というか、テオドールへ群がったのは大目に見るとしてもある程度躾が行き届いている学生が自然と上位に居たのは幸いであろう。
「ちょっといいかしら?」
その日、ヒルデガルドは長期休暇明けの筆記試験を終えて賑わう別組の扉から顔を出し、目的の人物を廊下へと呼び出した。
人目はあるものの教室内よりは幾分か注目が散らせるだろうし、試験終わりで皆帰路へ急いだからか行き交う人も普段より少ない。
小首を傾げのこのことやって来た男と共に開いた窓枠に腰を凭れれば、何てことの無い雑談をしている様相に傍からは十分見えるだろう。
「どうかした?ヒルデガルドさん」
「怪我は試験に響かなかった?」
「身体は動かさないからね」
ああ、と思い出したように怪我の箇所であろう脇腹を摩りモーリスはにこりと笑う。
周囲に気を配り小声で呟いたヒルデガルドの言葉は随分と掠れたものだったというのに、雑踏の中でも彼は聞こえるくらいに耳は良いようだ。
と、ちろと向けた眼を雑踏に向け直すヒルデガルドの視界の端で、彼が少し身体を近づけるのが分かった。
「魔導祭までには治るの?」
「うん?」
ぱちりと眼を瞬かせ、横顔に視線が刺さる。
自身の事であるのに何処か他人事のような態度の男に少女は密やかな嘆息を零す。
「本業に支障が出るなんて本末転倒でしょう?」
「そうだけど…聞きに来たのかと思った」
「聞きに来ているじゃない」
「いや、勝敗をね」
今度はヒルデガルドが目を瞬かせ、雑踏を見やる横顔を見上げた。
「でもそっか、気にしないか」
「私関係無いもの」
気にするも何も、テオドールが勝手に言い出した事だ。
ヒルデガルドは承認もしていないし、モーリスは良い様に対戦相手として巻き込まれただけ。
にも関わらず怪我をしたと聞いていたから心配というか、呆れというか、用事のついでに様子を気に掛けようとは思っただけである。
苦笑を零す横顔をじっと青紫の瞳が見つめたままなのは気付いているだろうに、彼は目線を合わせない。
「ただ、そのせいで魔導祭で全力出せないのも嫌」
「随分魔導祭に拘るね」
「当たり前じゃない!
一年の時、三年まで直接対決を伸ばされると知った時は絶望したわ!」
「そこまでなんだ…」
ふ、とモーリスの顔が穏やかに緩む。
やっと彼はヒルデガルドへ視線を向けて、その青紫の瞳を見つめ返した。
水色の瞳には好敵手への闘志などは見えない。
ただただ、穏やかで柔らかく、相手を落ち着かせる雰囲気がある。
しかし対面するヒルデガルドには違ったようで、彼女は器用に片眉を上げ瞳を歪ませた。
「何を暢気な…貴方、私が相手では全力を尽くすまでもないと?」
「でもヒルデガルドさんはセシーとも戦うでしょう?」
「貴方だってどうせ下級生から挑まれるでしょう」
「どうだろう」
最終学年である今年は三年生全員が出場必須のトーナメント形式で対戦となるため、状況によっては決勝まで勝ち上がらなければモーリスとは戦えないのだが、そこを少女は心配していない。
例年、モーリスもヒルデガルドも先輩から声が掛かり魔導祭に出場している。
一年二年では対戦回数は二回まで、と決められているがヒルデガルドは各年二回ずつ指名対戦をしていた。
モーリスは意外にもその半分に留まっている。
しかし今年こそは己の実力を試したいと後輩達からの挑戦も勿論あるだろうし、セシルに関しては既にヒルデガルドが対戦を受理している。
「誰が相手であろうと全力を尽くすわ、それが挑まれる立場の礼儀よ」
「開始直後に終わらせてるの多いけど?」
「全力ってそういうものでしょう?」
「うーん」
胸を張り持論を誇る少女に、モーリスは曖昧な返答を返すもののその様子が微笑ましいとばかりに目を細めて笑って見せる。
だがヒルデガルドはそんな生温い笑みを求めているのではない、と瞳に力を入れ相手を見返す。
「分かっているのモーリス・ラゲール?
