第九十話
「な、何だこれ……?」
外套の上から大雨に打たれるアイリーンが見たものは、まるでこちらと向こうとが別世界であるかのような光景だった。
アイリーンは確かに、大雨の真っただ中にいる。
もういい加減、外套の内側の服までぐしょぐしょに濡れていて、当然ながらショートカットの銀髪もしんなりと額に垂れかかっていた。
だが彼女の視線の先では、たくさんのエルフたちが焚き火にあたって暖をとっている。
そこは雨などとはまったく関係のない空間のようだった。
アイリーンのいる場所とエルフたちの居場所とを隔てているのは、透明の「壁」のような何かだった。
降り注ぐ大雨が、その「壁」を境に一斉に弾かれている。
いや、「壁」と表現するのは適切ではないかもしれない。
それはよく見れば緩やかにカーブしていて、巨大なお椀を伏せたような形状をしていた。
そのお椀の大きさは、アイリーンが住んでいる王都グレイスバーグの王城を、すっぽり包み込めるぐらいの巨大さである。
「すごい……見えないお城みたい」
アイリーンはその透明の「壁」の目の前まで行って、それを触ってみようとした。
すると──
「うわっ……っとっと」
伸ばしたアイリーンの手が、スッと「壁」に吸い込まれた。
いや、吸い込まれたというより、手ごたえがなかったのだ。
そこに何もないかのようで、アイリーンは前のめりにつんのめりそうになった。
「えっ……? どゆこと?」
アイリーンは「壁」に手を出し入れしてみる。
手触りがまったくない。
アイリーンはおそるおそる、「壁」の向こう側に踏み込んでみる。
少女の体は何の抵抗もなく、その透明の「壁」をすり抜けた。
「壁」の内側に入り込んでみると、外から見た通り、雨とは無縁の空間だった。
それどころか、風すらも一切ない無風の状態である。
「???」
しきりに首を傾げるアイリーン。
と、そこへ──
「お、姫さん来たか。うっす」
「あ、サツキちゃん? やっほー」
アイリーンの見知った顔が、向こうから現れた。
空色の着物を身につけて腰に刀を差した、黒髪ポニーテイルの少女。
その姿はやはり外の大雨とは無縁のようで、衣服も体もまったく濡らした様子はなかった。
「おーい、ウィル、姫さん来たぞー! ……って何だよ姫さん、ずぶ濡れじゃん」
「そりゃそうだよ、この雨の中走ってきたんだから。っていうかこれ、どうなってるの?」
「あー、何だか分かんねぇけど、こてーじ? とか何とか。ウィルの魔法みたい。すごくね?」
「へぇー、魔法なんだこれ。うん、すごい。……すごい」
語彙が残念なことになっている二人の少女である。
とそこに、当の魔法を使ったという本人──濃緑色のローブを纏った男が奥から現れた。
「よく来てくれた、アイリーン。見たところかなり降られたようだな」
「ホントだよもう。それにウィルがあんな格好見せてくれたもんだから、木にだってぶつかったんだから」
「……何だそれは」
怪訝そうな顔をするウィリアムに、アイリーンは詳細を答えることなくあははと笑う。
だがそこにサツキが食いついた。
「あんな格好って?」
「んーとね、さっきウィルの裸、見せてもらっちゃったんだ。それで手を取られてエスコートされてぇ」
「な、なぬっ!?」
それはアイリーンの悪戯心が生み出した発言だったが、サツキへの効果はてきめんだった。
「ちょっ、えっ……ウィル、それ本当?」
「……ああ、残念ながら嘘は言っていないな。アイリーンの悪意は感じるが」
「あははっ、ごめんごめん。ちょっとサツキちゃんをからかいたくなっただけだよ」
「えっ……? なに? 何なんだよ……ふにゅっ」
サツキがアイリーンとウィリアムを交互に見て泣きそうになっているのを見て、ウィリアムが眼下のサツキの頭に手を置いてなでる。
それを見たアイリーンが少しだけ嫉妬するように口を尖らせたが、それに気付いた者はいなかった。
「それはそうとアイリーン、濡れたままだと風邪をひくぞ。服を脱いで乾かしたほうがいい。替えの服は……あっても駄目そうだな」
アイリーンが背負った荷物袋がやはりずぶ濡れになっているのだから、その中に着替えが入っていても同様に水浸しだろう。
「あー、うん、まあ大丈……はーっくちゅん!」
大丈夫だよ、と答えようとしたアイリーンだったが、それは叶わなかった。
ずずっと鼻をすすり、ぶるぶると震える。
「あー……大丈夫と思ったけど、ひょっとしたらちょっとまずいかも。どうしよう。さすがに裸ってわけにもいかないし……」
「当たり前だ。この場にいるのが俺だけならまだいいが、人前だぞ。──俺の替えで良ければ貸そう。いずれにせよ着替えないとまずい」
「まだいいんだ……って、ウィルの服を僕が着るの!? ウィルの匂いが染みついたのを!?」
がびーん、という擬音が聞こえるかのようなアイリーンの反応である。
「……妙な表現の仕方をするな。洗濯はしてあるから問題はないはずだ。それでも気になるならシリルに替えがないか聞いてみるが」
「えー、どうしよどうしよどうしよ……ねぇサツキちゃん、僕どうしたらいいと思う?」
困ったアイリーンは、その場にいた唯一の第三者に話を振った。
だが適任者とは言い難く、ウィリアムに頭をなでられたまま少女は、むすっとした様子で答える。
「……なんであたしに振った。羨ましい以外に言うことねぇぞ」
「いや、僕もいまのサツキちゃんの立場羨ましいんだけど……。──まあいいや、じゃあ僕も羨まれる立場になろう。お言葉に甘えて、ウィルの服借りちゃおっかな」
「……何だか分からんが、まあいい、分かった。着替えは持ってくる。風呂にも先に入れるよう手配するから、ひとまず体を温めてこい」
「うん、お風呂ね、分かった。…………って、お風呂?」
ウィリアムの口から出てきたその言葉に、アイリーンはまた首を傾げたのだった。