第3話:大田 秀介
社会人になってからも、人工知能関連の論文を追う習慣だけはやめられなかった。
昼間は案件に追われ、夜はトラブル対応で終電間際まで残業。それでも家に帰り、布団に潜り込みながらスマホの画面で最新論文を眺めるのが日課になっていた。
英文の羅列を追いながら、かつての研究室の机が頭に浮かんでくる。散らかった紙、コーヒーの匂い、由佳や健太が議論を交わす声。そこに戻れることはもうないと分かっていても、行間を読むたびに体の奥が疼いた。
通勤電車の中でも同じだった。吊革につかまりながら、片手でスマホをスクロールする。画面に並ぶ数式は、隣でSNSに没頭するサラリーマンたちには意味のない記号にしか見えないだろう。だがオレにとっては、まだ自分が研究者であった証の残り火だった。
会社での仕事は地味で、時に徒労感ばかりが募った。
誰かが作った古いコードの修正や、システムの安定運用。直接世に名を残すこともなければ、評価されることもない。だが夜中に読んだ論文の中には、まだ名前も知られていない研究者が発表した革新的な手法が並んでいた。彼らは今まさに、オレが諦めざるを得なかった舞台で戦っている。
――どうしてオレは、そこに立てなかったのだろう。
問いが浮かぶたび、スマホを閉じて深く息を吐いた。
答えは分かっている。父の体調、家業の終焉、家族の生活。自分が選んだのは「家族を守る道」であって、「夢を追いかける道」ではなかった。
もちろん、それがどれほど恵まれた環境かも理解している。家族を支えられるだけの収入があり、学歴を生かせる職場もある。オレよりもっと厳しい境遇にある人はたくさんいる。進学すら許されない人だっている。そう考えれば、オレの抱えているものは贅沢な悩みにすぎない。
それでも、心の奥の不完全燃焼感を消し去ることはできなかった。
論文を読むことは、現実と折り合いをつけるための最後の逃げ道。ささやかな抵抗でもあった。
「大田くん、次の案件、スケジュールきついけど頼むよ」
昼間は上司の声に応じ、夜はエラーログと格闘する。
そして深夜、ようやく自分の時間を取り戻すと、スマホを開いて論文を読み始める。
――誰に知られることもなく、ただ自分の中だけで続ける小さな灯火。
オレに残された唯一の研究生活は、そんな断片の積み重ねだった。