私の全力はその余裕っツラで対応できるほど温くはないのよ」
ギラリと闘志が宿った瞳を見つめたままモーリスは瞬き、緩慢に口を開いた。
「僕が挑まれる側?」
「そこからなの!?私何度も貴方に宣言したわよねぇ?!」
「そのようだ」
あんまりな返答に思わず喚くヒルデガルドを他所に、彼は片手で口元を覆いどこか呆然とした様子で視線を窓の外へと彷徨わせた。
「…でも、まぁ、これも同じよ」
「何と?」
「それ、と」
呟き、細い少女の指先がモーリスの脇腹を指し示す。
視線はその白い指先に引き戻されど、未だに彼は手で口元を覆ったままでどこか寂しそうに目元を歪めた。
「分かっていたけど貴方、巻き込まれる性質ね」
ふ、と苦笑を浮かべるヒルデガルドを水色の瞳は捉え、ますますその形を歪にした。
外され露になった口元は、ひそりと静謐さを伴い、そこにいつもの穏やかさは無かった。
途端、少女はあの談話室の風景を思い出す。
自身が語る内容を、口を挟まずに聞いていた彼の姿を。
今はあの時と違い周囲に人が居るのに、まるで霧の中に溶け消えたようにその気配が朧げになる。
空気に飲まれたようにヒルデガルドの胸が緊張で軋んだ。
「…僕は望んで巻き込まれたけど、同じ舞台に上がったとは思えなかったし、思われなかった」
薄い唇が開き、掠れた声がそう零すのが何処か遠く聞こえる。
聞いているのに耳に入らないような、不思議な音だった。
「好敵手だから舞台に上がる訳じゃないよ、ヒルデガルドさん。
今度は、僕が望むから対峙しているんだって分かっていて欲しい」
「…それ、って」
こくりと小さくモーリスは頷き、くっと口角を上げて不敵な笑みを浮かべる。
「僕も全力を尽くして、キミに挑む側だ」
「!」
ぶわりとヒルデガルドの皮膚一枚下を感情が撫で走った。
初めて、やっと、好敵手として見つめ返されたという感覚が、言葉以上に彼のその、ヒルデガルドを見据える水色の瞳から伝わって来てはぞくぞくと少女の身体を奮わせる。
心臓を突き動かす鼓動が脳を揺らし思わず指先を握りしめる程なのに、きっと顔は喜びで満ち溢れている。
「望む、ところよ!!」
「わ」
挑戦を受け取る側としては些か力んでしまい興奮堪らず前のめりに応えた彼女に驚いたのか、迫られたモーリスが胸を押さえて眼を見開く。
その様子に我を取り戻したのか、ヒルデガルドはスンと表情を消し普段通りの澄ました態度に戻った。
だが時々口が緩むのかもぞもぞと何度も唇を動かすのを、呆然とモーリスが見つめていた。
「フフン!
