第百二十話
さらりと、誰かに前髪をなでられたような気がした。
「んっ……」
目を覚ますと、部屋の天井と、俺をのぞき込んでいる金髪の少女の姿が見えた。
どうやら俺は、ベッドに寝かされているようだった。
「──っ!? あ……お、おはよう。体調はどうかしら?」
慌てて退く神官衣の少女に、俺は声をかける。
「シリルか……ここは……?」
「あ、あなたの部屋よ。サツキの馬鹿力にノックアウトされたあなたを、ここまで運んできたの」
「そうか……」
俺は頭を振って意識を覚醒させ、上半身を起こしてあたりを見渡す。
そこは確かに、俺の宿泊用にとった宿の部屋の中だった。
部屋は一人用ながら広々としており、俺が寝ているベッドのほかに、テーブルや椅子などが配置されている。
部屋の奥の大きな窓には透明のガラスが嵌められており、そこから鉱山都市ノーバンの夜景が一望できる構造になっていた。
贅沢な作りだ。
普段使いの安宿の、両手を伸ばせば壁から壁についてしまいそうな狭苦しい部屋とは大違いである。
今回は特別に高級宿に宿泊したからこんな部屋だが、いずれは日常的にこういった部屋で暮らせるようになりたいものだと思う。
その部屋にあって、シリルは俺のいるベッドの傍らに椅子を移動させ、そこに座って俺を看ていてくれたようだ。
神官は治癒魔法を使える関係上、怪我人や病人を看ることが多く、そのために神殿では一般的な看護の知識や技術も学ぶと聞く。
「シリルは意識を失った俺を看ていてくれたのだな。ありがとう。……サツキとミィは?」
「あ、え……まあ、一応、そうね。……サツキとミィは私たちの部屋にいるわ。サツキはウィリアムのことを看ていたいって言ったんだけど、今のあなたは重たいから私がダメって言ったの。だから怒らないであげて。ちなみにミィはサツキのお目付け役」
「そうか。シリルたちにはいろいろと気を遣わせてしまったな」
「あなたが気にすることじゃないわ。……その代わりに、役得もあったし」
「役得……?」
「う、ううん。何でもないの。気にしないで」
なぜか頬を朱に染め、慌てた様子で取りつくろう神官衣の少女。
先ほどから妙な仕草が多い気がするが……まあ、気にするほどのものでもないだろう。
「それじゃ、体調に問題がないなら、夕食にしましょう。私もうお腹ペコペコ」
「ああ。……しかし確か、食事は部屋に運ばれるのではなかったか? 俺を待っている必要もなかったと思うのだが」
先にフロントで聞いた話だと、夕食は食堂で一斉にとるのではなく、個々の宿泊者の部屋に料理が運ばれる形式だったはずだ。
また当然ながら、宿泊する部屋は男子と女子で別々にしてある。
シリルたち三人は女子部屋で、俺は一人でこの部屋で食事をすることになるのだから、待つ必要性は特になかったように思う。
だが俺のその発言を聞き、シリルはムッとした様子で眉を寄せる。
それから彼女は腰に両手を当て、子供を叱りつけるようにこう言ってきた。
「あなたね、まさか一人で寂しく食事するつもりだったんじゃないでしょうね? あなたの分の夕食も、私たちの部屋に運ぶように宿の人に言ってあります。私たちの部屋まで一緒に来ること」
「あ、ああ……そうか、分かった」
「ん、よろしい」
シリルは俺の返事に満足したのか、今度はにっこりと笑顔を向けてきた。
美人なので、こうまっすぐに笑顔を向けられると少し心が浮ついてしまう。
しかし最近のシリルは、ときどき妙に俺の保護者面をすることがある。
もし俺に姉がいたら、こんな感じだったのだろうか……。
そんなことを思いながら、俺はシリルに連れられて自分の部屋を出て、彼女たちの部屋へと向かった。
***
三人の部屋に着くと、そこは俺の部屋よりもさらに大幅に広い立派な部屋だった。
本来は四人用の部屋なのか、ベッドは四台が置かれている。
テーブルや椅子も四人用のようで、ちょうど今そこに、宿の従業員が料理を配膳しているところだった。
料理はかたまり肉のステーキや、彩り豊かな野菜を使ったソテー、ポタージュのスープ、焼きたてのパンなどが次々と並べられていく。
シリルはお腹がペコペコだと言っていたが、俺もそれらの料理を見れば空腹を覚える。
やがて配膳を終えた宿の従業員は、一礼をして部屋を出ていった。
そうなれば、いよいよ食事の時間である。
だが、その前に──
「──サツキ」
