第36話:大田 秀介
佐藤の言葉が、耳の奥で何度も反響していた。
――私は、美沙を愛していた。
――名古屋で、一度だけホテルに誘い、口づけをした。
その告白は淡々としていて、言い訳も取り繕いもなかった。むしろ堂々と、自分の生き方を肯定しているように聞こえた。だからこそ、胸に突き刺さった。
昨夜、美沙は泣き叫びながら「何もなかった」と繰り返していた。
少なくとも「何もなかった」訳ではなかったという事なのだろう。
それもごく最近の出来事として。しかも、我が家の娘が電話をかけてきた、その最中のことだったというのも、恐らくは事実だろう。
信じてきたものが崩れ去ったというよりも、そもそも最初から、オレと美沙の間に本当に信じるに足るだけの何かがまるで無かったというだけのような気もする。
そして、むしろそうしてしまったのは、オレのあり方であるなら、そのオレが、逆に美沙に対して何かを言う事すらもはや意味をなさないように思われるのだ。
――美沙の言葉も、あの涙も。
もう家族という形をつなぎ合わせる力などオレ達には無いかも知れない。
会議室は重苦しい沈黙に包まれていた。
誰もが佐藤の言葉に動揺し、しかし次の一言を発することができずにいる。
その沈黙を破ったのは、義父――愛川正則だった。
「……この件は、到底看過できるものではありません」
声は淡々としていた。だが、その抑制の下に、はっきりとした怒気が漂っていた。
「クライアントの前で、部下が子会社の社員に手を上げ、その場で“二号”“愛玩具”などの侮蔑が飛び交った。……それが結果的に私の娘を巻き込んでいたかどうかという問題ではない。これは電報堂全体の信頼に関わる問題でしょう」
彼の言葉は、父としての憤りと、副社長としての冷徹さが奇妙に重なっていた。
「私は官僚として長く総務省にいた。だから申し上げるが、こういう話は必ずどこかで回る。OB人脈を通じて、他の官庁にも、地方自治体にも伝わるものです。電報堂は官公庁や自治体の案件を数多く手掛けている。もし“女性蔑視と暴力沙汰”の噂が立てば、こうした案件は一気に立ち行かなくなるでしょうな」
その一言に、役員たちが硬直した。
官僚的な言説。冷徹な理屈。だが、そこに潜む怒りは隠しようもなかった。
「これは一人の社員の軽率な行為では済まない。営業第2局という組織の体質が問われている。更に、言えば、この電報堂グループ全体も、です。……肝に銘じてもらいたいものですな」
会議室に再び沈黙が広がった。
プロパーの役員たちは、互いに目配せをし、やんわりと空気を変えようとした。
「更に本件については調査を行った上で慎重に対応させて頂きたいと思います」
「副社長の仰るとおり、組織体質が問われているという点を踏まえて、充分熟慮の上で、対応策を明確化させていただきたいと思います」
官僚的な発言を、社内政治の理屈で受け流す。
正則の言葉は、表向きには議事録に残る“副社長のコメント”に過ぎなかった。
だが私は分かった。
――これは彼なりの、美沙の父としての怒りだった。激情で机を叩くことなく、抑制された言葉の中に怒りをにじませ、なお官僚としての冷徹さを保つ。それが彼の「激怒」なのだろう。
オレはどうだろうか?
本来一番怒るべきなのはオレ自身ではないだろうか?
でもオレは佐藤に対しても美沙に対しても、あるいはこの電報堂の営業局の、例えばオレを殴ったあの若造に対してすら、怒りが湧いてこない。
考えてみれば、オレは電報堂デジタルに就職を決めた頃から、もう周囲や、もっと大きな社会に対して、何かを期待するのを止めていたように思う。
そうして自分の根幹にある感情を必死に宥めてきた、そんな10年間だったのかも知れない。そんなヤツに対して美沙は妻として尽くし、子どもを生んでくれたのに、その彼女が抱えていた不満をオレは全然理解してやることすら出来なかったのだ。
今傍らにいる彩花はどうだろう。あるいは由佳は。ここ10年、オレはそうした人達に本当に誠実に向き合ってきただろうか。
恐らく今一番オレに失望しているのが、オレ自身のような気がした。
そうであるなら、もうオレを殴るのはむしろ正解ですらあるように思うのだ。
もう目の前の、この茶番のような会議に対する興味は完全に失せてしまった。
そんなオレをまだ気遣うように見てくる彩花。
「秀介……大丈夫?」
そうだ。もうずっと、そんな事を彩花にも由佳にもオレは言わせ続けてきたような気がする。そして美沙にも。
オレは軽く頷いた。
―もうこんな事は終わりにしなければ駄目だ。