やっぱりこのヒルデガルド・デイビア程の実力者じゃなければ、貴方を本気にはさせられないのね!」
「えー…」
「何よその反応、今更取り消すなんて情けない事言うつもり?」
「それは、無いけど…」
息巻く少女とは裏腹に、モーリスは目元を手で覆い何やら項垂れていた。
緩く首を振りヒルデガルドの疑いを言葉だけでなく態度でも否定しつつも、その様子はどうも張りがない。
やはりもっと好敵手として格好良く受けて立たないと相手もヤル気が出ないのだろうか。
ヒルデガルド自身、宣誓をしたつもりであったのに今までのモーリスの態度からは肩透かしを喰らった感覚を覚えたのも確かだ。
(もう一度改めて、ライバルとして相応しい受け答えをすべきかしら)
「ヒルデガルドさん」
ふと考え込んでいた思考をモーリスが呼び戻す。
彼はもう顔から手を離し、真っ直ぐにヒルデガルドを見つめていた。
「休暇明けの筆記試験でも競って良い?」
「え?良いも悪いも私が勝手にするし、もう終わったじゃない」
「順位はまだだろう?」
小首を傾げるヒルデガルドに、モーリスも視線を合わせたまま顔の角度を変える。
「試験を受ける時に相手を意識しないのなら勝負じゃないでしょう?」
「それ、今までとどう違うの?」
「急に喧嘩吹っ掛けて来たわねモーリス!」
暗に、今まではヒルデガルドの事など気にも留めず試験を受けて来たと話すモーリスを見る青紫の瞳が憎々し気なものに変わるのを、相手はにこりと愛想笑い一つで受け流す。
「ヒルデガルドさんは僕の事意識しながら、ずっと試験受けてたんだ」
「言い方ってもんがあるでしょう!?私は!常に!一位を!狙っていただけよ!!
結果的にモーリスを打ち負かすって事になるだけよ!」
「帰結するんだね」
何に、とは言わずに今度は本当に嬉しそうに、年相応な笑みを浮かべてみせるモーリスに、流石のヒルデガルドも言葉が出ないのか、唇をはくと躊躇いがちに動かすばかりで言葉が出ない。
その代わりに言葉に出来ない怒りか、鬱憤を放つように手や肩をもぞもぞと揺らしていた。
少女の様子がおかしかったのか、モーリスは喉を鳴らして笑みを深める。
「僕だって今回もヒルデガルドさんの事を考えながら試験受けていたよ」
「だから言い方ぁ!」
「キミの声が人目を惹いてる」
そう呟きながらモーリスは身体の向きを窓側に向け、組んだ腕を開いた窓枠に乗せた。
促すその視線に渋々従い、ヒルデガルドもほぼ人の行き交いが無くなった廊下に背を向ける。
眼下には学園の裏庭が広がり、心地良い風がその柘榴色の髪を揺らした。
「…言っておくけど、私、今回も試験の出来は完璧よ」
「僕の好敵手はそうじゃなきゃ」
また不敵な笑みを浮かべ、此方を見やるモーリスの態度は何とも楽しそうで、今までに見知った彼のどの姿とも違うのが何だか不思議でもあるのに、違和感はない。
寧ろ、好敵手と認めてくれたから自分へ見せてくれた表情なのかと、どことなく弾む、愉しく嬉しい気持ちが浮き上がっては緩む唇を隠すようにヒルデガルドは組んだ掌で口元を隠した。
「ヒルデガルド」
ふと呼ぶ声に視線を向ければ、水色の瞳がじっとこちらを見ていた。
「って呼んでも良い?ライバルなんだから」
「本当に貴方が意識して試験を受けてるって分かったら、ね」
今度はヒルデガルドが不敵な笑みを浮かべ、モーリスの言葉にそう返すも、笑うのを堪えられなかったようですぐに表情を崩してくすくすと小さく笑い声を零す。
「順位を見て分かるものかな?」
「分かるわ、私に勝つなら最上の結果でしか勝てないのだから」
「一位意外認めない?」
「一位は私よ」
胸を張り、手を当て自信で身体を膨らませれば、今度はモーリスが喉を鳴らして笑う。
起こした身体に従い、揺れて落ちる柘榴色を眩しそうに水色の瞳が追った。
それが落ち着く前に少女は何かを思い出したように一人頷く。
「そうそう、本題を忘れるところだった」
「本題?」
肯定の意を添えて頷くヒルデガルドにモーリスがゆっくりと、緩慢な動きで首を傾げた。
先程の楽し気な表情は掻き消え、穏やかというよりかは無関心に近い面持ちを浮かべる彼を気に留めず、少女は話を続けた。
「セシル・レミックに渡したい物があるのよ、私からより貴方が声掛けた方が違和感無いでしょう?