俺がそう呼びかけると、向こうのベッドのうちの一つに腰かけこちらに背を向けていた少女が、びくりと震えた。
だがそれだけで、またそのまま動かなくなる。
着物姿の少女の背中は、なんだか真っ白に敗北した拳闘士のように見えた。
「サツキ~、ウィリアムが呼んでるですよ~」
ミィがそう声をかけるも、反応なし。
獣人の少女はとてとてと歩いてサツキの前に回って何かを語り掛けるが、それに対してもサツキはふるふると首を横に振るだけだった。
「……ダメです。相変わらず目が死んでるです」
匙を投げたミィが戻ってきて、ぴょこんと自分の席に座った。
どうやらサツキは重症らしい。
俺はミィと入れ替わりで、サツキのいるベッドへと向かう。
そして彼女の前に立つと──何やらとても小さな声で、少女が何かをつぶやくのが聞こえてきた。
耳を澄ませてみると──
「……ごめんなさいごめんなさいあたし生きててごめんなさいもう無理ごめんなさい死にますごめんなさい……」
呪文のようなそれは、謝罪の言葉というより、呪詛のようだった。
顔をのぞき込んでみると、カタカタと震える少女の瞳は何も映していないかのように光を失っていた。
確かに目が死んでいる。
「サツキ、大丈夫か。別に気にしなくていい。俺はこうして元気だ」
そう声をかけてみるが、やはり反応がない。
肩をつかんで揺さぶってみても効果なし。
……参った。
このままでは料理が冷めてしまう。
一方では、その様子を見たシリルが大きくため息をつく。
「もう、サツキったらしょうがない子ね。──ねぇウィリアム、目覚めのキスでもしてあげたら?」
「……冗談だろう?」
「ふふっ、まあね。だいたい困ることをしたサツキがいい目に遭えるっていうのも面白くないし、そうすると……」
シリルが思案顔になる。
すると少しして、何かを思いついたというようにポンと手を打った。
「何か妙案を考えついたのか?」
「ええ、少し荒療治になるけれど。ちょっと手を貸してもらえるかしら、ウィリアム?」
「ああ。それは構わんが」
俺の返事に満足した様子のシリルが、俺のほう──サツキのベッドの脇へと移動してくる。
……何をする気だろうか。
「ウィリアム、両手の掌を広げてみて」
「ん……? こうか?」
俺は彼女に言われるままに、両手を開いて見せる。
「そう。そのままにしていてね」
そしてシリルは何を思ったか──
俺の背後をとってぴったりと密着すると、その白魚のような手で俺の両手首をつかんできた。
彼女が体重をかけてくれば、ローブ越しの豊満な胸が俺の背中に押し当てられる。
「シ、シリル……? 何をしている……?」
「いいから。両手はそのままよ」
「お、おう」
有無を言わせぬ様子に戸惑うしかないが、俺も男子の端くれとして、こんなことをされれば胸が高鳴らないはずもない。
そして、一方のシリルはというと、俺の手を動かし──
「えいっ♪」
──ぽふっ。
彼女はあろうことか、俺の両手をサツキの胸の上に乗せた。
「なっ……!?」
「……ふぇっ?」
無反応だったサツキが、それに少しだけ反応する。
それはいいのだが……。
「お、おい、シリル……!」
「んー、もう一押しかしら。じゃあ……」
シリルは俺の抗議など聞く素振りも見せない。
それどころか、さらに俺の手の上に自分の掌を重ねて、もにゅもにゅとその手を動かしはじめた。
すなわち──俺の手が、サツキの胸を揉むように。
「えっ……ふぇええええええっ!?」
サツキの瞳に光が戻った。
そしてバッと飛びのくように身を引くと、今にも泣き出しそうな顔で俺のほうを睨んでくる。
「な、何してんだよウィル!? ──じゃねぇ、シリルの仕業!? 何やってんだよ!」
「あら、おはようサツキ。目が覚めたかしら?」
「覚めたよ! そりゃ覚めるよ!」
「良かった。それじゃあ夕食にしましょう」
シリルは何事もなかったかのようにそう言うと、俺から離れて、食卓のほうへと移動し着席した。
俺とサツキは二人、呆然とするよりほかない。
「……何をやっているですかシリルは」
先に食卓に着いているミィがシリルにジト目を向けるが、シリルはすまし顔で答える。
「罪悪感のコントロールよ。罪と罰。罪の意識が強すぎる子には、罰を与えてあげたほうが気が楽になるのよ」
「あれが罰ですか……めちゃくちゃするですね」
「ふふふっ」
シリルは楽しそうに笑っていた。
愉快犯だな、あれは……。




