第37話:街丘 由佳
夜も更けた頃、スマホが震えた。画面に映った名前を見て、私は一瞬ためらった。――彩花。
出るべきか迷ったが、彼女が今どんな気持ちでいるかを思うと、無視することはできなかった。
「……由佳?」
受話口から聞こえる声は、かすかに掠れていた。
「今日の委員会、結局……何も決まらなかったの」
私は黙って耳を傾けた。彩花の吐息が、やり場のない苛立ちを含んでいるのが分かった。
「時間稼ぎよ。委員会なんて。慎重に精査? 熟慮? 結局はそう言って処分を先送りにするだけ。誰も責任を取ろうとしない。……電報堂は、本当に腐ってる」
淡々と語るのではなく、悔しさを噛み殺すような声音だった。
私は胸の奥に冷たいものを覚えた。――やっぱりそうなったのか、と。
「でもね、それ以上に許せないのは美沙なの」
彩花の声が一段強くなった。
「……結局、何もなかったなんて嘘だったのよ」
電話口から彩花の声が響いた。怒りを押し殺しているせいか、震えていた。そして彩花はその佐藤という男が話た内容を私に全部伝えてくれた。
「口づけだけ? それでもう十分じゃない。あのとき美沙は“秀介を愛してる”なんて言ったけど、だったらどうして一瞬でも裏切れるのよ。私には理解できない」
私は受話器を握りしめながら黙っていた。――分かる。その思いは私も同じだ。
美沙は、秀介を愛していると言いながら、佐藤に心を揺らした瞬間があった。精神的には完全に裏切ったのだ。
「秀介が―本当に可哀想だよ……」
彩花の声には嗚咽が混じっていた。
「……彩花」私は静かに遮った。
「分かってるよ。美沙が裏切ったのが本当だとすれば、もう私も絶対に彼女を許さない。でもね――」
言葉を選びながら続けた。
「秀介は、そんなに弱くない。あの人は……彼はもう、ずっと、ずっと我慢してきた。ずっと耐えてきた。そんな簡単に折れないよ」
受話器の向こうで、彩花が息を呑んだ気配がした。
「今は支えるタイミングを間違えちゃ絶対駄目。むしろ彼の足を引っ張ることになるもの」
しばし沈黙が流れた。
私たちは同期で、遠慮のいらない関係だ。だからこそ、彩花を真っ向からたしなめることができる。
「……由佳」
彩花の声が低くなった。
「やっぱり由佳だけだよ。秀介の強さを信じて、信じ続けられるのは」
「当たり前でしょ」私は即答した。
「私は秀介を信じてる。きっともう彼は自分の中で整理をつけていると思うよ」
そう言い切ったとき、私の胸の奥にも強い確信が生まれていた。
――今の秀介に一番必要なのは、彼を信じ続け、そして本来の彼が必ず戻って来るのを、ひたすら待つことだけなのだ。