残っていたら談話室に着て頂戴、時間は取らせないからって伝えてくれる?」
「………」
「もう帰ったかしら?」
「…いや、残っていると思う、よ」
「そ、良かった。じゃあ私先に談話室へ向かってるから、よろしくねモーリス」
先輩であり打ち果たすべき好敵手としてセシルに見られているヒルデガルドからの呼び出しなど、相手にとって恐怖でしかないだろうけれど、間に師であるモーリスを挟めば多少は印象が変わろう。
そう思ったが故に、ヒルデガルドはモーリスが断るかどうかを聞かずに踵を返した。
もし彼から考えて何か不味いようであれば、きっと談話室に断りの旨を代理で言いに来るだろうし、と暢気な足取りで少女は歩みを進めた。
この時ヒルデガルドは全く気にしていなかったが後に、廊下に人が少なかった理由はこれかと思い知った。
談話室に吹き込む風はまだまだ夏の気配を残しているものの、纏わりつくような盛りの暑さはなく季節の変わり目を思わせる心地良いものだ。
開け放った窓に身を寄せ、その風を一身に受けていたヒルデガルドの耳に控えめなノック音が届く。軽く返答をすれば、予想していた通りの人物が―――扉を開き身を滑り入れた。
「…随分さっぱりしたのね」
「似合いませんか?」
後ろ手で扉を閉めつつ眉尻を落とし微笑み、小首まで傾げて見せる仕草は流石というか。
呼び出したセシルのその仕草一つひとつがあざとく思えるのは偏見というより、何というか、愛らしさが自然過ぎて認めるのが何とも歯痒い心地を覚えさせる。
夏休みを挟んで見えた後輩は、長い髪をバッサリと切り落とし顎先程の長さに切り揃えていた。
それでも艶やかで柔らかそうな髪質からか、歩くたびにふわふわゆらゆら毛先が靡くのが雛鳥のようで、きっと相変わらず親衛隊達の心を揺さぶっているのだろうと思えた。
貴族淑女は長い髪を好むが、別に今のセシルより短い長さの人も居るには居る。
だから髪の長さは其処まで気にするものでもないのだが。
ちろとヒルデガルドは視線を下げる。
見られていると分かったのか、セシルはヒルデガルドが全身を見やすい程よい場所で立ち止まり、少しばかり所在無さげに両手を組んで背中へ回した。
「…似合いませんか?」
「貴方、人の意見なんか気にするの?」
「聞く耳はありますよぉ」
ぷくりと幼げに拗ねて見せるセシルに、ヒルデガルドは呆れた様子を見せるものの、如何にも褒めてと開き直って両手を広げ笑みを零す後輩に苦笑交じりの頷きを返す。
「貴方何着ても似合うのね、ズボン姿も可愛いわ」
「ふふっ、はいっ、嬉しい…!」
「っていうか足長いのね」
「えっ」
スカートの時よりもズボンの方がぐっとセシルの体型の良さが分かる。
すらりと伸びた足は背の割に長く、腰の位置は随分高い。
思わずすぐ隣に立ち、自分の腰の位置と比べようとするヒルデガルドだが、セシルは戸惑うように後退してしまう。
その困惑に満ちた顔が思ったよりも近くて、あれと思い顔を上げたものの、目が合った相手は薄く開いていた唇をきゅっと閉じ、如何にも息を止めてますという面持ちをしていた。
夏休みを挟んだからなのかどことなく人見知りをされている気配を感じ、ヒルデガルドは噛み合っていた視線を外して姿勢を正すと共に身の距離を離した。
「…ズボン姿でも様になるのは羨ましい。私はお尻が張っちゃって似合わないのよ」
「え、あの」
「だから上着で必ず隠してるのよ。それはそれで貫禄出るから良いんだけどね」
「貫禄」
ヒルデガルドが茶化して笑って見せれば、相手も口元を緩め笑みを零し返した。
