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第38話:大田 秀介

アイデンティティという言葉がある。

 自己同一化という意味を指すのだろう。


 オレはもう長いこと、オレがオレであるという事すら分からないようになってしまっていたかも知れない。

……結局、オレは、自分のアイデンティティを確立する事ができないまま、ズルズルとここまで生きていたのではないだろうか。


 あるいは、確立していると信じていただけなのかもしれない。

 「父の願いを叶えるため」「実家の家族を守るため」「妻と子を背負うため」。

 そうやって大義名分に身を預け、外部の要求に応えることで、あたかも自分の輪郭を持っているかのように装ってきただけだったのかも知れない。


 本当のオレ自身は、ずっと奥底に埋没したまま。

 気づかぬふりをして、声を封じ込めて。

 表面に立ち現れていたのは、ただ外部に対応するための“代役”のような姿だった。


 仕事でも、家庭でも、友人関係でも。

 誰かの期待に応えるとき、オレは「対応する」存在になってしまった。

 自分の本音や望みは、隠したまま。

 結果、外部からの要求が強ければ強いほど、オレはただ対処するための人形になってしまった。


 十年――。

 その十年を振り返れば、痛ましいほどに空虚だった。

 「処理屋」と呼ばれた自分は、まさにそういう生き方しかできなかった。

 家族にとっても、同僚にとっても、友人にとっても。

 本当のオレを見せず、ただ役割を演じることで場を回していただけだったのだ。


 ――美沙が泣きながら訴えた言葉が、今も耳に残っている。

 「私はずっとあなたを愛しているのに。なんでいつも押し殺したような対応しかしないの?」

 その問いは、痛いほど的を射ていた。


 彼女がオレを裏切ったのではない。

 もうずっと長いこと、オレが彼女を裏切り続けてきたのだ。

彼女がオレに求めていた事を、にこやかに果たす事で、オレは少しずつ彼女を裏切り、そして彼女が本当に欲していた「本当の秀介」として生きることを、オレは怠ってきたのだ。

 その怠慢が、彼女を孤独にし、もともと彼女の中にもあった佐藤に惹かれる気持ちを更に強くしてしまった。そして彼女に隙を与えてしまったのだ。

 そして今、そうしたツケが溜まり、家庭も仕事も、何もかもが崩れようとしている。


 もう、このままでは駄目だ。

 「外部に対応するためだけの自分」から、「本来の自分」を取り戻さなければならない。

 他人に合わせて、あるいは状況に合わせてひたすら対応する仮面をかぶり、押し殺して過ごすのは、もう終わりにしなければならない。


 アイデンティティとは、外から与えられるものではない。

 誰かに認められることで確立するものでもない。

 ――自分で、自分を認めること。

 今更ながら、オレはその第一歩を踏み出さなければならない。


 そうでなければ、オレはまた、誰かの期待に応えるためだけに生きる代役に戻ってしまう。

 ……もう変わるしかない。

 そのためには、例えば美沙との事をきちんと整理しなければ駄目だ。

オレはもう取り返しがつかない程美沙を傷つけてしまった。

 娘の沙奈のことも考えなければならない。


 そして、彩花や、それから由佳の事も。

 そして何よりも、オレはオレ自身を貶めてしまっていたのだ。


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