前回夏休み前に話した時の様子より、妙に懐いた様子で談話室に入って来たものだから此方もそれなりの距離感で接したつもりだがどうもはき違えたようだ。
自身に挑もうとする気概ある後輩だとは思っているが、別に常に歯をむき出しにして対峙しようという気持ちはヒルデガルドにはないし、それはセシルもそうなのだろう。
どこかほっとした様子で椅子の肘置きに腰を下ろす相手にヒルデガルドはポケットから箱を取り出す。
「あんまり時間掛けるのも良くないだろうから、さっさと渡しておくわ」
差し出された箱とヒルデガルドを見比べながらセシルはゆっくりと白魚のような指先を引き上げた。
紺色のビロードが張られた飾り気のない箱をゆっくりと受け取り、促される儘開けば、対の腕輪が中には収められていた。
「…これ…」
「冒険者激励、みたいな?ちょっとしたお守りよ」
桜色の小さな爪先がそっと腕輪を撫でる。
セシルの視線はその魔導具に留められたままで、ヒルデガルドからはけぶるような睫毛が震えるのしか見えない。
「細身の方が貴方の分、もう一つがモーリスの分にって一応作ったの。
貴方から渡せば問題無いかなって思って呼んだのだけれど」
「………」
ヒルデガルドは思わず苦笑を零す。
異性から装身具を贈る行為は好意を示し、特に恋人や夫婦間で行われるものだと世間一般では思われる。
だから、セシルがモーリスに渡すのならば傍目から見て問題は無いだろうとヒルデガルドも考えて、わざわざ談話室に呼び出して二人分を渡したのだが。
(まさかセシルが男性だったなんて…気付かないわよ、あの可愛さは)
流石に今は、身体付きを見れば一目瞭然というか、女性だというイメージより可愛い顔付きの男性にしか見えない。
化粧もそのように変えていて、体系隠しに制服の下へ何か仕込んでいるのであれば分からないが。
ただ、以前は隠していた首元が醸し出す性別は誤魔化しているようにも見えない。
「困るようならば発注先を教えるからそこに…」
「っ困るなんて、ありません!」
弾かれたようすにセシルは顔を上げ声を張った。
その声の大きさに、自身で驚いたようで、はくりと音を失くした末にまたゆっくりと視線を腕輪に落とす。
「…嬉しい、うれしいんです…だからそん、な、困るとか思わないで、ください」
本当なんです、嬉しいんですすごく、と何度も小声で零して俯くセシルの姿がまるで幼子のようで、見下ろすヒルデガルドも悪い気はせずくすくすと喉を鳴らした。
「そ、なら良かった」
「凄く綺麗な導…しかもこれ、魔石共鳴します?」
「よく気付いたわね。
ダンジョン内は二人一緒に行動してる前提で作ってあるのよ」
少しばかり身体を曲げ、障壁魔導具の説明をヒルデガルドがするのをセシルが真剣に聞いていた。
合間に気付いた事や疑問を投げかけてくるその様子は、確かに魔導具への興味や教養の深さを感じられた。
大まかな解説が終わった頃、ふと視線を感じてヒルデガルドが目線を上げようとした時、指先まで美しく整えられた手が視界を過った。
その指先はそっとヒルデガルドの髪を耳に掛け、ゆっくりと下ろされた。
緩慢な動きながらもほんの僅かな時間の接触であるはずなのに、随分と長く感じられたのは、セシルが真っ直ぐにヒルデガルドを見つめていたからだろうか。
瞬きをする瞬間すらも同じなのではないかと錯覚するほど、お互いがお互いの瞳を映し続ける。
「…大切にします」
無音だった空間に、絞り出すような掠れた声でセシルが零した言葉が、やけに耳朶に染みて、ヒルデガルドは返す言葉が出なかった。
相手は相手で、そんな事分かっていたかのように微笑みを浮かべて立ち上がり、談話室を出て行った。




